小さな歴史旅A
06年02月08日
小さな歴史旅Aで思うこと
各地の資料館や旧跡など、訪れたいと思いつつ加齢していく。
先人たちの貴重な痕跡を辿ることは想像をかきたてる。
06年02月09日
群馬県館林市 館林城跡 1/7号
縄文時代や古墳時代の痕跡の残る沼地の付近に館林城があった。
1,590年小田原城開城の年、家康が関東に入り、ここでは榊原康正を初代藩主とした。
この地は当時は「躑躅ケ碕」と称していたのだろうか。
思うこと
今でも「つつじヶ丘公園」あるいは「花山」として武蔵地方(東京・埼玉)では名所である。
(花山自体は上野の国だが)
特徴は沼地の平地の縄張りである。
もっとも関東には、よくあるタイプだと思う。
縄張り時の時代背景との関係はあるが。
06年2月10日
群馬県館林市 市立第一資料館(06年2月9日訪問) 2/7号
平安時代の末1,180年(治承4年)
平家物語・橋合戦の記述中で「佐貫荘」を本拠とする佐貫広綱の名前が見えると言う。
佐貫荘は現在の館林の辺りだと言う。
鎌倉時代初期1,221年(承久3年)
鎌倉幕府と朝廷の争いである承久の乱のとき佐貫一族は幕府方についた。
1,333年(元弘3年)
元弘の乱(後醍醐による倒幕の政変)では佐貫一族は幕府方につき楠正成(南朝方)を攻める。
この乱で鎌倉幕府は滅亡し、南北朝時代になる。
思うこと
律令時代から封建時代になり一時的に律令時代への揺り戻しのようなものだろう。
しかし、時の流れはもう後戻りを許さなかった。後醍醐の無駄な抵抗だろう。
1351年(観応2年9
尊氏が鎌倉で実弟の直義を殺害した観応の擾乱(じょうらん)では佐貫一族は尊氏方につく。
06年2月11日
群馬県館林市 市立第一資料館(06年2月9日訪問) 3/7号
1,416年(応永23年)
上杉禅秀の乱(関東管領と鎌倉公方の争い)が起こり新田一族は鎌倉公方に味方して館林に出陣。
思うこと
このころ鎌倉公方は鎌倉に居り古河に逃げ出していたのではない。
関東管領は山内上杉氏であると思う。
1,440年(永享12年)
結城合戦(関東管領と鎌倉公方の争い)始まる。佐貫荘内の有力武将である舞木持弘は
長尾忠政に殺害さる。持弘の家来赤井氏奮戦す。
思うこと
解りやすく言うと
室町幕府は京都に本店があり支店が鎌倉にあった。本店は尊氏で支店が尊氏の弟直義(タダヨシ)である。
関東管領は室町幕府の役職名で鎌倉府の支店長の補佐役である。
つまり、支店長と支店長補佐の争いである。
支店長補佐は代々上杉氏が世襲した。
上杉と言っても越後のあの上杉ではなく足利尊氏等の従兄弟である。
各地の一族の喧嘩の全国版を京都に凝縮したのが有名な「応仁の乱」と考えてよい。
無駄な争いの頂点である。
1454年(享徳3年)
鎌倉公方(後の古河公方)の足利成氏は幕府(京都)と対立し関東地方を2分する「享徳の乱」
が始まる。
思うこと
要は京都の兄貴方と弟の鎌倉方の喧嘩。
関東の地は、京都勢、鎌倉勢、関東管領勢、地元勢(大田道灌など)による大バトルが始まり
戦国時代の序章となるのだ。
06年2月12日
群馬県館林市 市立第一資料館(06年2月9日訪問) 4/7号
1,471年(文明3年)、応仁の乱から4年目である。
堀越公方が古河公方配下の「立林要害中城」「立林舞木城」を攻略。
思うこと
堀越公方とは何者か。
京の都の室町将軍足利義政は鎌倉(鎌倉公方)から古河(古河公方)に拠った
足利成氏が面白くない。
そこで、古河公方に対抗させるため、子の足利政知を鎌倉に送り込んだ。
ところが、足利政知は敵に邪魔されて鎌倉に入ることが出来ないので
伊豆の堀越というところに居館を構えて
一生をここで終えたという。これを堀越公方という。
まことに、なさけない、意地のない弱虫野郎であった。
ところで、ここで、応仁の乱に触れなければならない。
1,467年(応仁1年)から10年間も都で、東軍細川勝元・西軍山名宗全を大将とする
史上まれな無駄な戦い。
結論から言うと
全国的に発生していた相続問題である。兄弟の誰が親を相続するかが命題であった。
これの裁定を最終的に室町将軍が決定していたのであるが
肝心の将軍家の跡継ぎ問題が応仁の乱となって現れた。
全国を東西二分して戦った源平の戦い以来の馬鹿馬鹿しい大騒乱である。
お蔭で京の都は灰になった。
汝ヤシル都ハ野辺ノ夕雲雀
アガルヲ見テモ落ツル涙ハ
飯尾彦六左衛門尉読みける
06年2月14日
群馬県館林市 市立第一資料館(06年2月9日訪問) 5/7号
1,562年(永禄5年) 信長28歳、秀吉26歳、家康20歳の時である。ザビエル死後10年。
越後の上杉謙信が館林地方に進出し館林城は攻略され、城主の赤井氏は忍城(埼玉県行田市)
へ逃げのびた。
謙信は、足利城主の長尾景長を館林城主兼務とさせた。
1,570年(永禄13年)
上杉氏は羽生城主(埼玉県羽生市)の広田直繁を館林城主兼務にさせた。
(羽生と館林は利根川の南側と北側で、目と鼻の先である)
1,580年(天正8年)
甲斐の武田勝頼が館林領にも進出。
思うこと
謙信や信玄の時代であった。
彼らは都から遠過ぎたし天下統一など考えもしていなかっただろうか。
ただ
信長、秀吉、家康達にとって憧れと畏怖の存在であったろう。
そして戦国の世の幕を切って落とした北条早雲が他界して既に40年以上が過ぎていた。
06年2月15日
埼玉県志木市 市立郷土資料館
1,351年(観応2年)南北朝初期である。
羽根倉の合戦があったという。詳細は不明。
1,352年(分和元年)
新田義貞と足利尊氏勢が入間川原で合戦。
06年02月16日
群馬県館林市 市立第一資料館(06年2月9日訪問) 6/7号
1,584年(天正12年)というから信長の死後2年
後北条の北条氏政が館林城を攻撃。 館林の各寺院に禁制を発する。
思うこと
待ってました!
老雄越後上杉と巨人甲斐武田と新進小田原北条がここ館林で激突することになった。
ここで江戸時代の講釈師なら「パンパンッ」と机を叩くであろう。
06年02月18日
墨田区 都立江戸東京博物館(06年2月17日訪問)
平安時代の終わり頃に江戸氏が初めて江戸城らしきものを構えたという。
その後
上杉氏が(山内上杉或いは扇谷上杉。多分、扇谷上杉だろう)築城し、更に後北条が築城
を重ねたという。
思うこと
都には悪いが
私にとって見るべきものは殆ど無かった。江戸時代とは太平の世の組織の硬直化である。
室町時代に比べると、反ルネッサンスであった。・・・但し密室の中で文化は醸成された。
06年02月19日
群馬県館林市 市立第一資料館(06年2月9日訪問) 7/7号完
1,585年(天正12年)天正少年使節がヴァチカンで法王に謁見さるのがこの年。
後北条が金山城(群馬県太田市)、館林城を落城させ、北条氏規の管轄下に入る。
1,590年(天正18年)
ついに、秀吉が小田原城を開城させ後北条は滅ぶ。
武蔵地方の後北条が勝ち取った城はすべて秀吉軍勢のものとなる。
やがて同年、家康は秀吉から貰った関東に入部す。
榊原康政が館林城主10万石となる。家康は館林の寺院に禁制を発する。
思うこと
禁制とは「俺の言う事に従え」ということだと思う。
後北条も禁制を発したが家康もそうした。統治者としては当然だろう。
寺院仏閣に旧勢力が隠れて再興を図るからだろう。
それにしても
超メジャーの秀吉が現れなかったならば、武蔵は後北条王国となって、歴史は全く
事なったものに、なったであろうと思う。
家康がここで江戸幕府を開くことが出来たかどうか?
