小さな歴史旅@
  このコーナーは古い知人T氏の勧めで開設しました。
     年代の記憶はまことに面倒です。私は正確な年は不用と思います。
     大体でいいと思います。例えば1,500年半ばごろとか。

05年10月25日訪問
埼玉県児玉郡上里町 上里町立郷土資料館

秩父7党の丹治氏の者が当地の勅使河原に住み勅使河原を名乗ったという。
南北朝の頃(1,333年から1,392年)、勅使河原氏は南朝側につき敗れ
父子ともに戦地で自刃したという。

神流川(かながわ)合戦
本能寺の変(天正10年1,582年)の時、信長の有力武将・滝川一益はこの地で
後北条氏と戦役中であったが、ここで戦勝してから京に帰ろうと戦っていた。

思うこと
この利根川・神流川と共にする地で、人々は川の氾濫による肥沃な土地の恩恵と
水害に悩まされる日々であったことでしょう。
このことから、縄文海退の時期から人類は住居し初めたのでしょうか。
滝川一益がここまで来ていたとは驚きました。信長の武張り振りが解るものですね。




05年10月27日訪問
さいたま市高鼻町  さいたま市立博物館

中世とは、鎌倉時代から豊臣秀吉の天下統一の期間、1,192年から1,590年である。
関が原まででもいいのではないかと思う。ざっと江戸時代の前まででいいだろう。
歴史で云う中世、絵画で云う中世、建築で言う中世、音楽で言う中世は異なる。
また中世の定義も学者で種々あるだろう。あまり深入りしてもしょうがない。
一般にヨーロッパの中世は年代が古く、日本は新しいことは確かである。
それだけ、ヨーロッパは進んでいたと言うことだ。ただしヨーロッパ人の云うことだが。
中世以前は
大宮は高鼻和(高塙)氏が現在の大宮の中心部を縄張りとし、足立氏、岡部六弥太、畠山重忠が
片楊(片柳)郷、中茎(中釘)郷、植田郷、内野郷などを領していた。
ところが南北朝の時代になり
岩付(岩槻)の太田氏が勢力を伸ばし、多くを占拠した模様である。
しかし
基本的には関東公方の足利氏、守護大名の北条(後北条)が割り込み、結局
力の強い北条が勝って関東一円は北条の傘下に入った。
ここで重要なのは、太田VS北条であった。

これをもう少し詳しく見てみると、太田は寿能城(現在の県営寿能団地から北中学校。
現在でも県営団地の東側にその一部が顕彰されています)を
もって北条からの防御としたのが1,560年ごろである。そのころは今の浦和方面まで領有した。

築城2年後には三室の方面が北条との戦いで負けてしまったことや水判土の慈眼寺が焼き打ち
にさらされた事から、これはもう全て潰されると思い、北条側に入り従属
せねばならなくなったようである。
そして、北条は関東の覇者となった。大宮だけではなく関東一円そうであっただろう。
時の勢いとは、そういうものである。
しかし、何と
30年後の1,590年には秀吉の小田原攻めの時、寿能城主は小田原城におり、
小田原落城と共に討ち死にしたのである(自害したのであろう)
その結果、寿能城は落城する羽目になった。

思うこと
後北条氏と云えば北条早雲であるが、彼が戦国時代の幕を開けたと言える。
それは1,400年の終わりごろだろう。(所謂鎌倉の北条執権とは全く異なる)
話は変るが
当時は兵農分離が行われておらず、農民は田圃の畦に鍬を放り出して戦役に参加
したのであろう。そのまま帰ってこなかった者も多く居たはずである。
一家の働き手を失くした家族の悲しみは、いかばかりであったろうか。




05年10月29日記入
05年10月28日訪問
埼玉県岡部町 道の駅岡部

戦国時代以前からだと思うが、岡部六弥太が勢力を持っていた。
秩父七党の内猪俣氏の出。
大宮にも領地をもっていた。
思うこと
ところで、道の駅にもこういうコーナーがあるとは面白い。
考えてみれば、道の駅の特性から考えて、あっていいのである。




10月30日記入
10月29日訪問
埼玉県深谷市 深谷城址公園

1456年に上杉房憲が築城
古河公方からの防衛の為であった。
1590年秀吉軍のため落城
思うこと
たまたま、この近所に他の用件で来訪した時に
遭遇したが、沼地の平城であったそうな。
行田市にあった忍城もそうである。
この時代は一般に山城が多いが。
平地の城は織豊時代以降の鉄砲が盛んに
兵器として使われるようになってからだと言われる。
ところで
忍城は秀吉軍は珍しく石田三成であったが
深谷城は誰であったのか。
ここで
はっきりしておかねばならな事は
室町幕府(京都)の関東統治機構であるが、鎌倉公方足利氏・関東管領上杉氏があった。
ところが、あるとき、鎌倉に入れずに古河に居を構えた者がいて、それを古河公方と言った
その程度で今はいいのではないか。




0さいたま市高鼻町  さいたま市立博物館
05年11月1日記入・訪問

戦国時代の幕開けは1,500年の少し前であろう。
伊勢新九郎が京都から(岡山県と言われている)今川氏に仕えて、城を与えられてから
戦国時代は始まった。今までの官僚的支配から脱却したのである。
伊勢新九郎とは後の時代に言われる北条早雲、後北条氏の始祖である。

ちなみに私は早雲の次の言葉がすきである。
あるをば有るとし なきをば無きとし ありのままの心地(早雲)
まことにリアルである。イタリアルネッサンスを思い起こさせるではないか

大宮では戦国時代になり、岩附の太田氏が大宮を支配した。
先ず拠点として
寿能城を築城してそこへ嫡子の潮田資忠
大和田には家老の伊達房実
御蔵には松野助正
中丸には春日八郎行元
これらには一部土塁も残っていると言うことです。
また西部地区では
清河寺の清河寺、水判土の慈眼寺を保護して手なずけた。

そのころは
氷川神社門前や片柳や指扇では市が開かれて賑わっていたことだろう。

思うこと
いよいよ戦国時代の始まりである。
今までの守護大名の名ばかりの支配(古河公方や上杉関東管領)から
現地に乗り込んできた者が直接支配を始めた。
住民たちの心は、いかばかりであったろうか。
見たことも無い官僚から年貢を絞り取られることから、今度は実際に見える領主に年貢を
納める事になった。
言い換えれば
平安安泰の世から、何が起こるか解らない物騒な世になったのである。

ここで武士と農民の関係を、おさらいしておくと
端的に言えば、この時代は武士イコール農民と考えて良い。
(兵農分離が行われたのは織豊時代(織田・豊臣)からと考えてよい)

農民は、平安時代と違い、鎌倉時代からいつ命を落とすか解らない厳しい
時代に、すでになっていたのであるが
いよいよ本格的に土地を耕しながら戦闘態勢の時代になったという事である。
信じられない事だが。
話を比喩するが
平安時代は鬼ごっこ、鎌倉時代から野球、戦国時代はサッカー。こんなイメージでどうだろう。
このサッカーが100年続くのであるから人々は、たまったものではない。
よって次回及び次々回の記述のようになる(特に赤い字)





05年11月2日記・訪問
埼玉県毛呂山町 毛呂山町立郷土資料館

平安時代末、武蔵(埼玉県・東京都)では「武蔵七党」が勢力を強くし始めた。
その中の一つが毛呂氏であったのであろうか。いや別であったのか。

鎌倉時代、毛呂季光は藤原氏の血筋を引くという事で頼朝から源氏一門に順ずる
扱いを受けていたという。

鎌倉幕府は、頼朝を棟梁に戴き、関東武士によって作られたようなものである。

やがて鎌倉幕府滅亡後、関東は内乱状態となったが
毛呂氏も戦国の勇者として生き残った。
例えば永正元年(1500年の初め)の激しい立河合戦にも参戦したという。
また、毛呂氏は在地の人々をの結びつきを強めるため、越生の報恩寺、安楽寺、医王寺を保護したり、
自らの館のある毛呂郷に長栄寺、妙玄寺を建立した。

