小さな歴史旅B

このシリーズの記述の出展は
○自分の踏査
○サイトから引用
○公文書
○自分の考察   
以上からです。それにより作成しています。
それらを判別するため、文字の色を変えている場合もあります。

06年5月2日
埼玉県深谷市上増田 増田氏館跡をゆく@
それは、まっ平らな農作地帯にあり、館跡には数軒の人々が住んでおられるようであった。
南側一部には土塁らしきものが見えたが、そうであろうと想像するしかない。
土塁の北側(内側)はやや高地になっていた。
一角には、以下の如くの深谷上杉顕彰会の立て看板があった。
なお、深谷上杉氏は、山内上杉の系統である。
上部の欠損部分は文章の前後関係で読み込むことが出来る。





06年5月3日
埼玉県深谷市上増田 増田氏館跡をゆくA
増田四郎重富は足利成氏が享徳の乱(1,455年)で鎌倉から古河に移ったころには、すでに足利成氏
の側の人物であったようだ。

1,478年というから応仁の乱の終結の翌年
増田四郎重富は扇谷上杉に攻められ、ここから比企の高見村(現在の小川町)へ逃げ
高見山城(四ツ山城)を築いたようである。

また、埼玉県大里郡江南町にも増田氏館跡がある。野原館ともいう。現在文殊寺があるという。
深谷の上増田から逃げた後、1,483年文殊寺を再興し館を構えていたのだろう。
地元の人々の心を得るのも重要であったのだろう。

1,487年(長享元年)には高見原合戦があり高見山城は落城自刃し、文殊寺に墓がある。
増田氏は当然足利成氏(古河公方)側で戦った。

なんとこのときは、扇谷上杉は足利成氏側に付いていた。
では増田氏は誰と戦ったかと云うと関東管領山内上杉氏の上杉顕定であった。

この時代はお互い味方になったり敵になったりする時代であった。
敵側に寝返ると所領は全てなくなったり、死罪になるのではない。

ただ、所領が1/3になるだけの暗黙の了解があったらしい(少なくとも南北朝時代はそうである)
再び手柄を立てれば領地は復活したり、更に増加するのだろう。

ヨーロッパに似ていると思う。江戸時代と違い、大らかであり好ましい。傭兵のようなものだ。
また、中国やアレキサンダー時代の地中海諸国では、負けると奴隷になった。




06年5月5日
埼玉県騎西町 私市(きさい)城跡をゆく
小さな歴史旅@の05年11月7日ですでに述べたが本日の訪問先が本当の城址である。
城址といっても、ほんの一部の土塁だけだが。
その土塁の場所は婦人会館(似せ騎西城)から100mほど東である。

登ってみた。最も高い場所が、高さが4mほどであろうか。立派な土塁である。
但し一部は、後年の造作でもある。調査によると高さ3m最下部幅10mであったそうだ。

歴史については11月7日に述べたので、今回は近くの説明版による土塁についてのウンチク。

1,547年にここを攻めた上杉謙信の書状によると
「四方の沼が浅深限りなく、一段と然るべき地で、調儀叶い難し」とある。
周りには寺社・武家屋敷・足軽住居・街場があったらしい。

土塁とは土居ともいい、敵の進入を防ぐため掘った土を盛り、土手状にしたもので
古くは吉野ヶ里遺跡でも村の周りに堀があり、その外側に土塁がある。

古代では大宰府を守る水城にあり、中世には武士の館や城に用いられ
江戸時代は石垣となった。

思えば
この私市城は東北の古河城と西南の松山城との線上のやや古河よりに位置する。
そして松山城寄りには等距離で鴻巣7騎の軍団とその隣に石戸城があった。

現在でも古河から松山に至る道路がある。但し、中世のものかは解らないが。

いずれにしても
私市城は目まぐるしい攻防戦が続き城主が絶えず変わる激しい城であった。





06年5月12日
埼玉県嵐山町 杉山城址をゆく@
険しい岡の上に城郭がついさっきまで建っていたかの錯覚を覚える城址であった。
私有地にも関わらず、見学者の為に案内板を各所に小さく、さり気なく立ててある。

それでいて、少しも観光地化しておらず、郭を乗せていた壁は崩れしところは
修復もできず有のままの姿で存在している。

発掘調査の箇所も青いシートが掛けてあり、研究途中の様相であった。
隣接する中学校生徒の勤労奉仕もあり現状を何とか維持している。
土地の所有者や生徒諸君に感謝!。

ここでウンチク
江戸時代の城址  権力を見せ付けるだけの、バカ殿様が愚座するだけの建造物。
            ヤクザまがいの威張るだけの庶民イジメ武士の連想。
             不都合があると武士が即テロリストになる(本来のテロリスト)
戦国時代の城址  今にも生死をかけた攻防が始まる緊張感を覚える。
            戦国モノノフが既存秩序の破壊と自由な発想で走り回るを連想。

ついでに
幕末の長州と幕府の戦争。
長州の農民軍等が、幕府の戦争のプロである武士に簡単に勝ってしまう。
260年間も、ただ威張り散らかしていた武士の実態がこれであった。
信じられないような事だが現実であった。

勿論、長州には大村益次郎や高杉晋作という者がいたのが大きいが。それにしても。
人は、権威主義に陥るとこうなると言う見本である。




06年5月13日
埼玉県嵐山町 杉山城址をゆくA
最初に築城したのは誰かは不明。
金子十郎家忠が居城の説もあるそうだが、証拠はないそうだ。
町によると、松山城主上田氏の家臣で杉山(庄)水主が居城したと書かれている。
詳細は後日
小生としては、ここを足がかりに、徐々に本城・松山城に攻め登りたい。




06年5月14日
埼玉県立「歴史と民族の博物館」講堂をゆく
高橋館長の講演で「東国最古・謎の寺谷廃寺の誕生」を受講。
ざっと
550年頃 仏教が百済より伝来
600年から700年を飛鳥時代  600年の初め頃 聖徳太子 官位17条憲法
700年から800年を奈良時代  700年の初め頃 律令制国家の成立(奴隷制のようなもの)
800年から1200年を平安時代 
1200年以降 一所懸命の封建時代
この程度の感覚でいいと思う。我々は研究者ではないのだから。

