小さな歴史旅D 06年09月28日 埼玉県立歴史と民族の博物館 古代武蔵の鍛冶集団コーナーを行く 青い文字は私の考えで書いています) 武蔵では、奈良朝末から始まったが、平安朝には各地に 製鉄炉と鍛冶場が存在したという。 製鉄炉とは、いわゆる「たたら」である。 鍛冶場は鉄から農具や剣を作り出す場所である。 「たたら」では砂鉄と木炭を混ぜ炉に入れる。 これに火を付けて「ふいご」で高温にして、鉄を溶かす。 溶けて流れ出る鉄を取り出す。 勿論、当時の日本では、鉄鉱石を使うのでなく砂鉄である。 「たたら」が伝来したのは古墳時代であると書かれている。 朝鮮から出雲に渡来した人々が伝えたのだろう。 私は、大宮の氷川神社は出雲から来た人々が「たたら」を 伝えた記念碑であると以前から考えている。 埼玉県や周辺都県にある氷川神社は、この流れであろう。 あるいは、大宮の氷川神社を配電盤として技術を伝播させた 址だろう。 氷川一族とする考えも成り立つ。むしろ私はこの方を重視する。 出雲には斐川があるし、ヒノカワはたたらから流れ出る鉄だろう。 奈良時代から始まり、平安時代には、これにより農機具が 木製から鉄製に代わり飛躍的に農業生産が進んだのだろう。 それと平行して須恵器などの需要が高まっていった。 そして武蔵では、経済的に豊かになった武蔵七党を中心に 桓武平氏や清和源氏等が力をつけて武蔵武士となる。 やがて平安の終わりには頼朝が挙兵して鎌倉の世となった。 道具によって、世の中は変わるのである。 そして、経済的余裕が出て人々は己という個に気が付く それが日本の中世であると思う。欧州ではルネサンスだ。 06年10月02日  さいたま市北区 土呂陣屋址(訪問は09月末)を行く 以下は資料を直接見ずに書いてみた。 勿論、かつて読んだ事や他所実地探索での記憶も含めてである。 徳川が関東に入部したときに、初鹿野氏をここへ配した。 初鹿野氏は、家康のお気に入りの赤備・武田軍の武将であった。 家康は武田軍を常に恐怖としていたが、反面尊敬していたのである。 だから、随所に武田の遺臣を重用したと思われる。 しかし、この場所はそれよりも、200年近く前の戦国時代1,400年半ば から既にあったはずである。 何故なら、岩付城から西に向かい伊達城(大和田陣屋)があり 南西に向かって2つの支城がある。 それらから、見沼を西に渡った南側に寿能城があり、北側が空いている。 この空いた場所が、ここ土呂陣屋であるはずである。 ただ難点として、寿能城から近すぎるが、ロケーションとして 絶好の地である。 つまり、岩付城の支城の一つであったはずだ。 大田道灌が縄張りした可能性も大有りだ。 実は、私はかつて 此処から300mほどの近くに15年間も住んでいた。 そしてこの陣屋に隣接するゴルフ練習場に通い詰めていた。 ちなみに、腕前はさっぱり上がらなかった。「ハンデは生まれた時に 決められている」が私の持論である。仲間にもそう言い放っている。 話しを戻そう。 先日(9月末)他の用事で自転車でここを通り、思い切って探索をしてみた。 細い竹薮の小道を蜘蛛の巣を避けながら奥へ進むと、柵の直ぐ向うに 巨大な土塁が、いきなり眼前に現れた。息を呑むほど感動を覚えた。 この付近一帯の、かなり巨大な陣屋址であると推定できる。 発掘調査も行われたはずであるが今は解らない。 小躍りして、蜘蛛の巣の間から、目を凝らして見続けた夕刻であった。

06年10月04日 
さいたま市見沼区 春日氏館址(中丸城址)を行く
この地は春日八郎行元の砦であったという。
1,352年(観応3年)、足利尊氏から、桶川郷菅谷村を拝領し、さらに、この中丸の地も
貰ったのであろうか。

それから百数十年後の戦国時代には岩付城の支城として機能していたのだろう。
それにしても、岩付城の支城はその近辺に、おびただしい数が存在するものである。

戦国の世の守りとは、そういうものであるらしい。

岩付城の西側の、ほんの一部だけでも春日氏館の他に
松野氏館(現東新井鎌倉公園)、伊達城(大和田陣屋)、寿能城、土呂陣屋など。
これらは、ほんの近距離である。

将棋の駒が玉(ぎょく)を守るに似るではないか。
岩付城の全ての支城は一体どれほどの数になるのであろうか。

ところで
この春日氏館(中丸城址)を発見するのに随分と考えた。

それらしき箇所を2箇所みつけた。
A地点・・・はっきりした濠がある、台地上で前が崖。
B地点・・・濠も土塁の址もない、台地上に神社がある、地名に丸がつく、見渡しが良い。

随分迷ったが、B地点が春日氏館館址(中丸城址)と判断した。
地名、神社名称(春日神社?)とロケーションが決め手であった。

ただA地点の濠のあとらしきものは捨てがたいが。
しかもその濠には文化財らしく柵が施してあるのも忘れがたい。

両地は近いので一体として考えてよいのだろうか。
あるいは支城の更に支城である砦と考えてよいのか。出丸か。




06年10月05日 
埼玉県 東松山市埋蔵文化財センター 比企歴史の丘巡回文化財展
比企のタイムカプセルを行く

「埼玉県立嵐山史跡の博物館」の、秩父巡礼についての比企地方巡回展である。

私は秩父の札所参りに人々は何故、辛い山岳徒歩旅行をしたのかが知りたかった。
それだけの目的で訪問した。

平安時代には西国三十三箇所札所めぐりが行われ、
鎌倉時代に坂東三十三箇所札所めぐりが
室町時代に秩父三十四箇所札所めぐりは始まったという。

秩父という限定した狭い場所にに「西国」や「坂東」の札所めぐりを凝縮したのである。
すでに、そういう合理精神というか「ずるい」と言うか、そういう思考方法が存在したのだ。

ところで
当初の巡礼は原理主義というか極宗教的な目的であった。

「札所めぐり」とは観音を祀る寺院である霊場をめぐる巡礼であり、観音を信仰すれば
天災など難を除き、欲望や憎悪の心が和らぎ、礼拝・供養すれば財宝・地位を得られ
人間の求めに応じて観音が33に姿を変えるとされる。