やがて秀吉の小田原攻めのとき、毛呂氏は北条方に味方して、滅亡した。

思うこと
武蔵では、秀吉が出てきても、後北条に味方をし続けざる得なかったのだろう。
そして、時勢が秀吉に傾き、武蔵武士は壊滅していったのである。
あの、平安から鎌倉の始めの時勢のように、戦国時代の終末では
時代はすでに武蔵武士を必要とはしていなかったのであろうか。

また重要なことであるが、人々の心は武力だけでは掴めないことを,守護大名の時代ではなく
新しい領主たちは、よく知っていた。
(まさに、北条早雲の新しい手法である)
在地の人々の心を掴む事なしに、領主は務まらない時代になっていたということでもある。
平安時代も含めそれ以前ならいざ知らず。

しかし、武蔵の国の内乱はおびただしい人々を死地に追い遣ったのである。
埼玉県に板石塔婆(いたいしとうば)、板碑(いたび)とも云うが
これが全国でも比類なく多く存在することから、目を逸らしてはならないと思うのです。




05年11月04日
さいたま市高鼻町  さいたま市立博物館

11月1日の続きとなる。
板石塔婆について述べねばならない。
これは
@極当初は死者の冥福を祈る為の追善のために石で塔婆を造った。
A間もなく(1,400年頃)自分が死んだ後、安楽の世に行く為の生前供養の為に石で塔婆を造った。

凄みのある話ではないか。

いかに、厳しい時代であったかが解るものだ。
こういう時代が鎌倉時代(1,200年ごろ)から江戸時代の前(1,600年)まで400年続くのである。

その中でも特に、南北朝時代(1333年〜1,392)から秀吉の天下統一(1,590年)までの260年間が
特に生きるか死ぬかの日々であった(江戸時代とほぼ同じ長さ)
(私は日露戦役と昭和の20年までが、おびただしく命を落とす時代と思っていたが)

なぜそれが解るかと言うと、時代背景と共に板石塔婆が年間いくつ造られたかで解るのである。

なぜ多いかは、板石塔婆に年号が記入されているからわかる。
板石塔婆の建立数は具体的には、全国で埼玉県がダントツに多く、しかも現在のさいたま市に多い。
南北朝の初めごろの1,350年ごろには現在のさいたま市だけで
年間100基も造られたことが解っている。3日に1基である。
なお、埼玉県に27,000基の板碑が確認されている。 群を抜いて全国一多い。

思うこと
日々、死の影が忍び寄っていたのだろう。
まさに260年間の地獄である。




05年11月5日
さいたま市高鼻町  さいたま市立博物館

板石塔婆と並んで、六地蔵も造られ、各地に置かれた。
寺や墓地の入り口、道が交差する辻になどにも立てられた。
今でも各地に残っています。残っているのは殆ど江戸時代の新しいものでしょうが。

12世紀に入ると、各地で起こる戦乱でいつ自分が死ぬかも知れぬと思う心がこの地蔵信仰を
成り立たせたと思われます。

ところで六地蔵とは入った何なのでしょうか。
六は
天界 人間界 修羅界 畜生界 餓鬼 地獄 のことです。
人は死ねば修羅界に行き最後に地獄に落ちることになると考えたのです。
地獄から人間界に戻るかどうかは、どう考えたのでしょうか。
まあ、いずれにしても
生物は、これらを巡っていると考えられ、その入り口に六地蔵がいると信じられたのです。
六地蔵を拝めばそのように巡ることから逃れられ、死んだ後再び人間としてこの世に生まれる事が
出来るようにと考えたのでしょう。
今となっては素朴といえば素朴な考えですが
当時の人々は如何に、日々、命を脅かされて生きていたかと言うことです。

思うこと
ただし、六地蔵は武蔵だけではなく全国各地にあるのでしょう。
武蔵に特に多いのかもしれませんが、そのことは良くわかりません。
私は特に武蔵に多いのではと、客観情勢から思っていますが。
研究者の方はおられるのでしょうか。




05年11月7日
埼玉県騎西町 騎西城

この城は30年前の1975年に婦人会館として建てれらたもので
当時の城は天守閣はなかった。その後天守閣を造った。
とにかく現在の威容は昔の城とは全く関係がない。
ただこの場所に「おおきな濠のある平屋の砦」があったことは確かである。

この城の名前は複数ある(かつての城の名前も含めて)
騎西城、埼西(きさい)城、私市(きさい)城、婦人会館です。
現在の正式名は定かでないが、婦人会館であるそうな。通称は騎西城。

いつの頃か、武蔵七党の一つ野与党に属した道智氏は早くから道智に住み
多賀谷氏、道後氏、笠原氏を分派したらしい。また高柳氏、戸崎氏も割拠していたのだろう。

騎西城はいつ誰が築城したかは不明である。

1,400年半ばごろと言うから、南北朝騒乱が一段落した後、50年ほどしてからである。
古河公方の足利成氏が騎西城に集結する室町幕府軍の上杉藤朝・上杉憲信を攻略したという。

1,400年の末というから北条早雲が戦国時代の幕開けをした頃だが
小田顕家が騎西城に入封した。
小田顕家は行田の忍城主の成田氏の子を養子にし騎西城主にした。

それから更に60年後の1,560年には上杉謙信が後北条を討つために関東に出っ張ってきていた。
騎西城主や忍城主(兄弟であった)は上杉謙信側に当初は味方したようだが、何か謙信側の理由で
2城主は謙信に反旗を翻した。

その3年後には
後北条と武田の連合軍が吉見の松山城を攻略した。
松山城の城主上杉憲勝は開城したという。

謙信は松山城へ向かい上杉憲勝の救援に向かったが開城を知り
なぜか騎西城に向かい騎西城を攻略した。

そのごの更に3年後の1,566年
忍城は後北条側につき1,571年には忍城主の弟成田氏長が騎西城主なった。
そして謙信はその騎西城に火をかけた。他の城にも火をかけた模様である。

1,590年の秀吉の小田原城征伐で後北条が滅亡し
忍城も騎西城も開城した。
騎西城には徳川の松平康重が騎西2万石で入城した模様である。

戦国の世の戦乱は息をつく間もなく変転したのでありますね。

そして江戸時代、平和になってからの1,632年騎西城は廃城になりました。

思うこと
まことに、庶民にとっては狂ったような日々であったことでしょう。
その中でも
室町時代は大変商業や文化が発達し、自由な雰囲気の時代であったと思われます。
いや、ヤケクソであったからこそ、かも知れません。現在の商業の元はみなこの時代に
発しているし、能・狂言にしてもこの時代に発しているわけですから。
もうひとつ
この騎西では鉄の生産が行われていた証拠が発掘されて、驚いています。
タタラ(鉄の生産)を行うという事は鉄を溶かす為に膨大な森林が必要です(林程度では足りない)。
まさか、荒川の西側の山岳から燃料を運んでいたとは思われません。
ここ騎西には膨大な森林があったのでしょうか。
タタラを吹くほどの森林があったとは、思えません。
この辺りは、湿地帯で茫々とヨシのような、か細い植物が生えていた位に思っていたのですが。
そうではないのでしょうか。
全く不思議です。




05年11月08日
群馬県利根郡川場村 川場村歴史民族資料館

川場には平安時代末期に利根庄が置かれ、領主は利根群(とねごおり)の群司である大友氏であった。
もっとも、大友館は蝦夷からの防御として存在していた模様である。
しかし、当時の他の例からみて、大友氏は川場に来たことはなく、京の都にいたのだろうか。
いや、貴族の荘園でなければ、そうではなく大友氏はこの地に在住したのだろう。
当地は沼田とは目と鼻の先であり、当然沼田との深い関係があったはずである。
ところで
この地にある有名な吉祥寺は、大友氏が平安末期に開基したと言う。
当時の文書が残されているようであり、今も有名な寺である。
訪問したが、立派な若い住職夫妻が熱心に切り盛りしておられた。紅葉が見事であった。

