小さな歴史旅I


08年01月24日 
さいたま市桜区 「宿の城」址
安保氏一族の館であったという。私見では最初の縄張りは1340年頃であろうか。
行ってみたが、観音寺という浄土宗のお寺さんがあるだけで何の案内板もない。

本堂を覗いていたら住職らしき方が見えたので、お賽銭ですがと云ったら
本堂の扉をあけて戴けた。私はお寺さんの境内に入場したら必ず実施する。

宿の城について質問しようと思ったが、やめてしまった。
ロケーションも全く変哲もなかった。周りは新興住宅地であった。

但し、埼玉県立嵐山史跡の博物館のサイトには以下書かれている。
○名称  →宿宮前堀の内  
○種別  →館
○所在地 →宿宮前84
○現況・立地 遺構・遺物 →水田・宅地、自然堤防 堀
○時代・伝承を含む →戦国
○地図名 →与野
○備考/遺物の年代  →宿の城


埼玉県上里町のサイトには
上里町には、武蔵七党の一つである丹党に属する勅使河原氏・長浜氏・安保氏が
領地をかまえていました。
こうした丹党の活躍は『平家物語』『源平盛衰記』『吾妻鑑』『太平記』などの書物の中に
書かれてますと、書いてある。

更に
安保氏関係文書
『吾妻鏡』     幕府軍、朝廷軍の防衛線を突破する
『吾妻鏡』     宇治川の渡河作戦で安保実光死亡
『光明寺残篇』   幕府軍、楠木正成攻めに動員
『梅松論』     安保道潭、分倍河原に討死する
『太平記』巻二十六 安保直実、楠正行軍の和田正朝を討取る

とあるので間違いなく実在の人物だろうう。
但し、安保氏がここに館を構えたとは書いてない。

また
埼玉県行田市 行田市博物館のパンフレットによると
武蔵国成田郷を拠点とした武蔵武士成田氏は、縁戚関係にあった安保(あぼ)氏の一族
がその名跡を引き継ぎ、北武蔵に勢力を広げた。とある。

私は安保氏館の根拠の薄いこの地に思いを馳せながら帰路についたが
安保氏の活躍した時代を身に滲みさせることだけは出来た。それだけでも有り難い。




08年01月26日 
埼玉県立嵐山史跡の博物館 戦国大名北条氏と領国支配
成蹊大学 池上裕子教授

以下レジメに書いてある通りに書いてみた。

課題:村とは何か。北条領の「村」の実態を明らかにする必要がある。
    地侍(土豪)を村と一体化しないで、独自の存在としてその動向を探る。
    在地領主を戦国社会の中に位置づける。

結論 北条時代とは開発の時代であった。土豪(よそものが多い)が主として開発を
    担う時代であった。北条氏は開発地を支配の者達にあてがった。
    
    土豪を武力と開発へ利用したといえる。
    但し、土豪と土地の地侍や農民との土地に於ける支配関係において問題が
    生じるが、北条氏は検地を行うことと調停を行う権利を実行して領国支配をした。

一例 入間郡井草郷の場合(川島町、岩付領) 江戸時代には上井草村、下井草村。
    井草郷宛の文書は牛村氏(上井草村)が所持、水損の地の再開発、郷単位の
    年貢納入、諸役・夫役負担の責任者。永禄11年、元亀元年に検地あり、年貢高
    決定→開発の成果の確定。

    天正15年には井草宿の市日決定(開発の成果)。開発に伴い郷中百姓と対立。
    下井草(村)成立。下井草の給人比企藤四郎も開発をしており、江戸時代には
     百姓に。

    戦国期に江戸時代の村につながる、郷のうちの単位が成立。しかし、郷規模の
    あるいは、「村」をこえた開発の推進者の存在が郷を単位とした年貢の収取を
    支えている。

ここからは自分の雑感
    土豪は開発の担い手だが、自分の土地にする為に北条氏を利用したともいえる。

    江戸時代の年貢は、検地による田の面積から米の年貢量を指示
                 検地による畑の面積からお金の年貢金を指示
    戦国時代の年貢は 田及び畠の面積から全てお金の年貢に換算している。
    
    
    ということは、戦国時代はお金経済で江戸時代は米経済が基本であった。
    以前から家康は、あくまで米経済に拘る百姓大名と思っていたが
    やはりそうであった。

    お金経済を続けていれば明治初期の松方経済による、悲惨な小作百姓が
    多数発生たことはなかっただろう。結局それが女工哀史に繋がった。

    その女性達とは我々の母親世代である。現代にまでその影響があったと云える。




08年01月27日 
埼玉県立嵐山史跡の博物館 戦国城館の遺物
高崎市教育委員会 秋本太郎氏

杉山城は「原型を留める中世の城」の教科書であると云われて久しい。
杉山城(私もかつて、解らないままに訪問した)から出土の例をみると以下である
かわらけ
4179ケ
火鉢
156ケ
在地擂鉢
35ケ
他28種
2833ケ
合計
7203ケ
 (出展 嵐山教育委員会 村上伸二)