もっとも、秀吉は家康に関東を遣りたくなかった。他にいたのだが夭折したようだ。
名前は忘れた。
06年2月22日
東京都清瀬市 市立博物館
末法は釈迦の死後1,500年から2,000年後に遣って来て1万年継続する
という思想であった。
釈迦が死んだのは紀元前552年ということになっているから、末法のスタートは
紀元後948年(平安時代中期)から1,448年(戦国時代の前)頃という計算になる。
末法つまり、仏法の世でないというのは、具体的にどういいうことか私には解らない。
(「世も末じゃ」というあれかなとも思うが)
それは兎も角として
平安時代の末から鎌倉時代にかけての戦乱に次ぐ戦乱に遭遇した人々は
末法が現実となってきたと思ったのである。と私は思ったがそうではない。
当館の以下の説明。
○寛喜の大飢饉(1,229年ー1,232年)
○正嘉の大飢饉(1,257年ー1,259年)
○正嘉2年の大地震で鎌倉若宮大路が裂ける。全ての寺社の被災。
○正嘉3年の大洪水
○1274年(文永11年)蒙古襲来・文永の役
○1281年(弘安04年)蒙古襲来・弘安の役
○正応6年(1,293年)の大地震で23,000人の死者
これだけが立て続けに発生したからであるという。
人々は動揺し身分の別なく極楽浄土へ導いてくれるという阿弥陀如来に
すがったのも無理は無い。
そして「南無阿弥陀仏」の6文字を称えた。
そいうなかで
人々は宗派を超えて板碑を造立した。武蔵を中心に3万基以上であるという。
もっとも
後の時代には民間信仰としての造立が主になったが。
思うこと
当館での学説を学ばせて戴き有難い(定着している学説かどうか)
末法とは、○で述べた状態をさすのだろう。
私の推論だが、末法思想は律令時代に権力者が自分たちの都合の為に創作したのだろう。
松本チズオが「地獄に落ちるぞ」と脅すのに似ている。
ぞして又、板碑の造立は
大乗仏教(自ら修行するのでなく、他に助けを求める)が盛んになっていた証でもある。」
06年2月26日 さいたま市 埼玉県立博物館 講堂にて 高橋一夫館長 さきたま古墳7つの謎 古墳時代(400年から600年) 畿内に大和朝廷、群馬県に群馬族、武蔵にさきたま族がいたが さきたま族は近くの群馬族に与せず大和朝廷に与する関係であった。 しかし7世紀のあるときに、さきたま族は滅亡した。 思うこと 初めて知った。有り難い。 そうか弥生時代のすぐ後には、埼玉県には、強大な、さきたま族が存在したのだ。 強大であったればこそ、あの広大な場所に数多くの巨大な墳墓群を造れたのだ。 繰り返すが 国衙(国府)跡がないことから、律令時代(奈良時代よりあと)には さいたま族は消滅したことが解るという。なるほど。 律令とは、仏教を「てこ」に土地を取り上げる方式であったと個人的に思う。 更に妄想すれば、その「てこ」について蘇我氏は賛成し物部氏は反対した。 さいたま族は物部氏側についたのではないか(全く素人考えだが) さらに 古墳をつくる為の大きな専門集団がすぐ近くに存在しことが証明されている。 エジプトのミラミッドもそうであった。盗掘集団も住んでいたが(笑) 過去の世界中の巨大な建造物とは、そういうものであるらしい。 06年2月28日 埼玉県春日部市庄和町 国交省江戸川河川事務所 庄和排水機場 龍Q館 建設工事で地下深く掘り進めることによる副産物として。 以下は縄文海進についての、おさらい。 @2万年から1万2千年前で地球は氷河期であり、氷で覆われていた。 A大陸も海氷で覆われていた(ここがよく解らないが)。 B陸上に海水が氷としてが固定されたため、海水面が低下した(ここもよく解らないが) Cよって現在よりも海面が100メートルも低かった。 Dそのため台地は河川によって浸食され20mから50mの深く狭い谷が作られた。 E1万年前から地球は温暖化して大陸の氷が解け始、海面が上昇し始めた。 Fこの時点ではまだ海面は現在より40mも低かった。 G今から8千年前には現在と同じになった。 H海水は現在の海岸線から60kmも陸地に入り現在の栃木の藤岡までに達した。 Iこれを縄文海進と言い、奥東京湾の形成である。 J今から6,500年から5,300年前には、現在の海面より2〜3mも高くなった。 Kやがて河川により奥東京湾には土砂が堆積し浅い海になった。 ここからは思うこと 更に土砂が堆積し奥東京湾が消滅して現在に至るのであるが その途中として1,700年ごろまで見沼は沼地であった。 その沼地を江戸幕府は伊澤弥惣兵衛に命じて見沼田んぼとした。 しかし 解らない事は一杯あるが 現在の海面の高さまでに低くなった理由はなんだろうか。 南極北極だろうか、いや違うだろう。 06年3月1日 かつて埼玉県春日部市 春日部市郷土博物館 現在の地名のルーツである春日部氏は現在の粕壁にある浜川戸遺跡が居館であった。 鎌倉幕府内部の権力争いに巻き込まれ一時衰退した。 南北朝時代のとき春日部重行、春日部時賢は南朝の後醍醐側についた。 戦国時代には岩槻の太田、幸手の一色、古河公方の勢力下にあり、その時々の情勢で それぞれの実力者に与したのであろう。 戦国も末期になりと、やはり後北条の勢力下になるが やがて小田原落城で秀吉に制覇される。 武蔵のお決まりのパターンである。 それよりも 現在の埼玉県東部は武蔵ではなく、下総の国であったという事実である。 おおむね現在の古利根川(春日部市)から東が下総国下河辺庄に属した。 西は当然であるが武蔵国岩付城の影響下の太田庄である。 06年3月4日 さいたま市見沼区御蔵 松野氏館跡 北西方面は18mの断崖になっている上にあるのがこの松野氏館である。 北西の方向数キロに見沼を挟んで、やはり岩付城の支城である寿能城があり 寿能城の東側にも支城の大和田陣屋がある。 現在辺り一帯は住宅が押し寄せているが、この場所だけは超然としている。 岩付城の家老であったはずの松野氏はここで天地を送っていたのである。 真に感慨深い。 この断崖上は縄文時代の遺跡あとでもあった。松野氏は知ってか知らずか。 いずれにしても、太古からの、よくある好適地であるには間違いない。 この地では 8千年前の縄文土器、4千年前の縄文後期初頭の竪穴住居12軒跡が発見されたいる。 この竪穴式住居は柄鏡型住居といわれ特殊なもなであるらしい。 そもそも この地は鎌倉街道が通っていた。ここから見沼を通過し大宮・与野から所沢へ 通じていたという。巾3mの堂々とした幹線道路であったのだろう。 戦国時代には 岩付城太田氏家臣松野氏が居城していたといわれ、天正18年の秀吉の小田原 攻めのとき、後北条側につき(つかざるを得ないであろうが)、 小田原落城とともに秀吉がわのもとなり やがて家康が関東に入部してくる。 松野氏は幸運にも家康に召しだされ200石を賜り旗本として幕末まで 平穏に暮らしのであろう(大和田陣屋と同じパターンである。家康としては 江戸からの距離を考えると慰撫しておき、事を荒立てたくなかったのであろう) 06年3月5日 群馬県高崎市 県立群馬歴史博物館(06年03月03日訪問) 古墳時代の上野(こうずけ)の国は華やかであった。 その当時は毛野(けぬ)の国で群馬は上毛野国(かみつけぬのくに)である。 太田勢と前橋・高崎勢では太田勢が優勢で推移していたという。 前橋天神山古墳、太田天神山古墳(前方後円墳)などが造られた。 つまり 西の大和、東の太田であったのだろう。 500年中頃上毛野国への国づくりが進むの中で、大陸からの新しい文化や技術も 急速に広まって現在の群馬県はまさに東日本の中心であったという。 600年中ごろの壬申の乱(中大兄皇子が蘇我氏を討つ)から 中央の大和の力が強く及ぶようになると 次第に古墳文化から仏教文化が広まり、 奈良時代始まりの700年ごろには律令の制度が整い、この地は上野国となる。 しかし、平安時代になると、律令制度はみだれ、土地の私有化がはじまる。 思うこと 武蔵のさきたま族は太田の大王に従わず大和の大王に従ったのはなぜであろうか。 当初は従ったが、やがて大和に従ったのであろうか。 いずれにしても太田族と、さきたま族は仲が悪かった。 