その後、大友氏は一族の者をこの地に残して九州に行く。
また、かの有名な九州の大友宗麟は、この大友と関係があるのだろう。

大友氏は南北朝の頃は足利氏に属したため、新田氏に敗れた。
そのご、地元土豪、上杉、後北条などの戦乱は当地にも大きな影響があったであろうが、大友氏については不詳。

さらに1580年には真田昌幸が沼田城に入城したころの、当地の状況もやはり不詳である。

江戸時代になり
沼田キリシタンの東庵の布教が当地に大きな影響があったのだろう。
戦国の九州でキリシタン大名と云われた大友氏との古い関係もあるのだろうか。

思うこと
この山深い、武尊山南麓斜面の小盆地である川場の地に
かの大友氏の足跡がある事を知ったのは大きな驚きであった。
また、この地は小さな別世界の様な気がした。
きっとこの地で生まれ育った人々にとって素晴らしい天地であることだろう。
また、「江口きち」という当地出身の詩人の足跡を大事にする、村人の心が嬉しいではないか。

辛い隠れキリシタンや厳しい世情に翻弄された若い女性詩人を大事に
顕彰する川場村の人々の優しさがいい。




05年11月10日
さいたま市 さいたま市立浦和博物館

さいたま市には1,270基の板碑があり、県内では最多の数です。
県内で一番多いとは全国でも一番多い自治体と云えます。
当時、今ほど人口が現在のさいたま市に集中していなかったはずである。
にも関わらず、多いというのは、やはり合戦による直接間接による死者が多かったということか。
と思いきや
室町時代には月待信仰の目的で建立されたある。
調べると、月待信仰とは月の出をまって拝む五穀豊穣を願うもの、と書いてある。
しかし、現在のさいたま市域にだけなぜ特異的に、月待信仰が多いのであろうか。

いや、さいたま市には月待信仰の目的の為の板碑が多いとは、どこにも書いてない。




05年11月10日
岩手県種市町 種市町史 第一巻資料編一 

巻頭の種市町長 関根重男氏によると
当町に人が住み着いたのは1万年以上前と推定され、文献上では鎌倉時代の1,301年の
「安藤きぬ女家族書上」に種市の名称があるということである。
一万年以上前ということは縄文時代時代より前であるから石器時代も含むだろう。
縄文時代は西国より東北のほうが豊かであったと言われている(三内丸山でも証明)

私は鎌倉から関が原までが興味のある時代だから、その時代に限って考えてみます。
その中でも今回は鎌倉時代について考えてみた。

1301年ということは、鎌倉時代の末期で南北朝時代の少し前である。
安藤という姓を聞いて、太平洋側の下の国や上の国と言われた時代の安藤氏を思い描いた。
両家は北条執権の「蝦夷管領」に任じられた。地生えの一大勢力であり任じたのだろう。
特に下の国家の安藤氏は十三湊安藤氏と言われた。

十三湊安藤氏は江戸時代には十三湊の「日の本将軍」と言われるほどの経済力があった。
なぜなら
北前船のルートにあたる一大港湾都市として、また蝦夷への入り口として栄えたからである。

ちなみに
上の国家は出羽秋田の安藤氏であり、南北朝末に十三湊安藤氏が吸収した模様である。

種市町史とは変るが
南部氏は甲斐国南巨摩郡南部邑より興ったとされている。
南部氏と奥州の関わりは元享二年(1322)「安藤の乱」に際してであろうか。
それが南部氏が奥州に所領を持つ最初ではなかろうか。

南部氏がこの地に入部する前には、この地は十三湊安藤氏の影響下にあったと言うことか。
いや、影響下にあったとは、どこにも書いてない。

弘前大学教授・斉藤利男氏によると
安藤氏の始まりは一つの氏族ではなく北奥羽の海岸に勢力を張る「海の民」「山の民」
の人々が「安藤」と総称されたらしい。
永享4年(1,432年)南部氏は安藤氏と南部氏の抗争の中で十三湊は南部氏の攻撃で
陥落・炎上し安藤氏は蝦夷が島(北海道だろう)へ敗走したという。
その後も南部氏は
津軽の安藤氏と戦役を何度かしているが
南部氏は強く、いつも安藤氏は負けて蝦夷へ逃避したと言う。
種市町史にある安藤氏は
斉藤教授の言われる安藤氏と直接関係あるかないか解らないが
安藤氏又はその安藤氏の類縁のものであうか。

素直に考えれば、
現在の種市は、鎌倉時代末に南部氏が甲斐の国から来る前には
日本海側の十三湊安藤氏の影響下にあったのかもしれない。

安藤氏の影響があったとすれば少なくとも元享二年(1322)より以前であり
1,301年は、何らかの形で安藤氏の影響下であった可能性があるというこだろう。

それにしても、安藤氏が太平洋側まで出っ張っていたとは面白い話だと思う。
その事に興味がそそられる。

話は徳川初期に飛ぶが
南部藩は寛文4年(1,664年)に盛岡藩と八戸藩に分割になり、種市は八戸南部藩領となった。

明治維新には
九戸県、八戸県、盛岡県と目まぐるしく変らされ、明治5年に岩手県と改称されたという。
幕末の話になるが
戊辰戦争に負けた会津藩は下北半島の田名部に斗南(となみ)藩として移住させられたのも哀れであった。
しかしそれは兎も角として
種市がなぜ青森県では無く岩手県であるかと言う事が不自然である。
私はこの地を訪問したが、種市は明らかに八戸の文化圏であることが明瞭であった。

私の勝手な推測ではあるが、
戊辰戦争のおり、官軍(薩摩長州軍)が、抵抗する南部地方に
対する明治維新後の報復措置ではなかろうか。薩長はまったく馬鹿なことをしたものである。
この際、平成の大合併で県をまたいで、八戸と合同するのもいいかもしれない。
(勿論、地元の人々が決めることだが)





05年11月11日
埼玉県三郷市 三郷郷土資料館

上記をかつて訪問した。
湿地帯ということもあり多分、天正年間(戦国時代)には人は居住していなかっただろうと思って
三郷市にmailで問い合わせをしたら、11月11日に大変ご丁寧なお手紙を頂戴しました。
手紙の差出先は、教育委員会・生涯学習部・生涯学習課で、書かれた担当者のお名前入りでした。
誠に親切極まりなく素晴らしい。
いい人材が三郷市にはおられると思った。
こういう人材こそ将来、市長になって貰いたい。

ところで、質問に対する結果であるが
その当時、「すでに人々の存在と生活の場があったと想像できる」ということでした。

三郷市史には
○室町時代には「彦名」「戸ヶ崎」に中川の関所(川関)が設けられていたという古文書がある。
○「花和田」というところに市が立っていたことを裏づける文献がある。
これらが記されているということです。
また
後北条の家臣団の名簿に「戸ヶ崎」と記された古文書がある。

思うこと
武蔵の国、特に現在の埼玉県域は戦国の世
土地の豪族VS後北条VS管領・越後上杉VS足利古河公方が入り乱れ、更に武田軍団までが入り込み
まさに乱世であったことでしょう。
そんな中、最後に生き残ったのが後北条で、この三郷にもその覇権がしっかりと存在したのでしょう。
しかし、その後北条も秀吉の小田原攻めで、天下は統一され、武蔵の城や館は開かれ
やがて、徳川の太平の世になるのです。
人々は400年間(鎌倉から関が原)の騒乱にウンザリしたのでしょう。




05年11月16日
筑波山神社(明神)

現在神社と言っているのは、明治以前は明神とか権現とか言った。
明治政府は何故か神社と言うことにした。政策的に尊王を表現することと関係があるのだろう。
権現は日光東照宮を日光大権現と江戸時代に呼んだそうである。
大権現とは
「神様が人間の形で存在していたのだ」 神様とは家康のことである。
なんと神に失礼なことであろうか。
しかし、家康だけでなく日本中こんな例はいくらでもある。
最近の例では、港区六本木の乃木坂にある乃木神社がそうだ。
隣に旧宅まであって、年に何日か一般開放している。
乃木神社は全国にあるそうな。
乃木希典の上司であった児玉源太郎の児玉神社もあるそうな。
人間のような生臭いものを神様にするのは、もう菅原さんだけでいいのではないか。


以上は余談であるが
筑波明神に天正18年(1,590年)家康が来たと言うことが書いてあった。いくらか寄進したという。
本当かいなと思った。本当だろう。
それだけである。