「かわらけ」はどこの城の発掘でも上記表の如く、最も多い。「かわらけ」は酒を飲んで
直ぐに廃棄するものであるから、大量に生産して大量に使い、大量に廃棄する。

川越城、鉢形城、岩付城、忍城、箕輪城などからの発掘についての「かわらけ」に
ついて、講師は以下述べられている。

1500年前後の「かわらけ」はその城の領域の土で作製されており、その土地の特長が
覗える。1,500年前後とは後北条が武蔵地域をまだ手中に収める前である。

収める前には、山内上杉、扇谷上杉、古河公方のつば迫り合いの時代である。
その時代の地層からは、三勢力の特長が出ている「かわらけ」が出土する。

1,500年代後半に出土する「かわらけ」は、小田原の「かわらけ」か、小田原の形式を
真似た「かわらけ」が出土する。

つまりこれは、後北条の武蔵領国支配を遺物から証明するものであると述べられた。

歴史を述べる上で重要な参考になるものであろう。後北条の特長と云われて
定説になっている障子堀と同様に、医学でいう病理解剖と同じで、
城址の病理解剖で得られた歴史の証拠である。




08年02月01日 
埼玉県県民活動センター 源氏物語・穢れについて(1月27日受講)
学習院大学 文学部教授 神田龍身先生
奈良時代には穢れを云わなかったが、平安時代には言う。穢れとは何か。

穢れとは、ヅバリ
「化外する身体」であると云う。

桐壺の巻で、将来の光源氏を出産する宮中の更衣(元大納言の女・ムスメ)が
死の重病にかかり、宮中から里に帰されるとき

「限りあらむ道にも、おくれ先立たじと契らせたまひけるを、さりともうち捨てては
え行きやらじ」とのたまはするを という文章がある。

帝が云うには
死での道にさえ共に行こうとお約束なさったのに、いくらなんでも私を残しては
里へ(死の旅路)行かせられないと仰るのを  と訳するのであろうか。

化外とは辞書によると
王化の及ばない所。国家の統治の及ばない所。とある。
教授は、つまり
死とは化外する(穢れた状態になる)ことである。と云われる。


化外する身体とは、自分の体から離れることでもあり、例えば頭の髪の毛が
抜ければその毛は穢れたものであり、血液が出ても、その血は穢れたものである。

死ぬと言う事は生身の自分の体から離れた状態になるのであるから穢れである。
その穢れを、宮中は最も忌み嫌うことであった。

どんなに愛する相手であっても、死体を宮中に置くことは出来ないのである。
だから死の前に宮中の外に出して、実家に帰すのである。

私はこの事から、人間の魂と肉体の分離を、この時代に遡及できる思った。
奈良時代まではそうではなかったが、平安時代からの思想だろう。

仏教(550年頃伝来だが)などの影響だろうか。呪い、もこの時の発祥だろうか。
教授は、出る涙だけは化外ではなかったと言われ受講生皆感心す。




08年02月04日 
三館連続シンポ後北条氏の城 関東進出の拠点小田原城
紙上発表 小田原市教育委員会 佐々木健策氏

歴史 築城から廃城まで

1305年(嘉元3年)の「称名寺文書」の「御まいりのひとハ、をたわらと申候にと々まり」
という記述が初見である。従って「小田原」に地名の起こりは14世紀初頭と考える。

1,335年(建武2年)足利尊氏関東下向・宿次注文には「小田原上山野宿」とあるため
この「小田原上山」が小田原城の起源となる場所の一つであった可能性は高い。

1496年(明応5年)大森式部少輔(しょうゆう)、扇谷上杉・朝昌らが筆頭に山内上杉
と戦っているので、小田原城は扇谷上杉のもとで共同統治されていたという指摘もある。

大森氏が扇谷上杉から山内上杉方へと転じたので、1501年(元亀元年)扇谷上杉に
与する伊勢宗瑞(北条早雲)により小田原城は攻略された。
勿論、その当時は早雲は韮山城に在城していた。

この攻城で小田原城は歴史の表舞台に登場した。
1518年(永正15年)小田原城には早雲の弟の弥次郎と子息の氏綱が家督を相続して
以降、後北条の本拠となった。

そして、1590年(天正18年)秀吉による開城となる。

我々武州に住む者にとって、小田原城の歴史は興味深いものである。
要は、1,500年頃に小田原城は早雲が奪取し、その20年後頃に本城になった。

ちなみに、後北条では本城に対して、岩付城・川越城・鉢形城・葛飾城・八王子城を
支城というようである。出城とは云わない。出丸は、後年の城の一部の呼称である。




08年02月06日 
埼玉県白岡町 丸山遺跡(伝・丸山城址)
町役場の生涯学習課を訪れた。担当者の方が出てこられ、よく使いこなされた冊子を
見ながら、縄文の土器は出ましたが、中世の遺構は現在確認されてません。

