小さな歴史旅C
06年07月05日
松山城の攻防をゆくA @に戻るクリック
この城の本格的な築城は1,399年(応永6年)で上田左衛門尉友直によって
行われたと言われている。
友直は大河原(東秩父村)安戸城主として、大河原御堂を中心に、小川町腰越付近
一帯に勢力を持っていたと思われる。
しかし、特に前半文章は、実は、はっきりとはしない。
最近地元の郷土史家がこのことを含めて解明されたようであるが、小生はまだ未読。
06年07月06日
松山城の攻防をゆくB クリックでCに行く
1,524年(大永4年)北条氏綱は江戸城を攻略して扇谷上杉朝興を敗走させた。
さらに氏綱は1,537年(天文6年)川越城も手中に収めた。
敗れた朝興の子朝定は、当時扇谷上杉に味方してしていた松山城に逃げた。
北条氏綱は勢いにのり、松山城をも落とそうとせまったが
当時の城主・上田又二郎政弘はこれを防いだ。
06年07月06日
「武蔵の戦乱はいつから始まったか」を考える
これを考える前提(以下出典は埼玉県立歴史資料館)
○永享の乱
1438年(永享10年)
室町将軍・義教(義満の子で6代将軍)と鎌倉公方足利持氏の対立が武蔵騒乱の根源。
足利持氏 VS 室町将軍方の関東管領・山内上杉憲実→足利持氏の負け。
○結城合戦
1,441年(嘉吉元年)
持氏の遺子・足利成氏(しげうじ) VS 山内上杉→足利成氏の負け
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これよりが武蔵の戦乱の準備段階
○享徳の大乱
武蔵に於ける古河公方 VS 山内上杉・扇谷上杉の戦いといえる。
足利成氏が関東管領・山内上杉憲忠を1,454年(享徳3年)に誅殺。(これを享徳の大乱)
足利成氏が翌年の1,455年、茨城県の古河へ移る→これが古河公方の始まり。
1,457年(長禄元年)
今度は室町幕府側になった扇谷上杉は河越、岩付、江戸に城を築く、あるいは本拠とす。
1,459年(長禄3年)
関東管領・山内上杉は本庄の五十子(いかつこ)陣屋を造る。
○都鄙(都と田舎という意味・つまり室町幕府と古河公方)の和睦
1,482年(文明14年)
太田道灌(扇谷上杉の重臣)の尽力で成立。
1,486年(文明18年)太田道灌は主君の扇谷上杉に殺害される。
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ここからが武蔵の戦乱の始まりといえる。
○長享年中の大乱
長享と言うのは1,487年から1,490年であるから秀吉の天下統一(小田原開城)の100年前。
大田道灌は両上杉や古河公方らを束ねる扇の要のような存在であった。
彼が何故か主君に殺害されてしまい、武蔵地域は一気に、戦乱の様相となった。
いつの時代もそうである。要となる人が居なくなると統制が取れなくなってしまい
スタートの地点に戻る過渡期となる。この過渡期がいつまで続くかは誰にも解らない。
奇しくも戦国時代の始まりは、1,477年の応仁の乱から始まったとされるので
武蔵は都から10年遅れで戦国時代が始まったといえる。
06年07月08日
松山城の攻防をゆくC クリックでDにゆく
この攻防のおり、城主・上田又二郎政弘の城代を務めた難波田弾正が城外での戦闘の折に
あったとされるのが有名な「松山城風流歌合戦」である。
城を守る側の難波田弾正(上杉方)は、攻城方の敵将である山中主膳(北条氏綱方)に駆け寄られ
「あしからじよかれとてこそたたかはめなど難波田のくずれ行くらん」と問いかけられた。
これに対して難波田弾正は「君おきてあだし心を我をたばすゑの松山波もこえなん」と返したという。
この歌の解釈を無学な自分が試みたい。
前者は
「私は貴方に個人的に恨みは無いけれど、私が貴方を戦い攻めるので、難波田へ崩れ去るだろう
悪く思わないでくれよ」 (難波田は西国・摂津の難波の海だろう)
後者は
「何を言うか、貴方の戦いに負ける分けが無い。波のような松の木々を乗り越えて勝ち進むだろう」
(松山波は伊予松山沖の波だろう)
多分陳腐な解釈で大笑いの種になるでしょう。種にもならないか。
冗談は顔だけにしろって?
まあーお笑いの種もいいではないか。 何なら、あんたならど〜解釈する。
正しい解釈は次のようです。
前者は
難波田弾正ほどの者が何故この位の戦いで逃げるのか
後者は 私が今ここで戦死したら城は落ちるだろう。主君・上杉氏のために生き永らえて城を守るのだ 06年07月10日 松山城の攻防をゆくD クリックでEにゆく 1,546年(天文15年)川越夜戦である。 扇谷上杉朝定は山内上杉憲正、古河公方足利晴氏と共に川越城を北条氏綱方から奪還すべく (珍しく)三派連合を組んだ。 ところが逆に北条氏康の夜襲に遭い、難波田弾正父子と共に討ち死にしたという。 上田朝直は松山城へ引き返すどころか、本拠の安戸城へ落ち延びた。 そして、松山城は後北条の手に落ちたのである。なんの為の川越城攻めであったか。 哀れなのは扇谷上杉である。これがきっかけで扇谷上杉は消滅したのである。 大田道灌を殺害せずにおれば、こんなことは無かったであろう。 06年07月11日 埼玉県東秩父村 安戸城址をゆく 松山城の上田氏の出身母体は、河原村(現在東秩父村安戸)である。 上田氏は松山城などでの合戦に負けると、ここ安戸城へ度々逃げ込んだ。 敵が安戸城まで追いかけてきた、という記述はないらしい。 上田氏にとって、安心の出来る天地であった。 人間困ったときに、逃げ込める場所があるのは、いいことだ。 いつでも、母の懐に飛び込める。 松山城からここ安戸城へは直線25kmほどであるから50kmは必要だろう。 馬なら1時間、徒歩で1日以上であろう。 実は私は、この安戸城址に行くことが出来なかった。 ほとんどケモノミチで尋常な人では無理であると思った。05年に登山した人の 記載があったので諦めて、すぐ下の麓で我慢することにした。 山裾に大霊神社なるものがあったので、ここで板碑を見た。 年号を調べると、大永8年、天文2年、天正17年、と大型の板碑が並んでいた。 それぞれ、1528年、1533年、1589年、である。 もちろん、これだけでなく、あと2基か3基あったが年号が読めなかった。 ちなみに 1,524年(大永4年)には北条氏綱が江戸城を攻略している。 松山城風流歌合戦は天文6年(1,537年)であり 1,545年(天文14年)この年から翌年にかけて、川越夜戦の敗戦で 上田又二郎は松山城を失い、ここ安戸城へ逃げ込んでいる。 1,589年(天正17年)といえば 秀吉の天下統一の1年前、小田原征伐の前年である。 安戸城をせめて遠くからでも見ようと、200mほど離れて見てみると 他の山より、なだらかなこんもりとした低い山で ここなら城を築けると思った。 