ところで本日の講演は
実は、埼玉県滑川町(県立武蔵丘陵森林公園が最寄駅)に、奈良の飛鳥寺建立の少し後か
同時代頃に、寺があったと云う驚きの話である。

飛鳥寺(法興時、元興寺)は600年頃建立された日本最初の寺である。
これと同時代に東国に寺が存在したとなればこれは一大発見である。
教科書を書き変えなければ、ならないほどである。

これらの傍証となるのものは、埋もれた瓦である。
そして、飛鳥寺の瓦は百済から直接移入されたものであり
この寺谷廃寺も百済から直接移入されたものであるという。

高橋館長は小生と同年の生まれである。
まことに羨ましい限りの人生であると思いつつ帰路についた。

新発見とは自分の今実施しいる事が世間に認められることであり
すでに認められている事柄の範囲を探し出して、その一部を研究発表する事ではない。

考古学の面白さを高橋館長より教えて貰った。

講演後の質問タイムで小生の席近くの女性が「文献はあるのですか」と発言された。
高橋氏はキッパリト「ありません」と。

私は一企業の社員であったが、参加者の多くは元教育者のような人々が多いように思った。
私の考え過ぎかも知れないが、どの文献に書いてあったかが問題ではなく、
自分は、どういう理由で、どう思うかが問題である。(老婆心ながら質問者は承知の事と思うが)



06年5月16日
埼玉県嵐山町 杉山城址をゆくB終わり
この城址の下を、市の川が流れている。確か松山城址の下もそうである。
この杉山城は、松山城と鉢形城の中間点にあるという。
さらに、私は気が付かなかったが、城址の西側には鎌倉街道が上野方面に抜けている。

本城の上田城主の上田左衛門尉友直の子孫は後北条に松山城を奪われたとき
出身地の、現在の東秩父村大河原の安戸城へ逃げ込んだ。

なぜ、この堅牢な杉山城へ身を寄せなかったのかとも思える。




06年5月17日
埼玉県立歴史と民族の博物館 特別展・芸能絵巻
獅子舞、お囃子、神楽についてである。
どうしても江戸時代が舞台となる。

獅子舞・・・・・キーワード悪魔祓い(降魔) 雌獅子隠し 田楽 牛頭天王(祇園天神)
お囃子・・・・・キーワード八坂神社 祇園囃子 夏の病
神楽・・・・・・・キーワード清め 天の岩戸 
今回展示はないが
能・狂言・・・・猿楽

さらに起源を考えつつ見学したが
神楽は飛鳥以降
獅子舞は鎌倉
それ以外は室町でどうだろう。

それにしても
獅子舞の雌獅子隠しは何だろうと思う。五穀豊穣だろうか。




06年5月18日
群馬県太田市 天神山古墳
東国最大の古墳であると云われている。
また群馬県南部は数百の古墳が確認されている。

墳墓の数と大きさは、権力者の力の大きさであり、その土地の力の大きさでもある。
5世紀中頃にこの古墳は作られたらしい。

実在の天皇(当時の呼称は大王オオキミ)は応神や仁徳からで5世紀頃らしい。
神話上では紀元前660年としている。千年もハッタリをかまされると、うっかり本当と
思ってしまう(フリをする)人々が戦前には多数い(させられ)た。我々の親の世代である。

以下は古墳にある説明版の内容。
大きさであるが、最も長いところ210m 幅の広いところ126m 最も高い部分が16.8m
である。周囲は2重の濠がめくらされ、墓域は364m、288m 表面を渡良瀬川の川原石
で葺きあげてあり、主体部は竪穴式で、盗掘されている。

行ってみると、木々が鬱蒼と茂る小山である。
南側に鳥居が見えた。鳥居には明治34年と書かれてある。

そこから登って、多くの人が歩いた道が付いている。
東側が円墳で西側が方墳であることを確かめる。
墳墓の周りは濠であったのだろう。現在は水田になっている。

東側に陪塚があるが住宅が建設されており不明
さらに陪塚である斜め南東の女体山古墳は意外と小さかった。

西の大和、東の毛野(ケヌ)現在の太田市が中心であろう。
5世紀にはここ太田市が、現在の東京都千代田区である。
その頃の千代田区は海の底か沼地だったのだろう。

被葬者は大和の権力と直接関係のあった者とされている。
埼玉県行田市のさきたま古墳群はそうではなかったらしい。

さきたま古墳群の行動が、突然止まったことから、そう云われているらしい

さらに、東国の雄であるメジャー太田勢力と、地方勢力のさきたま勢力を考えるのは
実に面白い。




06年5月19日
さいたま市立図書館2階をゆく
武蔵の地名の由来はいくつも学説があり、定説はない。
その中で最も信憑性があると思ったのは无邪志が武蔵になっただろう。

邪は嫌われる語であるが、中国の中華思想では中国の周りの国々に対して
獣偏をつけたり、まつろわぬ国に対して邪をつけたりしたという。
邪馬台国も、まつろわなかったのだろうと、著者はいう。

ところで
律令時代では、現在の埼玉県は未開の地であり、夷のバッコする国であった。
だから邪をつけて无邪志にした。无は調べたら、無いと云う意味。
蔵は蔵王のザであるからサと発音してもおかしくない。

大和政権がこの地を征服できたので无邪志を武蔵に変えたと云う。

ちなみに
宮本武蔵の武蔵はタケゾウを武蔵に当てはめただけ。

しかし
私の知識では上代では国の名称を一字で表した時代もあったが、などとも思った。

武蔵の語源は六指や無指など数多くある。

この話し以外にも
高麗神社の例の若光は架空の人物であること、高麗神社の成立は
奈良時代半ばではなく、もっと新しく九百年の終わりごろであること。

若光を創作したのは日韓併合時の都合で、明治政府が
在日朝鮮人の人々を慰撫する為であったことなど。有りそうな事である。
どうりで、この神社が時の権力者や有力者などが名を連ねていることを納得した。
しかし、この話しは今でも、地元ではタブーになっているようだ。在日者侮辱だ。




06年5月21日
埼玉県立歴史と民族の博物館講堂(埼玉の民族芸能)をゆく
小生にとっては、さして興味が有るわけではなかったが受講してみた。
ひょっとして、獅子舞或いはささら獅子舞の「雌獅子隠し」の意味が聞かれるかと
期待したが、講師の興味はそこには無かった。

また、神楽の起源についても触れられるかとも期待したが
講師の興味はそこにも無かった。

講師は、1924年秩父地方の生まれで、現在国学院大学名誉教授 倉林政次氏。
埼玉の神楽、獅子舞、お囃子 (豊年)万作踊り 芝居を
採集され、地域によるその違いを検証されたのである。