私は、重層していると思いますがと、粘ってみると、それはそうですがと。
当方の頼みの綱は、地名の最後に丸山とついていることである。

取り敢えず訪問してみた。ロケーションからみみて舌状大地の先端で、モノノフが
いかにも砦を或いは城や館を造ってもいいと思った。

現在は人家があり、その庭先を穿り返して縄文土器を発掘して埋め戻した感があった。
人によっては、鎌倉末期から南北朝期初めの城址であるとも云う。

成果といえば役場で、縄文土器が出たといわれることと、ロケーションを見て
如何にもそれらしき感を持ったことだけであった。

但し、埼玉県立嵐山史跡の博物館のサイトの中世城郭目録には
「丸山城 城 岡泉丸山1150  竹林・梨園、台地 鎌倉」と書かれてある。

本日も好日であった。日々感謝、日々是好日。
閑話休題
日々を感謝するとは、真宗の影響であるそうな。




08年02月12日 
埼玉県騎西町 竜興寺・宝篋印塔
足利持氏、春王丸、安王丸の宝篋印塔があるというので見学に行った。

屋根が作ってあり、其の中に三基の宝篋印塔が並んでいた。
真ん中のがやや小さく、やや大きく見えるのが両側にある。

真ん中が足利持氏で両脇が春王丸と安王丸であろう。
60cmほどのもので、歴史的なものにしては小さい。

傍らに案内板がある。文面によると
県指定遺跡。足利尊氏は、関東を治めるめるために次男の基氏を鎌倉公方として
鎌倉に下向させた。

しかし四代目持氏の頃には勢力をのばし、幕府と対抗する
ようになった。

そこで幕府は、鎌倉公方の力を弱めようとして、持氏と対立している
上杉氏(関東管領)を助け、永享十一年(1439年)に持氏を滅ぼした。

これが世に云う永享の乱である。結城(茨城県結城市)に逃れた持氏の
三人の子春王・安王・永寿王は、翌年の結城合戦で捕らえられ、助かった永寿王
を除いて斬られた。

このとき春王十三歳・安王十一歳である。       と書かれてあった。

ここから後は小生の文章だが
助命された(逃れた)永寿王が後の足利成氏(しげうじ)である。
足利成氏(しげうじ)は武蔵に深い関係がある。

足利成氏が上野の岩松氏などの支援で鎌倉府を再興するのが1447年である。
だが、室町幕府側の関東管領上杉憲忠と対立し、憲忠を殺害するが
足利成氏は鎌倉を追い出されて古河に逃れて古河公方となる。

その時以降に、父持氏と春王丸・安王丸の墓を造ったと云うのが
ここ竜興寺にある三基の宝篋印塔だということになっている。

三人の宝篋印塔であることは彫られている内容から証明できるのだろう。
しかし、古河でなく、ここにあるのだろうか。他所から持ち込んだのだろうか。

足利成氏は、なぜ古河を選んだのだろうか、やはり支援者が多かったからだろう。

話しは根源にもどるが、鎌倉府(当時は鎌倉殿と呼んでいた)は
京の室町幕府の出先機関ではなく、独立した存在に変容していたのだ。

つまり、室町時代の日本は、西国と東国の2つの国であったとも云える。
室町将軍の力の衰え(形骸化)が下克上の時代、戦国時代に突入するのだ。

宝篋印塔を見学して、そんなことを考えながら帰路に向かい
騎西で旨いうどんを食った。本日も好日であった。日々感謝、日々是好日。




08年02月13日 
埼玉県川口市 殿山城址
埼玉県立嵐山史跡の博物館のサイトには下記のように書かれている。
名称   種別  所在地    現況・立地     備考/遺物の年代
殿山城  城   安行吉岡  宅地・畑、台地   竜賀山、城山

竜賀山とはこの地の地形からの名称であるらしい。

行ってみると新興住宅街である。前野宿川から西側が高地になっている。
その高地の部分が殿山城址であろう。よくある「舌状台地の先端」である。
川が要害で、これもよくあるロケーションである。間違いなくここである。

人によると
この地の吉岡は安斉入道安行からとったという。
新編武蔵国風土記稿(1804年〜1829年編纂)による記述があるらしい。
更に南側にある本郷城も含めて岩付城・太田氏との深い関係を言う人もある。

どの推測もまことにありそうな事である。
私は研究者ではないが、1,400年後半の複雑な扇谷上杉、山内上杉
古河公方との複雑な関係が絡んだ時世であったのであろう。

いずれにしても、今でこそ植木の安行と言われる、長閑な地であるが
室町時代には緊迫した情勢の中で武蔵武士達は日々を営んでいたのだ。




08年02月15日 
埼玉県立嵐山史跡の博物館 関宿城と中世利根川水運
講師 埼玉県教育局生涯学習文化財課 新井浩文氏

新井氏のレジメの一部によれば関宿城の概要は以下の通り(赤字は小生)

1,455年(康生元年) 古河公方足利成氏、水海城を本拠地とする梁田氏を
関宿城に配置
古河公方の権威と武力で地元勢力者の梁田氏を支配。

1,565年(永禄8年) 第一次関宿合戦、後北条氏、関宿の梁田氏を攻撃。
1,574年(天正2年) 第三次関宿合戦。梁田持助、関宿城を開城し水海城へ。
関宿城の梁田氏は強かったが
後北条氏得意の方法である、梁田の外戚となって関宿城を乗っ取る。

1,589年(天正17年) 後北条氏政、太田下野の守に関宿築堤のための200人
労働を命じる。
後北条は築堤技術のある者に盛んに工事をさせた。利根川の東遷は家康でなく
後北条の行ったものであるという。

ここからは講義による感想
関宿城は、現代の埼玉県で云えば大宮の如き交通の要所であった。
後北条は「関宿を押さえれば一国を得たにも同じと後北条印判状で書いている。

具体的には、関宿を押さえれば、上総・下野・常陸に大きな影響を与えた。
それは、船運であった。利根川、渡良瀬川、赤堀川、権現堂川、会ノ川など。

船運の通行税の徴収での税の収入も大きかった。
後北条は関宿城の中に、主要な川を通してまでして船運交通を手にした。

後北条は築堤技術を自然、獲得していった。
家康はその築堤技術によって東国支配をうまく利用した。
関東の運河や船運の基礎は、家康でなく、梁田氏や後北条氏が作った。




08年02月17日 
埼玉県立嵐山史跡の博物館 鎌倉と武蔵武士
講師 葉山町文化財保護委員会会長 伊藤一美先生

結論を言えば
「鎌倉は訴訟の街であった」が私の感想である。

本日の講義が訴訟の話ばかりではないが、訴訟の話しが面白かった。
蒙古襲来時の竹崎氏の話しなどで、ある程度知っているつもりであったが
本日の講義の内容は生々しいものであった。