国衙が、群馬にはあり、さきたまに無いのは、やはり群馬族が圧倒的に強く さきたま族は弱小であったのだろう。 あるいは、さきたまコミューンであったのか。 06年3月6日 さいたま市見沼区 宝積寺 板碑(板石塔婆)を見学に行った。 南北朝時代の初頭、貞和3年(1347年) ある僧が母の為に造立した。 非母三十三ケ年青石一基奉書写一乗とある。 説明書によると 板碑(板石塔婆)を当時「青石」と呼称していた貴重な資料である。 思うこと 南北朝の騒乱がすでに常態化しておる中、僧はどんな事でこの青石を立てたのか。 造立者が僧故、末法の考えも影響したのだろう。 06年3月7日 群馬県高崎市 県立群馬歴史博物館(06年03月03日訪問) 南北朝の始まる1,333年(元弘3年) 新田義貞は生品神社で挙兵し鎌倉幕府を倒す。 東毛(現在の太田市周辺)では新田氏が活躍し、後醍醐・建武新政府で武者どころの 頭人に任ぜられて絶好調の時であったろう。 1,338年(暦王3年) 新田義貞は越前の国藤島の戦いで死す。 同時に足利尊氏が征夷大将軍となる。 思うこと 東毛では、この時代2人の歴史に残る武将を出した。 新田義貞と足利尊氏である。 新田氏は現在の群馬県東部の太田市、足利は現在の栃木県の西部の足利市。 太田市と足利市は真に近い距離にある。 南朝の新田、北朝の足利。 結局、足利は室町時代180年の武家政権を築いた。 戦前は足利は一方的に悪者扱いであった。 何故かは誰でも知っているので、ここでは触れない。思い出したくない問題だ。 やはり、群馬の人は、今でも当然に南朝・新田びいきなのだろうか。 もっとも、もう風化した話だが。 06年3月8日 群馬県太田市 東毛市町村組合立東毛歴史資料館 新田義貞は1,301年に、新田荘に生まれた。 足利尊氏とは親戚である。おまけに隣町同士である。 新田義貞は1,333年32歳のとき150騎で鎌倉を目指して ほぼ真っ直ぐ南下して鎌倉を目指した。 当時鎌倉の北条は内紛にあけくれ、おまけに蒙古との戦いで疲弊し そこへ後醍醐・楠木が西国で旗を上げた。 まさに弱り目に祟り目の鎌倉政権であった。 取り敢えず、鎌倉武士団は西国の後醍醐・楠木一派を鎮めるために 鎌倉を留守にしていた。 思うこと そこへ誰の入れ知恵かチャンスとばかり 新田義貞は殴りこみを掛けたのである。 いざ鎌倉! 150騎であったかどうか? 1騎5人として、約500人か。500人で幕府を潰せるかな?それは次回。 そして、ともかく手薄の鎌倉幕府は滅亡したと言う。 続きは次回・・・ 06年3月9日 群馬県太田市 東毛市町村組合立東毛歴史資料館(3月8日訪問) 簡明に言うと 新田義貞が鎌倉の本社を攻め、足利尊氏が支店の京都六波羅探題を攻めて 鎌倉幕府は消滅した。覚え易い1,333年であった。 思うこと 新田義貞の侵攻であるが 150騎で立ち上がったとしよう。 しかし鎌倉幕府成立に力を貸した各地の武士たちは北条により、次々と潰された。 これに恨みを持った武士立ちは新田義貞に付き従い ついに鎌倉では5千の軍になったという。北条鎌倉軍は3千であったと言う。 但し太平記では数万人や数十万人となっているが、まーいいでしょう。 頼朝の挙兵と酷似しているが。歴史は繰り返される。 ただ 足利尊氏は当初、北条氏とは親戚でもある鎌倉幕府から後醍醐の討幕軍を 鎮めて欲しいと期待されて立ち上がったが、逆に六波羅探題をせめ潰した。 06年3月10日 群馬県太田市 東毛市町村組合立東毛歴史資料館(3月8日訪問) 話は長くなるので結論を急ごう。 吉野の後醍醐(南朝)に味方する新田義貞、吉野の後醍醐に敵対する足利尊氏。 いわゆる、南北朝時代が60年続いた。(新田義貞は直ぐ戦死するが) このあたりのことは、皇国史観と共に戦前に教育を受けた人が詳しい。 その結果 足利尊氏は南朝側の楠木・北畠・新田を倒し京都に180年続く室町幕府を開く。 太平記で有名であるので省く。 (太平記の原文を某大学の先生の講義を面白楽しく現在某所で受講中です。 受講料7千円ですが、十分価値あり) 思うこと @当時は源などの「血筋」がもの言う時代であった。 A北条に冷遇された、鎌倉幕府成立に協力した関東武士団の怒り。 B元はと言えばみな親戚であり、親戚同士の争いであった。 C結局は「名目上の権威の力争い」 (系図を信頼すれば頼朝・尊氏・新田は皆親戚。但し北条は平氏であるが) (足利が優遇されて新田が冷遇されたのは新田の先祖の義重にあるらしいが) (数えてみたら義貞の7代前が義重だから現代人としてはワラッテしまう) (ちなみに、義重はあの八幡太郎義家の孫である。義家は清和源氏の嫡流) D南北朝の後は「実際の力のある者の争い」である下克上の戦国時代となる。 閑話休題 それにしても、新田義貞の新田は新田開墾の「しんでん」であるとは知らなかった。 新田義貞の人気の元は 平将門や源頼朝を或いは源義仲を思い起こさせるものがあり、人を引き付ける。 ついでに 太平記は南朝側からみた読み物であり、かなり嘘が含まれているのはご存知の 通りであるが(楠木正成のこと等)太平記の良いところは その「文章の調子のよさ」だろう。 文学として評価すべきだろう。特に平家物語に比べて。 それと 戦前の皇国史観による足利尊氏への人気のなさもあるが それは別として 足利尊氏の裏切りの多さと、新田義貞の「一途さ」の乖離が大きいからだろう。 それと 時代はすでに天皇親政などあり得ないのに、時代遅れの新田義貞への哀愁だろうか。 これは義経や新撰組の近藤勇に、ぴったりである。 日本人とは「そういう心の構造」であると今更ながら思う。 06年3月11日 その後の新田 戦国時代・室町時代にはすっかり衰えて この地は上杉・武田・後北条の草刈場となった。 但し今も 新田義貞の故地である世良田の地名は現存している。 信号のある交差点にも世良田と書いてあった。 思うこと いつか、栃木県足利市の資料館で尊氏をみてみたい。 ところが 実は足利市に尊氏についての資料館は存在しない。 また全国的に尊氏についての資料があまりにも少ない。 このことについては このサイトの「歴史の裏表」で述べた。 06年3月13日 埼玉県川口市元郷 平柳蔵人館 平柳蔵人は岩付城主太田資正の家臣で、元郷地区を領有。 1,564年(永禄7年)というから織田信長が30歳の時。 岩付城主太田資正と下総の里見義弘(源氏の一統)が連合して北条氏康と 戦った「鴻之台の戦い」に参加して討ち死にした。 思うこと 行って見ると東京北区から近い工場地帯の中の公民館であった。 直ぐ隣が元郷小学校で生徒の帰宅の時間であった。 南側200mにエルザタワーと言う50階60階建ての全国一の高層マンション。 ここに今から500年前に戦国時代の館があったとは、とても思えない。 当時、ここは見渡す限りの平地で、葦が茫々と生い茂り、ところどころに 貧しい農民達が散在しており、その一角に濠を穿った土豪の館が あったのであろう。 いつの頃からであろうか岩付太田氏の傘下に加わり、日々、周囲の土豪達と 摩擦を繰り返す日々であったのであろう。 06年3月15日 さいたま市大宮区高鼻 武蔵一ノ宮氷川神社 境内 神楽を見る。 神楽は神座(かむくら かんざ)とも言われている。 太古の時代、山の神・川の神・海の神、八百万の神を奉った。 その神が天から降りてくる場所を神座と言ったのだろう。 その場所とは単に何にも無い土地の一角であったり、大木であったり、池であったり また、大きな岩であったり、「何でもあり」であったのだろう。 後世その場所に建物を建てた、それが明神さまであり権現さまである。 思うこと 明治維新の大官である元下級武士達の新政府は、自らの行為に威厳を持たせるために 天皇を利用し尽くした。公家の三条や岩倉は好機到来と大歓迎で乗りまくったであろう。 やがて明神様と天皇を結びつける都合もあり、明神さまを ついでに神社と名称を統一し、これが大成功した。 その証拠に 我々は、神社という言葉が江戸時代には使われていなかった、ということを知らない。 話を戻すと 神座に神様をお迎えするのに、その場で踊って神様を喜ばせようしたのだろう。 