05年11月22日
群馬県新田郡笠懸町 岩宿文化資料館

地球が46億年前に出来て
人は300万年前(類人猿)に現れ、
現代人に繋がる旧人は、20万年前から4万年前に存在していたホモ・サピエンスであるが
少なくとも4万年前に現在の人間の祖先が存在し、3万年前には岩宿で
人々が生活をしていたのだろう。
ところで
石器時代は1万3千年前と言われている。
日本列島が完全に島国になったのは、石器時代が終了したときだろうと言われている。
(日本の島国根性はこの時から始まったなどと、笑ってしまったが)
だから
だから石器時代に、マンモスやナウマンが居ても全く不思議は無い。

日本に石器時代が存在したことを始めて表明したのは、ここ岩宿である。
先鞭をつけたのは、敗戦翌年46年、大学の偉い先生ではなく、全国では無名の相沢忠洋氏。
戦前の神話的世界に政治的に押さえ込まれていた人々が、やっと真実を表明出来る時代に
一気に灰神楽が立つように自由になったからだろうと素人の私にも察しがつく。
(戦前からすでに研究は存在したが、官憲の恐怖から、押し黙っておられたのだろう)

私の最も興味があったのは、1万7千年前にナウマン象が人間の乱獲によって滅亡したとの
説明書きであった。
学芸員の方(女性)に質問したところ、それは不明ではあるが以下の事が考えられる。
@気候の変動
A乱獲
B食物が原因など(Bについては失念したので、あとから勝手に考えて追加した)

その中でも@の気候の変動であったろうとの、ご意見であった。
何故なら
縄文の暖かい気候(現在より7度ほど高いという)では生存出来なかったろう。
私も納得した。

ただ意外とAも捨てきれない。やや天邪鬼的ではあるが。
と言うのは
○人間の脳はすでに現在と変らないほど発達していた。
○人間は、よく深い生物である(獲得を調節するのは縄文になってからだろう)
○石の道具を造るのを専門にするほどの者さえいた可能性がある。
など、種々のことを思い巡らせると、当時の人類は乱獲までやるのではないかと
思ったりもするのである(現在も乱獲しているので、大きなことは言えないが)
しかし、それほどやるほどの、人間の数が居たかという疑問はある。
ナウマン象の数と人間の数とのバランスもあるが。
またマンモスが北海道から本州には渡っていなかったというのも知った。
20年前の子供の教科書を開いてみたら、やはり同じ事が書いてあり、説が続いているのを確認した。

さらに
1万4千年ごろから、北の方からと南の方からの石器文化が関東地方あたりで
融合したのではないかと言う部分であった。
その中で
南の方の文化より北の方の文化が進んでいたらしい。
それは石の道具で解るという件であった。
私も証拠はないが、その説に賛成である。
三内丸山など「北のまほろば」という言葉に、つき動かされる感情だけだが。
最後に
黒曜石や環状の遺跡の中心に磨製石器があるや接合資料など興味をそそられた。
いい初冬の1日であった。
学芸員の方に感謝!。



05年11月24日
さいたま市 さいたま市立浦和博物館

戦国時代から織豊時代まで、さいたま市岩槻区にあった岩付城は武蔵野において重要な地点で
あった。 更に言えばこの岩付から川越・菖蒲に掛けての線が重要であったのであろう。
メジャーである古河公方、扇谷上杉、後北条の群雄割拠にとって生命線であった。
そこにジモティーの太田道灌で知られる太田氏が居た。  
そこへ天下をも狙える超メジャーの越後の上杉謙信や信濃の武田信玄が絡まる。

戦国時代(1470年ごろから織豊時代)は、現在の埼玉県東部はまさに戦乱の渦の中であった。
ざっとそのような捉え方でいいのだろう。




05年11月26日
wikipediaを一部参考。

古河公方について
室町幕府は
関東管領を上杉氏に任じていた(山内上杉氏であったと思うが)
これとは別に
室町幕府を創始したのは足利尊氏であるが、その嫡子には京都で西国を、次男には鎌倉で関東
に睨みを利かせようとしたのだろうか。

京都は幕府将軍、鎌倉は公方(くぼう)と言った。
時がたつと、今も昔も次第に権力は変化するものである。
幕府創始から60年ほども経った、鎌倉公方の5代目の足利成氏(しげうじ)の時代に事は始まったのだが
その前
京都と鎌倉は次第に仲が悪くなり、ついに1439年永亨10年に永亨乱・結城合戦が発生し
幕府足利義教は鎌倉の足利持氏を殺害した。

持氏の子足利成氏は管領上杉を謀殺し京都政権の追っ手や山内上杉に味方する関東勢と
戦いつつ現在の茨城県古河に入るが、そのとき、帰るべき鎌倉が炎上したのを聞き
帰る場所を無くして古河に居座った。
そして、関東で強い勢力を維持した。

これが世に言う古河公方である。 当時、別に古河公方と言われていたのではなく後世の言葉だろう。
話は長い、ここで取り敢えず〆。





05年11月27日
堀越公方について  昨日の続き

この古河公方を、しゃくに思ってか、1,458年長禄2年、室町政権は足利政知を鎌倉に送ったが、
政知は入ることが出来ず伊豆の堀越という所に入った。これが堀越公方である。

古河公方に戻るが
成氏以降3代続いたが、1546年に川越での北条氏康との戦いに敗れた。
その後4代目が1583年に死去して古河公方は滅亡した。
1583年と言えば信長の死の翌年である。
古河公方は100年ほど続き関東の一大勢力であったことになる。

しかし、考えてみると鎌倉公方・古河公方とはどういう意味があったのだろうかと思う。





05年11月29日
茨城県猿島郡猿島町 逆井(さかさい)城城址

簡単に概略を述べると
南北朝時代に初めて築城された。
この地は群雄割拠勢力にとって、常陸、上野、上総の境目にあり重要な場所であった。
直ぐ近くに境町という地名がある。
そして、やはり後北条が最後に勝ち残るが、小田原が落城し後北条は滅亡し秀吉から徳川となる。

1450年酒井氏累計の小山義政が城を構えたと言う。(南北朝の城を利用したか)
話は飛ぶが
1573年、北条氏政が芦名氏に佐竹を打つと知らせる。北条氏照が築田氏の関宿城を包囲す。
1573年、上杉謙信が上野に進出し北条氏政と対峙する。
北条氏政は関宿城を攻める。築田氏は関宿城を捨てて佐竹氏にすがる。
北条氏政は古河城に入る。
結城氏が上杉謙信と結ぶ。謙信は小山城に入って関宿城を攻める。関宿城落城す。
このころ、逆井は古河公方の一員となったようである。
北条勢の本拠に対し、結城・山川・佐竹・宇都宮氏らが反北条連合を組む。
北条は連日、結城山川で合戦する。
1,578年謙信死去。北条氏繁逆井城(飯沼城)で没す。
1589年まで北条氏は戦にあけくれた。(逆井城を根城にしたのだろうか)

そして冒頭に述べたように小田原が落城して北条が滅亡するのである。
それと共に逆井城は開城し、徳川が1,590年江戸に入部して逆井城は廃城となる。

思うこと
この逆井城は大変重要な地点にあった城だろう。
それにしては、さいたま市岩槻区にある岩付城に比較して小振りな縄張りのようであったと思われる。
戦国時代の目まぐるしい群雄割拠がここでも繰り広げられていたのである。
結局関東はどこもそうであるが、地元勢VS後北条で、これに準地元の古河公方や上杉・武田が絡む。
そして最後にメジャーの豊臣になっていく。
それにしても秀吉に早いうちから子供が無く、出が貧困であることから、江戸時代でいう親藩・譜代が
いなかったことが徳川を利させてしまったのであろう。
徳川時代でなく豊臣時代であったなら、その後の時代はどうであったろうかといつも思う。
少なくとも江戸時代の農本主義より経済主義の色が濃い世の中であったろう。
その後の現代にどう影響したのであろうか。