大霊神社から登るよりも向かって右側のなだらかな方から登るようになって いたのだろうか。などと山を仰ぎながら5百年前の上田氏を思うのも楽しかった。 06年07月13日 松山城の攻防をゆくE クリックでFにゆく 上田朝直は暫くこの安戸の城で、様子を窺ったあと、岩付城主の太田資正の協力で 同年の1,546年(天文15年)に早くも松山城を奪回したという。 06年07月14日 後北条の武蔵での活動はいつからか 今で言う関東、律令時代で言う東国、武蔵と言う言葉も律令時代からの言葉であろう。 表題の件であるが 武蔵地域が騒乱ととなったのは、太田道灌が扇谷上杉に誅殺されてからであるから ざっと1,490年ごろでいい。 そこへ後北条が入り込んで来て問題を複雑にした。 ○1,524年(大永4年)北条氏綱(あの北条早雲の継嗣)は扇谷上杉を追い出して 江戸城を手に入れる。 ○1,537年(天文6年)川越城も手に入れる。 ○1,546年には川越夜戦で扇谷上杉を滅亡させ、山内上杉を上野に敗走させる。 これで、だいたい、武蔵地域は後北条の手に落ちたと言っていいだろう。 ただ、後北条がなぜこんなに強かったかが分らない。多分地元民を味方につけた からだろう。 その方法がよく解らない。 埼玉県立歴史資料館(現在の埼玉県立嵐山史跡の博物館)の本には説明書はあるが 納得できない。 表題に戻るが 後北条は1,520年代から武蔵に武張ってきたと言える。 そして二十数年で武蔵を獲得した。 後北条が消滅するのは、1,590年(天正18年)の小田原開城である。 06年07月15日 神楽について 本日、埼玉県騎西町の玉敷神社の神楽を見学させて戴いた。 神楽についてのウンチクを軽めに考えてみた。 以外であるが、神楽は、それほど古いものではないだろう、が結論です。 それほどとは、律令時代のことである。 ただ 神楽の起源は、天照大御神が天の岩屋戸に姿を隠した際、天宇受売が 天の岩屋戸の前で神懸かりとなって舞い踊った(古事記、日本書紀に記載) とされる神話が定説になっている。定説ではなく、神話で俗説だ。 例えば 今日訪れた玉敷神社では、1640年ごろから神楽が行われていたらしいと 神社の案内版には書かれている。 それ以前のことは神社が上杉謙信の侵攻の時火災で消失して、文献が無いと 書かれている。まことに正しい案内である。 私は個人的には、室町時代の田楽が原型になっていると思うのです。 いやそれは、里神楽のことであり 宮中での神楽とは違うと言わればそうだろうが。なら証拠を示して欲しい。 これについての研究者はいるのだろうか。いるのだろう。 06年07月17日
埼玉県立歴史と民族の博物館 田中英司学芸員殿
本日7月17日 デポー太古の宝箱ー を受講致しました。
有難う御座いました。
小生の子供の頃、「よいもんばこ」に貴重な
ものを、家族に知られない所に隠し持っていました。
縄文の時代から人々がデポに隠した心は
ひょっとしたら、奥底にあるものは、似ているのかな
と思いながら楽しく興味深くお聞き致しました。
以前から興味を抱いている銅鐸が山の斜面から
出土するなど、益々有意義でありました。
高橋館長さんが退職されるそうですが
4月より面白くなった当館を皆様が益々盛り上げて
戴けるものと思い、期待致しております。
06年07月19日
さいたま市立図書館 武蔵の両上杉合戦
1,486年(文明18年)
扇谷上杉定正が大田道灌を誅殺
1,487年(長享元年)
勧農城(足利市)の攻防
1,488年(長享2)
高見原の合戦(小川町)
須賀谷原の合戦(嵐山町)
扇谷上杉・古河公方 VS 山内上杉・越後上杉
両陣営で500人戦死。
1,494年(明応3)
扇谷上杉定正が死去
これをきっかけに、古河公方が山内上杉側に着き
扇谷上杉は衰退
1,504年(永正元年)
立河原の合戦(立川市)
扇谷上杉+(今川義元・北条早雲の援軍) VS 山内上杉顕定
1,505年
川越城での合戦
守り手 扇谷上杉
攻めて 山内上杉
山内上杉の勝利で1,488年から17年続いた両上杉の戦いは
山内上杉の勝利と、ひとまずなった。
そして、1,546年の川越夜戦で扇谷上杉は滅亡する。
なぜ山内上杉が強く扇谷上杉は弱かったのだろうか。
扇谷上杉定正が大田道灌を誅殺したのがまづかった。
優秀な配下の要の武将を妬みか何かは不明だが誅殺するようでは。
そういうことをする扇谷上杉の能力は低いと推察できるが。
例えば、黒田官兵衛や明智光秀のことを、ふと思い出す。
06年07月20日
宗教の旅
私の生家の宗旨は浄土真宗であったが、10年以上前だと思うが、私個人は
あるお寺さんの境内の墓地を購入したので、宗旨が自然と真言宗になった。
別にどちらでも異存はない。
ところで
本来の仏教の目的は「解脱」することにあると言う。
解脱して自分自身が救われるのである。誰かを救うのではない。
大事なことは
○本来釈迦は、自分を救ったのであり他人を救う目的は無かった。
○仏教はCPのリナックスの様に皆で基本ソフト(0S)を進化させていった。
多分今でも時代や場所の都合で多くの人が変化させ続けているだろう。
そこで
浄土真宗は浄土教(浄土宗にするが)の教主法然から分派した。
浄土宗は、お釈迦さんではなく阿弥陀如来を拝んでいる。
阿弥陀如来は存在せず、宇宙に遍く存在する哲学的な形而上の存在だという。
その阿弥陀如来さんは、西方浄土へ導いてくれることになっているそうだ。
西方浄土は、勿論、極楽だろう。極楽浄土というではないか。
そこで
浄土真宗だが、これは簡単である。浄土宗から他力の部分を抜き出したものだ。
南無阿弥陀仏と唱えるだけで西方浄土へ行けることになっている。
唱えるだけでよい。勉強も修行も何もいらない。言い忘れたが親鸞さんが興した。
クドイガ
南無阿弥陀仏は西方浄土へ行く為の呪文ではない。
西方浄土へ導いてくれることに対する感謝の言葉だそうな。
「導いてくれる作用」を「他力本願」というらしい。
作用を興すのは当然阿弥陀如来さんだと思う。
浄土真宗の話しはこれでおしまい。
次に真言宗の話し。
真言宗もお釈迦さんでなく大日如来を拝んでいる。言い忘れたが空海さんが興した。
大日如来は存在せず、宇宙の根源であり、やはり遍く存在することになっている。
この部分は浄土真宗とあまりかわらないが、表現が違うのでどこかが違うのだろう。
但し根本的に違うのは
真言宗は解脱を目的とする即身成仏を説いていることだ。
よく解らないが、即身成仏すれば死ぬだろう。死ねば当然解脱するだろう。
なんだ死ぬのかと、ハヤトチリするのが素人だろう。
これ以上のことは解らない。いずれにしても大変な努力が必要だ。
真言宗の話しもこれでおしまい。
浄土真宗は救済される宗教