そのうち、神が踊り手に乗り移ってしまうのである。 思うこと これはシャーマンだろう。多分朝鮮半島からの移入に違いない。 田楽、能、狂言、歌舞伎との関係は後でゆっくりと考えてみる。 06年3月16日 埼玉県北本市石戸宿 石戸城跡 西は荒川、東は断崖と沼、北は低地になった要害であった。 城址には農家らしき数件があった。 沼地は市の自然観察公園であった。 扇谷上杉氏の家臣藤田八右衛門が築いたとも言うし、太田道灌築城説もある 諸説あるが、ここは川越城、松山城、或いは岩付城との関係で重要地点であったのだろう。 縄張りは戦国時代の城址の典型である。 江戸時代、現在の埼玉県には川越城、岩付城、鳩ヶ谷城、石戸城が存在した。 江戸時代の石戸城は戦国のそれではなく、付近の平坦な地にあったはずである。 本日それを確認はしなかった。 一説によると 大永5年(1525)に ここは岩付城の付城として機能していたが 岩付城主太田資頼は家臣の渋江三郎が後北条の北条氏綱 に内通し、岩付城を攻めらたことにより身の危険を感じ石戸城へ逃れたという。 永禄6年(1,536年) 松山城攻略の時の後詰として使用していたが、上杉謙信がこの城に入城したという。 おそらく、その当時は対松山城攻略については、謙信とは共同戦線を張っていたのだろう。 永禄5年(1562) 北条氏邦は北条氏政の命で石戸城の上杉方を鉢形城勢を引き連れて攻めたという。 時の城主毛利丹後の守との間で激しく攻防戦を演じた。 たが、城を守る毛利丹後守も必死の防戦し城は容易に落ちない。 上杉謙信が石戸城の援軍に来るという噂を聞いた氏邦は夜陰に紛れ石戸城を囲む低湿地に 一夜にして土橋を築きそこから一気に攻め落城させたという。 この土橋を現在「一夜堤」と呼んでいる。 この「一夜堤」は 東側の台地と石戸城川を結ぶ土橋は長さ45m幅5mという。 思うこと さっそく「一夜堤」を訪れてみた。 現在では45mではなく25mほどで幅も1mほどであった。 444年前のことであり、徐々に小さくなったのであろうか。 いずれにしても 雰囲気は十分に味わえた。 06年3月21日 埼玉県加須市南大桑 門井館跡 まっ平らの地である。濠が南側と西側にある。幅2mほどであろうか。 水がしっかりと満ちていた。また西側では二重濠になっているのが窺えた。 蛇足だが 濠は水があり、壕は水が無い。堀は単に穴を掘る。 天正10年(1582年)信長死去の年。 古河公方足利義氏が家臣の石川信濃守に対して 北川辺の本領と代官地南大桑郷を安堵したと言う。 しかし 天正11年(1583年)古河公方は滅亡した。 思うこと この屋敷からは鎌倉時代の板碑が出たとされることから、その時代から なんらかの謂れのある場所であったのだろう。 また、ここは古河から近い距離にあり、古河公方の勢力範囲であったのだろう。 いや古河公方が翌年滅亡したことを考えると 門井館はまさに八方に対して顔を立てなければならない厳しい情勢下にあったのだろう。 余談だが 現代にまでそのDNAが引き継がれていると見えて、この地の人々は誰にでも温厚で 決して軋轢を好まない良い人々である(?)と思う。 06年3月23日 さいたま市見沼区丸ケ崎 丸ヶ崎館 岩付城の太田氏の家臣で金子氏の館あとであると言われている。また大久保氏とも。 金子氏であるとすれば、武蔵七党丹党金子氏の末裔の可能性もあるとも考えられる。 南北朝の後、1,400年半ばごろからの遺跡であろうか。 岩付城が太田氏から後北条氏になったのが1,570年 後北条氏が滅亡したのが1,590年だから この館は1,590年までは存在したのだろうか。 思うこと 付近を探した。屋敷内に「祠のある小山」のある邸宅があったので聞いてみると 館跡の話は聞いた事がないと言われたので、長屋門のある家を聞いたらすぐ近くとの事。 「金子さんのうちだね」と言われたので驚いた。 ところで 「鳥居のある高い小山」は直ぐ近所を流れる見沼代用水東縁を開削した当時の余った残土 をその場所に積み上げたという事であった。 だとすれば、その小山は享保12年1,727年である。なぜ残土に祠を置いたのかと 面白くなった。いや稲作地が増えた喜びを表したものであろうか。 教えて戴いた場所へ行ってみると 確かに長屋門があった。門の屋根の一番上の瓦が3重になっており、みた事がない 透かしになっていた。幕末から明治の建築物だろうか。 壕はみつからなかった。土塁らしきものは、ほんの少しあった。やはり祠が置いてある。 付近にはホンの少し高台になった所が変則4つ辻になっていて交通が多い。 たぶんそこを中心にこの館は存在したのだろうと思った。 もっとも最初は 金子十郎家忠の関係の館だろうかとも思った。 近くの工事現場の交通整理のお年寄りが岩付城の関係ですかと言われたので いやそうではなく、金子十郎家忠でしょうと言ってしまった。 金子十郎家忠が活躍したのは平安時代の終わりで、室町の中ごろには消滅したはずだ。 余談だが 近所に観音堂があり、享保、寛延、明和、天明などの年代のある石造物があった。 享保は1,700年の初めごろ 寛延は1,700年の中ごろ 明和は1,700年の中ごろから終わりに近く、アメリカの独立のあたり。 天明は1,700年の終わりでフランス革命のあたり。 このあたりの石造物では比較的古いと思う。 ここからあとの文章は遊びである この観音堂には庚申の日に皆が集まって終夜寝ずに居る場所だったのだろう。 60日に一回三尸(さんし)という虫が体内から這い出し天帝に告げ口をする。 告げ口をされると命が縮むので、虫が這い出さないように一晩中起きている 馬鹿な迷信を江戸時代の人はやっていたという。道教と仏教の合作だ。 娯楽としてやっていたのだろう? 本気でやっていたのかいな?と思う。 06年3月24日 埼玉県児玉町(現本庄市) 雉岡城跡@ 戦国動乱期に築かれたのだろう。ざっと上代には児玉党が初めて築き、やがて 山内上杉から後北条に成りその後、徳川になる。お決まりのパターンだ。 しかし江戸の初期には廃城になったのだろう。 城址の入り口の説明版によると、山内上杉はここが手狭のため上野の平井に移り、 ここは有田定基に守らせたと書いてあった。 思うこと 戦国時代の山城である。西と北が低く遠方が見渡せる。 またその方向に壕や濠が残されている。南側は現在学校があり子供達の歓声が 聞こえた。本丸は極端に高地となっていた。 もし自分が戦国時代に生きていたら、やはりこの様な縄張りでなければ安心出来ない だろうと思う。南側・東側がやや不安だが。 06年3月25日(訪問は3月24日) 埼玉県児玉町(現本庄市)雉岡城跡A 有田定基は播磨の豪族赤松氏の一族で、上野の藤岡城主であったが、雉岡城主となり 夏目と改めその子の定盛の2代が続いた。 定盛の時代に後北条の侵攻に備えるため相模の長尾に長尾城を築いて移ったという。 その後 後北条の武蔵進出に怯えた関東管領上杉憲政は越後の上杉影虎(信玄)を頼って 逃げ、雉岡城は後北条のものになった。 06年3月26日(訪問は24日) 埼玉県児玉町(現本庄市) 市立塙保己一記念館 保己一は1,700年の半ばに児玉町に生まれ1,820年ごろ他界している 保己一は群書類従を実施したという。 類従とは辞書によると「同じ種類に集めること」とあるが 当館の館長さんによると「整理整頓したんですよ」と説明された。この方が解り易い。 ところで 保己一は幕府のお雇いとして類従したが水戸藩にも仕えたという。 そこで館長さんに 「水戸藩は尊王ですが、幕府とは意見が異なりますがどうだったんでしょうか」 と聞いてみた。 気の毒に思い、私は「保己一はそういう事とは関係なく実施したのですかね」 と申し上げたら「そういう事です」と言われた。 いや正確には、そのような事を申し上げたら、その様にお答えになった。 終わり。 ところで、私は保己一の自画像が大変気にいったのでパンフレットの画像を切り抜いて 自室の壁に貼った。 盲目にも関わらず、あれだけの仕事をした人物にしては画像の姿が謙虚過ぎるので。 不自由な体を持っておられる人は、ややもすると謙虚さとは つい反対に、ならざるを得ないものなのではないかと思う。