05年11月30日
埼玉高速鉄道戸塚安行駅の近くに館跡があるとどこかのSiteで見た。戸塚立山遺跡と言うそうな。

行ってみた。
駅から北300mほどに小高い丘がある。ここだと思い2度チャレンジしたが不明であった。

思うこと
だいたい戦国時代の城や館や砦はやや小高い場所に位置する。それは当然である。
その場所は現在では忘れ去られ放置され、単なる無用の土地として誰も振り向かない。
ところが、最近はその危険な崖のあるところまで、宅地開発が進んでいる。
気がつかないまま宅地になっている場所も多いだろう。
ひよっとしたら、自分が今住んでいるところは、かつての武将の館あとかも。




05年12月1日(訪問は11月24日)
さいたま市 さいたま市立浦和博物館

岩付城の攻防について@
岩付城築城、古河公方との対峙(通説)
1,457年というから、まだ全国的には戦国時代が始まっていなかったし、応仁の乱もまだ始まって
いなかった、そのころの話である。
太田道真・道灌父子は扇谷上杉の家来であった。
上杉持朝に命ぜられ、太田父子は岩付城、江戸城、川越城を築城した。
これは古河公方に対する江戸ー岩付ー川越ラインでの防衛のためであったと言われている。
よって、岩付城は扇谷上杉方である。


つまり、室町幕府and山内上杉VS古河公方が根底にあり、ここでは古河公方VS扇谷上杉の状況。
越後上杉、山内上杉、扇谷上杉の関係は後日明らかにしたい。




05年12月02日(訪問は11月24日)
さいたま市 さいたま市立浦和博物館

岩付城の攻防についてA
岩付城築城、古河公方側の一員として(新説)
文明年間1,470年から1,480年頃というから、いよいよ戦国時代の幕開けの頃だろう。
忍(現在の行田市)城主成田顕泰の父自耕斎正等が岩付城を築城したとも言われてもいる。
これは12月1日に述べたのとは異なり、忍ー騎西ー岩付ラインでの扇谷上杉方に対する防衛ライン。
よって、岩付城は古河公方方である。

つまり、岩付城は扇谷上杉側であったり古河公方側であったりする微妙な位置関係であったと言う
ことだろう。
戦国の世が始まる前から既に、岩付は重要な地点であったのだ。




05年12月04日(訪問は11月24日)
さいたま市 さいたま市立浦和博物館

岩付城の攻防についてB
岩付城の争奪戦
大永4年1,524年北条氏綱が江戸城を攻略。江戸太田氏の太田資高は扇谷上杉を裏切って北条に
内応したという。
このため扇谷上杉の朝興は川越に退却した。
ここで訳が解らないが
岩付城の城主は太田永厳と渋江右衛門大輔であったいうが
太田資頼が北条氏綱の応援を得て岩付城を攻撃した。

しかし
扇谷上杉に舞い戻った太田資頼に対し、北条氏綱は岩付城を攻撃し、渋江三郎という者の内応。
その影響で太田資頼は石戸城へ背走したと言う。

ところが
永禄4年1,531年太田資頼は渋江三郎を討ち取り岩付城に再び入ったという。

天文6年1,537年北条氏綱は扇谷上杉朝定の9川越城と松山城を攻略。
天文15年1,546年扇谷上杉・山内上杉・古河公方の足利晴氏の連合軍が川越城を包囲したが
北条氏康の夜襲にあったため、負けて背走した。
これが有名な「川越夜戦」である。

これがきっかけで遂に扇谷上杉は滅亡した。

兄の岩付城主太田全艦は後北条方、弟の太田資正はう上杉方と別れた。
その後、太田資正は松山城を攻略した。

ほどなく太田全艦が死去して、岩付城主は太田資正となる。

思うこと
いやはや全く、この時代の岩付城をめぐる陣取り合戦はすさまじい。
これでは明日をもしれない日々であった故、この地方には板石塔婆が極端に多かったのだろう。
しかし
何というか、あの江戸時代の人間のやる「ジメジメした」ものが無いのが、室町時代である。
我々日本人は「江戸時代のジメジメ」をひきづっている。




05年12月06日
富士見市 難波田城公園内  富士見市立難波田城資料館

荒川の西隣の低地に築かれた平城である。 5万平米というから1万5千坪ほどだろう。
行ってみたが、10分の1ほどの千5百坪ほどが残っていた。

難波田は地名である。
平安時代の終わりごろから武蔵には「武蔵七党」が存在したが、その中の村山党の中心は金子氏であった。
金子氏は幕府からこの地、難波田を与えられた。
金子一族の、子孫の一人がこの地で難波田という姓を名乗り扇谷上杉に属した。
当然であろう、この辺りは扇谷上杉の占領地であったから。
難波田氏は戦国時代には扇谷上杉の重臣として活躍したという。


難波田氏は、天文15年(1,548年)に、通名な「川越夜戦」で討ち死にをした。

川越夜戦とは、
基本的には、迫り来る小田原の後北条を、扇谷上杉と山内上杉と古河公方が一致団結して防ごうとする。
あの古河公方がなぜ参戦したかは、自分こそが関東の覇者であるとの思い込みがあったからだろう。

その3者が後北条に取られた川越城を奪い返す為に、大軍が川越城を取り囲んだ。
これで川越城は奪い返せると気が緩んだときに、少人数の後北条の救援隊である北条氏康に敗北した。
後北条との話し合いを裏切られて夜襲をかけられたのである。

大軍の3者が少ない群の後北条に負けたのである。
そして扇谷上杉は滅亡し関東は後北条の天下になったのである。
そして、秀吉の小田原攻めで、後北条も滅亡し、秀吉の全国制覇となる。

思うこと
後北条は基とはいえば、1,400年末の北条早雲(伊勢新九郎)が初代である。
戦国時代は北条早雲が幕をあけたといえる。
今流に言うと、「戦国時代の火を付けた」
後北条は戦えば最後には勝つという勢いであった。
後北条の強さは一体何だったのだろうか。

たしか「箱根の坂」という小説によると、守護大名とは違い、領民への撫育であったという。
撫育とは領民を大事にして味方につけること。




05年12月07日(訪問は11月24日)
さいたま市 さいたま市立浦和博物館

岩付城の攻防についてC
松山城の攻防
永禄3年(1,560年)というから織田信長26歳の時、上杉謙信が関東に進出し、太田資正が従ったという。
そして、太田資正が岩付城の支城である寿能城を築城したという。

永禄4年に上杉謙信は小田原城を包囲し太田資正が先鋒を務めた。
さすが謙信である。

松山城は当時上杉氏のものであったが
永禄5年、北条氏康・武田軍団の連合軍が松山城を攻撃。
永禄6年、松山城が落城したあと、謙信が急ぎ到着したが間に合わず。

永禄7年、太田資正・里見義弘連合軍が下総の国府台(現市川市)にて北条氏康と戦うも敗退。
      なんと、太田資正の嫡子太田氏資が後北条に内応し、太田資正と梶原父子を追放した。

永禄10年、太田氏資は上総の国三船山(富津市・君津市)にて討ち死に。

後北条の岩付城支配が始まる。

思うこと
下克上の習いとは言え、兄弟ならともかく、親も子もあったものではない。
しかし本当は当人たちの心はどうであったのであろうか。




05年12月12日
板橋区赤塚 乗蓮寺(浄土宗)

東京大仏と言われる30年ほど前に造られたブロンズの大仏がある。
この寺の辺り一面は、戦国時代千葉氏の館であったのだろう。
戦国も終わりに近い頃、八王子の後北条氏がこの館を襲い、北条氏のものとなったのだろう。
天正18年1,590年小田原の後北条が滅亡と共に、ここも開城し、寺を築いたと思われる。

そして豊臣から徳川へとなり、徳川が江戸入部し、1,592年にこの寺に僅か10石を与えたという。

家康は入部と共に関東の各地の寺社に僅かな石高を与え、なびかせようとしたのだろう。
信長が石山寺に難儀したしたことを良く知っていたので。

ここには、近くに板橋区資料館があるので、後日訪問する予定。




05年12月16日
流山市 流山市立博物館

中世の高城(たかぎ)氏は現在の松戸にあった小金城を拠点として、
現在の流山市一帯を支配していた。

私の興味のある時代は鎌倉から織豊時代までであるが、残念ながら上記の展示しかなかった。
なかったと言うより、歴史そのものが、言うほど存在しなかったのだろうと思う。だから文献も少ない。
よって展示するほどのものがない。博物館員の皆様のせいではない。