これになぞって三十三箇所の霊場のご本尊との結縁を願って
自分の住所、氏名を書いた「木札」を参観した寺の天井や柱に
打ち付けたという。

しかし、いつの頃からか
巡礼は、裕福な者達の娯楽となった。巡礼地の名所見物や美味しい食べ物を求める旅
として、楽しみとして行われたのだろう。伊勢参りと同様である。

そのように形骸化したのはいつの頃なのであろうか。
江戸時代と考えるのが妥当かも知れないが、私はもっと早かったのだろうと思う。

閑話休題
15年前である。
母が他界した雨の通夜、母の棺の前で参列者は御詠歌と共に三十三箇所を巡った。
その参列者の中の次姉も小さな鐘を叩いて御詠歌を唱え亡母と共に巡っていた。

その3年後、次姉は棺の人となった。
通夜、次姉は、御詠歌に送られて三十三箇所を巡った。
その夜はやはり強い風雨の嵐であった。

私は、その両方を唯呆然として座していた。
鐘の音は、消え入りそうに、か弱く響き、今もあの音が聞こえる。




06年10月07日 
埼玉県県民活動センター 「中国の歴史」受講
5回シリーズの2回目である。

本日は隋の2代目の皇帝・揚帝(ようだい)が運河を造った事と、北方の突厥(とっけつ)
からの守りについてまで。

始皇帝の秦や、劉邦の漢は国が統一されていたが、その後、魏呉蜀の三国時代から
南北朝時代と分裂したがその後の統一国家が隋である。

日本は聖徳太子(いまだに存在が証明出来ていない人物だそうだが)の頃だから
奈良時代の前の古墳時代の終わりから飛鳥時代だろう。

中国の歴史は周りの国々からの守りの歴史でもあり覇権主義の国でもある。
前者の守りの面から考えると、東西南北の国々との外交の歴史でもある。

現在もそうであるが、中国外交は、したたかであり、また原則を曲げない。
曲げていては国が東西南北から攻め取られてしまう。

「日本外交」などは、それに較べると無いに等しい。
いや、わが日本には外交の必要性がなかった。

昔から「日本に外交は存在しない」と言われるが、歴史的にも裏打ち出切る。
今日から、安倍という日本国総理大臣とやらが、中国・韓国へ外交の旅に出たが。

その最中に北朝鮮が核実験をして、安倍氏が被爆して帰ってくるのかな。




06年10月10日 
さいたま市浦和区 領ケ谷城址を行く
南浦和の住宅街。そこにある有名な鰻屋のある一帯である。
後ろが崖で非常に深い上谷沼貯水池(藤衛門川)になっていた。

本日の城址とは関係ないが、その有名な鰻屋の一つは小島屋と言い
確かに前が沼地の雰囲気で、いかにも鰻が生息していそうな気がする為か
お客がいつも大変多い。私もそれにつられて何度か行ったことがある。

本日の目的地も小島屋の南側100mの幸楽園という鰻屋である。
その幸楽園は小島屋と違いかなりの高台になっていた。それが城址であった。

探索に都合がいいので鰻屋の駐車場に車を駐車した都合もあり、思い切って
奮発して、うな重を食った(中位で2,600円)贅沢であるが私の口にはそれほど
合うものではなかった。しかし食事のテーブルから西の下方を見下ろすと崖がある。

食後、崖下に行き鰻屋を見上げるとなるほど、此処は縄張りに好都合であると納得。
勿論、鰻屋からの西の眺めも、敵の来襲がよく見渡せるし、沼が要害になる。

此処が最初に使われたのは、源平合戦のおり、佐々木盛綱が兵を募るために陣を
構えたといわれている。 それは平安の終わりごろだろう。

次に此処を使ったのが領ケ谷城としてであったと言われている。
それは戦国時代、らしいと言われる。 そして城主が太田氏房であったらしい。

らしいと言われる件であるが

そもそも、扇谷上杉家の家宰であった大田道灌の時代は
1,400年の中頃から1,480年代である。

大田道灌は、武蔵地域でバトルを演じる扇谷上杉、山内上杉、古河公方の三勢力を
まとめ上げて戦乱を防いでいたという。 

その太田道灌(1432年生)を直属の上司である扇谷上杉が謀殺したのが、1,486年。
要の大田道灌を失った三勢力は領地の奪い合いを始めたところへ小田原の後北条
が現れた。

ちなみに、太田道灌という人は、黒田官兵衛に細川幽斎を足したような人物と個人的
に思っているのだが、どうだろう。(褒めすぎかな?)。期待も込めているが。

後北条が武蔵に足場を築いたのが1,520年ごろで、有名な川越夜戦で例の三派が連合
して後北条に当たったが負けてしまった。それが1,546年である。

話しを元に戻すと
岩付城が太田道灌の末裔から後北条に移ったのが
川越夜戦の後であると考えていいだろう。

元はと言うと、太田道灌が古河公方からの守りとして再築城した領ケ谷城であったが
後北条がこれを活用したのであろう。後北条の支配の仕方は国人にそこを任せるのだ。
(国人とは在地領主・土豪のこと)

太田氏房は後北条の北条氏政の三男と言われている。
岩付城主太田氏資が1,567年に死亡し、その娘を貰って太田氏の家督を継いだと
言われているが、これも怪しいとも言われているらしい。長尾氏の関係とも言われる。

ところで太田氏房は秀吉との決戦で小田原城に篭もった。やがて落城しその後、肥前に
移されたとも言われる。   以上であるが定説は、まだ無いようである。

ま〜いずれにしても、そんなことをぼんやりと考えたり、TVで、嫌いなみのもんたを
チラリと見たり、崖からその向うの沼を眺望しながら、うな重を食った。まいう〜。




06年10月11日 
埼玉県立歴史と民族の博物館  特別展「由来 伝来 名刀の一千年」
白州正子ではないが、私は説明を読まないで、まず見学をするようにしている。
但し、大概の場合、何かをテーマをもって見学することにしている。

本日の場合、「刀の何が美しいのか」を感じたかった。
ところが全く美を感じなかったどころか、切られたら、どんなに痛いだろう
などと思うばかりであった。

そこで、途中から「何のために埋葬したり奉納したのか」
に切り替えた。

刀は刃を上にして左腰に佩く(挿す)。だから刀は上が高く両端が低くなる。
太刀はその逆である。そして太刀は佩く(挿す)のではなく左腰に吊り下げる。

だから太刀は実用でなく権威の象徴だろう。
映画やTVや、その他画像を思い出すと納得する。

これらを埋葬したのは弥生時代から始まり、古墳時代に盛んになった。
○死後の守り
○愛用品をあの世へもって行く
○死者の装束
○呪術の意味があるのか

戦国時代など神社(この時代、江戸時代のように明神・権現と言ったのだろうか)
などへの奉納の場合は
○戦勝祈願
○大願成就のお礼
○社寺造営記念
○故人の遺品の奉納