大きな仕事をすれば尚。 保己一の「人」に学ばねばならない。訪問してよかったと思った。 06年3月31日(訪問は3月24日) 埼玉県児玉町(現本庄市)雉岡城跡B 1,564年(永禄7年) 北条氏康は四男の氏那を天神山城(現在の埼玉県長瀞町)の藤田氏に送り込み 養子とさせ、藤田氏の家督を継がせた。 1,568年(永禄11年) 氏那は鉢形城に移った。雉岡城も鉢形城の支城であった。 当時 児玉郡周辺は関東管領上杉氏の没落後は、北条氏康・上杉謙信・武田信玄の 三者による争奪の舞台でもあった。 思うこと 北武蔵は、まさに関東甲信越の当代の役者が揃っていたわけである。 06年04月1日 さいたま市見沼区 地蔵院 六地蔵の中間の位置に60cmほどの石仏が鎮座する。右手に杓、左手に玉をもつ。 1,646年 来世の安楽を願ったとある。 当時ここ砂村では地蔵信仰が盛んであった証拠であろう。 説明版によると 石仏の顔は中世の面影があるという。 そういえば、上代(古代)や近世に比べ、やや厳しい表情でもある。 思うこと 中世は、まさにルネッサンスであった。 いや、生死と背中合わせの日々であった。 その分、人々は太く短く行き抜いたのである。 例えば経済、芸能も勃興したし、女性の地位も今と変わらず高かった。 「功名が辻」というTV番組があるようだが、千代さんが出てきて当然であった。 などと思いを馳せて地蔵院を後にした。 06年4月2日(訪問は3月24日) 埼玉県児玉町(現本庄市)雉岡城跡C 1,582年(天正10年)というから織田信長が本能寺で死ぬ年である。 ここ児玉地方は武田信玄・上杉謙信の死去により後北条が勢力を伸ばした。 神流川合戦以降は完全に北条氏那の支配となった。横地左近忠晴を雉岡城の城代とした。 鉢形城主・北条氏那は北武蔵と上野の西部を担当したが 雉岡城は北武蔵の重要拠点であったのだろう。 1,590年(天正18年) 秀吉が小田原の後北条を攻めると豊臣傘下の前田利家や上杉景勝により 雉岡城も攻め落とされた。 思うこと 所詮、武蔵地方は群雄割拠の地で各方面の著名武将の草刈場であったが、超メジャーの 秀吉の敵ではなかった。というより、信玄や謙信が他界してしまい、そのことが秀吉に 偶然にもさらに幸運をもたらしていた。 よのなか、時の勢い・時勢とは、そういうものである。全てが好転する。 但し、暗転とは紙一重で裏腹でもある。 ちなみに 上杉景勝は謙信の養子であるが秀吉の大老になり会津120万石となった。 徳川時代には米沢30万石ほどに移されてしまった。 その後、嗣子がなく十五万に減封され幕末に至ったという。 後年あの上杉鷹山が出る。 06年04月04日 埼玉県蕨市 蕨城跡 平城である。ほんの僅か濠らしきものが残っている。土塁は不明であった。 足利氏の一門であった渋川氏の館があったという。 蕨城は実は他の場所(戸田市元蕨)にあったという説もアル。 城址の案内板によると ○南北朝時代に渋川氏がここに居を構えた。 ○1,524年(大永4年)北条氏綱により滅ぼされた。 べつの資料によると ○扇谷上杉により落城した。 ○その後、後北条の援護で城を奪還した。 ○但し渋川義基は国府台の合戦で討ち死にしたので廃城。 ともいわれる。 思うこと 渋川氏は現在の群馬県渋川市との関係はあるのだろうか。 国府台合戦の場所は、千葉県の現在の市川市にある。 諸説あり複雑だが、後北条対千葉氏の戦いのようである。 とすれば 後北条に恩義のある渋川氏は国府台合戦に出陣し討ち死にしたのは 説明がつく。 主を失った渋川氏の家臣たちは、ここ蕨で帰農したことだろう。 06年4月5日(清明) 足利市、佐野市、太田市、尾島町は綺羅星である 上記の市や町は、ほんの隣接地帯である。 関東の人々,いや武蔵地域(東京、埼玉)の住人には見当がつく地である。 しかし 足利市と佐野市は栃木県で、太田市と尾島町は群馬県である。 尾島町はつい最近太田市と合併した。 以下古い順から 太田市は、古墳時代の東国の中心地。 尾島町は、鎌倉を倒した新田義貞の出身地 足利市は、室町幕府の足利尊氏 佐野市は、足尾鉱毒事件・田中正三の地 何が言いたいかと言うと 「偉人達は皆近場から出る」しかも「時を同じゅうして」 他の例では例えば 信長、秀吉、家康が典型的だ。 さらに近代では 大久保一蔵(利通)、西郷吉之助(隆盛南州)、大山巌、東郷平八郎 (これは、薩長時代の政権だから当然だか) ついでに言わせて貰えれば長州の吉田松陰、高杉晋作、木戸孝允(桂小五郎) ついでに故郷埼玉では(余談) 渋沢栄一、荻野吟子(本邦最初の女医)、時代は昇るが塙保己一 最近では 英雄不在。 石川啄木、宮沢賢治はどうだろ。 06年4月06日 埼玉県立歴史と民族の博物館 今月4月1日に改築openした。 入場時、年間通しの観覧券1,500円を購入した。 建物の名称に「民族」の部分が加わった。 楽しみに見学に訪れた。がっかりした。 何ががっかりか。 ○民族についての説明がお粗末。 ○埼玉の特長である中世の部分、武蔵武士の部分が物足りない。 ○太平洋戦争について、その事実説明を減少させた。 (律令時代から封建時代への変遷説明に較べると江戸から明治 戦前から戦後への説明が極端に省かれている) 若い女性グループが太平洋戦争のたった1枚のパネルの前で 祖父母から聞いた話をし合っていたのが印象的であった。 他の館もそうであるが「県立お前もか」と思いつ帰宅した。 来館者に「なぜ歴史がそうなったのか」と考えさせるものが欲しかった。 06年4月7日 埼玉県新座市 市立新座歴史民族資料館
ここ新座は新羅から移住者が多くいたのだろうか。新羅が新座(にいくら)になった。
1,280年(弘安3年) この翌年には2度目の蒙古襲来があった。弘安の役である。
このころ、北条執権は鎌倉幕府成立に精励した武将達を皆殺害し終わっていただろう。
この地の(当館の住所地名は片山)
片山万歳丸はこの年に武蔵野国片山郷内別所及び丹波の国和智庄地頭職の相伝を
幕府から安堵されたという。
1,333年(元弘3年) 新田義貞が鎌倉を攻め落とし、
足利尊氏が六波羅探題を攻め落とした年である。
片山十郎入道祐珪父子は、近江番場で六波羅探題北条仲時など400人と共に自害した。
思うこと
片山氏は丹波の国和智庄地頭職も安堵されていることから
鎌倉武士は全国に派遣(県立博物館にも記載)されていた証拠でもある
片山十郎入道祐珪父子は北条執権側であったのである
新田の鎌倉攻めの途中の街道であったが、これに加わらなかったのである。
もし加わっていれば南朝側であった。後年のことを考えれば、やはり滅亡していただろう。
生き残れるとすれば足利側に付く事であったろう。
歴史に「もし」はないが。
またこの地は
1,653年の玉川上水の完成と1,655年の野火止用水開削工事完成を忘れてはならない。。
そして
平林寺が岩槻に1,375年太田道真により創建され、そのご1,663年に野火止に移された
ことも忘れてはならない。
歴史民族資料館の資料によると
平林寺には玉川上水から別ルートでここへ水を引いたようである。
最後に
歴史民族資料館に、この4月から着任された館長さん(加知さん)に平林寺のことに付き
詳細に興味深いお話を賜り有難く思いながら、この地を後にしました。
ありがとう御座いました。これからのご活躍を期待します。
06年4月9日
埼玉県寄居町 鉢形城址・玉淀河原
本日は戦国時代の合戦の再現を、観戦武官あるいは観戦記者のつもりで参加した。
1,590年(天正18年)小田原城が落城し秀吉の天下統一の年である。
ここ鉢形城周辺では
守り手、北条氏那軍3千五百
攻め手、豊臣連合軍・総大将前田利家を初め上杉景勝や本多忠勝ら4万数千
守り手は玉淀河原の城側に陣取り
攻め手は玉淀河原の反対側に陣取る。
飛び道具は火縄銃に山門が敵味方で約六門か。
互いに激しく打ち合い荒川に激しく水煙を上げ続ける。
その内
北条側が渡河し連合軍と集団白兵戦をする。双方それぞれ十数名。
鎧兜の武者姿も凛凛しく、刀槍を必死に振り回して斃れるものあり、勝鬨を上げるものあり。
(実に迫真の演技で感動!)