採集されたのは、全国の地方伝承芸能が消滅する寸前の1955年ごろであった。
今となっては、不可能である。氏の採集研究の成果は貴重である。

氏は云う
「民族芸能ではなく、郷土の伝承」を見て、日々生きる活力として欲しい。
何となく解る気がする。




06年05月25日
埼玉県蓮田市 江ヶ崎城址(5月24日訪問)をゆく
車で、ぐるりと周ってみた。
みずほ団地という戸建の団地に変わっていて、面影は全く無かった。
ただ、この地が東側に較べやや高所にあることが解った程度である。
団地より200m手前に城址があったという碑が立てられていた。

八幡太郎義家の弟である森羅三郎義光の居館があったという伝説がる。
森羅三郎の伝説は、見沼の南部領辻にある神社にもある。

江ヶ崎城址はこの森羅三郎義光とは関係ないらしい。
あるいは、森羅三郎義光の家臣の居館かとも言われるが不明。


鎌倉時代終わりの頃
武蔵七党の野与党・鬼窪尾張守繁政という者の館あとだろう
とも云われる。

実を言うとこれで終わりである。繁政の情報も何にもない。

そこで
武蔵七党についてのウンチク。

数えてみたら九党あった。
横山、西、村山、丹、児玉、猪俣、私市(きさい。現在の騎西) 野世、綴
の各党である。

平安末期から鎌倉、室町にかけての同族集団で、武蔵地域で武張った
武士集団である。土着豪族と考えてみた。
実にコギミいい集団ではないか。個人的には大好きである。
続きは明日・・・




06年5月26日
武蔵七党とは何者か@をゆく
児玉、丹、猪俣が25以上の小武士団を糾合して大きな力をもったという。
いずれも、鎌倉政権樹立に貢献した。
貢献したくてしたのではなく、その立場から結果的に、そうなっていった。

そのへんの事を研究者は以下のように言う。2通りの説明がある。

その前に
学校で使う教科書であるが
守護・地頭以外のことは記述がない。(教科書会社にもよるが)
実は、守護・地頭以外の勢力例えば武蔵七党などが世を変えたのであるのに。

1つ目の説明
平安時代末期から、荘園制の発達、律令兵制の廃頽により地方政治は乱れ
在地土豪層を中心に武装を強める結果となり、下向貴族を戴いて党的結合を
持ったとする説明。我々非専門家には、よく解らない説明である。




06年5月28日
坂東八平氏とは何者かAをゆく
三浦氏 千葉氏 秩父氏 鎌倉氏 大掾氏 中村氏 梶原氏 長尾氏
を云うそうである。

平安時代中期に坂東に土着した桓武平氏を云うとなっている。
それほど厳密に云うものでもないらしい。必ずしも桓武系とは限らない。

この中で武蔵地域であるのは秩父氏であろう。
武蔵七党との違いや関わりは厳密には解らない。




06年5月29日
武蔵七党、坂東八平氏についてBをゆく
研究者による(小生の意見も含むが)
2つ目の説明
@律令制度(農奴制度・土地私有禁止・公家や寺社領の荘園のみ)から逃げ出し
 各地の開墾農場主の傘下に入る。

A開墾農場主は公家や寺社に土地を献上し、名義上の所有者になってもらい
 自らは、その土地を所有者から管理を任されているだけの立場とする。

B開墾農場主は公家から独立して真の所有者になるために頼朝を担ぐ道をとる。

C鎌倉幕府成立には、彼らが協力したのが全てである。
 現代の我我には、頼朝でなくても誰でもいいと思うのだが、当時は血筋(天皇家)
 がモノを云うのである。つまり大義名分である。
 源平藤橘は天皇家の血筋。いわゆる清和源氏、桓武平氏など
 今にしてみれば、実につまらない、あれである。
 (その後猫も杓子も血筋を偽装するのである。徳川家康などその典型。
 徳川家康は新田の系統などと言うが先祖は実は遊行僧つまり乞食坊主であった)

Dそれは、ともかくとして
 鎌倉政権の成立で貢献のあった開墾農場主は御家人となり
 いわゆる守護や地頭と云われる身分になる。

Eなにせ「海千山千・生き馬の目を抜く」時代である。これで事は済まない。
 頼朝のカミサンの実家に頼りすぎた頼朝は
 カミサンの実家・北条氏(血筋としては低級らしい)に政権を乗っ取られる
 いわゆる北条執権の誕生である。

Fだんだんと熱くなってなって、横道にそれるが
 ここで云う北条は、いわゆる後北条の北条早雲とは全く関係がない。
 それで、悪の北条は鎌倉政権成立に協力した御家人を次々と暗殺していくのである。
 何のためかと云うと、北条執権を守るためにライバルを殺しまくるのであった。
 騙されて忙殺された、個人的に好きな畠山重忠なんぞは不憫でならない。

G話しを戻す
 要は御家人が「武士」なのである。これが本当の意味の武士の誕生である。

H「海千山千・生き馬の目を抜く」時代であるから、小規模の御家人でない武士集団は
 いくらでも発生した。別の開墾農場主グループ達である。
 これが、坂東八平氏や武蔵七党であると私は考える。

I続きは後日・・・(この続きは6月5日)




06年6月1日(見学は5月30日と31日)
真田昌幸・上田城と山本勘助・松代城をゆく@
真田昌幸が在城したのは戦国時代の僅か40年間ほどであるが
これほどまでに有名なのは家康を2度撃退したからだ。

訪問してみた。
2度目が関が原の時であるから1,600年。だから1,560年から1,600年は昌幸の
手垢がついた城と言える。私は昌幸の手垢を見たいのだ。

昌幸が築城した残骸は僅かに土塁と濠だけであろう。
それ以外のものは全て後から創ったと云える。ひょっとしたらこの土塁も後世のもの
かと、疑った。とにかく、空壕に下りて上を見上げて昌幸の手垢に触れてみた。

後から創ったとは仙石氏だそうで、なるべく昌幸の築城を再現したとあるが。
そのあと、家康の譜代の松平が幕末まで続いた。

ただ、有名な真田石が立て札と共にあるが、本当に真田昌幸が石垣を築造したので
あろうか。戦国時代その当時は土塁と聞いていたが
1,600年近くは重要な部分には石垣もあったのだろう。