特に戦国時代の贈答品として利用された
○主従関係の確認
○恩賞
○敵方との駆け引き

話しは変わるが
新撰組の近藤勇の「小鉄」を思い出した。実はあれは偽者であったらしい。
近藤勇が人を斬る場合、とにかく技と言うより、たたっ斬ったそうだ。

あの、若く男前の沖田総司はそうではなく
近藤局長に較べ華麗なる剣の技が光ったと言う。組中で最も巧者であった。

そして、男前は「ろうがい」(肺結核)で早くに他界する。
これじゃ女性に持てるわな。

それはともかく、人を斬るには技も必要だろうが、丸太を叩き切るような力任せに
バサット打ち下ろす物凄い迫力が必要だそうな。

こうなったら、柔い名刀や有名な伝来物など関係ないだろう。
とにかく薪を割るような粗野で野生的な強さのある刃がないと駄目だ。

「特別展」に展示してある代物では人は斬れない。あれは実用品ではない
と思いつつ帰宅した。 それは、それとして良い特別展である。感謝。




06年10月13日
茨城県結城市 結城城址を行く@ (訪問は10月12日) クリック
この話しを進めるまえに、前後の状況を整理する

○1,439年に将軍足利義教が当時の鎌倉公方であった足利持氏を自害させた。
 (京都の室町将軍と鎌倉の関東地方総大将の争い)
 鎌倉公方の補佐役である山内上杉は、何と義教側である。
 これが永享の乱。

○1,440年(永享12年)年、将軍足利義教が実子を鎌倉公方にさせるため
 鎌倉に下向させると、自害した持氏の支持者や下総の結城氏が
 持氏の遺児を鎌倉公方に擁立しようとして、幕府との戦いに発展した。
 これが結城合戦である。

○1,455年(享徳4年)、足利持氏の遺児足利成氏が関東管領山内上杉憲忠を
 忙殺した。これを不満とする室町幕府軍や関東管領山内上杉側に味方する
 関東の諸豪族との間で戦闘となった。(山内上杉は足利尊氏正室の実家)
 これが享徳の乱

○同年1,455年足利成氏(しげうじ)は下総古河に入った(逃げ込んだ)が
 鎌倉が攻め落とされた事を知る。やむなく、ここに居座ることになり
 これが古河公方の起源である。関東一円で絶大な勢力となる。

○現在の埼玉県・東京都である武蔵地域は
 古河公方 VS 山内上杉 VS 扇谷上杉の三者バトルとなった。

○バトルの後、ここで有難いことに、かの有名な太田道灌が現れて三者を
 「まあまあ喧嘩はお待ちくだされ」と仲裁に入って平衡が保たれたでいた。
 ところが扇谷上杉が太田道灌を忙殺してしまったのが1,486年である。
 ここから、武蔵の戦国時代が始まった。

○上記のような経過から、歴史家は、武蔵の戦国時代は結城合戦が引き金
 であるとしている。 私はその結城城址を以前から見たいと思っていた。



06年10月15日 
さいたま市見沼区南部領辻 辻の獅子舞(竜頭の舞)を行く
「さいたま市辻の獅子舞」と書かれた案内板によると
平安時代の終わりごろ今から1100年ほど前のことであった。

笛の名手新羅三郎義光(源義光)は兄の八幡太郎義家を助ける為に奥州下向する際
自らの軍兵の士気を鼓舞するために、この舞を、この地の鷲宮神社に奉納したという。

その後、この地の人々がこの舞を習い覚えて後世に伝えたものという。

獅子舞の一行は先頭に戈をもった天狗、次に御幣をもった世話人そして弓持ちと続く。
さらに花笠をつけた笛方の二人、ささらを持つ二人その後ろに太夫獅子、女獅子、中獅子と続く。

舞は、三頭の獅子が、四隅に竹で柱を立て連縄で囲んだ中で舞う。
獅子の舞は、竜が天を舞い、地を舞うが如くであると言う。

ここから後は小生の解釈である
新羅三郎はここで奥州へ参加する兵を募ったのだろう。
手柄を立てれば高禄で取り立てると約束したのだろう。これに似た例は
この近くの領ケ谷城(浦和)でもあった。

余談だが昨日見学した川越祭りの山車の頂上に義光像が鎮座していたように思う。
ここ武蔵では新羅三郎義光は深い意味のある人物であるようだ。

新羅三郎は、兵を募る手段として、金品などを与えたりして
ここに元からあった獅子舞を行わせ大いにここの者達を喜ばせたのではあるまいか。

新羅三郎は笛の名手でもあったから、自から笛方をかってでたのだろう。
そして、ここに住まう貧しい者達次男三男は、奥州で手柄を立てんとばかりに
出征したのだろう。

私の勝手な解釈はどうであろうか。
それから、竜が舞うような舞とあるのは見沼の竜巻であろう。
あるいは見沼の伝説の竜だろう。

尚、「四隅に竹で柱を立て連縄で囲んだ中」は神域である。
仏教(伝552年伝来)が伝来するまでは、神社には建物が無く
「その場」が神域であり神社であった。神は神社の木を伝って降ったのである。

建物は仏教の影響だろうと言われている。
沖縄の神社は今でも建物がなく「その場」が神域である。

また、御幣は神が天から降りてくる「よりしろ」であるのは言うまでもない。




06年10月17日
茨城県結城市 結城城址を行くA完 (訪問は10月12日)
10/13日の続きで結城氏についてのウンチク

○1,100年代、下野の有力豪族で小山氏の出で、結城朝光を名乗った。
○朝光は武功を立て頼朝が烏帽子親になり深い関係となり守護大名となった。

○結城氏からは庶家が出で各地で名を上げたので名家となったのだろう。
○尊氏に従ったり、鎌倉公方や関東管領との間でうまく立ち回ったのだろう。

○そのうち、本家の小山氏を吸収合併し下総結城氏は関東の一大勢力となった。
○結城氏は鎌倉公方方についていたが、例の「上杉禅秀の乱」(管領氏憲が反旗)
 でも、あくまで鎌倉公方の持氏に従ったようだ。

○やがて、本家の室町将軍足利義教が分家の鎌倉公方を滅亡させようとする。
○それでも結城氏は、鎌倉公方について戦う日々であった。

○そして、とうとう鎌倉公方足利持氏は自刃した。これを契機に結城氏など関東の
 有力武士は、持氏の遺児を担いで室町幕府軍と戦った。この時の結城氏は氏朝。
○これが「結城合戦」である