やがて
連合軍側が北条側に渡河して集団白兵戦をする。
これを、火縄銃・轟音を発する山門の火煙・水煙の中、河の敵側味方側で繰り返す。
2時から1時間後の3時には決着するが
北条氏那はこれ以上、城方の無残な死兵を出すのを不憫に思い
僧の仲介により北条氏那と前田利家が和睦をする。
双方数千の死者が出たという。
後日、某先輩に伺ったところ、和睦を秀吉が嫌い、北条側を全員死罪にしたという。
(やや、秀吉らしくないなと思うが)
また
寄居の当時の住民は北条に味方して、鋤鍬で連合軍を悩ませたという。
これを連合軍側は天晴れと賞賛したと、この合戦の実況アナウンサーは叫ぶ。
以上が記者報告です。
以下は余談
連合軍側の陣容は驚く無かれ様々であったの開陳する。
話は飛ぶが
幕末、高杉晋作の本邦初の騎兵隊など諸隊を連ねたという。
諸隊とは力士隊や、(忘れたが)例えば農民隊、商人隊、大工隊など。
ここ玉淀河原の諸隊は
もちろんパレードの一環ではあるが、本格的な小田原や支城の武者の他に
金融隊(寄居町の行員)、廃棄物循環会社隊(当地の企業)、郵便局隊
女隊、幼稚園隊、ちびっこ隊、さらに国際隊として西欧人やら東南アジア人なども。
思い出したが交通安全隊(ご当地警察)や山之内一豊・千代隊もあったらしい。
まだ他に多種の隊がそれぞれの武者姿で河原に陣取った。
話は長くなるのでおしまい。今年で45回目の開催。
06年4月10日
埼玉県鷲宮町 鷲宮神社神楽殿 鷲宮神社の「土師一流催馬楽神楽」を見学。 鷲宮とは「土師の宮」(はじのみや)の転訛。土師が住んでいたのだろう。 「土師」は埴輪の製作や陵墓の造営をした人。 「一流」とは他の神楽より「ここの神楽が一番素晴らしいよ」という意味。 催馬楽とは平安時代の「謡曲」 「謡曲」は詞章(語りものの文句)を謡う。 「高砂や〜」って、あれそうだろうと思う。 神楽は「神に奏するための歌舞」 つまり「催馬楽神楽」とは「謡い」の入っている神楽だろう。
鎌倉時代の武将が崇敬したと言う。
頼朝の手植えの「もつく」という枯れて朽ちかけた木が境内にあり。
鎌倉幕府ゆかりの有力社は、鶴岡八幡、伊豆山、三島に加え鷲宮だと言う。
ここの神楽は里神楽の中でも演劇性はなく舞踏性が強い。
鎌倉時代から始まったが、江戸中期に演目を36から12にした。
戦後途絶えたが再興され今日に至る。
思うこと
境内の立地を見て周ったが、上代の要塞の跡かも知れないと思った。
なぜなら
○人工的にやや高台である。
○周りに壕が残っている
○武略の要衝の地。
話は変わるが
私が神楽を一番好きだと思うのは
いろいろな場所で種々の神楽を見たが
拍子太鼓の素朴な(失礼ながら貧乏くさい)音とリズムが最も好きである。
2番目に好きなのは妙に同調する大太鼓小太鼓である。
そして、それらとは全く異質な笛。
見ていると
舞踊はテンポが厳かで(保存会は「清らか」と言われる)あるのに
(但し猿田彦の舞踏は激しかった)
笛を始め鳴り物が非常に激しくまた穏やかになり、これを繰り返す。
舞踏者の心の動きを表現しており、見事と言うより他にない。
また当然ではあるが
鎌倉政権の成立を考えれば、武蔵地方の協力あっての事であった。
鷲宮を大事にしたのは言うまでもないだろう。
鎌倉政権が、なぜこの場所を選んだかは
武蔵、毛の国、常陸、総の国などの境界となる重要地点であることは言うまでもない。
土師はさきたま古墳造営に関わった人々の末裔がここへ流れたのだろう。
古墳時代には造営の専門集団が存在した。
06年4月13日
埼玉県加須市 油井ケ島城跡
訪れた。
やや盛り土をしたかなと思える位の平城である。
辺りを見回したが、一面田んぼで何のこともない。壕を見つけた。
もとは8,000坪もあったという。
油井ケ島城のことを鐘撞山(かねつきやま)とか鐘撞山城ともいう。
「新編武蔵風土記稿」(文政のころ・1,820年ごろ書かれた)によると
「相伝ふ猪俣小平太則綱が築蹟と云い、鐘つき山と呼ぶ、今は山もなく、陸田となりて
城跡のさまは見えず」とある。
1,563年(永禄6年)
越後の上杉謙信は(東松山市に隣接する)松山城を攻めるため、急いだ。
謙信到着の前に松山城陥落。
行き場を失った謙信、騎西城を攻撃し、その支城である付近の油井ケ島城をも狙った。
不意を突かれた油井ケ島城の武士たちは鐘を撞ち鳴らして騎西城に告げたという。
しかし騎西城そのものが陥落の危機。
やがて甲冑・兵器を土中に埋めてて、逃れたいう。
後年ここから、矢の根、鉄砲の玉、大身槍、陣鍋が掘り出されたという。
思うこと。
謙信は元は長尾氏で、山内上杉氏の家督を継いだはずである。
謙信の全ての戦いは
領土を求めるのが目的ではなかったと言われている。
また、京の都を目指したのでもない。
謙信は僧としての画像が残っている。
私は、謙信という人が良くわからない。勉強したいと思う。
06年4月14日
上杉氏について@
藤原氏の流れで、鎌倉時代の中頃までは京の中級の公家であった。
現在の京都府に綾部市がある。かつての丹波の国である。
ここの上杉庄を領有していたので、上杉と称したのだろう。
鎌倉時代に宗尊親王に従い鎌倉に下向した。
そして足利氏と姻戚関係を結んだ。
余談だが
足利氏は鎌倉幕府に協力的であったが、新田氏は非協力的であったことが
後々まで尾をひいたのである。
そこに新田義貞の悲劇の理由がすでにあった。
話を元に戻すと
足利尊氏・直義兄弟の父は源氏の筋であるが、母は上杉氏である。
母方を正確に言うと、宗尊親王に従った重房の孫の妹に当たる。
足利尊氏にしてみれば、上杉氏は、実母の実家なのであり
なにかと好意的に権力を委譲したのは無理ないことだろう。
話は長くなるので、ここから簡略すると
上杉氏には、犬縣氏系・宅間氏系・山内氏系・扇谷氏系があった。
深谷上杉や越後上杉(謙信とは別)もあったらしいが詳細は不明。
犬縣氏系・宅間氏系は種々のことで滅亡したようである。
山内上杉氏は関東管領に抜擢され、扇谷上杉氏も武蔵で覇権を競う有力者となった。
なお、扇谷上杉の扇谷(おうぎがやつ)は鎌倉にある地名である。
ちなみに、山内(やまのうち)上杉の山内の謂れは私には不明である。
いづれにしても
武蔵で活躍したのは山内上杉と扇谷上杉の両陣営である。
06年4月15日
上杉氏の余談として鎌倉公方の話A
京の室町幕府は、鎌倉に出先機関を作ったが、これが鎌倉公方である。
鎌倉公方は関東十カ国(後十二ヶ国)を統括した。
鎌倉公方はあくまで後の歴史的用語である。
当時、鎌倉御所、鎌倉殿と呼称されていた。
室町幕府は征夷大将軍でもあったから(夷とはこの場合、富士川以東だろうか)
本来は、鎌倉殿は征夷大将軍の代理にすぎない。本来はというところが味噌だが。
鎌倉公方は、そもそも
1349年に足利尊氏と弟の直義が対立した(観応の擾乱に発展して上杉の一枝消滅)
際に鎌倉に下向した足利基氏を初代とするといわれている。