真言宗は解脱する宗教。(最初、おまじない的所作が非常に多いのに驚いた)
これだけは解ったような気がする。
(しかし真言宗の密教の意味は、さっぱり理解不能である)
それは別として、どこかみたいに宗教で戦争しないで皆平和に仲良く暮ら
せる日本は有難い。戦争の原因の多くは宗教だと言われている。皮肉なものだ。
それにしても疲れる旅であった。
06年07月22日
埼玉県川越市 河越氏館址をゆく
プロローグ
川越市の市街地を西に向かい入間川の雁見橋を越えると、左手に常楽寺があり
それが河越氏館址。
川の蛇行する角にあり、なにか意味があるのかと考えてみた。
800年以上前であり、流れは変化したり、土木工事をするので考える意味がない。
館の地は低く、川側を除けば、防御能力は極めて低い。
200m四方の面積はある。堂々としたものである。
まず、西側の土塁址らしきものを確認し、東側の壕らしきものを東と北側から探索する。
さらに北側の立派な土塁を見て、興奮し嬉しくなる。
常楽寺境内の説明板によると、一遍上人がここで念仏を興行したという。
時宗の踊念仏である。
1,280年前後のはずであるが、一遍さんが足を上げたりして鉦を叩き輪の中心で
にこやかに踊り、民衆が喜んで取り囲んでいただろう。目に浮かぶではないか。
ナモアミダーブツ ナモアミダー、 ナモアミダーブツ ナモアミダー
(私事だが、私は一遍さんのファンである)
珍しく国指定の史跡になっているが、律令時代から中世の豪族館址としてだろう。
1,970年ごろから、盛んに発掘調査されているというが、現在はそれらしき跡は見えず。
サブジェクト
川越市教育委員会の案内板によると
ここは、平安時代の終わりから存在し、武蔵で大きな力をもっていた在地領主の館址だ。
河越氏は桓武平氏である秩父氏の流れを汲む一族でここで河越氏を名乗ったという。
1,180年(治承4)源頼朝が伊豆で挙兵すると最初敵対したが、やがて御家人となり
平氏討伐に参戦した。
この頃、河越重頼の娘が義経の妻になった。
ところが源頼朝と義経の関係が悪化し、河越重頼は滅ぼされ、河越氏は一時衰退した。
(ご存知、静御前(栗橋に墓)は、妻どころか2号さんでもなく、唯の白拍子(遊女))
しかし、鎌倉時代中頃には勢力を回復していたという。
鎌倉時代の終わりごろには、この館の中に常楽寺が作られていたという。
1,368年(応安元年)には河越氏や高坂氏が、この館に立て篭もり幕府に敵対(平一揆)
するが滅ぼされてしまい、河越氏は歴史の舞台から消滅した。
戦国時代には、関東管領山内上杉が、川越城の扇谷上杉に対抗するするため
この館址を含めて上戸陣(上戸は現在もここの地名)を構えたという。
エピローグ
川越城は扇谷上杉が太田道灌(父子)に命じ、築城されたのが1,457(長禄元年)以降で
あると思われる。山内上杉がこれに対抗したということは、さらに、この頃よりも後だ。
現在北側に残る東西10m幅2mの僅かな土塁址はそのころのものだろう。
私は高さ2mほどの、この土塁址に登ってみたが、5百年前の土塁構築物が
まだこの高さで残っているのだろうか、やや疑問に思った。
しかし両上杉が入間川を挟み、鼻息荒く対峙したことに思いを馳せるには十分であった。
今日も小生にとって佳き日であった。
06年07月23日 松山城の攻防をゆくF クリックでGにゆく ところが、ここからが、時代の変遷である。 その後、後北条が再度松山城を獲るべく攻め立てた時である。 守る側の上田朝直が 以外や以外、上田が守りを手伝って貰っている太田勢を裏切ったのである。 上田朝直は後北条側に寝返った為、簡単に松山城は落城してしまった。 上田朝直の心は如何であったであろうか。この功により、上田朝直は 後北条から領地と城を安堵された。 上田朝直は 武蔵地域の軍事情勢はすでに、後北条勢力に傾きつつあった事を察知したのだ。 その代わり 上田朝直は後北条の北武蔵・上野の軍事拠点の最前線に 立つことになったのである。 強いものに、なびかねば、生き残れないのだ。 いつの時代も同じである。 (この時期、どこかの国の安倍某に面従腹背しなければならない人もあろうに) 06年07月26日 埼玉県東松山市下野本 野本将軍塚古墳をゆく(訪問は7月25日) ここに、こんな巨大な古墳が存在することに先ず驚いた。 小学校と無量寿寺に隣接して、円墳部がいきなり立ち上がっている。 それよりも、こんな巨大な墳墓は行田のさきたま古墳群にあるものと 思い込んでいた自分が間違っていた。 取り敢えず登ってみた。 梅雨の明けやらぬ折、足元が滑るようで、前方部と後円部の間に登りつき そこで、両方を眺めただけで終わった。 円墳部には神社が設けれているのが見えた。とにかく足が滑りそうであるのと やや気味悪さもある。巨大な墓というより、見せ付けるための装置だろう。 東松山市教育委員会の案内板によると(黒字の部分) 県内有数の規模(2番目)であり、全長115mでの前方後円墳である。 高さ前方部が7mで後円部が12mだという。 まだ未調査のため、埋葬施設や周りにあろうはずの埴輪は手付かずであるという。 世界中の墳墓などはそうであるが、調査の前に墓泥棒が先に財宝を抜き取る。 近縁には柏崎・古凍古墳、高坂・諏訪山古墳群、塚原・青島古墳群、吉見百穴郡 があり、この時代ここは高度のな社会的発展をとげていただろうと記されている。 ここに、これだけの巨大な墳墓があるということは 確かに、ここは紀元後5百年ごろ(古墳時代)の先進地域であったのだろう。 なぜここが先進地域になれたかは、丘陵が近いので水を使う農耕に適していたから だろう。例えばさいたま市などは、そのころの農業の不適地であったに違いない。 ところで 野本将軍とは何か。 野本は地名であり、将軍は公認の、この方面の広い地方を統括する武士だろう。 円墳部にある社はその将軍を祭ってある。 将軍の生い立ちは藤原利仁という人物であるらしい。 (但し東松山市教育委員会は、案内板では、それを謳ってはいないが) 『尊卑分脈』という、嫌な名称の文書が有名だが、それによると 鎮守府将軍・藤原時長と越前の人・秦豊国の娘との間に生まれたことになっている。 藤原氏と言うと、平安の貴族である。 藤原利仁は上野や上総や武蔵の国司になった人物のようだ。 国司とは鎌倉や室町の守護に相当する。 なお、藤原利仁は武士であるらしい。 藤原氏で武士となった者は 有名な平の将門を倒した藤原秀郷(俵藤太)や、藤原利仁であるらしい。
といかく藤原利仁は、関東を司る将軍(鎮守府将軍)であり
平安時代には有名な人物であったのだろう。
つまり、この地域一帯は平安時代は、現在の埼玉県と東京都の知事の居るような場所か。
とすれば、これは大発見じゃないか。しかし平安時代は、こんな古墳を造る時代かな?