○1,441年、結城城は敗北して炎上するが
 結城氏側・・・・・宇都宮氏、小山氏、佐竹氏、那須氏、筑波氏など。 
 室町幕府側・・・上杉氏、武田氏、千葉氏、小笠原氏、今川氏などの強力布陣である。

ところで
私はこの結城城址を10月12日に、のんびりと見学に訪れた。
それは結城市の街中の外れにあった。

まず気が付いたのは幅が20mほどの壕の址で、更に行くと、城址公園がある。

徳川家康の実子で秀吉の養子となっていた秀康が男子のない結城春朝の
養子となった。

関が原では当然徳川方につき、江戸開府で越前の大大名となり下総を離れたので
結城城は、これで幕を閉じた。

家康は、自分先祖が乞食坊主の出であるので、結城氏のような貴種を好む傾向があった。
これが結城一族を助けたと言える。
(家康は、自分が新田の出地だと言わんばかりの家系図を捏造する微笑ましさ)

余談だが
家康が結城氏を越前に配したのは、加賀の前田の押さえで、更に近江の彦根に譜代の
井伊を置く慎重さである。かつての同僚・前田利家の記憶を消し去る事が
出来なかったのだろう。

そのような配置は外様を取り潰すか縮小させた場合を除き全国至るところにあるのだろう。
しかし幕末に家康の予想はズバリ的中して嶋津と毛利(縮小組だが)にしてやられた。

かくして
加賀前田はすっかり飼い慣らされて、幕末何にも出来ないブザマな状態を晒していた。
仙台の伊達もそうだが。

ところで
城址公園の案内板によると、初期の時代の城郭の部分はその後削られて現在存在しない
ようである。

それにしても、よく観察をして、藪の中を探索すると室町時代の遺構が多く残されているようだ。
なにか、この城址に若々しさを感じたのは何故だろうか。




06年10月20日
山内氏陣屋(指扇陣屋)址を行く
JR埼京線の指扇駅の北側は戦国時代やその前後の陣屋銀座である。
解っているだけでも3箇所だそうな。

本日はその2箇所目を訪れた。
中釘というところにある関東総元締がある秋葉神社を目指して行き、賽銭10円を投げ入れる。

その西側200mほどの台地が陣屋址らしい。台地から南側を望むと低地が見渡せて、いかにも
戦国時代(この陣屋は江戸時代だが)の平城らしい感じがする。 

その突端にある怪しい箇所は何かと、蜘蛛の巣を避けながら近づくとお墓であった。
これは陣屋と関係はないのだろう。後年に、ここを近在の人が墓所にしたのだろう。

壕もなければ、土塁址も何もない。陣屋址には農家の方が畑を作り住まわれているだけである。
私がウロウロしているので、農家の人が怪しんだだろう。

ところで
ここから北700mほどの地に山内家菩提寺の妙玖寺があり、そこを訪れた。

案内板によると 
指扇の地が旗本山内氏と関係をもつのは、大阪の陣で軍功のあった土佐藩主山内忠義の実弟
一唯が、1,623年(元和9年)に2代将軍秀忠から指扇領18ケ村三千石を拝領したのに始まる。

(兄の土佐藩主山内忠義は24万石の大大名、弟の指扇山内一唯は3千石の旗本である)
(一唯は大阪の陣で軍功のあったが、兄の忠義は軍功があったかどうかは不明)

この地は、一唯から4代目の豊房が土佐山内の藩主豊昌の養子となるまで続いた。
67年間であった。67年間でここ指扇は陣屋が終わるのである。

ちなみに
例の司馬遼太郎の小説「功名が辻」に出てくる初代土佐藩主山内一豊には康豊という弟があり
兄弟で信長の時代から、戦場を駆け巡ったのだろう(小説にはこの話しは出てこなかったと思う)

小説の通り一豊には子がなかったので、康豊の長男(忠義)を跡継ぎにした。
この後、この家系が数代藩主を治める。

康豊の次男を一唯といい、これが2代将軍秀忠から指扇領18ケ村三千石を拝領したのである。

ところが、土佐山内家で5代目に、またしても子が無かったらしく、一唯の4代目の豊房を
土佐藩主に仕立て上げたのである。その後この家系が幕末まで続いたかどうかは知らないが。

いずれにしても
埼玉県大宮と高知県は深い関係がある。ひよっとしたら、山内容堂や坂本竜馬の心象には
大宮の人間の心があるのかもしれない。(竜馬は、近江大津の坂本がルーツだが)
などと、暇な小生は考えてみた。

余談だが
私は小説のTV大河ドラマ等は見ない。
小説でいい気分になっていたのにTVを見るとがっかりするので。
それは「風と共に去りぬ」(TV映画も)以来である。




06年10月21日
埼玉県県民活動センター 中国の歴史」受講

本日の講義は、唐の成立から初代の高祖と2代目の太宗の時代であった。

中国は古代から常に周りから、じっと見られていた。
中国の力が衰えると、北から西から南から東から異民族が侵入したと講師は言う。

そう言えば
明治時代、清が衰えた時、日本も侵入した。そしてついに満州を略奪した。
もっとも
いまだに我国政権党は「大東亜の為にした良い行為」といいつづけている。

ところで米国と中国は似ている。
米国の活力の源泉は種々の人種を受け入れて、たゆまない変革をすることである。
種々の人種をまとめる為には民衆の目を常に外に向けさせ心を一つにする必要がある。
その為には常に他国に戦争を仕掛け続けなければなならない。

ただ、そうしなければならない理由に自国のシステムを他国に植えつける
(グローバルスタンダード)という宗教上の理由があるが
これはアングロサクソンの血が無いと理解できない。

中国の場合は、米国と違い、広い国土は周りの国々と接していて、人種も多い。
よって周りと常に交戦の準備の必要がある。

ある研究者によると、共産主義政治が最も適しているという。
そうかもしれないと以前から思っている。

ただ我々はうっかりと、中国が資本主義でかつ自由主義の国であると勘違いしてしまう。
なぜなら現代の中国は世界の工場だから。実際は厳格な統制の国である。

よって何が、米国と中国が似ているかというと
常に好戦的であらねばならないということだろう。そして莫大な戦費を浪費し続ける。




06年10月24日 
さいたま市中央区 御屋敷山を行く
さいたま日赤の西方に高島平から伸びる高速道路がある。
与野の降り口の西300mほどに与野淑徳高校があり、その南隣が目的地であった。