(1,349年は後醍醐の政治が終了して、すでに10年後の南北朝の時代である)
足利基氏はその補佐役として「関東管領」をおいた。
関東管領には代々足利尊氏直義兄弟の実母の実家の一枝の山内上杉氏がその職に就いた。
足利義満は関東管領よりも山内上杉を信用してしていたらしい。
06年4月16日
その後の上杉氏B
山内上杉、扇谷上杉は共に1,545年・天文14年、かの有名な「川越夜戦」で
新興の後北条の奇襲により歴史的大敗を喫する。
これを契機に上杉氏が滅亡したと云える。そして後北条の時代の幕開けであった。
思うこと
鉄砲伝来が1,543年と云われている。もう少し早く鉄砲があれば
あの状況の川越夜戦は上杉が間違いなく勝っていただろうと私は思う。
(火器があれば多勢の寄せては早期に間違いなく勝つ。篭城は援軍を待つ戦法)
但し歴史に「もし」は無い。(冗談だが過去へ旅行し過去を書き換えようとする映画があった)
扇谷上杉はこのあと直ぐ滅亡し
山内上杉の本拠は上野であったが、徐々に後北条に圧迫され、ついに越後に逃げ延びた。
越後の守護代の長尾氏に頼った上杉憲正は
1,561年
長尾影虎に名誉ある山内上杉の名跡と関東管領の地位を譲ることになる。
長尾影虎は上杉謙信を名乗ったのである。
そのご謙信は越後を拠点に領土を関東・北陸に拡大した(真に領土拡大が目的であったか?)
しかし、謙信亡き後、次の世代が家督争いの混乱で関東を喪失した。
思うこと
川越夜戦のことだが
篭城側は後北条、寄せ手は古河公方・山内上杉・扇谷上杉の大連合軍。
ちょとした連合軍側の油断がこういう結果になろうとは。
世の中は、そういうものなのであると、つくづく思う。
しかし
1,590年(天正18年)鉢形城の攻防で後北条は滅亡するのである。
そして
桃山時代から関が原を経由し、400年間の争いに
「うんざり」した人々は安定した江戸時代へ。
さらに
明治維新からは、ロシア防衛と、外国への侵略でジェノサイド時代となる。
真の平和は1,945年(昭和20年)までかかろうとは。
この先は
わからん!(歴史を繰り返すか、宇宙戦争か)
06年4月17日
続その後の上杉氏C
上杉景勝は鉢形城を陥落させた当時はすでに、秀吉の5大老の一人であり
越後を再統一、さらに佐渡も平定し、出羽庄内を合わせて91万石であったという。
しかも金山を抱えているため、実際は200万石ともいわれた。
ここまで経済力が大きくなると秀吉も怖くなったのだろう。
あるいは秀吉は、金山を直接支配したかったのだろう。
その後何かの因縁をつけて、会津に移封させたが、それでも120万石はあった。
やがて「関が原」で反徳川に回ったのが、悪かった。
あとは坂道を転げ落ちるように貧に窮した。
米沢藩30万石のあと、跡継ぎ急死でお家断絶かと思われたが、15万石で残った。
江戸も末期に近い1,800年頃 借金まみれの苦しい台所の米沢藩の窮地を救ったのが 我らがヒーロー上杉鷹山である。
なんとか上杉氏は幕末まで生き残り、明治新政府に華族に列せられ
めでたく爵位を授かった。
思うこと
藤原氏の流れを汲む名家であった上杉氏は謙信に全てを預けた時点で消滅したが
名誉を重んじる結果、名前だけは残ったのである。現在の16代目当主の
上杉那憲氏は宇宙工学者である。
話はそれるが
武士の世界に「名こそ惜しけれ」という言葉があるが、名前だけ残したいという意味ではない。
例えば
現代で云えば、東大を卒業して高級官僚や大会社の超エライサンになった人が
悪さをしてニュースになる話はいくらでもあるが、「国を引っ張っていく重要な」立場の者は
「名こそ惜しけれ」と思う心が喪失してしまっているのであり、実に情けない。
武士の心を取り戻してもらいたいものである。
どうも、加齢でボヤキが出てしまう。
06年4月19日
千葉県佐倉市 国立歴史民族博物館
念願かなって初めて訪れた。
特別展「日本の神々と祭り」−神社とは何か―
神社とは何かを自分なりの答えを出すべく、このコーナーを1時間半見学した。
古墳時代後期
「松江市前田遺跡で水辺の祭祀が行われた」ことから
稲作民の祈りだろうか。海でない水は稲作だろう。
私は山が近い水は稲作と思う。山は水瓶だから。
593年というから飛鳥時代の始まり、聖徳太子(実在の証拠は無い)が活躍し始める頃
厳島神社(伊都岐島神社)−もっとも当時は神社という言葉は無かったと思うが―
が創設されたと云うことから
漁民の祈りだろう。
瀬戸内海は漁業だろう。水軍は後のことだろう。
これらが、祭祀が歴史に現れる最初だそうである。
つまり「神社とは何か」の答えは農漁業に対する祈願や感謝の場であったと思う。
しかし、これは人間の歴史からみれば、ほんの最近のことである。
石器時代は省くとして、縄文時代の、特に狩猟生活での祈りについては
どうであったのかと思う。全く触れられていなかったが。
弥生時代(=稲作が始まった時代ではない)では、西のほうで、おびただしい
銅鐸や矛が故意に埋葬されており。これは祈りであろう。
祈りの場所は今で言う神社である。
神社は本来は建物は存在しなかった。
銅鐸や矛を埋葬した場所そのものが、「特別な場所」つまり「神のいる場所であろう」
と私は考察した(神のいる場所を先ず決めてから種々埋葬したのでは面白くない)
だが、弥生時代の銅鐸や矛は、この時代に続く古墳時代にパタリと造られなくなる。
これをどう説明するのか。当博物館も説明していない。
閑話休題
東国に大きな影響を与えた戦国時代についての展示が
広大な展示面積の博物館(数日かけて見学を要するくらい)にしては少なすぎる。
また、戦中戦後についての展示も、ほんの申し訳程度にあった。
思うこと
日本人だけで180万人以上の死者(内一般国民30万人以上)
近隣諸国等を含めれば、間接も含めて2千万人の犠牲者を出したとも云う。
(スターリン粛清やヒットラーに較べれば少ないかも知れないが)
太平洋戦争を敢えて避けているのが苦々しい。
だれに遠慮しているのであろうかと考えてしまう。
10年前までは、どこの館もそうではなかった。
ただ良かったことは
例えば「神社とは何か」を考える場を与えてくれたことだろう。
見学者個々に「何故そうなんだろう」と考えさせて初めて存在価値があると私は思う。
本日は、娯楽的にワイワイやっている生徒諸君もいたが、真摯にメモをとる
女子生徒達も数多くいた。
若人は、皆何かを感じてくれていたはずだ。それでいいのだと思う。
追伸
多賀城碑があったのには驚いた(レプリカかと思った)。さすが国立である。
06年4月20日
千葉県佐倉市 佐倉城址(訪問は4月19日)
国立歴史民族博物館は実は佐倉城跡である。
但し
江戸時代に新しく縄張りしたもので、戦国時代の城ではない。
戦国時代の城はここから東へ3kmの地点にある本佐倉城である。
私は、残念ながら訪問してこなかったので文字面だけでのウンチクである。
1,455年というから大田道灌が江戸城を築く2年前。