古墳が盛んに造られたのは300年から600年だろうに。
いわゆる古墳時代だが。
とするとこれは、藤原利仁の為に造ったのではなく、古墳時代に造ったのを
藤原利仁の墓にして、持ち上げて、祭り上げたのだろうか。
しかし、いづれにしても、この比企地域は平安時代は先進地域であったことになるが。
06年07月27日
埼玉県立歴史と民族の博物館 常設展示室古墳時代
古墳時代のパネルを見ながら、古墳が丘陵地帯にばかり存在しており
平野にない。
また山岳地帯は古代農耕にとっての水瓶であり、丘陵地帯はその水を
利用していたのだう。だから律令時代には平野部では農耕は行われていなかった
のではないか。
少なくとも弥生時代には丘陵地帯だけで農耕をしていたのではと質問した。
学芸員の方から丁寧に、ご説明戴いた。
○平野にも古墳はあったが、農耕のため取り崩してしまい、残っていない。
○例えば熊谷の平野部で発掘調査をしたが、大変古い時代から農耕は行われていた
ことが、解っている。
私は、農耕は丘陵地帯から始り、徐々に平野に広がっていったのではないかと思っていた。
何故なら、山の水を1年中少しづつ利用できるのは丘陵地帯である。
平野の川は、一度にどっと流れて、古代農耕では使いにくい。
だから、平野で農耕を始めて豊かになったのは室町時代だろう。だから室町時代は
一気に豊かな時代になり、余裕もでて、文化が栄え始めた。
学芸員の方は
○農耕は平野で行われていたのは、普通考えられていることだし、平野部を掘れば
水は出てくるので、農耕は出来る。
○実際発掘調査でもその通りである
○丘陵地帯に古墳が存在する理由は、古墳時代には
耕作する場所と住む場所、墓所は異なったところに存在していた。だから矛盾はない。
確かに
農耕は、平野部から徐々に山間部に広がっていった。これは極常識である。
その反対は非常識である。
私は後者の非常識派である。
06年07月28日
さいたま市桜区 道場館址(金剛寺)
武蔵野線田島駅から15分ほどの住宅街の中にあった。
とくに館址の面影は全くない。
以下、当寺の脇の天満宮にある案内板によると
新編武蔵風土記稿(1804年〜1829年編纂)によると、
このあたりに巨大な伽藍があったが、保元の乱(1156年)の兵火で消失した。
1,190年に畠山重忠がこの地を領有していたときに
この天満宮の北側に金剛寺を草創した。とある。
畠山重忠がこの地を領有していた、というだけでも、ワクワクするものがる。
鎌倉幕府が出来る前の、畠山重忠に、これから始まる事共に対する
心の高ぶりが見えるようだ。
畠山重忠は、ここに、伽藍の址に館を建てて
菅谷(比企郡嵐山町)から度々この地に武張って、領民を撫育したのだろう。
だが、十数年後の1205年に北条義時に騙されて武蔵二俣川で戦死した。
などと思いつ、後にした。
余談だが、武蔵二俣川とはどこであろうか。私は二俣川というと横浜を連想するが。
横浜は武蔵でなく、相模だろう。武蔵に二俣川という地名があるのだろうか。
06年08月01日
松山城の攻防をゆくG クリックでHにいく
関東管領上杉憲正から、上杉謙信は管領職を受け継いだ。
長尾影虎が上杉謙信に変身したのである。
関東管領山内上杉憲正の力ではもう、関東管領の職を維持できなくなったのだろう。
もっとも、この関東管領は本来、室町の出先である鎌倉公方の補佐役であったはずである。
それが、名実ともに意味を成さない状況になっていて、単なる名誉職になっていた。
本来、上杉と言えば足利尊氏の実母の実家である。
それが、なんの関係も無い長尾が承継するとは。 世の中とは、そんなものである。
地位名誉だけが一人歩きする。
ところで
1,561年(永禄4年)上杉謙信は9万の大軍で松山城を攻めたという。
上田朝直はたまらず、松山城を放棄して、例によって安戸城へ逃げ込んだ。
上杉謙信は太田山楽斎資正というものに岩付城とともに松山城の守りを命じたという。
上杉謙信とは不思議な人で、領土欲が無かった。9万は多すぎるが(9万人を動員するには
90,000/200≒400万石の大名である・・・。徳川家康は約680万石であったらしい)
配下の武将への恩賞はどうしたのかといつも不思議に思う。
06年08月03日
埼玉県吉見町 松山城址をゆく(訪問は8月2日)
長梅雨で足元が悪く、今まで登城するのをためらっていたが、本日決行した。
大手門ではないと考えられる西側の準備された階段を上がっていった。
沢の様になった小道を少し登るとると直ぐに深い壕があり、左側に墓地、右側に平場。
さらに壕を登るとやがて本丸に出た。 途中とにかく多くの小虫が飛び回っていた。
更に二の丸、三の丸、春日丸や兵糧倉庫跡など夥しい址が累々と傍観できる。
確かに北には市の川、南と西は崖の要害である。ただ難点は東側が無防備であることだ。
それが、鉢形城との違いかもしれない。
いずれにしても、人の手が入らず、嵐山の杉山城を巨大にしたものといえるだろう。
私はつい、上田朝直のつもりになった。
そして東西南北を眺めて敵の襲来に備えようとした。
が、木々が鬱蒼としており、何も見えない。
恐らく、戦国時代には防御に都合よく、木々は切り倒されていたはずである。
以下は埼玉県教育委員会と吉見町教育委員会による案内板の説明(黒字の部分)
城の大きさは20万坪とも30万坪とも言われているらしい。
ちなみに千代田区の皇居は10万坪らしい。
余談だが10万坪でゴルフコースが9ホール出来るらしい。
この地は川越や鎌倉方面と、鉢形や上野方面の要衝の地であった。
この城が築かれたのは、新田義貞陣営説もある。
応永年間(1,400年年の初めごろというから南北朝が収束した頃)
とも言われている。
本格的に城らしくなったのは1,400年の半ばで扇谷上杉と古河公方の
つばぜり合いのころからだろうと思われる。
1,400年の半ばと言うと太田道灌の活躍したころだ。
実際、そのように大田道灌が縄張りしたようにも書かれた案内板もあった。
やはり、いづれにしても
ジモティーの上田を中心に上杉、武田、北条がバトルを演じ争奪戦となった。
そして100数十年間の騒乱のなかで築造と改造が行われたが
その中でも、上田氏が最も有名である。上田氏の本拠は現在の東秩父村であるが。
そのことについては、小生の稚拙な以下のURLでご確認下さい。
http://www.ne.jp/asahi/cyarinko/tsushin/tiisanarekisitabi4.htm
まだ完成の途中(06年08月03日現在)ではありますが。
そして
1,590年(天正18年)にはメジャーの秀吉軍団である
前田利家、上杉景勝に囲まれて落城し、江戸時代初め廃城になった。
私の好きな武蔵戦国の世は終わったのである。
06年08月08日
松山城の攻防をゆくH クリックでIへゆく
1,561年(永禄4)から1,562年のことである。
安戸城へ退いた上田朝直は、上杉謙信が引き上げたのをみて、同年と翌年には
さっそく北条方と共に松山城奪還のため総勢3万で攻め寄せたという。