有名な、「熊谷直実の土地問題」を例にとってみると
1,192年 久下直光との境争論 頼朝から所領召し上げ
1,234年 時直と西熊谷郷と安芸国の地頭職関係 直実の勝訴
1,263年 助時と安芸国の件 資直勝訴
1,264年 1,265年 1,275年 1,300年2回 1,304年 1,328年これらが、
続いていく、熊谷直実は最後にはついに、証拠品を御簾に投げつけて
切れてしまい、出家し法然聖人に走る。

現在、訴訟を起すと弁護士費用など莫大なお金が必要となる。
時間がかかると更に必要となる。今も昔も同じである。

鎌倉時代の訴訟には、鎌倉まで出かける費用、取次ぎをする役人への
袖の下、弁護人への費用、そのための袖の下、鎌倉滞在費、その他。

そのため、セレブな金持武将でも鎌倉の高利貸しや、商人から借金を
したという。きっと鎌倉の高利貸しは美味しい思いをしたことであろう。

しかし、鎌倉時代だけが訴訟が増えたのであろうか。
鎌倉時代は「俺の耕した土地は俺のもの」が平安時代との違いである。

今の時代のように登記法があるわけではない。
そこから訴訟問題が発生し易いのだろう。




08年02月19日 
埼玉県立嵐山史跡の博物館 武蔵の戦国城郭につい
講師 前埼玉県立嵐山史跡の博物館 前館長・梅沢太久夫先生

先生は本来かつ20年前までは「縄文屋」であったという、それが何故か
今、戦国屋(とは先生は言ってないが)をやっておられるのは悔いは?。

と云うのは北武蔵の城址は120もありながら(その内17城址はハイヒール
でも行けると氏は言われる)年代が殆ど特定出来ないと云う。

あの教科書的城郭の杉山城でさえ何も証拠は出てこない。
氏は、「1,500年前後の縄張りである」が持論で、10年ほど前に発表された
伊禮氏の1,550年前後という論文に皆が左右されて困った事だと言われる。

結局、北武蔵の城郭の年代は、中世の政治情勢を分析して客観的に
分析して年代を特定していかねばならないだろうと云われる。

後北条印判状などの資料も豊富にあることだし、きっと近年中には
おおまかでも完成するだろうと思う。




08年02月25日 
埼玉県桶川市 武城址
車を集会所に置かせていただき、現地の近くにくるとご婦人がおられたので
「見せて戴いて宜しいでしょうか」と許可を得ると

「あ〜堀ですね」といわれて「先日の強風の後ですから落ち葉を燃やした
後がありますから気をつけて下さいね」と言われた。

ここは、やや微高地である舌状台地先端に位置する。
いかにも中世の城址の典型である。

お宅の裏の地所に入らせて戴くと、靴が深々と地面にめり込む。
やがて土塁と、それを掻き揚げたと思われる壕が見える。

画像の真ん中が土塁で左側の暗い部分が壕
(今回より画像を添付する予定、決定ではない)

それは、枯葉を燃やされた道を挟んで反対側にもあるが、壕だけであった。

歴史については全く何も解らない。発掘調査をしていないのだろう。
埼玉県立嵐山史跡の博物館のサイトには
武城  城  川田谷5819  宅地・山林、台地  堀・土塁 
とだけ掲載されている。

私はロケーションから1400年半ばの石戸城の支城であろうと思う。




08年02月26日 
さいたま市見沼区 深作村無名の神社
以前より気になっていた小さな神社を訪れた。

○奉納 文政三庚○年十一月吉日 武州安立郡深作村 氏子中
世話人 岩右エ門 助左エ門 磯八 要蔵

庚艮と書かれているが、庚丑か庚寅のことだろうか。だれか教えて下さい。
庚艮関ヶ原の合戦という言葉があるようだか。

比較的小さな石の鳥居には上のように彫られていた。
文政三年は1820年だが、1800年の庚申の祈念に寄進したのだろうか。
庚申信仰は、1800年(庚申の年)から1860年の間が最も盛んであった。

08年02月29日
庚艮の件解りました。艮これは辰の字でした。失礼しました。1820年は庚辰(かのえたつ)です。



○奉納 天保七年三月吉日 世話人 松本義エ門 森本○エ門
手水鉢があった。上のように彫られている。
天保七年は1836年であるが、世話人名に名字が入っている。
この頃には、一般庶民も名字を名乗っていたのだろうか。



○天満宮 講中 武州足立郡南部領 深作村 ○○文久三年 正月吉祥日
吉祥日という表現が珍しい。
文久三年は1863年であるが、この頃も南部領の飛び地であったのか。



○ 八幡宮 読めないのが二基
上のように、50cmほどの小さな石で造られたお宮さんである。

○力石 奉納 力石 三十貫  もう一基
上のように力石は112kgの重さであるが、かなり小さく見える。
こんな重い石を持ち上げる若者がいたということである。今はいない。