例えば、里山などは中世の歴史がふんだんにある。
なぜか
農業生産が出来たからである。米を作るには水が不可欠だが、その水瓶は実は山である。
だから、その当時は平地で米を生産するのが困難であった。米の生産は百姓であるが
中世の武士は実は百姓である。
完全に兵農分離したのは織豊時代になってからだろうと思う。
だから、山岳に近いところほど、例えば秩父の山に近い所の方が中世に活躍した武士の話が多い。
それは、平安から鎌倉にかけては顕著であるが、どうだろう。




05年12月17日
埼玉県加須市花崎 花崎城址

一帯は低地であった。城の部分は、やや高い程度。
今となっては浅い壕(発掘調査では5ないし6メートルの深さと言う)が東西に二本ある。
当時はこの城のあった場所はもっと南側にも広がっていただろうと、付近の地形から私は推察したが
地元のY氏(住職)は北側の東武線の線路側に広がっていたと故尊父などから聞かれたという。
但し、昭和55年56年の発掘調査では城の規模は、ほとんど窺い知れない状況であったという。

天正2年・1574年に玉縄城主の北条氏繁は、羽生城へ出陣の折、花崎城を岩付城の出城として
取り立てたと言う。
当時の慣わしでは、もし羽生城攻略に武功があれば花崎城主は後北条氏の中で重要な位置を
占める事ができたのであろう。残念なことに、その後、花崎城は直ぐに落城したらしい。

発掘調査では、1,500年代のものを含む陶磁器、土鍋、板碑、カワラケ、古銭が出土したという。

ところで花崎城主はどこの誰で、どのような立場であったのであろうか。
そして、いつごろから、この地に存在したのであろうか。

私の考えでは、花崎城主は、古河公方、山内上杉、後北条との狭間で苦しい立場を強いられた
地元武士で例えば岩付の太田氏や渋江氏のような人々であったのだろう。
そうとすれば、戦国の日々は大変厳しかったと思われる。

花崎城落城の8年後の天正10年(1582年)3月に古河公方足利義氏が家臣の
石川信濃守に対して発給した所領安堵状によると
北川辺の本領と代官地南大桑郷とが安堵されているという。
代官地南大桑郷の支配は「門井館」が行なったと言われている。

少なくとも、天正10年(織田信長が本能寺で光秀に襲われて自刃)花崎を含めた
大桑近辺の支配は「門井館」が行なう、古河の文化圏であったのだろうと
思われるがどうだろうか。
ちなみに、現在の当地は広い意味では東京であるが局部的には熊谷の文化圏である。

その後、幾多の戦乱があり、武蔵地方は後北条が優位な立場であったろうと思われる。
1,590年秀吉が小田原城を落城させ後北条は滅亡し、武蔵地方の後北条系の城や館は
全て開城したであろう。

その後、狸の家康が関東に入部し、家康譜代の者を現在の埼玉県地域に配したのだろう。
そして270年後に、菊は栄えて葵は枯れる明治維新を迎えることになるとは
花崎城主も門井館も想像すら出来たはずがない。




05年12月19日(訪問は11月24日)
さいたま市 さいたま市立浦和博物館

D北条方として
永禄13年・1,570年 太田氏資亡き後、北条氏政が直接支配。
この年、玉縄城主の北条氏繁が城代となり、羽生城・関宿城の攻略を始める。
ところで、岩付城の城主は空席であったのだろか。

天正2年1,574年 羽生城と関宿城落城す。このとき出城として抱えた花崎城は
理由は不明であるが敢え無く落城した。

天正3〜5年・1,575年〜1,577年 北条氏政の3男が国増丸が太田氏の名跡を継ぎ
源五郎と称した。

天正10年・1,582年 源五郎死去し代わって弟の氏房が岩付城に入城したと言う。

思うこと
北条氏繁が城主となり、その副城主的な者として氏房が入城したのだろうか。
いずれにしても、兎に角「後北条は武蔵では戦争上手」であった。




05年12月20日
玉縄城について

玉縄地域は大船にある。
北条早雲は永正9年(1512年)小田原城の支城として
玉縄城を造った。




05年12月23日(訪問は11月24日)
さいたま市 さいたま市立浦和博物館

E岩付城落城(完結編)
天正17年・1589年 上野の国・沼田城代の猪俣那憲が真田昌幸の名胡桃城を奪う。
秀吉は、私戦を禁じた「惣無事令」違反とみなし、北条氏直に対し戦線布告状を送る。

天正18年・1,590年 北条氏房・潮田資忠など小田原城に篭城する。
岩付城も城代の伊達房実(大和田陣屋・伊達陣屋の主)などら2千人が篭城したが
殆どが急遽徴集された農民や商人であったという。

豊臣方は浅野長吉ら総勢2万人余りで岩付城を攻め、5月22日岩付城は落城したと言う。

江戸時代となり
家康の重臣である高力清長が岩付城に入城し、初代の岩付藩主となる。

思うこと
誠に岩付城の攻防は時代の動きと連動して、目まぐるしいものがあった。
現在のさいたま市域の住民である「かつての農民たち」の苦労を思わずに居られない。
それが板石塔婆の形になったのだと思う。
このシリーズは、これでおわり。




05年12月25日(訪問は12月23日)
さいたま市見沼区大和田町 大和田陣屋跡

当地は海抜18.6mで大宮では最も高所に位置する。
岩付城の支城としての現在大和田陣屋と言われる伊達陣屋があった。
伊達とは伊達与兵衛房実のことで岩付城の家老である。
おそらく、筆頭家老であったのだろう。
この地は東に岩付城、西に寿能城があり、高地ででもあることから
岩付城の影響圏内としての要所であったのであろうか。

直ぐ上の12月23日の項でも書いたが、伊達与兵衛房実は岩付城に籠城したのであるが
開城後、死罪は免れて家康に召抱えられて、大和田の地を治めたという。
その末裔が幕末まで、この地で続いたのであろうか。

実際当地を訪れてみた。
現在の大宮商業高校の西南300mほどに、森閑とする雑木林の中にあった。
現在、その一部に細沼邸があり、その中には邸の外からでも解る土塁が一部見えた。
また土塁の続きの上にはツツジが植えられてあった。

思うこと
小生の住む拙宅とは、それほど遠くは無く、なにやら感無量であった。




05年12月31日
さいたま市大宮区大成町 大成館
現在この地には曹洞宗大成山普門院がる。
大宮では格式の高い有名寺院であると思う。

応永33年・1,426年というから南北朝の騒乱が終わり、戦国時代の始まる前。
武蔵七党の金子氏の出で金子駿河守家光はこの辺りを押さえていた模様である。

どいうわけか、家光はこの館を曹洞宗の寺院にしてしまった。
その後、金子家光はどうしたのであろうか。

私は寺院の周りを車で一回りしてみた。西に向ってやや低くなるのであるが
ここは特に高地でもなく普通の平坦な地である。
ほんの少し西側に幅4mほどの人工の川がれている。
ひょっとすると、壕の後を後世の者が水路としたのであろうか。

金子氏と言えば、かつて入間私立博物館での金子十郎家忠を思い出します。
あの金子氏と同じ一族が大宮の、この辺りの領主であったとは驚きです。

思うこと
各地のことを調べていると、意外な所で繋がっているのが発見出来て面白いものです。
境内を歩くと、幕末の小栗上野介一族の墓がありました。

更に意外なものを見付けた。
内視鏡を世界に先駆けて発明した1人である宇治達郎氏の墓も偶然見つけました。
確か名誉市民と書いてありました。
墓前でふと思い出したのは、達郎医師に誘われてマージャンをしたことやスナックで
酒を飲んだこと。氏は大変明るく楽しい人で偉ぶるところは全く無かった。
ウワッハハ ウワッハハとよく笑う人であった。
私のような無学な下々の者とも気軽に遊んだ。
氏は東大を退官後大宮で病院を開設したが、全くだれにも内視鏡の話はしなかったと言う。
私も、NHKのプロジェクトXで放映されるまで全く知らなかった。