そのおり、上杉謙信を牽制するため、上杉謙信の宿敵である武田信玄2万5千の援軍
も松山城に至ったという。 やがて松山城は落城した。
それにしても、武田信玄はどういうメリットを得たのであろうかと思う。
06年08月10日訪問
埼玉県川越市 川越城址をゆく
奥まった部屋まで行った。 その場の説明者によると
現在の建物は、1,850年の少し前に火災で消失してその2〜3年後に
建てられたものであり、その折の費用の工面についての相談風景が
生々しい3人の人形として置かれているということであった。
なるほど、解りやすいディスプレイである。
私は「当時はこの様な場合、昼でも明かりを灯したのでしょうか」と無粋な質問をした。
(06年08月11日記)
説明者が、私が1,965年頃読んでいた「日本の歴史」という懐かしい本を読んでおられた
ので、つい声を掛けてしまった。
ご説明戴いた方は、若々しい方であった。
ボランティアの方かと思ったら、そうではなくシルバーセンターの方で
65歳であられるという。 つい私と同年代のようにお見受けした。
当御殿のパンフレットによると
扇谷上杉持朝が長禄元年(1,457年)に家臣の太田道真(資清)・道灌(資長)父子に
命じて築城させたと書いてある。
さきほどの説明者ではない方にだが
私は「そうでないと言う説もあるそうですが」とい意地悪な質問をしてみた。
「重要な部分は太田父子がやったと思います」と無難な回答をされてしまった。
そのころ(1,400年中頃)扇谷上杉は川越城、岩槻城、江戸城をほぼ同時に築城した
と言われている。私は山内上杉に対抗するための築城かと思っていたが
パンフレットによると
当時、扇谷上杉持朝は古河公方足利成氏と北武蔵の覇権をめぐって攻防を繰り返して
おり、築城はこれに備えたものと書かれていた。
(06年8月12日記)
1,486年(文明18年)のことであった。
扇谷上杉の家宰・太田道灌が、こともあろうに仕え先の扇谷上杉定正に誅殺されてしまった。
これが武蔵の戦国時代・下克上の始りである。
扇谷上杉、山内上杉、古河公方の中をうまく立ち回り取り仕切ってきたのが大田道灌であった
と言われている。扇の要が居なくなって暫くして後北条が割り込んできた。
結局、1,546年(天文15年)
後北条に対して、扇谷上杉、山内上杉、古河公方の三派連合を組んで阻止を図ったが、川越城
は後北条に完全に取られてしまった。 これが世に言う有名な「川越夜戦」である。
これ以降、武蔵地域は1,590年(天正18年)の秀吉による天下統一まで後北条のものになった。
埼玉県は小田原勢に乗っ取られてしまったのである。
おまけに、これが切っ掛けで扇谷上杉そのものも消滅してしまうのであった。
扇谷上杉定正が大田道灌を殺していなければと悔やまれる。
私は案内者に
「大田道灌は入浴中に扇谷上杉定正に殺されましたが、どうしてなんでしょうか」と問いかけた。
「道灌は武士でありながら歌も詠みめる人でした。道灌が将軍の前で歌詠みなどするので
定正は悔しかったのでしょう。ななえ八重花は咲けども山吹・・・」と案内者。
私は
「道灌は黒田官兵衛如水のように、知らぬ風に装えなかったのでしょうね。根が正直でしたね」
(私事であるが、現在でも埼玉・東京人は「皐月の鯉の吹流し」のようで(失礼)、裏腹が無いと思う)
(06年08月13日記)
その後、とうりゃんせの伝説のある三芳野神社、富士見櫓址を訪れた。
三芳野神社について案内者は
当時、神社は城の中の一部に存在していた。神社からの帰りに怪しいものを持ち出すことを警戒
していた城側の警備者が、厳重に取り調べたからであろうという。
もちろん、とうりゃんせの伝説のある神社は他にも多数あるだろうし、謂れについても多々あるだろう。
江戸城の老中や家老を出す譜代の川越城らしい話しではあるが。
それにしても家康は、島津に対する熊本城と同じく、よほど伊達が怖かったと見え、川越城を盛大に
拡張工事して攻守に備えたと見える。
譜代が殆んど居なかった秀吉のことと比較して、ふと思い出したが、結局人は信用できる人間は
第一に己、第二に肉親、第三に三河で共に過ごした周りの者たちであったのだ。酒井氏である。
勝海舟が「権現様は糸を一本引けばスルスルと崩れるようにされたのじゃ」などと強がりを言った。
佐幕側でありながら、開明の彼らしい言葉ではあった。などと思いながら川越城址を後にした。
帰路は時の鐘の隣でアイスクリームをむしゃぶり食いつき、いちの屋で、うなぎを食すのであった。
06年08月14日
松山城の攻防をゆくI クリックでJへゆく
1,562年(永禄5年)
上杉謙信は松山城への援軍で,来たのであるが目前にして松山城が落城したことを知り
やけくそで、近くの騎西城、小田城、小山城、佐野城も落として古河城に関わってから
越後へ帰って行ったという。
後北条の一員としてではあるが、再び上田朝直には安定した時代が通り過ぎて行った。
やがて家督を長則に譲り、1,582年(天正10年)本能寺の年に死去した。翌年には長則も死去
したという。そして長則の兄弟が後継したという。
上田は領国支配にやっと時間を割くことができ、松山の地の経済活動も順調であっただろう。
上田朝直にとっては、まことに波乱万丈の人生であったが晩年の20年間は
平安な日々であっただろう。そして心置きなく死ねたであろう。
だが、このままでは推移しなかった。戦国の世はまだ続くのである。
06年08月17日
埼玉県立歴史と民族の博物館 「縄文から弥生」展示解説受講
質問を試みた
○縄文時代に貝塚は何故存在するのですか。 回答:見沼の貝塚の場合、わざわざ造ったのではなく 住んでいた址に貝を捨てていった。 そこには人骨さえも見つけることがある。 そして人々は、食を求めて順次移動して行っただろう。 私の考えていたこと :貝塚があるということは、既にそこに小さな規制社会が 構成されていた証拠ではないか。 何故なら、捨てる場所を決める事自体が、その時点で既に大らかと思われている (小生の勝手な思い)縄文時代を否定してしまうのである。 ○土器の形状はなぜ不安定なのでしょうか。 回答:当時の人々の住まいの面積を有効に使うなどが原因でしょう。 平べったい土器が発見されるのが少ないと考えることもあり得るが。 私の考えていたこと :初期の煮炊きに使っていた当時の形状が後々までも 文化として残っていったのではないか つまり新人は既に高度な文化を獲得していた。 女性の解説者が「縄文時代に生まれるのがいい」と言われたが まことに同感の至りで 間違っても古墳時代や律令時代には御免蒙りたいものです。 06年08月19日 松山城の攻防をゆくJ
1,590年(天正18年)
秀吉傘下の前田利家・上杉景勝軍が押し寄せた。
4月に松山城はあえなく落城したという。
1,495年に北条早雲が小田原城を落城させてから
ほぼ100年である。正確には95年目の、1,590年の7月には北条氏直が秀吉に降参した。
そして松山城はその3ヶ月前の4月の落城であった。
1,601年(慶長6年)には家康は、この城を廃城とした。