地元の人に「当地は家康嫌いですか」と聞いてみた。
特に嫌いという言葉は聴けなかったが、まあそのようである。六文銭の真田氏であるからこそ
観光客はくるのだ。私もそうである。判官ビイキなのである(私は義経は嫌いだが)

その判官ビイキもそうであるが
私は個人的には昌幸の画像が好きだ。

実物かどうかは、勿論、全くの不明だが一般に流布してる、あの昌幸の明るい顔が
すきである。智謀においては当時最高の人物だろう。戦国武将として異質な顔である。

まさに世の中を悟りきっていたのだろう。家康は、一目も二目もおいていたはずだ。
だから昌幸の次男、信之を罰せず沼田から呼び寄せたり松代においていたのだろうか。

ここで私の好きな戦国武将をあげてみたい。
北条早雲 明智光秀 黒田官兵衛 真田昌幸  
幕末だが、共和制を提唱した横井小楠(勝海舟 坂本竜馬の師匠と言われている)

(これを、うっかり読んで戴いている方にとっては小生のウンチクなど
面白くも何ともないが私はこれが楽しくて、戦国の城巡りをしています。ご容赦下さい)




06年6月3日
埼玉県立歴史と民族の博物館講堂(三頭立ての獅子舞の系譜受講)をゆく
講師 当博物館学芸員 飯塚好氏

○三頭立ての獅子舞の分布は関東から東北に多し。
○牡2頭に雌1頭 花笠と笛 その他(種々流儀あり)
○最も多いのは群馬県と思われる。
○最も旧いのは1,530年台(鎌倉時代終わりから南北朝)のを確認している。
○いわゆる「門付獅子舞」は大神楽(神楽の中の一流儀)である。これとは全く異なる。
○獅子舞の目的は、
  雨乞い 五穀豊穣祈願 五穀豊穣お礼 祝事 その他種々あり。
○埼玉県には現在約200の獅子舞あり。
○初期は田楽師が教えて流布したとも考えられるが、最も盛んであった江戸時代の
  流布の仕方は不明である。

三頭立て獅子舞は、まことに奥が深く、不明な部分が殆どであるらしい。
講師の飯塚氏は20年前から各地の獅子舞を見たり、古文書を調査されたりして
研究されているとの事。大変真摯な、お人柄であった。




06年6月4日
埼玉県嵐山町 菅谷館跡をゆく
1,200年の始めごろ、東鑑によると菅谷から畠山重忠が出陣したとある。
但し現在、菅谷館と言わるこの地から出陣したかどうかは証拠がないが、
その可能性は高いとされている。

何故なら
ここは、山王古墳群(約100基)や、鎌倉街道が通り、山内上杉・扇谷上杉の
合戦の場であることから要衝の地であることは間違いない。
また眼下を都幾川が流れて要害の地でもある。

訪れてみると、驚くほどの広さに巨大な土塁や壕・濠が残されている。
これらは戦国時代のものらしい。

それにしても
我らの畠山重忠は働きに働いて、結局、北条執権に忙殺されるとは。




06年6月5日
5月29日のIの続き、をゆく
I後醍醐は、鎌倉政権から政権を奪取したいばかりに、守護地頭グループでない
 つまり、鎌倉政権以外の開墾地主グループに近づいて武装集団を集めた。

Jこの武装集団の親玉の一つが楠木正成である。ちなみに御家人以外の
 開墾地主を鎌倉政権は「悪党」と呼んでいた。今でいう悪党ではない。

Kいよいよ、鎌倉政権と後醍醐党の争いが始まった。これが「太平記の世界」だ。
 世情云われているように
 太平記とは「太平の世になればいいのに」という願望を表した記である。

Lここで云っておかねばならない事がある(聞いた事がある台詞)
 太平記は後醍醐側から書かれた読み物であるのは知られている通りである。
 真実を表した歴史書ではない。
 専門家でも、そのことを忘れるそうな。
 ただ読者をワクワクさせる面白さがる。
 この太平記を真実として、悪用し大衆をマインドコントロールしたのは
 明治の山縣有朋や、超法規の統帥権を勝手に握った昭和の陸軍だろう。

L話しを戻すと
 要は鎌倉政権(御家人開墾地主)と後醍醐党(非御家人開墾地主)の争いが
 南北朝の争いから戦国時代へと突入するのである。

Mそして
 武蔵では多くが北朝側(反後醍醐)につき各地で合戦を繰り返した。

N室町時代には有力な武将達は鉢形城や松山城、岩付城、川越城、忍城を中心に
 扇谷上杉、山内上杉、古河公方、上杉謙信、武田信玄まで含めてバトルを演じた。

Oやがて、後半には本命の、後北条が絡んで、武蔵は後北条の天下となる。

Oやがて秀吉が小田原城を開城させて天下統一。後北条はあっけなく終焉となる。
 秀吉は、武蔵を家康に与えた。与えたというよりは閉じ込めたつもりであったのだろう。

M太閤秀吉は太閤検地を実施し、土地問題は全て終わった。
 つまり、律令時代から封建時代への土地問題の痛みが解消するのに
 鎌倉時代(1,192年)から秀吉の天下統一(1,590年)まで約400年を費やした。

こういう考察でいいのだろうか。




06年6月6日
さいたま市岩槻区 渋江鋳金遺跡をゆく
新16号線バイパスの南側で元荒川から、やや西側にあった。
白い柱が一本立っていて、渋江鋳金遺跡と墨所してある。戦後すぐに県の指定を
受けたようである。

三叉路の門にその白い立て柱は立っており、そこには民家が一軒立っている。
かつては、堀(壕)があったらしい。
ここで渋江郷の鋳物師(いもじ)が盛んに製作していた。

その民家の裏は、何故か広く空き地になっていた。近辺は多数の住宅建築中であった。

多分1,400年の半ばごろには、岩付城の御用達で鋳金をしていたのだろう。
そのころ、扇谷上杉の太田道灌父子が岩付城、川越城江戸城などを築城した時期に当る。

車で5分の処に古刹の大光寺があり、その作品があるというので、寺を見にいった。
如何にも古刹の風情であった。

大光寺の立て札によると
渋江郷とは岩槻周辺を指し、鋳物師が集団で活躍し、渋江鋳物師と言われた。
1,474年(文明6年)に渋江郷の鋳物師の泰次という者が造った鰐口が
この寺に存在するという。