そして大晦日の今日、金子家光の館跡でお会いするとは。




06年1月5日(訪問は1月4日)
所沢市 滝の城跡

東所沢地区の高台の崖の淵にある。東は低地でよく見渡せた。川も要害としている。
近づくと滝の城神社となっていた。北と西は大変深い壕となっていた。
創建は治承4年・1,180年で源平の争乱のころである。

本格的に築城したのは戦国時代(応仁の乱の終わり1,477年から秀吉の天下統一の
天正18年・1,590年ということになっている)にだそうである。
築城者は多摩・入間・高麗を支配していた大石氏であるという。

いつの時からか、滝の城は上杉定久のものであったのだろう。
1,546年4月20日の有名な川越野戦(後北条方に地元勢の両上杉や古河公方が負けた戦い)
の結果、上杉憲正が負けてことによりその配下の上杉定久は北条氏康の軍門に下り
氏康の次男氏照を養子として家督を譲ったという(この時代はこういう事をしたのである)

この時から滝の城は北条氏照の持ち城となっていた。
このため、北条の野州(栃木県)出陣のときはこの城は陣揃えの地になっていたという。

その後氏照は八王子城に移り、滝の城は八王子と北関東を結ぶ重要な連絡地点となった。

しかし、天正18年・1,590年の小田原城の陥落により全ては無となり
結局は家康の支配地となった。

思うこと
神社の裏側から又、横側から望むと遠くまで眼下に見渡せて、まさに要害の地である。
ここを訪れて、戦国の生き生きとして闊歩する武将たちの鎧の音が私には聞こえてきた。
僅か70年ほどの間に大石氏、上杉氏、北条氏とめまぐるしい下克上の変遷が私を揺する。




06年1月6日
埼玉県 八潮市 市立 資料館

この地は川の交通の要所であった。
平安時代には、ここ八條郷は伊勢神宮の荘園であったのだろうか。
ここの地頭は武蔵7党の野与党(のいよとう)の一族、渋江五郎光平であったという。
余談だが
渋江と言えば岩付城の家老を思い出すが。

それは別として
渋江五郎光平は八條に住んだから八條五郎光平と呼んだという。

後の事は不明であるが、古河公方、両上杉、北条、武田も巻き込む下克上であった
と思われる。
なぜなら、板碑がこの八潮市だけで100枚以上発見されているからである。

最後に後北条が覇権を奪取するが、小田原の陥落により最終的に徳川となる。

思うこと
湿地帯であり常に洪水のある地域であったと思われる。
ここでの民百姓の生活は悲惨であった思われる。
水利が発達し船運の要所として発展したのは江戸時代以降のことだろう。
ちなみに
江戸時代以前の利根川は、現在の加須市の市街地を流れる会の川で、現在の古利根川と
呼ばれている川に通じて中川へと流れた。
中川は現在の八潮市を流れる川である。




06年1月10日
埼玉県都幾川村 慈光寺 青石塔婆群

慈光寺は
鎌倉から室町には山の中腹一体が、かつての広大な境内で、かなり多くの塔や伽藍が
あったのでしょう。現在ではその殆どが失われてしまっていた。
現在も、重要な文化財が多く残されているという。坂東33箇所の一つでもある。
残念ながら、事情もあるのでしょうが、荒れた感じでありました。
何とか再興を期待するものです。

青石塔婆9基を目的に見学に訪れました。
明治の初期に僧坊跡からなぜか寺院の下の方に移したようである。
供養の目的と逆修供養(生前供養)の目的のものがあるようである。
1,300年代のものがほとんど。大きさは写真で見ての通りかなり大きい。
縦2m数十cmはあったと思う。
足元にも青石が敷き詰められていた。秩父から運び込まれたものである。
冬の西陽に鈍く光る青石塔婆群




06年1月12日
さいたま市立博物館

後北条の首都である小田原城は1590年に落城した。
その当時の岩付城主は小田原城で討ち死にし、岩付城の家来たちは
もとの農民に戻るしかなかった。
帰農した者たちの名前が近世初期の検地帳に記されている。
将監(しょうげん)、帯刀(たてわき)、津嶋、隼人、兵庫、潮田。
近世の大宮宿に寄与した、家老の北沢、加藤、森田、金杉の名も見えるという。

思うこと
職豊期までは農民イコール武士であり、兵農分離していなかったという証左である。
もっとも兵農分離した江戸時代でも食えない武士は傘張りだけでなく農業をしていたわけで
あり、不思議は何もない。根本的に封建制度とは一所懸命が筋であり、農本主義を
実践していたわけである。
話は明治維新に飛ぶが
大久保は資本主義に目覚めていたが、西郷は農本主義から離れることは出来なかった。
西南戦争になった要因の大きな根本理由とする人もいる。




06年1月13日
いつか、さいたま県立博物館にて
板碑の産出地について

板碑の産地は秩父長瀞の間瀬峠の近くに板石塔婆採掘遺跡がある。
ここから、全て運び込んだものであろうか。




06年01月13日
板橋区立 郷土資料館   赤塚城跡

城跡に登る。高島平方面を見ると見渡せる。都心方面は低い地の向こうに見えるのだろう。
戦国の世、古河公方と関東管領上杉は激しく戦っていた。
康正2年・1456年下総の守護千葉氏はこの戦いに巻き込まれた。
古河公方足利成氏方に攻められた、千葉実胤・自胤(これたね)兄弟は
上杉の助けを受けて市川城を逃れて、ここ赤塚城と浅草の石浜城へ入城した。
寛正4年・1468年自胤は兄のあとを継ぎ、大田道灌のと共に各地を転戦し、
現在の和光市辺りや大宮や現在の足立区に領地を得たと言う。
その後、後北条が進出してくると、これに従い。天正18年・1,590年小田原落城まで
この地で力をふるったという。

思うこと
江戸には山らしいものは無いが、この赤塚は珍しく急な小高い丘となっている。
縄張りをするには真に都合がいいと思ったであろう。
それにしても、ジモティーの千葉氏は、やはり足利・上杉のメジャーに翻弄されたあと
後北条の軍門にくだり、結局は最大メジャーの秀吉の統一に巻き込まれるのである。
弱肉強食が戦国の習いである。
ただ
江戸時代の凝り固まった身分制度がいいわけではない。
戦乱の時代は下克上の時代でもあり、自由の精神が横溢した、よき時代でもあった。
室町の時代は、歌舞伎の元となる能や狂言、謡い、焼き物等等が生まれた。
そして江戸時代の元禄・文化文政には、この室町が撒いた種を基にして芸術の花が咲いた。
現在の我々が享受する芸術文化の元は全て戦乱の時代の自由な精神から生まれたのだろう。
さらに飛躍すれば
中小企業の中から新規なものが生まれる意味がわかる。
中小企業に勤めたことは無いが、実力本位で、例え低い地位の者でも出来る人が上に立ち
事を進めていくそういう自由さが魅力なのだろう。
上に立てなければ、自ら独立して腕をいくらでも振るえばいいのである。
一番いけ無いことは固定観念である
発明は高学歴ほどの者ほど駄目と実証されている。
高学歴者は知識が邪魔をするのだろう。
子供の発想が最も素晴らしいものを生む。ピカソが言う通りである。




06年1月24日
埼玉県入間郡 三芳町立資料館

残念ながら室町時代・戦国時代の群雄割拠についての記述は全くなかった。
ただ
この地はまだ草原地帯であり、鎌倉時代になって、ようやく人が住み始めたようである。
また金子十郎、その後の扇谷上杉の割拠地であっただろうと想像はできる。
ただ他の資料館に無い物があった。
宝篋印塔(ほうきょういんとう)や五輪塔である。一部ではあったが。
また
室町時代の羽子板についての解説があった。
羽子板のことを胡鬼板(こぎいた)と呼び、羽を胡鬼の子と呼んだ。
羽根突きをするのは小さい子供が蚊に刺されないないようにするためである。
胡鬼の子をトンボの頭と考えて板で突き上げて蚊を驚かし蚊に食われないようにする。
つまり、厄払いの儀礼であったという。