○奉造立観世音菩薩  当所 普門品講中 世話人 国右衛門
亨和元辛○年九月吉日
亨和元年は1801年である。 普門品とは、要は観音経のことである。

この場所のロケーションは、見沼の小さな舌状台地の先端である。

そこから低い場所には新興住宅地が多数建設中である。
新興宗教の巨大な建物も建設中である。

この無名の神社か、その近くを調査すれば貝塚が出るだろう。
無名の神社としたが、鳥居の額の神社名が消えているからである。

多分氷川神社ではないと思われる。単に感であるが。
氷川神社臭くないのである。もっと古い縄文時代が発祥だろうか。

氷川神社は鍛冶の社であるはずだから、古墳時代以降だろう。
この無名の社は、縄文時代における奥東京湾の漁の関係だろう。

こんな小さな神社であるがいろんな事を教え、考えさせてくれる。




08年02月28日 
埼玉県春日部市 石川氏屋敷址
埼玉県立嵐山史跡の博物館のサイトには
石川氏屋敷  宅地、自然堤防 堀一部残存  戦国末 と掲載あり。

戦国末期とあるから後北条氏配下の太田氏の家臣の館とみるのが
順当だろう。その家臣の屋敷も小田原開城で消滅したのだろう。

行って見ると、河川が錯綜する、まっ平な地に150m×100mほど
の跡地かなと、ショートアイアンのクラブを持ったつもりで
シャドウスイングしてみて測定した。そうだとすれば5千坪か。

北側と西側にはハッキリと壕の址があるのが解る。

ここだけ、こんもりとした森のようになっているが、その森に入って行くと
土塁の一部が見えるが、県のサイトには土塁については書かれてない。

右下から中央にかけてが土塁址であろう。高さは1m50cmほど。

更に侵入すると人家がある。人が少し見えた。

住んでおられらしいと言うよりも、南側のお宅の小屋であろう。
不思議なことに土塁は妙な場所にも忽然とある。

これは本来の土塁ではないのだろうか。
いずれにしても、400年以上もよく残ったものである。珍しい。

08年02月26日の件ですが
08年02月29日
庚艮の件解りました。艮これは辰の字でした。失礼しました。1820年は庚辰(かのえたつ)です。




08年03月02日 
埼玉県県民活動センター 源氏物語講義・リナックス
講師 学習院大学文学部 神田龍身教授
1,000年頃に紫式部が創作した。物語の上では900年頃にあった事としている。

現代に伝えられている源氏物語は1,200年頃に完成した青表紙本である。
これは藤原定家が取捨選択したもの。ということは種々の源氏物語があった。

青表紙本以外に源親行の河内本があるという。更にもう一つあると言う。
源氏物語は、後世の者が原本を部分的に書き直したり、付け加えたりしている。

原本を書写して更にそれを書写する。更にそれを書写して更にする。
そういう中で上述のように部分的に変化していったと考えらている。

源氏物語とは、そういうものであるそうな。原本は既に散逸して存在しない。

つまり、リナックスの様に進化したのであると私は思ってしまった。
ただ、原本が余りにも出来がいいので、原型は殆ど崩れていない。




08年03月04日
埼玉県川越市立美術館 橋本雅那の時代
幕末・川越藩のお抱え絵師・橋本雅那没100周年記念展である。
知己の賢兄から招待券を戴き喜んで観賞に行った。

私自身は画を観る能力がない人間であるが、画家の生き方や美術史には
興味がある。だから、絵画展に、たまに出かける。

以下、素人が勝手なことを書いてみた。但し下線部分は美術館に置かれて
あった解説書を参考にした。

本日の橋本雅那は、天保の初めに生まれて明治の終り近くに他界した。
狩野派の人である。盟友に狩野芳崖がいる。

天保の始めごろから幕藩体制は崩れ始めていた。その30年前から既にロシアを
始めとする諸外国が日本沿岸に接近して、鎖国の眠りを覚ます時代であった。

それと呼応して文化文政の庶民文化は、江戸初期の古典文化の時代の終りに
気がついていたのであろう。橋本雅那や狩野芳崖も同じであったのだろう。
そういう風潮の中で彼らは生まれた。

橋本雅那、狩野芳崖は探幽を勉強するよりは、宋画、室町時代画に戻ろうと
研究・研鑽したという。

明治初年は橋本雅那も狩野芳崖も30歳半ばで、人生絶好調の時、時代は
がらりと転換し、彼らは単に古い画風の過去の人物として見られ、苦しんだ。

そこにフェノロサの見識や開国時代の絵画事情も見ながら彼らは
日本画と西洋画の良き融合を目指し、独自絵画を試みる必要に迫られた。

この頃の橋本雅那の生き様が、明治20年雅那55歳の深山猛虎であると思う。
私はこの画にのみ魅入ってしまった。谷間に咆哮する虎は雅那自身である。
55歳という年齢に、私は雅那の苦しさが見える。

また、明治36年、雅那69歳時の、六曲二双の春浦秋林に雅那の死の数年前
の安楽な心が写しだされているを観て、心が暖かくなる思いがし
画の前の椅子で、うとうとして眠りに陥った。招待券を小生に与えたW氏に感謝。




08年03月06日 
さいたま市見沼区 中丸城址
かつて訪問したことがある。その時の自分の気分とは異なる。こあたりの話しを
書くための資料集めでもある。

最初に、ここに砦がきずかれたのは南北朝の始めであるという人もある。
その後、戦国時代末まで断続的に続いたのであろう。

戦国時代の岩付城との関係で太田資正の時の支城であったという人もある。
この近辺の岩付城の支城と云えば、東に松野氏館、北に伊達城がある。

松野氏館址やこの中丸城の近くを鎌倉脇街道が通過していたというが
それは伊達城の南側を通過する、大宮と岩付を結ぶ街道のことであろう。

そうだとすると、松野氏館やこの中丸城はその街道からやや遠いのだが。
戦国の世にしてみれば其の程度は遠いとは云わないのだろうか。

私は、現在の大宮駅東口から延伸している通りから北に入り、神明神社に
行ってみた。ここも中丸城の一部であったはずだ。

境内の手水鉢には
安永八己亥○十月吉祥日 とあるので1780年頃である。その奥に大口神社
○神社という二つの祠があった。

さらにここから艮の方角(うしとら・東北)100mほどに30m×30mの公園が
あった。付近の人に聞いてみると、かつて小さな神社があったという。

これが春日社で、かつての中丸城址の中心部であったはずだ。
ロケーションをみると、ここだけ確かに小高い、舌状台地の最高地点といえる。

但し、西方500m程の現在の第二産業道路の方がもっと適地であるとも
思えるが、何故であろかと思ったが、この舌状台地の東西に周囲には沼地で
要害となるからであると気がついた。沼地と行っても現在は住宅が多い。