06年6月7日
さいたま市大宮区 土器の館をゆく
○以前から疑問に思っていた件で、土器はなぜ不安定な形をしているのかと質問した。
 期待していたが残念ながら、明解な解答はなかった。

○煮炊きをする場合、下が細くて上が太いと火の回りが良いから、そういう形ですかと聞いた。
 そうでもないとの答えであった。

○しかし、火が回りやすいようになっている目的のもあるでしょうと申し上げたら
 確かにある。しかし土器の底に足をつけてるのは関西の方の土器だと云われた。

○不安定な形についてである。造るときの状況を考える。
 細い方(不安定な方)を上にして、太い方(安定な方)を下にして置いてみる。
 こいいう状態で土器を造ると造りやすい。つまり上の方が徐々に小さくなっている方が
 造りやすい。つまり、造る時の都合であろうと。
 なるほど、初めて聞いたが納得。

地味な仕事だが、私にはどうも向きそうもない。
戦国時代の城址・館址・砦・陣屋・柵が迫力があるが。




06年6月8日
埼玉県鷲宮町 粟原城址をゆく
鷲宮神社のすぐ西側に東武鉄道が走って、その傍に川がある。
川の傍が城址であった。

城址と思われる場所は、ほんの1mほど高くなっていた。
その中央に小さな堂が建っていた。 近くに壕らしきものを見たが自信はない。

粟原か栗原かを確認するために通りすがりの、近所の人らしき方に
「そこの城址の事ですが」と聞いてみたら「城?知らないね」と。

私の如き素人は困ったことに
それらしき構築物があると、何でも壕や土塁に決めつけたくなるものだ。
おまけに、近隣の方に聞いてみて「何で知らないのだろう」と不遜に思ったりする。

他人のことは言ってられない。私は神社の一角で生まれた。
意外と自分の生家も城址であったかもしれないと苦笑した。
考えてみると、日本中城址だらけなのである。

粟原城址の「うんちく」であるが
この城は、鷲宮神社の社領主の居館として築かれ、城主は山内氏であったと云われている。

1,561年上杉謙信が小田原城を攻めたとき、粟原城主・細萱(ほそかや?)光仲氏が
篭城したといわれる。
花崎城の支城でもあったらしい。 羽生城主に焼かれたも言われている。

いづれにしても最終的には後北条に与しなければならない状況であったが
1,590年(天正18年)小田原の開城で秀吉のものになり、家康が入封して、廃城した。

余談だが
戦国時代の古城址の特徴
○やや高地である(平城の場合)
○直ぐ近くに神社がある。寺の場合もある。
○すぐ傍に川や崖がある(要害とするため)
○人が住んでおられ、地元の年配の人々も、城跡のことを知らない(生活に関係ない!)

追伸
城址の址は城のあった具体的な場所の場合使うようである。つまり形而下の使い方をする。
跡は、足跡などのように全て形而上の使い方をするようである。
今まで随分と間違って記述してきた。




06年6月9日(訪問は6月8日)
埼玉県幸手町 天神島城址をゆく
神社と森があるのですぐに発見できた。
神社の案内板には土塁や壕が残されていると書いてあるが
探せど不明。

何とか土塁らしきものと壕ではなく濠を見つけた。それぞれ離れた場所である。
どちらも、個人宅の屋敷であるので、失礼の無いように覗かせて戴いた。
どちらも、比較的大きな構築物である。但し短い距離だが。

さて
この城のことであるが案内板によると
この神社が古河公方の家臣である一色氏の砦址であり、壕や土塁があり
近くにその屋敷址があると書いてある。

神社に壕や土塁らしきものは殆どなく、近くの個人宅に存在するのを見つけた。

確かに、ロケーションから考えて古河公方の勢力範囲であることは間違いなかろう。
見渡す限りの沖積平野のかなり地盤の弱いこの地での合戦は
まるで泥んこ試合のような様相であったであろう。 
敵は扇谷上杉や山内上杉、後北条であったろう。

またしても余談であるが
神社という言葉は明治維新の時にむりやりつけた名称である。
それまでは明神とか権現と呼称していたはずである。
権現は嫌いだが、考えてみると「的を得た妙なるコトバ」である。

その理由は
徳川体制から薩長体制への移行と深い関係がある。薩長は特に大久保利通などは
薩長政治の大義名分として天皇を最大限利用する必要があった。岩倉も承知であった。
(左幕の孝明天皇が毒殺されたのは医学的に既に証明され昭和50年から52年に某医師会誌
に発表されている。毒を盛った人物もある程度特定可能で、指図は岩倉と言われているらしい)

また廃仏希釈の手法もあった。尊王攘夷の尊王の部分を利用せざるを得なかった。
薩長は民衆にアピールできる絶対的な形而上の存在が必要であった。

但し、昭和の陸軍はこれを悪用神格化し統帥権まで持ち出してまで
声高に八紘一宇を叫び、我々大衆は塗炭の苦しみとなり、やがて敗戦となる。

戦後早期に奇跡の経済復興ができたのでよかったが。
私はその復興初期の闇市の中から生まれたようなものだが。
朝鮮動乱景気や吉田首相の戦力より経済優先政策、親世代の努力に感謝するのみ。




06年6月10日
氏姓名字についてをゆく
豊臣秀吉の名字は、羽柴である。
では豊臣とは何か。姓(かばね)であるという。
姓とは、氏の下に付けるそうで、臣、連、造など。
氏とは源平籐橘のことらしい。

源朝臣足利尊氏(あるいは源朝臣尊氏)では
源は氏(うじ)
朝臣(あそん)は姓
足利は名字であるそうな。(新田も名字)

氏は氏神さまのあれである。一族の元締めで天皇家の系譜と言いたいのだろう。

上代にあれこれ弄って職位に関連付けてつけたらしいし、もっと複雑らしい。
こんなことに関ってばかりいては、本質を見失う。

要は
豊臣は名字ではなく、古代の姓である。 姓とは氏の下につけたらしい。
秀吉の名字は、あくまで羽柴である。その程度でいいだろう。

ついでに
源頼朝の源は名字ではない。そうです、氏でありますよ。じゃ名字は?なもの知らない。

後で調べたが、それは諱である。「死後に言う生前の実名」である。
義経、隆盛(西郷)と同じ。では生前の実名は何だ?義経が九郎だから一郎か?