上田氏累代の墓は東秩父村の浄蓮寺にあるという。
確かこの寺の文書を調べられて本にされた埼玉の人がある。
「武蔵松山城主上田氏」の梅沢太久夫氏である。郷土史家である。
思えば北条早雲が100年前に戦国時代を開き下克上の騒乱を全国に引き起こしたが
いま、その幕を降ろしたのである。
しかし、この時代ほど面白い時代はないのではないか。
古い秩序を破って新しい秩序を打ち立てる。今に通じるものもある。
「松山城攻防をゆく」は
これで終わり。
06年08月22日
埼玉県立文書館(場所「けんかつ」) 古文書解読講習会をゆく
@1710年代(正徳の頃)と
A1880年代(明治の20年代ごろ)の古文書の解読である。
解読と言うより、私にはその当時の人々の世相、或いは、人々の心を知りたかった。
ほぼ希望通りの内容で満足な一日であった。
勿論、今まで多々訪れた資料館・博物館の資料を読めずに悔しい思いをしたので
それが、少しでも読めれば、どんなに嬉しいことかと思い続けてきたことか。
もっとも
私は戦国時代と幕末に対して興味がある(小説の影響)ので、その時代に期待はしたが。
贅沢は言えない。 十分な講義であり、100年以上前の戦国時代に通じる文書であった。
ある受講者が「高札を庶民が読めたのか」と質問された。
名主が読んで聞かせただろうと解説された。その通りだと思ったが、私は農民や商人は
原則、読めたとおもっています。
なぜなら
ざっと言ってしまえば「江戸時代の武士は文盲で庶民は学問があった」が私の考えです。
その代わり、武士には威張り散らせる権限が、まだあった。(特に文化文政以降であるが)
もっとも
武士と言っても中流以下の武士であり、庶民といっても普通クラス以上の商人や農民だが。
また、年代や地方によっても余りにも異なったので、一概に言えない。
そういうベースがあったからこそ、明治以降の日本が欧米に追いつけたと思います。
極端な例で言えば、同じ九州でも
薩摩などの武士は殆んどが文盲であっただろうし、肥前などはその反対であっただろう。
更に言えば
武蔵は天領が多かった。一般に天領は諸藩に比し租税が低かったと思う。
学芸員の方で中曽根村の講義をされた方があった。まことに有難かった。
我々受講者は「厳しくもずるい」税の取立てに唖然としたわけであるが
あれは、各藩の農民に較べて軽い税負担であったことを忘れてはならないと思った。
06年08月26日
埼玉県立歴史と民族の博物館 「埋められた銭貨を読む」受講
日本各地から、多い場合数十万枚の埋められた貨幣が出土する。
埋納が盛んに行われたのは
平安時代の末期から鎌倉、南北朝、室町、戦国である。
何故、埋められたかであるが、今までの通説では、後で使うための備蓄だろうと言う
考えが常識であった。
本日の演者である、豊島区教育委員会学芸員 橋口定志氏の考えは違う。
「何か願いを込めて埋めた」と言う。
勿論それだけの理由がある。
一番は、現場の立地状況である。墓地、境界、井戸、屋敷などの設置される
その初期に埋納されていることである。
つまり、願い事の為に埋納したと考えるのが合理的と推測する。
さらに
道教との関係を疑ってみる。これはまだ研究端緒であるが。
私も、「歴史の(常識は)半分は嘘である」が信条だから、橋口氏にうなづける。
例えば
庚申講が行われていたことは紛れも無い真実だろう。
しかし古くても僅か300年前の事であるが、
あの庚申講を行っていた人々の心は、今となっては殆んど理解できない。
それと同じように、願い事をするのに貨幣を埋納するなど、理解できるわけがない。
現代の常識で過去の出来事を推察してそれが正しいと考えるのは危険だと演者は言う。
06年08月28日
埼玉県伊奈町 伊奈氏館址
東北新幹線と上越新幹線が北に向かって初めて分岐するのが、ここ伊奈町である。
分岐した直ぐ近くの東北新幹線側の東側に目的地はあった。
埼玉県教育委員会、伊奈町教育委員会の案内板によると
戦国時代終了の1,590年から伊奈氏の館があったという。
思ったより巨大な館址である。750m×350mの屋敷である。
しかし、発掘調査によると、裏門あたりに、幅5m深さ2mの障子堀があった。
これは、安定したした時代のものではなく、明らかに戦国時代の遺構である。
岩付城にも障子堀がある。場所のロケーションから岩付城の関連の城であったと
推測するのが自然だろう。但し、文献上に現れている話しは無い。
よくあることだが、古墳時代の墳墓址に戦国時代の城址がありその址に江戸時代の
城址がある。さらにその址に神社や仏閣があったり、戦後になって公園になっていたり。
また、第二次大戦の洞窟があったりするらしい。
高台であることから、水害を防げるので小中学校学校になっている事も多い。
ひょっとしたら、同じ理由で墓地もありうる。
私の経験では神社が最も多いようだ。
但し、壕も土塁も鬱そうと茂る草で、中に入ることも出来ずに外から眺めているだけで
あった。我ながら、まこに情けなや。
別の案内板(県、町教育委員会)によると、戦国城址を北条氏か、伊奈氏が
拡張したのではないかとも。
城防衛のため、敵が見通しを悪くするように、直角に曲がった道路が500mほど
続いていた。 城下町によくある「七曲」である。
ここに住まわれている住民の方(女性)と2箇所で話しを頂戴できたが
ほとんど関心が薄く、一般に言われている歴史上のことも、ご存じなかった。
私がその立場であれば、同じだろう、などと思いながら夏草に覆われた遺跡から
自宅に向けて車のハンドルを切った。
06年08月30日
さいたま市岩槻区 慈恩寺館址
住宅街のやや高台の端にあった。平城では、よくある状況である。
無人人家の庭で一部竹藪がある。 失礼ながら侵入させて戴いた。
土塁が3箇所ほどに確認出きる。
数年前に発見されたらしい。案内板は無い。
1,590年(天正18年)の秀吉傘下の家康の、岩付城攻略時の陣館であろうと言われる。
また、慈恩寺の木戸説もあるらしい。それ以外は殆ど不明のようだ。
元荒川の向うが岩付城で、こちらが岩付城攻略時の陣館という布陣である。
どうもイメージが湧いてこなかった。
それにしても、なぜ此処が戦国時代の遺構と解ったのだろうか。
06年09月04日
埼玉県鴻巣市 源経基館址@
楽しみに訪問した。期待通りの址であった。
址は現在の荒川の東側数百mにある。東から西に向かう、つまり、荒川に向かって
急に低くなるその間際のやや高台にあった。
100m四方の四角形だろうか。周りは壕でその直ぐ内側は土塁である。
壕の土を書き上げて土塁にしたと、直ぐ解る遺構である。
関係者がよく手入れ整備をされているのが解る。
但し
次回述べるが、ここが源経基の館であったという証拠は何も無い。
ところで
源経基と言えば、あの源氏の始りである。
そして、いわゆる清和源氏の始りであり、歴史的にも有名な話である。
ここで予備知識として以下。
天皇の予備として多くの子を作ったが、始末に困り、皇族から外された(臣下に下る)のが
源氏、平氏、橘氏だと言われている。