新しい住宅街となっており、全く俤はないが、いかにも陣屋があったであろうと
思えるのは、そこから西に向かって急な斜面で低地になり、見渡せるからだ。

多くの城址や陣屋、砦址は殆どそういうロケーションである。
それは戦国時代は当然だが江戸時代になってからもそのようだ。

戦役のなくなってからの江戸時代でも
常識的に考えて、偉い人の屋敷は辺りを見渡せる場所にあって当たり前だろう。

屋敷坂と言われたのは、この通りのはずだと思いつ新住宅街に接する道路を往復してみた。
狭い割りには、この辺りでは、もっとも車が通るのでやはり昔からの道だろうと思った。

定説はないが、ここには伊奈半左衛門忠順の陣屋があったらしいと言われている。
そうでないかもしれない。私は、以下の事柄からそうで無いと思う。

伊奈半左衛門忠順の行った事業(1,700年前後だから元禄時代と思えばいい)
深川永代橋架橋工事
深川埋め立て工事
江戸本所堤防修築
浅草川治水工事
富士山噴火奉行

以上であるらしいが
地域から考えて、江戸に陣屋があったと考えた方がいいのではないかと思う。

ところで伊奈氏の事だが
彼は徳川の元からの家臣(譜代)で信頼が篤かったのだろう。
関東郡代を200年間勤めた。伊奈氏の功績は種々上げると限がないほどある。

大きく分けてしまうと
利根川の東遷と荒川の西遷だといわれている。
20万石ほどの天領の責任者であったから、大大名クラスと考えていいだろう。

ただ
いつも思うのだが
これだけ徳川と深い関係があり功績もありながら
なぜ12代の忠尊のとき(1,700年代の終わりごろ)に改易になったのかと言うことだ。

仕事に大きなミスがあったとか、讒言があったとか言われているが、不思議に思う。
本当は何だったのだろうか。小説にしてくれる人は現れないのだろうか。

できたら、司馬遼太郎か吉村昭氏を望むが、お二人とも鬼籍に入られている。
(若い時の司馬は、短編なら書くかもしれない。吉村は確か今年の夏過ぎに死去された)




06年10月26日
川越夜戦
1,546年、川越城を守る北条側3千人、攻める側両上杉と公方勢8万人。
攻め手が勝つと誰もが思っていた。

そこへ小田原から援護に駆けつけた北条氏康勢8千人が夜襲をかけ
攻め手が逃げ出した。これが川越夜戦である。

なぜ攻め手の両上杉と公方勢の都合8万人は負けたかであるが。
両上杉と公方勢とは、扇谷上杉、山内上杉、古河公方の三つの巨大戦闘武士団である。

元を糺せば川越城は扇谷上杉の家宰であった太田道灌父子に築城させた攻めるに難しく
守るに易いと言われた名城である。

1500年の始め川越城は
太田道灌を謀殺した扇谷上杉が、後北条に乗っ取られたのである。
扇谷上杉は川越城だけでなくほぼ同時期に江戸城も岩付城もとられていた。

武蔵では、両上杉と公方勢は勢力争いを続けていたが、その間隙をついて後北条
が武蔵で領土を広げつつあった。

もっとも困っていた扇谷上杉は山内上杉、古河公方に助けを求めた。
山内上杉、古河公方も後北条憎しは同じ思いで、共通の敵であり、急遽三派連合を組んだ。

もとは仲の悪い三派は統一がなく、おまけに川越城を8万人で囲んで既に厭戦気分が漂って
いたのだろう。おまけに、小田原から駆けつけた北条氏康が謀略で和睦を申し入れた。

三派は、この北条氏康の「騙し」にまんまと引っかかったのである。

ところで
3千人を8万人で囲んで一気に攻め込めば良いものをなぜ篭城戦に持ち込んだかであるが
一気に攻め込むと篭城側が3千人と少ないとは言え、攻める側にとっては死傷者も出るだろう。

それを、もともと仲が悪い者同士では嫌ったのだろう。それと武士どもは相手の首を獲り
それを認められて、出世するのである。

この場合は別の話しだろう。奮戦しても褒めて貰えない。
結局、何もしないで唯川越城を囲んでいれば、篭城側は勝手に落ちると踏んだのだ。
(播州の三木城の場合そうであった。餓死者が大量に出て、限界まできて開城した)

もし三派に篤い信頼のあった太田道灌が生存していれば、川越夜戦はなかったのであるが
例えあっても、負けることは先ずなかっただろう。

その後
扇谷上杉は逃げたが結局滅亡した。山内上杉もこの後関東管領を上杉謙信に
譲って滅亡し、もともと戦役に弱い古河公方も消滅の道を辿り
関東は後北条の天下となった。

天下は秀吉の天下統一の1,900年(天正18年)の小田原攻めまで続いた。
そういう思いで埼玉県を往来してみると、実に面白いではないか。




06年10月28日 
埼玉県飯能市 中山家範館址(訪問日10月27日)を行く
東飯能駅から北西3kmほどであろうか、低い丘陵にさしかかる処に智観寺がある。

そこから300m東北の丘陵にさしかかる場所の住宅街の一角にある案内板によると
中山家は武蔵7党の一つ丹党の出で、鎌倉時代の加治家季のころに中山に居住し
中山を氏とするようになったという。

館の西方に位置する智観寺には、加治家季夫妻の供養のために建立されたと推定
される板碑(1241年・1242年)がある。

戦国武将であった中山家範は
後北条に従い1,580年八王子城で戦死した。

110m×130mの小さな城であった。
館の周囲には武士団の居宅や田畑があり、中山氏も普段は農業に勤しみ、武芸に励み
いざ合戦となれば武士団の長として出陣していた。