06年6月12日
埼玉県川本町畠山 畠山重忠館址をゆく

重忠の父重能は武蔵七党の有力者集団の秩父党の中の一人であった。
あるとき秩父吉田町からここ川本の畠山へ移住し畠山氏を名乗った。
重忠は1,164年(長寛二年)重能の次男(長男説あり)として
ここで誕生した。

ここから、あるとき嵐山の菅谷に砦を築いたと云われている。
それが菅谷館といわれる広大な城址である。その城址は後世のもので
畠山重忠の館は、そのほんの一部であった。

武蔵七党は当時は平氏であろう。秩父党の重能もそうであった。
石橋山の合戦では平氏方であったが、その後重忠は源氏の頼朝に仕えた。
世間の情勢であろう。
情勢をみての鞍替えは、当時は日常茶飯事のことであり、極通常のことである。

畠山館跡にある埼玉県の説明版によると、県北一帯の支配と伊勢沼田御厨
奥州葛岡の地頭をも任ぜられていたと書かれている。
文武に通じ、頼朝にも覚えの良い武将であったから当然であろう。

何と云っても埼玉県のヒーローだから次の事を云わねばなるまい。
頼朝勢としての宇治川の先陣争い、一の谷鵯越の愛馬三日月を背負って
急崖を下る話しは、つとに有名である(馬を背負えるはずはないが)

ここ畠山館跡は公園になっているが、その公園の入り口には
愛馬を背負う重忠の大きな像が隆々とそびえたつ。

また説明版には
1,205年(元久二年)には残念なことに、頼朝なき後、北条執権に謀殺された。
二俣川で一族と共に滅亡した。畠山重忠四十二歳、子の重秀二十三歳であったと
書かれ読むものに涙を誘う(これは後日談としてよくある話しである)

土塁が残されているというので探した。
東側に、僅か30cmほど土が盛られて途中途切れているが南北に20mほど続いていた。

その上に乗らせて頂き周囲を見渡したが、一面まっ平らで、南に丘が続くのみである。
私は、畠山重能はあの南の岡の上に館を何故築かなかったのかと思った。

また、この畠山から秩父方面へ5kmほどの花園という場所には、猪俣党の藤田氏がいた。



06年06月14日
さいたま市見沼区 多門院の六地蔵をゆく
説明版によると
6体のうち右から5体は、猪首(いくび)状で簡素な表現から1,500年代のものだろうと。
背面に「慶傳禅門逆修」「○○○陀仏逆修」の銘が、左側1体には寛永十九年(1,643年)
の銘が刻まれている。

この地域の名主層夫妻が、あらかじめ自分たちの死後の冥福を祈って造立したものだろう。
もと近くの観音堂にあったが、保存のため現在地に移したという。

ここで
六地蔵とは、
六道において衆生の苦しみを救うという六種の地蔵菩薩。
六道はよく知られているように、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人道・天道である。
人は生まれ変わる毎に、この六道を輪廻すると信じられていたのだろう。

地獄道を救う檀陀(だんだ)、餓鬼道を救う宝珠、畜生道を救う宝印、
修羅道を救う持地、人道を救う除蓋障、天道を救う日光の各地蔵の総称。

また、延命・宝処・宝手・持地・宝印手・堅固意の六地蔵とする説もある。


逆修とは、生前に死後の冥福を祈ること。
通常は死者に対して冥福をいのるが。

猪首とは、太くて短いこと
そういえば、そうであったと今思い出す。中世の地蔵は猪首であると初めて知った。

1,500年代の人々は、これをどんな気持ちで拝んでいたのだろうと創造しながら眺めた。
1,500年代と言えば、まさに戦国時代のまっ盛りで
日々生死(しょうじ)を眼前にして、我々とは違い、真剣に生きていたのだろうと思い
気が引き締まる思いであった。

なお、埼玉県での中世石仏遺存例は他に妻沼(12世紀)など2例しかないという。
風化してしまうからだろう。

帰路、住職らしき方がおられたので、軽く会釈をした。 断り無く見せて戴いたので当然だろう。





06年06月15日
埼玉県加須市 浮野(うきや)の里をゆく
敗戦後すぐの47年(昭和22年)、当地は、カスリン台風で大洪水となった。


下記を浮野の里で教えて戴いた。
各地では、洪水の水位を、ここかしこに爪あとを残して去った。
ところが一箇所だけ水位の跡が無い場所があった。それが浮野である。
水位の跡が存在しないというのは、浮き上がっていた証左である。
浮野の里イベント会場から直ぐに見渡せる200mほど東南にあるのがその浮野である。

これを発見し、立証されたのが当地在住で元学校長の橋本庸氏であり
氏は、現在も市に関係され、ご活躍であるという。

大洪水の折、リアルタイムで浮いている場所を見つけられたのではない。

小生が思うには、橋本庸氏は昔からの言い伝えを、カスリン台風時に
科学的に実証を試みられたのであろうと思う。
そうであるなら、やや、トロイの遺跡の発見に似て面白い。

教えて戴いた方のお名前を、お聞きするのを失念したが
まことに熱心でご丁寧なご様子に感謝するのみである。


前述の地が「純粋な意味での浮野の里」の「浮野」である。
その面積は新聞では約80uと書かれてあるが
土地の方は5アール(500u)と説明された。

浮野の里では現在、あやめ舟やら団子店、農産物店まで出て大賑わいである。

一般に言われているように
この地方一帯は、1万年から百万年まえに氷河期などを繰り返すなかで
土地が削り取られて深い谷を形成した。
さらに、この地が利根川の河口であったともいう。

その後、約5千年前ほどの縄文海進で、その谷に、植物を含む泥が
なん層にも堆積していった。それが泥炭層となった。


もともと氷河時代の冷たい水が底を流れる地であることから泥炭層に
含まれる種々の種子も死滅せずに残ったのだろう。
あるいは、この地がトキソウの生育に適していたのであろうか。
前者の考えもあるが、後者はこの地の方の説明であった。

言い忘れたがここだけに自生するトキソウも橋本傭氏が発見されたらしい。

私の本来の興味は、中世戦国時代であるが
浮野の里のように、数万年以上前のロマンを秘め
想像力を逞しくさせてくれる楽しい地も加須の誇りであり、来場者の喜びだろう。
市はもっとPRされては如何なものかとも思いながら後にした。

ちなみに
浮野の里は、「うきや」と発音し、俳句などでは「うきの」となっている。
また、当地の名産である味噌は「うきの」というそうである。
なんとなく解る気がする。