つまり源氏も、その外された一つである。いやはずされた後、源氏になった。
特に清和天皇(880年頃)の時に外されたのが有名な源氏であるとされる。
よって「清和源氏」という。
一旦臣下に下れば、二度と天皇になれないの通常である。
実は宇多天皇は例外で、この流れが近江源氏(佐々木源氏)であるらしい。
話しは源経基に戻るが
清和天皇には子供が6人いて、最初の子が陽成天皇で
6番目が貞純親王だということになっている。そして貞純親王の子が源経基だという。
だから源氏の始まりの元は、源経基の親である貞純親王である。
ところが
歴史には裏があるもので、実は「源氏」は清和天皇の第一子の陽成天皇の子供の
基平親王の子供が源経基だというのである。実はこれは、ある史実により暴露されたのである。
それが解ったのは明治時代であるという。
だから源氏は清和源氏ではなく陽成源氏と呼称すべきであろう。
ところが、その後その話しは沙汰止みになり、放置されているそうである。
清和源氏という呼称が、あまりにも流布されてしまい、すっかり定着したからだろう。
陽成天皇は普段の行いが特に悪く死人まで出しているようで、これでは、みっともない
と言うことで、歴史を改ざんして、清和天皇の子が貞純親王で、その子が源経基だという
事にしたらしい。
その歴史改ざんをしたのは、1,100年の少し前あたりらしいこ事まで解っているらしい。
1,192年には頼朝が鎌倉幕府を立ち上げるが、その百年前で源平が争い始めたころだろうか。
史上有名な八幡太郎義家の頃だ。
源氏としても、先祖が変な人であるとコケンに関わるということだろう。
とにかく、日本史は半分しか信用できないが私の信条である。歴史の半分は創作である。
学校では創作歴史を教えていることになる。
まー特に害が無ければいいけどね。そういうものだと承知していればね。
06年09月06日
埼玉県鴻巣市 源経基館址A
埼玉県教育委員会と鴻巣市教育委員会の案内板によると
埼玉県指定史跡 伝源経基館跡
源経基は清和天皇の王子である貞純親王の第6子に当たるので六孫王と号した。
天性弓馬に優れ武勇をもって知られ源姓を賜って源朝臣を称したが武蔵介となって
関東に下りその居館を鴻巣の地に構えたと伝えられている。
武蔵介の名は「将門記」や「貞信公記抄」にみられその行状が広く知られているとある。
戦前の皇国史観の匂いもする。
938年(天慶元年)
足立郡司武蔵武芝と武蔵権守興世王・経基との間に騒乱が起こり、この紛争の調停に
平将門が介入している。
この事件はその後の平将門の乱の契機となったものであり、このころ、
土着武士及び郡司たちの実力が中央政府の力の及ばぬほどに強大になっていたもので
あることを示すものであった。
平安時代が始まったのは800年ごろ(正確には794年に遷都)だから、150年後には既に
その組織は、ほころびが発生していたということである。
そして1,192年の武士の政権が出来るまでの250年の間に律令制度は徐々に崩壊に向かう。
06年09月07日
埼玉県鴻巣市 源経基館址B
教育委員会の埼玉県史参照によると
乱は940年(天慶3年)に、藤原秀郷・平貞盛の奮戦で将門が討伐されて終わった。
この乱後、源経基はもとよりその子も武蔵権守となっていることから、清和源氏は
この時代に武蔵野国にかなり勢力を伸ばしたものと見られる。
しかし、源経基の時代は清和源氏の勢力がまだ弱体であり、坂東八平氏や嵯峨源氏
などには遠く及ばなかったことが、この源経基館址の規模からも解る。
このことから
各天皇の子で親の後を継げなかった子供達が野に下った先で、各地でその勢力の覇を
競っていたことが解る。
つまり、各天皇の跡継ぎのスペヤーである者たちは大変な人数であったはずだ。
天皇の血筋を引いたツワモノは「我こそは○○天皇の子孫である」と口上し、それを権威として
各地で勢力争いを演じていた分けだ。
物理的には「天皇の数×跡継ぎを除いた子供の数」だけ存在したしたのであるから
膨大な数の権威のある武者たちが全国にタムロしていた。
話しは変わるが
近江源氏の子孫は300万人いると言われている。
現在の天皇の子孫も、南朝系だけでも数十万人がいると言われている。
つまり、少なくとも、数十万人×2が、天皇になれる権利を持っているのである。
このコーナーを、うっかり読んでしまった方は
貴方もその末裔である可能性は高いし、私もひょっとしたそうかもしれない。
ただ小生の場合は、近からぬ地であるが百済寺という地区があるので、渡来人かも知れない。
もっとも天皇も渡来人であると言う説もあるので
もう何が何だか分けが解らない。 (いや〜歴史って面白い!)
06年09月11日
さいたま市高木 金子山城址@
その城主は
武蔵や多摩地方を領した武蔵七党の村山党の有力武士の金子一族の者で
金子彦十郎かも知れないと云われている。いや私の推定である。
今から800年以上も前の事である。
実はこの場所で、この城址を探すのは2度目である。本日も見つからず。
目的地が容易に見つからないことは多い。
本日も、地元の人、別々の男女2名の方にお聞きしたが不明であった。
地元の方が、ご存知が無いことは、よくあることだ。
この場合、神社になっていることが多いが
その神社の名称が問題である。
その神社の名称で解らなくなってしまう事がある。
一つの神社の中には、氷川神社や諏訪神社、松雄神社、愛宕神社その他
数限りなくありうる。地元での呼称がどれかは不明である。
後日再々挑戦する予定である。
それにしても旧大宮市のここに、まるで比企丘陵の如き場所があるのを知った。
いかにも平安鎌倉の武蔵武士が築城する雰囲気がある。
06年09月13日
さいたま市中央区 落合陣屋
JR京浜東北線与野駅の西2.5kmほどの住宅街に東光寺がありその隣接地が
落合陣屋だという。
寺のすぐ北側は、そこは土地が低くなっており違うだろう。
砦は敵を、いち早く見つけたり見渡す為に高台にあるのが必然である。
寺の東側の隣接地のマンションや駐車場がそうであろう。
寺も含めた辺りが陣屋址と考えるべきだろう。
ここの主は、安達盛長もしくは蕨城の城主渋川義行であろうと言われている。
どちらも平安末期から鎌倉時代の人物である。
安達盛長は1,135年から1,200年の人で、頼朝の伊豆時代からの家来である。
その安達氏の陣屋であるとすれば、ここは重要な地であったはずである。
ちなみに、安達氏は鎌倉幕府の御家人で安達一族の祖である。
また、渋川氏は1300年頃の武将で、蕨城の支城として落合陣屋を造ったとも言われる。
渋川氏は北朝の鎮西を命じられていたが、南朝方に阻まれ実際は着任していない。
いずれにしても
700年から800年前のことである。江戸開府400年の倍の年月を思うと・・・
06年09月17日
埼玉県県民活動センター 「源氏物語を読む・光源氏の老い」受講
光源氏は、桐壺源氏である。
以下は、仮に歴史上の史実と置き換えて考察してみる。
桐壺帝には夫人が何人いたかは不明である。
光源氏の母には桐壺帝との間に出来た子供たちが何人もいたであろう。