思うこと
胡とは新疆ウイグル人またはイラン人のことだろう。怖い人ということだろう。
つまり、時代としては南蛮貿易が始まっていたころ、1,500年の中ごろ以降だろう。
我々の小さいころは悪いことをすると、「人さらいが来る」とか
「サーカスに売ってしまうぞ」と言って脅された。
また、真っ暗な蔵に閉じ込められることもあった。あの恐怖はまだ覚えている。




06年1月28日
埼玉県県民活動センター201号室

太平記の世界受講。鏑矢について。
集団でも個人戦でも戦闘の始まる前に敵に対して宣戦布告をする為に射掛ける矢である。
通常の矢よりやや長く、矢の先に丸いもの(これを鏑と言ったのだろう)をつけることに
より、独特の音がするようになっている。鏑には穴があけてあるからだ。
平家物語には「与一―をとつてつがひ、よつぴいてひやうどはなつ」とあるから
「ひょう」という音がしたのだろう。
通常の矢より当然飛距離は出ないし命中率も悪い。

思うこと
ゴルフプレーの最初に行う、打つと煙の出る「スモークボール」、あれと同じである。
鏑矢の真似をしたのだろう。日本のゴルフだけの風習であろうか。
また鏑とは蕪のことであろう。蕪は中国渡来の野菜である。
平安時代にはすでに渡来していたことになる。
鏑矢の「ひよう」という音の表現は実際は現代人の我々にはどのように聞こえるのだろうか。
いづれにしても「ひよう」とは、まことに気分がよろしい。




06年1月31日
埼玉県寄居町 町立鉢形城歴史館

埼玉県というより武蔵地方の戦国時代で重要なポイントは、
@「川越夜戦」で後北条が勝利したこと
A鉢形城が落城して後北条が北関東つまり上州・上野
更に越後・信濃への足掛かりを断念したことだろう。

@は成功Aは失敗である。歴史の現実とはそういうものである。

@の川越夜戦では以前このリンクで述べたので割愛するが後北条の奇襲が成功し
奇術のように一発逆転し武蔵の盟主になれる事ができたのである。
Aの鉢形城の落城は、また稀にみる守りに強い城であったが、
さすが数万人に囲まれた城主は兵士の助命と引き換えに開城せざるを得なかった。
そして城主はそのご北陸で千石を与えられ命を永らえることができた。

思うこと
鉢形城開城は、城主は戦国の終わりに気がついたのだろう。懸命な選択であった思う。
またその頃の秀吉は、人間くさい優しをまだ持ち続けていたのである。

詳細は後日この欄に記す。




06年2月1日
埼玉県寄居町 町立鉢形城歴史館(訪問は06年1月31日)

1,475年鉢形城を築城したのは関東管領山内上杉の家宰長尾影春であったといわれている。
この奇怪な要害に最初に築城を思い立った人物に思いをはせる。
行ってみれば解るが真に奇怪不思議な要塞である。
戦国の城はどこも川や谷に囲まれ自然地形をうまく利用しているが、鉢形城は特に甚だしい。

長尾影春は、この地域の豪族・藤田康那に入り婿したとあるから、
藤田氏はジモティーであった。藤田康那とはいかなる人物であったのであろうか。
その後
小田原の後北条氏康の四男氏那がこの城を整備拡充したという。
藤田康那への入り婿長尾影春はどういうことになったのだろうか。
鉢形城は関東地方における有数の規模の城であったという。

思うこと
現代では、重要な場所や建物と言えば「政治経済の中心地」を言うが
戦国時代ではあくまで軍事的な場所をいうのである。




06年2月2日
埼玉県立歴史資料館(訪問は06年1月31日)

法華経の写経について。
平安時代から始まったと言われているが、もっとも盛んであったのは
平安後期から鎌倉前期であろうといわれている。
ちなみに、法華経は大乗仏教の天台宗や日蓮宗の拠り所である。

目的は死者の供養、祈願成就、功徳を積むと言われている。
造寺、造仏することと同じともいう。

思うこと
写経は武蔵に於ける、鎌倉から室町の板碑とも同じでろうと思う。
武蔵では写経より、板碑の建立が主流であったのだろうかとも思うがどうだろう。
私事であるが、51歳で病死した姉は土葬であったが
その棺に我々弟が急ぎ写経したものを置き入れたことを思い出してしまった。
兄は死者がそれを食すると説明。
そして成仏するのだろうと、私は悲しみの中で思い願ったものである。
その土葬の場所は武蔵では無い。




06年2月04日
埼玉県立歴史資料館(訪問は06年1月31日)

後北条の北条氏康は本拠地を小田原としていた。相模を除く一帯を
三分割して、子に支配をさせた。
拠点である韮山、八王子、鉢形には氏規、氏照、氏那の三人である。
(ふと、毛利元就を思い出すが)

思うこと
この場合は子供3人にこのようにしたのである。
そういう場合で無い場合は、長男は弟2人を殺害するのが自然であっただろう。
次男以下は長男のスペヤー以外の何者でもない。真に厳しい時代である。
私事であるが私は五男である。虫けら以下である。

頼朝の場合、弟義経を殺害するするのは極自然だろう。
もし、義経が頼朝に普通の家来同様の臣下の礼をとるというなら殺害は
しなかったかもしれない。かも知れない程度である。

物語によると(東鑑かと思うが)義経は自分の武功があるのを良いことに
当然の如く、自分は頼朝と特別の姻戚関係と思われる態度を取った。
これがこの時代の常識とは異なったわけである。

余談だが
伊達政宗の場合も弟を殺害した。伊達の場合、実母が弟を溺愛していた
ことと、正宗が時代の流れから一時的に仙台を離れなくてはならないという
特殊事情があったのであるが。(弟が自分の留守の間に仙台藩を乗っ取る)
しかし、従兄弟や兄弟は当然、親でも平気で殺害する、そういう時代であった。
そうでなければ生きていけなかったのである。
姉妹などは調略(政略)の道具以外の何者でもない。
母親でも道具にした例では秀吉である。
母親を質に入れるなど現代人には考えられない。
元亀天正の時代とはそういうものであった。
江戸時代でも妻子を江戸に置かされていたのは人質である。





06年2月5日
埼玉県立歴史資料館(訪問は06年1月31日)

長尾景春の乱について
長尾は山内上杉の家臣であった。
1,475年というから、北条早雲が台頭する直前である。まさに武蔵戦国スパークの
バニシングポイントである。

そのとき、なぜか彼は主君関東管領上杉顕定を裏切り築城した鉢形城を拠点に
国人衆らと共に関東各地を席巻した。
これが世に言う「長尾景春の乱」である。

やがてジモティーの大田道灌によって滅ぼされるのであるが、この乱で
武蔵に於ける中世が終わり近世の序章である戦国時代が始ったのである。

ちなみに太田道灌は扇谷上杉の超有能な筆頭家老である。

その後、鉢形城には上杉顕定、上杉顕実、上杉憲房と歴代の関東管領の拠点と
なった。

長尾景春の築城したこの鉢形城は武蔵軍事拠点のロケーションとして
またその固い守りとしての大変素晴らしい城であったといえる。
長尾景春の縄張り(築城)の力量を誉めたい。




06年2月6日
埼玉県立歴史資料館(訪問は06年1月31日)

比企丘陵の広がる埼玉県寄居町を中心とする比企地方などは
戦国時代は要衝の地である。
松山城や小倉城の防衛の一環として、その土地の土豪たちは
地元農民などの歓心を得るため
法度つまり寺社を手厚く保護した。また寺社の建立もした。

思うこと
弱肉強食の世とは言え、その土地の者たちの承認を得なければ
荒らくれ武士と言えど、存立出来なかったということである。
後世のことになるが、早雲や秀吉は実に、まめに撫育したものである。
ひる返って
現代に目を移してみると、違反を平気でやる「東横イン」のあの強気の社長も
昨日から、手の平を返すように平身低頭をフリだけでも実施せざるを得ない。
(そのフリを見ていると可愛ゲがあるが、そうして油断させようとするのだろう)
一般大衆に背を向ける権力者はやはり、生きていけないのである。
レイムダックがかってきた小泉氏も然かり。 
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