06年06月15日
埼玉県羽生市 羽生城址をゆく
まっ平らの地で周りは工場地帯であった。
城址はいつの頃からか天満宮になっている。
案内版によると、周囲は沼地で自然要害であったはずだが全く面影はない。
壕もなければ土塁跡もない。何にも無い。

しかし1,500年の半ば、ツワモノどもは生死をかけて、ここで息を潜めていた。

天文の頃(1,540年ごろ)古河公方の配下の広田直繁・木戸忠朝兄弟が築城したとされる。
この地は上杉謙信の武蔵における最前線であった。一時は後北条の城になったが、
やがて上杉謙信により開城させられ再び広田直繁・木戸忠朝兄弟が入城したという。
つまり古河公方から後北条そして上杉謙信の配下になったのだ。

まことに中小弱小の地方武士にとって厳しい哀れな時代であった。

1,574年(元亀元年)広田直繁は館林城に移され、木戸氏が入城したという。
翌年には行田の忍城の成田氏が再建築し家臣を入城させた。

その後、1,574年(天正2年)上杉謙信は羽生城を取り壊し木戸氏を上州に移した。

そして、1,590年(天正18年)小田原が開城し、やがて徳川の配下の大久保氏が
入場したが1,614年(慶長19年)廃城となった。




06年06月18日
埼玉県狭山市柏原 城山砦址をゆく
柏原という場所にある、西武ニュータウンの中で探した。
そこの西側隣接の木々が濃く茂る岡が砦址。
五月雨に崩れそうで、しんと静まる。じめじめした山道は,やや気味悪ゲであったが登る。

直ぐに案内板と小さな祠がある。
雰囲気はやや杉山城址に似ている。壕も深く土塁もはっきりとして高い。
綱が張ってあり、危険にて侵入禁止の立て札ありも、十分に雰囲気はある。

案内版によると
1,537年(天文6年)上杉朝定は、北条氏綱(早雲の子)に川越城を追われた。
1,545年(天文14年)上杉朝定は、川越城を奪還すべく
上州の平井城主である上杉憲政の軍と合流し川越城を包囲した。

これに対し川越北条側は大将の福島綱成以下城兵3千人で半年間篭城した。

これとは別に北条氏康(氏綱の子)は駿河の長久保で今川義元と戦いを交えていた。
北条氏康(氏綱の子)は、1,546年(天文15年)4月武蔵府中に陣を進めて
同月20日一気に上杉氏を攻め総崩れさせたという。

これが有名な「川越夜戦」である。

このとき、上杉憲政が陣を張ったのが、この城山砦であるという。

武蔵風土記稿(1,800年ごろに書かれた)によると
「城地と思はしきは凡十四・五町もあらん。なれど遺構はわずかに四段許なり」とある。
十四・五町とは1,200mほどであるから、現在ニュータウン際南北の岡全てだろう。
かなり大きな砦というより立派な城であった。

もっとも
この戦いに破れた扇谷上杉は、この合戦が原因で消滅したのである。

確かこの「川越夜戦」は古河公方や山内上杉も、扇谷上杉に援軍していたはずである。
武蔵武士にとって、このショックは大変なダメージであったと思われる。精神的にも。

また、案内版は
この地は元は、平安時代の保元平治の時代、地元豪族柏原氏の館址であろうと。




06年06月21日
埼玉県騎西市 戸崎城址をゆく
加須市平永の国道122号の直ぐ東側に諏訪神社と竜宝寺があり、その間に土塁が残る。
神社と寺も含めて城であったというから、かなり大きなものであった。

諏訪神社は周りの水田よりやや高くなっており、城址を偲ばせる。
いづれにしても、関東平野の真っただ中の平地の城であった。

戸崎城は鎌倉時代に戸崎右馬充国延という者が城主であったということになっている。
戦国時代には私市城(騎西城)の出城であったと類推されている。

諏訪神社を掘り返すと、平安時代の生活の品が出土したという。
ここは重要な部分である。
稲作では、山は水瓶であり、農地は常に水が流れなければならないとされる。
つまり、平地では水の確保のできる場所はあるが、常に流れる常態とは限らない。

だから
平地で稲作ができるようになったのは、鍬や鋤などのように鉄器が多く使われる
時代になってからだろうと言う研究者がいる。それは平安の末ではなかろうか。
鍬や鋤で灌漑土木をするには鉄器でなければ困難だからと言う考えである。

この武蔵野の平地も、比企丘陵のように平安から人々が集合して
住んでおり、土豪たちが武張っていたのであろう。そして戦国から近代へと流れるのである。

その頃の人々は何を思い往来していたのであろうか。




06年06月23日
平清盛律令政治海外交易・貨幣経済
源義経律令政治
源頼朝封建政治農業経済
織田信長封建政治海外交易・貨幣経済
豊臣秀吉封建政治海外交易・貨幣経済
徳川家康封建政治農業経済

このように考えてみると、
清盛の先見性に驚かされ、家康の閉鎖性は儒教の影響と思えるがどうだろう。
但し中途半端な儒教で良かったのであり、厳密にやれば
中国や朝鮮のように近代化が遅れただろう。

義経には経済について経世は何もなく、画期的軍略力で清盛の椅子を望んだだけ。
馬鹿ほど可愛い(失礼)と言うが、それが判官ビイキの源泉となったが。

こう、考えると画期的な思考をした男は、清盛と信長と言える。
頼朝の場合「神輿に乗るのが上手であった」といえる「いや時代の要請だろう」




06年06月26日
埼玉県毛呂山町 大類氏館址をゆく
要害も何もない、平らな地形の場所であった。
よくぞ、このロケーションで館を守っていたものである。

十社神社と大薬寺にかけて館址があったのであろうか。
両箇所間は150mほど距離があった。
ハッキリと館址と、いわれている場所が、その中間にあった。

十社神社には土塁址があり、館址には土塁と壕らしき址があった。

児玉党・秩父行綱の次男行義が、こここで、大類氏を名乗った言われている。
現在の、この地名もやはり大類である。武将はその地名を自分の名字として名乗る。

多分、平安の末から鎌倉にかけての武将であろう。
この様な名も無き武将が雲霞の如くいて、大抵は淘汰されていったのであろう。

小生としては
現代で言えば、このような武将達は、中小企業のオヤジのようで、親しみが湧く。




06年06月28日(訪問は06月27日)
埼玉県桶川市 三ツ木城址をゆく
城山公園の西側が城址である。人も住んでおられた。
公園の西端を、ぐるりと南から北へと回り込むように歩く。