光源氏はその内の一人の子供である。
臣下に下って源氏と名乗れる者もあれば、名乗れない者もあったに違いない。
名乗れるものは、ほとんど地方へ下ってそれなりの地位についたのだろう。
あるいは武士などになったのだろう。
武士になっても、成功するものは極めて稀であっただろう。
古文書に現れる平氏や源氏の武士たちは成功者である。
源頼朝(伝清和源氏)などは、真砂の砂のように貴重な例である。
ところで、「いわゆる光源氏」は何故に、都に残れたのだろうかと思う。
06年09月19日
埼玉県立近代美術館 マンダラ展
主催者には申し分けないがマンダラの画そのものには興味があったのではなかった。
2階の展の入り口には「マンダラとは何か」を知ってもらう為の企画であると書かれている。
冒頭に自分得た回答を言うと、マンダラとは、密教で使うが
「悟りをうる為の瞑想時の道具」であると、理解した。
私は、3回ほど見て回ったが、全くその様な気分の片鱗も起こさなかった。
(勿論、瞑想した分けでもないから当然である。修行中の人が瞑想するのだろう)
ところで
このマンダラ展の各所の説明文からヒントを得て
以下の如く、仏教歴史を中心に私が勝手に考察する。
@釈迦は紀元前5百年ほど前の人であるという事になっている。
釈迦は自ら悟りをうるために修行をし悟りを得たという。
Aやがて、年月が過ぎ、人々は他人を悟りに導きたい欲求が生じて
菩薩という考えが勃興する。
B菩薩とは修行中の人を言うが、それと平行して菩薩は他人を救うという観念が発生する。
そして、人を救うという考えを「大乗仏教」という観念に飛躍させる。
字の如く、大きな乗り物、つまり、自分だけがいい思い(悟りをうる)をするのでなく
多くの人々を救う仏教だという観念である(これは生臭い。私は好きではないが)
大乗仏教を言う人々は、釈迦の本来の個人的悟りをうる仏教を「小乗仏教」とした。
C紀元後5百年ごろ(日本では古墳時代)に密教という考えがインドで盛んになった。
これは「ヨーガと儀礼」を基本とした仏教であったという。
多分ヒンドゥー教の影響かと思う。
そして、このときに「マンダラ」が使われていたのである。
D平安時代の初め(800年ごろ)に空海が入唐(にっとう)して
中国では、すでに黄昏つつある仏教である密教仏教を仕入れた。
しかし、とは言うもの、日本では密教仏教は最新の仏教であった。今なら渋谷ファッション。
すかさず、空海はマンダラをしっかりと、日本に持ち帰った。
Eそして空海は、日本における密教の教祖となったのである。
ところで、これではマンダラの意味が解らない。
冒頭に書いたが、悟りをうる時の瞑想時の道具がマンダラであると書いた。
F此処から先は日本の密教である。というか空海式密教だろうか。
宇宙の全てを画として表現できる。須弥山の考えである。
だからマンダラは宇宙を現していると考える。
その宇宙を念頭にして瞑想することは、悟りをうることである。
実は、私は数年前に、境内墓地を購入したので、真宗から真言宗に宗旨替えしたが
「宇宙を念頭に悟り」が、どうやらポイントらしい。宇宙と悟りは何の関係か解らない。
G非常に観念的で面白くなくなってきた。
簡単に言ってしまうと、密教とは「オマジナイ」に、一見似ていると思っていいだろう。
H実はもっと大事なことがある。
悟るとは何か。悟りとは解脱か。解脱とは何か。それが私には実はサッパリ解らない。
だいたい、密教、密教仏教、真言密教の本質が解らない。この展では解説が無かった。
「マンダラとは密教において、悟りをうる為の道具である」らしいと解ればいいのだろう。
マンダラが宇宙を現しているとか何とか難しいことはお坊さんに任せよう。
I興奮して書いたので肝心なことを忘れた。
その後、南部の宗教(奈良で行われいた、一部の専門家の仏教)
から北部(京都の非専門家)の仏教が隆盛となり、やがて鎌倉時代に種々の宗派が勃興し
鎌倉仏教が花を開いた。 これが各宗派の日本仏教として現在も連綿として続いている。
日本では宗教戦争がないのが有難い。
06年09月20日
茨城県五霞町 栗橋城址
川の流れの東側。
宝宣寺の並びに西に向かう小路があった。そこに教育委員会の案内板を見付ける。
案内板から人家に続く道がある。人家の手前に深い大きな壕を発見する。
壕は木陰の奥に、黒く、うずくまっている。雨水が溜まっている。彼岸花が咲いている。
殆ど手入れがされてない。5百年そのままである。 幅5m深さ4mだろうか。感動!
さらに辺りを一周する。宝宣寺さんの南側の墓地に許可無く入らせて頂き先ほどの壕の
曲がっている場所と、その土を掻き揚げたと思われる土塁を発見。更に小さな櫓跡
らしきものを見つけて登る。
松本好司氏(城址の土地所有者と思われる)と五霞村教育委員会の案内板によると
北条氏照が、ここ北関東を上杉謙信から守るため支城として築城。
小山城(小山)、古河城(古河)、水海城(総和町)、関宿城(関宿)、竹山城(八王子)
等を氏照は支城としていた。
西は川(当然、築城当時は川は無かった)の向うまでと、松本氏宅を中心にかなり巨大な
城であったようだ。壕の深さは3mから10mあったと書かれていた。
案内板の情報ではないが
元は、足利市にある野田城の野田氏が、古河城の防御として、築城したとも言われる。
古河公方の
古河城の防御の城としては、近くの関宿城(簗田氏)もあったといわれている。
この栗橋城を手に入れたのは
1567年(永禄)の北条氏照であった。
北条氏の支配のやり方は、現在のその土地の領主(野田氏)に、
北条氏の代わりとして守らせるというやりかたである。
他の関東一円の城も、そうである。
ちなみに、家康は、原則として譜代の家臣を城主して送り込んだ。
家康は人を信用できない性質(たち)であった。
そういえば、人を疑うのが徳川幕府の施政であった。
北条が天下を取っていれば、違ったものとなっていただろう。
そして1,590年(天正18年)に小田原城が落城する。
06年09月22日
さいたま市西区高木 金子山城址A
今回で3度目の挑戦でやっと、ここを発見した。
淡島神社が本郭であるらしいが、その神社の隣のお宅の前の畑でご夫婦でおられたた方に
お聞きしたら、確かにこの家の隣が淡島神社であると言われる。
「これは、うちの氏神さまです」と。「スサノウをお祭りしてます」とも。
西30mほど先に鳥居が見える。ご主人が危ない足取りで案内をすると言われるので
危険もありそうで丁寧に辞退した。 私は、ご主人の気持ちはよく解る。
神社の西、北。更に東の方面に続いて竹薮の中に壕と土塁址が累々と方々に見える。
案内板は全くなく、公の調査が行われていないのだろう。
ほとんど手付かずのままであった。
まことに貴重である。
平安時代に入間・多摩地区を支配した金子一族の者で、金子彦十郎が築城したのだろうか。
金子彦十郎は河越氏と戦ったというから平安から鎌倉の人であろうか。
金子一族で有名な人は金子十郎家忠で、武蔵7党に属し保元の乱で壇の浦に至る源平合戦
に加わり、数々の武功を立てた典型的な武蔵武士である。