千葉氏内紛により、千葉氏嫡流家は断絶し、従兄弟か再従兄弟の岩橋輔胤が継いだ。
岩橋氏は千葉城を拠点にせず本佐倉城に移した。
1,590年(天正18年)に秀吉により千葉氏(岩橋氏)が滅亡するまで続いた。
では1,455年以前の嫡流の千葉氏の千葉城はどこにあったのか。
実はそれが、はっきりしないようであるが、最近の学説によると
現在の千葉地方裁判所の場所がそうであるらしい。
ここの住所は千葉市中央区中央4-11-27で千葉県庁と川を挟んだ対岸である。
現在でも御殿跡と呼ばれており、明治時代までは土塁もあったそうである。
濠は埋め立てて水田にしたらしい。
千葉氏は桓武平氏といわれ、上総、下総、武蔵まで含め活躍した地方豪族であった。
千葉氏といえば、つい妙見を連想する。将門伝説も連想する。
12世紀には正式に千葉を名乗ったらしい。鎌倉政権樹立時にも名前が出てくる。
思うこと
佐倉市一帯から西にはおびただしい数の戦国時の陣屋や館が存在するようである。
いつか訪問したいと思う。
06年4月21日
埼玉に深い関係の古河公方の正体について
濠を眺める程度であるが古河市の城址には何度か訪問した。
(私事だが、旨い蕎麦屋が目的である)
江戸時代の初代藩主・土井利勝ばかりが強調されているように思える。
もっとも、戦国時代の城と江戸時代の城が同じ場所とは思えない。後日調査予定。
以下本題
足利尊氏の次男である足利基氏は初代の鎌倉公方である。
その公方を補佐するのが関東管領で、初代の人物が上杉憲顕(山内上杉)である。
足利基氏がその職に就いたのが1,360年頃だが、約80年ほどもすると組織はガタがきて
京の室町幕府との関係が悪化した。
1,439年(永享10年)には将軍足利義教が当時の公方であった足利持氏を滅亡させた。
これは室町幕府が公方を嫌い関東管領をヨシミにしたのが原因だろうか。
1,455年(享徳4年)には足利持氏の遺児足利成氏が関東管領の上杉憲忠を忙殺した。
これを不満とする室町幕府軍や山内上杉に味方する関東の諸豪族との間で戦闘となった。
足利成氏(しげうじ)は下総古河に入ったところで、鎌倉が攻め落とされた事を知る。
ここに居座ることになり、これが古河公方の起源である。関東一円で絶大な勢力となる。
それにしても下総古河は現在の茨城県古河市であるが、実に微妙な場所である。
現在の県名で言えば5県(千葉、茨城、栃木、群馬、埼玉)がこの場に隣接する。
足利成氏は、もちろん敢えてこの場を選んだに違いない。
この地が重要であることは、家康が譜代の中でも最も信頼していた一人である土井利勝を、
江戸を守る要の地としての古河城の藩主にしたことでも明らかである。
では、鎌倉の公方は誰がなるかという事になるが
1,458年(長禄2年)室町幕府は足利義教の子である足利政知を代わりとすべく送りつけたが
彼は鎌倉に入ることが出来ない状態であったという。
足利政知は、やむを得ず、伊豆の堀越に入った。これが世に言う堀越公方である。
一戦交えてでもと考えるほどの根性の有る人では無かったようである。
1,482年(文明14年)には古河の足利成氏と室町幕府は和議が成立した。
1,491年に堀越公方である足利政知は、北条早雲(伊勢新九郎)に滅ばされるまで
関東には古河公方を含めて2人の公方が並存した。
ここで北条早雲がデビューしたのが戦国時代の始まり。
歴史学上は1,477年の応仁の乱が終結した年を戦国時代の始まりとされている。
応仁の乱は、1,467年(応仁元年)から1,477年(文明9年)の10年間、跡継ぎ問題での内戦。
とにかく早雲がデビューして
これを契機として関東は100年間の大乱戦時代となり織豊時代を経て江戸時代になるのである。
弱虫の足利政知が時代の変遷のきっかけを作る人物になるとは、たれも創造だに出来なかった。
話は古河公方に戻るが
代々古河公方は世襲されるが、家督争いが衰退の原因ともなるが、
1,546年には足利晴氏が、川越夜戦で北条氏康に歴史的大敗北を喫する。
やがて1,583年には足利晴氏の子足利義氏の死去で公方の時代は全てが終わったと言える。
06年4月27日
古河公方館跡をゆく
古河市の街中よりやや南に古河市総合公園がる。そのなかに目的の館跡があった。
現在の街中にあるのは江戸時代のものである。
館跡は北西南が沼で囲まれた濠である。
後からの造作でなく、元からあったのを利用した自然要害であろうか。
やや高台になっている程度ではあるが、それでもある程度見渡せる戦国時代の
城である。7〜8分ほどもすると館跡を中側からであるが、ぐるりと周れる。
ふと、そこに足利成氏の武者姿が見えた気がした。
1,455年
足利成氏は鎌倉からこの地へ入り、下川辺氏が築城したと言われる古河城を修理して
入城したのが1,457年である。
成氏、政氏、高基、晴氏、義氏5代の128年間であった。
東国の覇者たらんとした成氏の心意気は
今となっては寒々とした場所(戦国時代の城跡は、みなそうだが)である。
遅い花桃が最後の花をつけていた(ここは桃の名所)。
古城址を訪問して自分の目で見るのが一番である。
どんなに博物館へ訪問しても。
江戸時代の城は権威の象徴であり、中世のは戦う為のものである。
よって、おのずから場所も外形も異なるし城主の考えも違う。
城主の考えであるが
中世のは中小企業の実力親父で、江戸時代は大企業の権威主義的
馬鹿殿様であろう。
権威主義の最初が安土城だと言われている。
但し、私は、やや疑問に思っている。移行期であろう。
06年4月29日
埼玉県北本市 加藤氏館跡をゆく
まっ平らな関東平野のど真ん中である。まったく起伏はない。
それらしき場所に車をゆっくり止めた。たまたま農作業の婦人がおられる場所だった。
50歳ほどの婦人で「聞いたこと無いね」と言われる。
「この辺りは皆加藤ですよ。私はここで生まれたのではないがね」と言われる。
車をそこへ置いて、到着した折たまたま表札のあった加藤邸の裏の畑を探索すると
ほとんど埋まった壕を確認した。 多分これは隣の真言宗瑠璃山安養院の裏まで続いて
いたのだろう。安養院を覗いたが今は全く無い。
農作業の婦人に言うと「壕があるんだってね」と、昔聞いた話をやっと思い出された。
加藤氏は「鴻巣七騎」と言われた中世のツワモノである。
「鴻巣七騎」は他に深井氏(確か同市近くにある地名)などであるが、残りは私には解らない。
新編武蔵風土記稿(幕府により文化文政期に編纂)によると、「旧家幸左衛門」と記されて
いるそうである。これが加藤修理亮(しゅりのすけ)宗安であるという。隣の安養院に墓がある。
なお、「鴻巣七騎」は岩槻太田氏に従ったらしい。岩槻から20kmであり、そうであろう。
1,500年ごろのことであろう。あと数年で壕も全く解らなくなるだろう。
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