私は、そこから西に下りながら、時代は異なるが、多賀城址に似ている。
などと思った。多賀城とは機能が異なるので全く比較にならないが。




08年03月07日 
さいたま市桜区 上峰陣屋
埼玉県立嵐山史跡の博物館のサイトには下記が書かれている。
上峰陣屋  陣屋  上峰1・2丁目  宅地、台地  堀  江戸初期

江戸時代初期の陣屋があった一部と云われている諏訪神社に行ってみた。
自動車で通過するのと実際にその場に行ってみるのとこれほど異なるケース
も珍しい。

ロケーションだが
いわゆる舌状台地の先端に諏訪神社がある。舌状台地の北側を除いて全て
低湿地の要害であるはずだ。

現在ではその低湿地に人家や病院や学校や商店街が密集する。
堀などあろうはずがない。とっくに調査後埋め戻してあるのだろう。

私は神社の北側が平坦な土地で農地さえあることに不思議な感じをもった。
なぜ後世の我々は高地に必要な建物を建てずに低地に敢えて建てたのかと。

それは道路付けの関係があるのだろう。経済原理で土地の価格も原因であろう。
それにしても絶好の場所に陣屋を作ったことは此処へきてみて初めて解った。

陣屋の出来る前の歴史も当然あるわけで、案内板によると、冒頭に御由緒とあり
「新編武蔵国風土記稿」跡「武蔵国郡村誌」にあるので江戸時代より遙かに
古いと書かれてあるが、意味がよく解らない。




08年03月09日 
墨田区 江戸東京博物館講座 太田道灌と城館の戦国時代(訪問3月8日)
講師 東京都立大学名誉教授 峰岸純夫
享徳の乱から三つ巴の争覇のなかの城郭

前振りとして
日本の悲惨な戦争は第一には、アジア太平洋戦争(第二次大戦)であり
第二が戦国時代である。戦国時代は戦乱だけでなく未曾有の気候条件
が列島を覆い飢餓が恒常化していた。
私は個人的に、戦国時代の始まりの頃に大変興味がある。小生の生まれた寒村が発祥した年だ。
ここで云われる気候条件の悪化は戦国時代の初期のことであるはずだ。

講師は、日本の戦国時代は応仁の乱(1,467年)からだが武蔵ではそれよりも
10年ほど早い享徳の乱(1454年)からであると、まず強調された。
私は、それは既に以前から皆が認めていることで、わざわざ今更言うことでもないのにと思った。

この時代(室町時代)を4つの段階に分けて考えるべきである。

第一段階
享徳の乱より、利根川を境界としての争いでこの近辺に多くの城が築かれた。
それは関東における公家・武家・寺社の経済的基盤であった荘園公領制の
崩壊をもたらした。
利根川を境にしてと言う部分はどうかと思うが、経済を必ず絡めて動きをみていくのには納得した。

第二段階
上記の余波として、両上杉に古河公方をからんだ関東の内乱がおこり
その間に後北条が明応2年(1493年)に武蔵に進出した。
1年前の1492年と云えばコロンブスのアメリカ大陸発見である。後北条にとって関東は新大陸である。

第三段階
約半世紀後、関東は、川越夜戦によって、後北条の天下となる。
さらに、その結果から後北条・上杉謙信・武田信玄の三つ巴の争覇の時代
となった。この争覇の中で国衆(地元有力勢力)は、滅亡したり取り込まれながら
生きざるを得ない状況となった。
現代でもまだ生じていることが多い。特に経済面から見て、メジャーと地場の関係である。
逆に考えれば、関東は、地元がしぶとく生き残っていける場であったし、現代でも同じとも言えるが。

第四段階
上杉謙信、武田信玄、織田信長が没して、1,590年秀吉の天下となるが
天正12年(1582年)秀吉と家康の小牧長久手の戦いで後北条は家康を支援した。

これに対して秀吉は常陸の佐竹を支援し、佐竹は下野西部の沼尻で対陣するが
秀吉・家康の和議で対陣は終り、その後、後北条への圧力は強まることになった。
その後、秀吉の小田原攻めで後北条の夢は全て消えてしまい秀吉の天下統一。
我々武蔵に住む者には、太田道灌に愛着があることから、憎いが扇谷上杉に勝って欲しいと云う気持ちと
それが駄目なら、せめて後からきた後北条に勝って欲しいという郷土愛がる。しかしそれも空しい結果となる。

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ここからは上記と直接関係のない話であるが、上杉謙信と武田信玄と後北条の侵略
の遣り方について、講師は述べられた。

大まかにいえば、武田信玄と後北条は、獲得した領地を完全に自分の領地として
しまうが、上杉謙信は獲得した領地に自分の好みの武将を置いて越後へ引き上げて
しまうので領土獲得にならない。

巷間言われるように上杉謙信のホモセクシャルの影響かも知れない。
講師は、はっきりとはしないがそうかも知れないとも云われる。
確かに戦国の世は、なぜか織田信長を始めそうである。現代の我々には理解出来ないが。
だからと言って上杉謙信の遠征を、それに結びつけるのはどうかと思う。越後人は憤慨するだろう。