明らかに濠の址である。現在は排水路となっている。
濠越しに見上げると土塁があり、その向こう側が更に高地で郭址である。

どうも、人家があり、梅雨で足元も悪く、中まで入り込む勇気がなかったのは残念。

見学の途中の案内版によると
東西北は湿地に囲まれて、南側を底辺として三角形の珍しいものである。
110m、120mの単郭の平山城であった。

鎌倉時代、頼朝に仕えた足立右馬充遠元
あるいは室町時代に岩槻太田氏に仕えた石井丹後守とする説もある。

近年の研究によると、1,300年代に築城したものらしい。




06年06月29日(訪問は06月28日)
埼玉県所沢市 小手指原古戦場をゆく

太平記の世界である。
新田義貞が現在の太田市新田町(旧新田郡新田町)で旗揚げをし
一路鎌倉に突進して行った途中の古戦場である。

直ぐ近くの所沢市立埋蔵文化財調査センターで、その場所を聞くと
ほんの50mほどの近くに案内版がりますが、この辺り一帯が古戦場と思っていい、との説明。

特に、それらしく変わった事は何も無い。普通の住宅街と空き地と林である。

空き地の一角に所沢市教育委員会の案内版があり
太平記によると1,333年(元弘3年)、新田義貞は鎌倉の北条高時を攻めるため
新田町は生品神社から入間川北岸に到着した。
一方の北条方・桜田貞国を将として鎌倉街道を北進し、両軍は小手指原で激しく戦ったとある。

しかし、勝敗は決せず、貞義は入間川に、北条方は久米川に退いた。
翌日、新田方は先制攻撃を仕掛けて久米川の陣を攻め立てたので、北条方は敗れて
府中の分倍河原に退いた。

更にその後、新田方は分倍河原に押し寄せたところ、北条方には援軍がきており
新田方は敗れて狭山市堀兼まで退き陣を立て直した。

さらに後日、新田方は分倍河原の合戦で勝利を得て、勢い藤沢市村岡で戦い
ついに鎌倉を攻め落としたと書かれてあった。

さらに
この案内版から20mほどのところに、高い塚があり、そこには義貞が源氏の白旗を立てた
場所と伝えられていると書かれてあった。

その場所は一帯が林になっており、その一部7mほど登ったところに石碑があった。

まことに太平記の世界そのものであり、ワクワクとするものであった。
50%は史実ではなく、ロマンの世界である。





埼玉県騎西町 多賀谷氏館址をゆく(訪問は6月29日)

122号線を西に入ったところに水路があり、その更に西側に大福寺というお寺さんがあった。
それが多賀谷氏館址であるという。真言宗智山派のお寺さんである。

住職一家の住まいの部分は荒れ果てており、他へ越されたのであろうか。
それにしても、身支度もせずに、ここを後にされたという風情があり、気にかかる風景であった。

周りは田園で、特に高地でもなく壕の址も土塁の址もない。

騎西町教育委員会の案内版によると
平安時代の末期、道地氏(当地の地名は道地)の一族多賀谷氏が館を構えたという。
多賀谷氏は武蔵七党の野与党に属し、頼朝の上洛の随兵や弓始め射手として
活躍したという。

周辺には寄居、館山などの館址に関する地名が残る。周辺の発掘では当時の陶磁器
が発掘されているよいう。

城址の地名であるが
丸山も、そうであるが、寄居や館山も、そうだと言われれば、なるほどそうである。

孫引きであるが
南北朝時代に下総結城氏が武蔵足立郡で所領を与えられた為
多賀谷氏は結城氏の配下になり、下総に移住したという。

その後結城合戦で破れ、佐竹氏の保護を得られたのであろうか。




06年07月03日
松山城の攻防をゆく@ クリックでAにゆく
松山城は埼玉県吉見町にあった戦国時代の大変重要な城であった。
扇谷上杉、山内上杉、古河公方、上杉謙信、武田信玄らがバトルを演じた。

吉見町から東松山市に入る地点に市の川がある。その川を要害として松山城があった。
松山城は比企丘陵の東の端で、ここから北武蔵地域の平野が始まる。

現在でも平野部から東松山へ通ずる交通の要所であり、車両の交通量が多い。
車両は右側の松山城址の傍を通過する。但しそこに城址があることを知らない。

すぐ隣は有名な吉見百穴遺跡で観光地である。観光者も城址があることを知らない。

実は、私も知らなかった。

以下に述べることは、孫引きであり、自分自身の学習のマトメである。

松山城は新田貞義が鎌倉の北条高時攻めのおりの仮宿舎としてが始まりとされる。




06年07月04日
埼玉県久喜市 甘棠院(かんとういん)・足利政氏館址
JR久喜市駅から15分ほどの街中にある。
北埼玉郡地区では知らない人がないほど有名なお寺さんである。

権威のある有名寺にしては、入り口は狭い。
但し足利氏のマークでである丸に二が入っていて、これはチョットすごい寺だぞと気が付く。

中門の前の左右に深く幅の広い壕があり、よく手入れされていた。
境内を突き当たると更に門があり、中を伺うと本堂の前に大きな石の碑が数体並んでいた。

裏に回って遺構を確認しようとしたが、非常に多くの鳥が群れており断念した。
直ぐ隣が乳児院であった。

3箇所ほどに埼玉県の案内版があり、それによると
1,519年(永正16年)古河公方足利成氏の子政氏が移り住み館を寺とした。
館址の規模は東西140m南北250mで、北西南に壕がある。北には土塁。
壕は幅10m深さ5mで45度の傾斜になっており箱薬研彫である。

1,482年(文明14年)以降に政氏の館になった。(寺には1,519年)

以下は案内版に書かれてあったのではないが
政氏は保守的な人柄で、武士としては珍しく歌人でもあったようである。

扇谷上杉、山内上杉との関係、後北条との関係や嫡子との関係で随分と悩みぬき
戦いに明け暮れた人であったと思う。

結局晩年の20年間は、ここに隠居して歌人として穏やかに69歳の人生を終わった。
無残な死に方をせず、今にしてみれば
最後は風雅な趣味と共に、この時代の武将にしては、いい人生を送ったとも云える。

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