この案内板から20mほど西に幅1m50cm、長さ5mほどの壕が申し訳程度に残してあった。
後はすべてびっしりと住宅街である。

これだけでも残して戴いて有り難い。すこしでも当時を偲べるではないか。地元の方々に感謝。

ところで
家範は八王子城で戦死したが、その子信吉を水戸徳川家の家臣として迎えたというが
家康は関東を経営するに当たり、よほど人材に窮乏していたとみえる。

特に武田の遺臣は好んで登用した。武田の赤備にいたく傾倒していたからだ。
もっとも、信長にしてもそうだが伝説的に武田軍団の生き残りというだけで身震いがした。

戦国時代の一時期のことであるが
戦国時代の当主は勘解由家仲で家仲は山内上杉氏に属していた。

天文十四年(1545)の川越夜戦の折は山内上杉氏が扇谷上杉氏・古河公方と
連合して北条方の河越城を攻撃した。

中山氏も山内上杉氏に属して出陣した。翌年、北条氏康の計略によって
山内上杉氏らの連合軍が敗れると、北条氏康に属するようになった。

素人考えであるが
地域から考えて中山氏は扇谷上杉に属していてもよさそうだが山内上杉に属して
いたとは以外である。

扇谷上杉は人望がなかったのだろうなどと焼酎のコーラお湯割りを飲みながら
ぼんやりと考えた。小生はどうも太田道灌ビイキであることが影響しているのだ。




06年10月30日
太田道灌について考える@
道灌は1,432に生まれ1,486年に死去した。
出生地は不明。

名は持資(もちすけ)後に資長(すけなが)と呼ばれていた。
父は道真(1,411〜1,488)。

太田道灌の時代は、まだそれでも、いわゆる室町将軍の全盛時であったろう。
武蔵では、1,400年の半ばには、室町幕府の関東支店とも言える鎌倉においての
権力争いから、足利成氏が鎌倉に戻れなくなり古河公方になった時代である。

農業生産が飛躍的に高まった時代でもあり蓮如が
一向宗を広めた時代でもあった.

伊勢崎市大慈寺蔵による太田道灌画像によると、しっかりした長面で
口や眉目鼻も均整がとれ、誠実な感じの美男子武将である。

太田道灌と言えば、七重八重・・・を言わなければ武蔵地域の人々は承知しない。
次回のお楽しみに。




06年10月31日
太田道灌について考えるA ここをクリックするとBに行く @は直ぐ上です。
下記は岩槻市(現さいたま市)による「岩槻市史総集編」からの孫引きである。

本日は全て出自についてであり、以下の通り。

ズバリ言えば清和源氏である。

史上有名な源三位頼政が1184年駿河守に、更に1,200年丹波の五個荘に。
その後資国が丹波の太田郷に。そして資国は太田氏を名乗ったらしい。

これが太田氏の名称の始まりだろう。

資国は上杉荘の上杉重房に仕えたという。
(上杉氏の先祖は公家で足利尊氏正室の実家)
これが上杉氏と太田氏の遠因だろう。

鎌倉時代1252年、後嵯峨天皇の皇子宗尊親王が将軍として関東下向した時
に重房や資国も従ったという。

これが太田氏が関東に住した始まりだ。

資国から数えて5代から7代後に資清が現れる。これが太田道灌の
父である太田道真である。多分1390年頃だから南北朝の終わり。

太田道真の父資房は武蔵豊島郡で生まれたという。

太田道灌の祖父は東京生まれ。

関東公方(鎌倉公方)は南北朝時代に関東10カ国(関八州に山梨・信州)
の支配をする権限を与えられたが
その補佐(関東管領)を上杉氏がするようになった。

実はそのころの太田氏と上杉氏の関係ははっきりしていない。

上杉氏についてだが
南北朝時代に上杉氏は四家に分かれて栄えていたという。
山内、犬懸、扇谷、宅間であった。呼称は全て鎌倉市の地名である。

ここで「上杉禅宗の乱」が起こり犬懸氏が滅亡する。

「上杉禅宗の乱」は
関東公方足利持氏が犬懸上杉家家人の所収(?)を没収したのを
犬懸上杉禅宗が怒り、当時担当していた管領を止めたのが発端だ。

もともと上杉四家の宗主として隠然たる力をもっていた山内上杉が
この後をついで関東管領となった。

1,416年(応永23年)
関東公方足利持氏+山内上杉 VS 犬懸上杉で戦乱となった。
犬懸上杉は負けて滅亡したのである。 以上が「上杉禅宗の乱」。

やがて扇谷上杉は山内上杉に協力して活躍が目に付くようになったが
扇谷上杉は低い地位にあった。

この岩槻史では
このような中で太田資房は扇谷上杉に従うようになったとしている。



06年11月02日 
埼玉県熊谷市 中条氏館址を行く
17号バイパスを北に行き熊谷市に入って直ぐの東側は
神社仏閣が異様に多いと思う。

この辺りは特別な地域であったと思われる。
その一つに天台宗別格本山・常光院があった。カーナビ地図に入っていたので
すぐ探せた。

その寺院が目的の中条館である。
どこもそうであるが、重要な人物がその地で居座れば、その地の地名を名乗る。

例えば、畠山重忠の場合
畠山重忠の父は秩父党の者であったが、あるとき川本町の畠山という処に住した
ので、畠山と名乗るようになった。 その嗣子は当然畠山重忠と名乗る。

賽銭を納めてから境内を見学させて戴いた。

私は最近解ったのであるが、神社仏閣を訪れるのは、お参りが目的で
あるはずである。許可も無く勝手にその地域に入るのは間違っている。

お寺さんなら、誰かのお墓にお参りするのが常識だろう。
少なくとも、お賽銭を納めるのは世間の常識だ。

私は不信人者だが、このような場合、僅かであるが納める事にしている。
だいたい、勝手に訪れて、無料でうろつくのは間違っている。

ところで
熊谷市教育委員会の案内板によると、平安時代末期、藤原氏より出た
常光は、1133年(長承元年)、中条の地に館を構え中条氏を名乗った。

別の埼玉県の案内板によると、常光は武蔵の国の国司として赴任した。
寺院の案内板によると穀倉の礎石の石が大量に発掘された。

実際その一つが境内に置かれているのを見ることが出来るよになって
おり、私は「さざれになった石」を見た。

つまり、ここは国衙であったのだ。全く意外な発見であった。

ところで別の情報だが
常光の孫の家長は頼朝に従い、石橋山の戦いに参戦したらしい。

熊谷市教育委員会の案内板では
家長は文武に優れていたこともあり、鎌倉幕府の貞永式目の作成に
携わった者の一人であるとされる。

貞永式目といえば、1,232年(貞永元年)執権北条泰時の御成敗式目だ。
御成敗式目は律令時代の中身と何も変わるものではなく解り易く
書き直したものである。

しかし時代は貴族社会から封建社会へ変遷した。
律令制度を手本としていたが

武家の法の始めとしての法律であったことは確かだ。やっと平安時代
から抜け出したのである。律令制度(農奴制度)から抜け出したのだ。

我々庶民を古代の奴隷から解放したのは、この地の者であった。
誠に意義深い。本日は、いい日であった。

熊谷市の人は胸を張って欲しい。日本版リンカーンは熊谷から出た!