私は以前からなぜ上杉謙信は勝利の後、直ぐに引き上げしまう、ただそれだけの
ために遠い越後から遠征してくるという理由が解らなかった。

地元越後の博物館へ行ってみると、上杉謙信は正義の為に遠征を繰り返したと
書かれていたし、また一般にもそう云われている。
正義とは仏教からくる正義と関東管領の責務を果たすことの正義を指すのである。

研究者は、遠くから遠征は、食糧獲得の為に関東の稲を強奪する目的もあったと云う。
遠征には稲刈りの道具を持って出陣し、刈った稲を土産にして越後に帰郷したという。

実にリアルで真実性に富む話しである。それをあまり強調されると上杉謙信ファン
は何か悲しい。講師が冒頭に云われたように、この時代は飢餓状態であったので
実に真実性がある。越後は関東よりも、もっと餓えていたのだろうか。

実際、上杉謙信とはどういう人であったのかは今も解らないのであろうか。
その研究は存在するのだろうか。




08年03月11日 
墨田区 江戸東京博物館講座 中世の研究者のこと(訪問は3月8日)
以下は、私が今までに講演会などを受講しての個人的な印象である。

中世の本格的研究は、石器・縄文・弥生・古墳時代に較べて新しいらしい。
ここで云う中世とは、鎌倉〜織豊時代の直前を言う。

本格的研究がなされなかったのは研究材料が少ないからだろう。
トレンチをやっても太古の土器類は出るが中世は少ない。
城郭なども、ほとんど残っていない。

豊富にあるのは、太平記など多くの書物である。豊富な書物が返って研究を
遅らせたのかもしれない。印判状などの手紙類は多いのだろうか。

また、必ずと云っていいほど「杉山城問題」が提出される。あれほどの、中世の
教科書といわれるほどの城郭址であるにも関わらず今だ年代が確定できない。

研究者には、発掘考古学、城郭考古学、文献考古学の専門家があるらしい。
それぞれの研究者が協力して時代の実相を明らかにしていかねばならない。
と各研究者は言われるが、意外と仲が悪いように思う。

3月8日の講演会でも、何とパネリストは発掘考古学者4人と文献考古学者1人。
パネルディスカッションの終りに、司会者は何と思ったか
反対のご意見ありますかと、会場に呼びかける始末だ。

会場からのある研究者が、城郭研究者を無視したような進め方は良くないと
苦言を呈する発言をされて会場はホットした雰囲気であった。面白かった。




08年03月12日 
埼玉県伊奈町 北遺跡
埼玉県立歴史と民族の博物館のサイトには
北遺跡  大針原679  畑・鉄道敷、台地  堀 と掲載されている。

行って見ると、舌状台地の先端である。
付近を踏査したが、サイトに書いてあるように東北新幹線工事で堀が発見された
のだろう。

勿論、現在は蔭も形もみえなが、ロケーションからして確かに砦を造りたくなる。
すぐ東は自然保護地区で、南東に墓地、西北と北は低湿地であったのだろう。

岩付城の支城という人もある。私は直ぐ南にある伊奈城の関係を疑うがどうだろう。
伊奈城域は、巨大な岩付城の半分はあると思う。この伊奈城の研究は殆どない。

この場合の北遺跡は
文献は無いが、遺構が発見されていると言う確かな希望と、ロケーションと
その時代の趨勢だけで推測する。中世の遺跡の面白さである。

それが素人にも勝手に参加できてしまう良さでもある。
他の時代ではそうはいかない。専門家の領域に我々が入るのはタブーだろう。




08年03月16日 
埼玉県立歴史と民族の博物館 日本の色彩展示解説
数十名の者が学芸員の説明に従って移動した。小生もそうだが後部の人は
学芸員の声はすれども展示品は見えず状態であった。止もう得ない。