06年11月05日 
埼玉県嵐山町 嵐山時代祭りを行く
嵐山町の「埼玉県立嵐山史跡の博物館」のある一帯は菅谷城址や
古墳の宝庫である。

その博物館の裏手にある菅谷城址本丸址
「戦国時代・火縄銃演武」が行われた。勿論銃弾の発射はなく空撃ち。
行ったのは川越○○火縄銃保存会の皆さん。

軍(いくさ)奉行を勤める保存会会長の説明によると
○戦国当時、銃の発射は1分間に4発であった。
私が計測していたら約20秒に1発であった。

○訓練すれば降雨でも発射は可能である。
小説によると不可能であると書いてある。但し油紙で包んだとある。

○長篠の戦で3千丁の銃を3段に並べて打ったと言うが、それは
  実際は無理だろう。随意の発射に違いない。
経験則で言われる。素晴らしいと思う。

○飛距離は30mほどである。火縄銃の動作を計算に含めると馬の方が速い。
やはり経験則で言われる。素晴らしいと思う。

○大将の大旗(いわゆる馬印)1本と大将取巻勢の中の重臣の中位の旗2本が
  戦闘本陣の場所だ。馬印が見えれば本陣大将は健在であり、先陣後陣どもは
  死に物狂いに戦闘をする。馬印が見えなくなれば
  大将が首を取られたりして敗戦した証である。
  よって、敵は必ず大将の首を獲ることを戦いの目的としている。
全軍は大将に自分の戦い振りを見せることと、馬印を見ながら味方の戦闘の
推移を判断しながら戦ったのだろう。
東松山の松山城での風流歌合戦から推測すると戦国の初めは、
まだ「やーやー我こそは・・・」とやっていたものと思われる。

○本日の火縄銃は最も古いもので150年前のものであるという。
  なぜならペリー来航後は火縄銃でなく洋式銃が使われた。
私は戦国時代の物ですかと愚問を発した。あれば国宝級ですと。笑い。

ついでに
発射音の大小は薬の量ですかと聞いたら
それと銃身の長さであると。

小説で音を隠すためクサズリを藁で縛ると出てくるがそれは何処かと聞けば
両側に垂れる先端の部分で、歩く度に擦れ動く部分であったのを確認できた。

このあと流鏑馬が行われた。
これもやはり小説での話であるが、馬上同士で戦闘行為をすることは実際には
なく、馬は人の移動手段と荷駄の運搬手段であったと言われる。

楽しい半日でありました。ちなみに本日の演武はミツウロコ(後北条)でした。

また、戦国時代の火縄銃は戦闘の最初に大音響を相手に届かせることと
大将や本陣を守る為にあった。通常の戦闘行為に使われることはなかった。
これは本日の説明も小説も同じ。




06年11月08日 
埼玉県川口市 本郷城址を行く
太田道灌の築城と伝えられる。
現在、傑伝寺(けつでんじ)という曹洞宗のお寺さんになっている。

(曹洞宗とは曹山、洞山という人物の名前らしい
 道元は曹洞宗という呼称を嫌っていた)

本郷城址であることの案内板は無い。
おそらく、1,550年前後に岩付城と江戸城の中間地点の重要な
支城として築城したのだろう。

南側が崖になって要害となる。砦としていいロケーションである。
住宅が密集しているが確かに城址である匂いがする。

境内の前の丁度崖が落ち始める所にある、かなり大きな竹藪を覗くと
かつて、ここに土塁があった思わせるがどうだろう。

帰路、境内から西側を望み、太田道灌も望んだであろうと感慨する。

06年11月09日
流鏑馬のおこり
11月5日流鏑馬を見た。「やぶさめ」は平安末の実践の中からおこり
形骸化して今に至ると思っていた。

ところが、それはそうではなかった。最初から形骸化していた。

文献に現れるのは
1096年白河天皇が鳥羽殿の馬場で「流鏑馬」を見たのが最初である。

そのことばの経緯であるが
うまゆみ→矢馳馬(やばさめ)→訛ってやぶさめ→鏑矢を用いるように
なって流鏑馬。

ルーツ
5月5日6日の宮中の引折と呼ばれる近衛府の行事で太政官式にある。

鎌倉時代に軍事訓練や楽しみとして行われ、戦勝祈願戦勝御礼で
神社に奉納しもっとも隆盛であった。

小笠原流、武田流、三浦流が著名であったらしい。

戦国時代には騎馬戦から足軽の集団戦法になり、下火となり
江戸時代には殆ど廃れたようだ。

現在各地で行われているのは明治以降に復活したのだろう。




06年11月15日
川越夜戦址の川越市の東明寺を行く。
時宗のお寺さんであった。

無いものと思っていた、時宗のお寺さんに巡りあえ、いたく感動した。
思わず、一遍さんの踊る姿が浮かび、お経に節をつけ口ずさんだ。

(失礼しました。考えてみると、河越城址の常楽寺も時宗でした。
川越は一遍さんと ゆかりのある地ですね)

案内板によると
川越台地の先端が水田地帯に接する北の端にある。この辺りからは
新河岸川を境として川越の町の北側を主流とする分流がいく筋も流れる。

水田地帯を形成しており、古くからこの穀倉地帯を領する多くの武士団がいた。
東明寺は土豪河越氏の荘園の東端に連なる広い寺領を有していた。

その領域はかなり広く、惣門は今の喜多町の中ほどにあったと伝えれる。
喜多町の古い町名を東明寺門前町と言われた。

1,546年(天文15年)の川越夜戦を東明寺口合戦とも言われた。

なるほど
どうも川越夜戦の場所としては余りにも狭いので、おかしいと思っていたが
これで謎が解けた。




06年11月16日(訪問は11月15日)

埼玉県川越市の仙波氏館址を行く
川越市には仙波という地名がある。仙波氏はここから名称をとったのだろう。

仙波氏は武蔵七党の村山党の出身であった。
保元物語や吾妻鏡に出てくる仙波氏がこの人物と言われているらしい。

川越市仙波町に行ってみた。長徳寺という天台宗のお寺さんであった。
境内には、仙波氏のことについて触れた案内板は全く無かった。

本堂裏の墓地から東側には新河岸川があるが、それを見晴るかして
遠くまで遠望できる。ここは崖っぷちに建っている。

このロケーションは間違いなく平安時代の豪族・仙波氏の館(城館)であった
だろうと確信をもって賽銭を多めに奮発してお寺さんを後にした。




06年11月17日(訪問は11月13日)
太田道灌について考えるB ここをクリックするとAに行く

なに、大した話しではない。
13日に日暮里に羽二重団子を食いに行ったら、駅前に太田道灌の像があった。
同行の者が「誰なの」と言う。直ぐに太田道灌と解った。

あの像と同じ画像を見たことがあったからだ。
特長がある頭の被り物と姿態からだ。

最近解ったのであるが、「七重八重花は咲けども山吹の・・・」は埼玉県の越生の
方の話しだとばかり思っていたが、実は豊島区高田、荒川区町屋、横浜市六浦
にもあるらしい。