よって、説明が終わって次のコーナーにゾロゾロと移動された後に、やっと有り付き
眺める始末。まーそれは致し方がない。せめて美人解説者を拝めただけでも幸運。

最後部の者でも、少しは理解出来た部分はあった。藍と紅と紫の種類がある。
紫は絶滅種で、妙な根っこのような物だ。

漢方薬にもなると言うが、なるほど知っている。
現役時代を思い出した。しかし、これが染料とは、つゆ知らなかった。

西暦600年の初めには使われたと言う。古墳から飛鳥時代だろうか。
赤が出発点であると云うのも合点がいく。

色彩は呪術や祭祀であったというが、そこへ話しを持ち込み易いが実際そうだろう。
赤について云えば天然痘避けであったというのは、吉村昭氏の小説を思い出した。

小生としては勝手に、渋沢栄一の故郷と藍玉の事ども、など思い出しながら
武州の藍や紅についてのお話しを遠くで微かに聞かせて戴いた。

また、北前船と京都での染色の話しに、50年ほど京都で染色を続ける実兄を不図
思ってしまい不覚であった。




08年03月21日 
埼玉県立嵐山史跡の博物館 葛西城と地域支配
講師 葛飾区郷土と天文の博物館 谷口榮氏

演題からも解るように、葛西城は単に戦うためや、逃げ込む為の城ではなく
葛西地域を支配する重要な城であったことが最近明らかになった。

葛西の範囲であるが
律令時代の葛飾群は葛飾・江東・墨田・江戸川と現在の千葉県西部・埼玉県東部
を指していた。鎌倉時代には中川を挟んで西部が葛西で東部が葛東。

江戸時代は荒川放水路から西を葛西。明治以降は葛飾・江東・墨田・江戸川。
現在でも草加・越谷・春日部・八潮などを除けば埼玉県北葛飾郡がある。

ザット云えば、江戸(東京)と下総(千葉)の境が、江戸時代までは墨田川で
江戸時代からは江戸川になった。だから中世は、墨田区は千葉県であった。

本題に戻るが
場所は青砥で、環七と水戸街道の交差する場所の南側。
葛飾城の築城は1,400年の終わりごろである。

かつて秩父平氏の葛西氏が跋扈していた。葛西城の場所は海と陸を繋ぐ重要地点
であった。大石氏から上杉氏、後北条氏となり、1,590年の秀吉の天下統一となる。

最近の研究で上杉氏と後北条の間の6年間には、足利義氏が在城した。
義氏は、鎌倉公方が、古河に移り古河公方となってからの5代目である。
いわゆる足利氏の「御所」が青砥にあったことになる。

くどいがこの青砥は陸と海(河川)の交通の要所で現在の東京の要の地点であった。
現在の江戸城とワンセットとしての重要地点であったという。

江戸時代も中頃までは葛西城址に御殿があったという。

遺物として
他の城址からは出てこない元の時代の茶臼台、桶、などが出土して考古価値が高く
貴重な出土品であるという。これも御座所(足利義氏)であった証左である。




08年03月23日 
埼玉県ときがわ町 小倉城址
珍しく友人と共に出かけた。大福寺の右脇を登ってすぐに郭がいくつもあった。
その中心の郭と思える場所の案内板によると次のように書かれている。

蛇行を繰り返す槻川の先端に構えられている。また鎌倉街道上道(かみつみち)
と八王子ー鉢形を結ぶ上州へ抜けるルートの中間で、中世の幹線である。

主な郭は全部で5つである。
郭1(説明図あり)は尾根の最高所に位置し、全ての導線がこの郭に収斂し
土塁の規模は大きく、虎口の構造も厳重でこれが本郭であると位置づける。

城跡の年代は1,500年前半から後半と判明している。

城址の最大の見所は、基盤層に結晶片岩の岩碧をもつことに由来する、大規模な
石垣である。総延長150m以上最大高さ5mに累々と積まれた楼は圧巻で、石造りの
山城と呼ぶべき景観である。

小倉城址は、石垣、縄張りの点で優れた遺構を今日に伝えており、戦国期に於ける
東国の中小規模山城を代表する史蹟と云える。また青山城や菅谷城を目視出来る
位置関係にあり、山稜と河川のおりなす景観に、比企地方の中世を色濃く残す。

また、埼玉県立嵐山史跡の博物館のサイトによると

玉川城とも云い、1570年〜1592の城で、城主は伝・遠山右衛門太夫藤原光景で
300m×200mの県指定史跡である。(昨07年、国指定史蹟となった)。
新編武蔵国風土記稿、埼玉県史、埼玉の城館跡に記載されている。

遠山氏は後北条氏に属し、松山落城と共に本城も落城したという。

近辺の山々よりも低い場所に造られ最悪の所であるが、比企の他の城郭が高いところに
あることから、「武教全書」にいう「われ居て合戦ふに利あらざるを蔭山と言う」に近い。

上記の文言は私には理解できなが、蔭山が返って、なにかの特長として使い道がある。
と言いたいのであろうか。全く解らない文章である。専門家の説明には、困ることがある。

有り難いことに、私は石積みを多くの場所で見ることができたのと
虎口かと思われる場所で恐らく敵を欺くための橋を掛けていたであろう場所を見たことだ。

さらにサイトには専門用が以下のように書かれている。
竪堀、隠郭、掘切、切通、土壇、掘割、帯郭、出郭、物見郭。

この城では合計28の郭が設けられているとも書かれている。
本城では説明しつくせないほどの縄張りが巧みに行われ、中世の比企の城郭では唯一
石積みが見られる城である。と結ばれている。

案内板では石垣という表現だがサイトでは石積みとなっている。現在では後者が正しい
表現とされている。
天候に恵まれたこともあり、中世古城址ファンの方、何人かにお会いした。




08年03月24日 
埼玉県志木市 柏の城
柳瀬川の満開のサクラを見ながら訪れた。

柳瀬川を要害として縄張りされていることが解る。
現在の志木市立第三小学校の地がその城址らしい。

志木市教育委員会の案内板によると

関東管領山内上杉家の重臣大石氏一族の戦国初期からの居館と言われていますが
その築城年代は一切不明です。

江戸時代の名主の館村日記によると、この小学校が本城でその周りに二の郭三の郭が
あったとされる。また、在原業平の座所であったという伝説もある。

また
木曽義仲の子孫で大石氏が室町中期に造った居館である。
1,486年の紀行歌文集「回国雑記」に大石信濃守の館であると書かれている。

これは大石顕重のことで、本城は八王子の高月城である。
その後、大石氏は北条氏康に服属したが、天正の頃は大石越後守直久が城主だった。

また館氷川神社奉賛会の案内板によると

当地は古くから奥州街道鎌倉街道の主街道に沿い、旅人の往来しげく宿場を形づくり
上宿中宿下宿の名称現在に伝う。この神社は戦国時代の柏城の大手門にあたる。

以下は自分
奥州歌道や鎌倉街道が近くを通り、要害の柳瀬川がある舌状台地である。
鎌倉から室町時代の縄張りの典型的なロケーションである。

八王子の城の支城であったのだろう。
この地区には「館」や「城」の名称が散見された。

国道264から南を見ると、意外と低く見えるのが柏の城のある方面である。
敵から見られる地に、なぜ縄張りをしたのかと思いつ帰路についた。