日暮里駅前の太田道灌の像は、町屋から遠くも無いので、ここへ置いたのだろう。
勿論、鉄道の駅で町屋に近い場所は他にあるが、山手線はここ日暮里である。

この「七重八重」の句は、いろいろ尾ひれがついた話しは一杯あるようだ。
真相は、山吹を差し出した少女は太田氏配下の者が気を利かせて「やらせた」
という説がある。

私はこれを支持したい。

道灌ファンの小生としては、太田道灌が農民の日々の生活にも気を配り人情篤い
人柄であったからこそ、こういう逸話が出来たと思いたい。

ところで、その後調べたら
荒川区西日暮里3丁目−1に、太田道灌が造った斥候台があります。
この関係で日暮里駅にあるのでしょう。

句は豊島区高田のほうが真説らしい。





06年11月19日 

さいたま市岩槻区 府内三丁目遺跡を行く
元荒川の西側は岩付城址があり、そこから更に南側の元荒川沿いには
刀槍を鋳造する施設や重臣の渋江氏の館があった。

渋江氏は岩付城が出来る前は、この地の土豪であったのだろうか。
いずれにしても、岩付城に、渋江氏は何かと関係が出てくる人物である。

富士ゼロックス工場の正門前に大きな駐車場がある。恐らく工場の人々が
駐車するところだろう。

駐車場の真ん中に巨大な高圧電線の鉄塔が建っていた。
ここに渋江氏の館があったという。

この辺りの地名は府内ということからも明らかなように律令時代に
米などの集積や高官たちがいる建物があった場所だろう。

なにはともあれ
当時のおもかげは全く感じることが出来ないまま後にした。




06年11月23日 
埼玉県坂戸市 大穴城址を行く
公団東坂戸団地の公園になっていた。
確かに高台で北側と東側が低地になって要害である。眺望を確認した。

南の一部には土塁らしきものが残っており、その下を覗きに行く。
例え土塁であったとしても、室町時代でなく、その後の江戸のものだ。

案内板によると
この一帯3万平米が城址である。この公園50平米も小高くなっており
東武や北部が湿地帯で自然の要害である。

室町の中期ごろここに陣屋があったと言い伝えがあるが城主は不明。
ただ江戸初期に直参旗本本多久蔵吉玄が1580年に150石で陣屋
置いた。

1590年の間違いだろう。1580年と言えば、本能寺の2年前である。
それはあり得ない。そのうち連絡しておこうと思う。

ここを別称、五反山とも御殿山とも言う。
坂戸市教育委員会

以下
11月24日坂戸市長にmailを送った。
案内板に書かれています
○旗本本多九蔵秀玄がこの地に陣屋を築いた年号が間違っていると思います。
○由来の3行目から4行目記載の面積は正しいのでしょうか。




06年11月27日
坂戸市から回答があった
午前中に電話があった。

○家康の関東を考えて、年号は10年ほど後だろう。変える予定です。
○面積についての記述は削除する予定です。

埼玉県坂戸市の早い対応で、大変誠意のある自治体だと思った。




06年11月29日 
さいたま市岩槻区 佐枝氏館址
龍門寺の境内がその館址であった。
元荒川からは、やや遠い平城である。

残念ながら「関係者以外お断り」とあり、一歩も入ることは出来なかった。
門前に監視カメラがあり、守りは完璧であった。

しかし
公道からは、土塁らしきものは感じることは出来た。

佐枝氏は佐々木源氏(近江源氏?)で佐枝若狭守といわれるそうである。
多分南北朝の初めごろに、ここへ館址を築いたのだろう。

1550年(天文15年)には、ここに龍門寺が建設されたと門前に書いてある。

その後、1,590年(天正18年)に秀吉により小田原城は7月に開城する。
その2ヶ月まえの5月に、岩付城が落城するが、その時の攻め手の陣城に
この館が使われたらしい。

その後、佐枝氏は家康の駿府で厚遇されたらしい。




06年12月05日 
埼玉県東松山市 高坂刑部館址
高済寺という曹洞宗のお寺さんが、その館址である。

まず、お賽銭を入れさせて戴いて、左側の非情に高い土塁の上にある
加賀爪氏(江戸時代)の累代の墓があるところへ登らせて戴く。

下を見下ろすと壕が見える。壕の土を掻き揚げただけでは、これだけの
高い土塁の建設は無理だろう。いや、かつてはもっと深い壕であったのだろうか。

土塁は今思い出すと、ざっと5m以上はあったのだろうか。
幅は底辺が4m以上はあっただろうか。長さは30mほどであったろうか。


当時のままとすれば、めったにない、これほど迫力のあるものを見させて戴き
更に登らせて戴いた。

土塁側はやや低地で、その反対の方角も低地であった。
その直角の一方の方向は、高地が連続しており、
かつての城址であった範囲だろう。

ところで1,368年
「平一揆」があった。この遠因は尊氏と直義兄弟の抗争によるとされるらしい。
鎌倉公方3代目の氏満の時代に起こった。

関東8平氏の最も有力団体が河越氏であった。その河越氏を中心に集まる
集団の一人が高坂氏であった。

関東武士たちの功績に、鎌倉政府がそれなりに遇さなかったことが
直接の引き金となって、河越館を中心にして鎌倉幕府と戦ったのが
平一揆である。

しかし敗れて、河越氏も高坂氏も宇都宮氏(同調した?)も所領を失い
没落した模様で、結局は管領上杉に掌握すされてしまうところとなった。




06年12月08日 
秋田県仙北市角館 武家屋敷・岩橋家
秋田県では最も観光客の多い武家屋敷が「売り」の場所だそうで、
私としては気乗りがしないまま出掛けた。

町人の町は殆どが明治から大正時代の建物だろう。
武家屋敷は嘉永年間の建造だろう。両方とも、そんなに古いものではない。

建造物が古ければいいのではない。重要なことは
その町の成り立ち。どのような町を造ろうと考えて造ったかである。

実は、私は武家屋敷群通りの幅が30m以上あるがこれに疑問を持っていた。
偶然に「岩橋家」という武家屋敷において、町による案内人の説明があった。

その30m以上ある武家屋敷道路だが
江戸時代の初めの町が造られた頃からのものと聞いて、その建造者の考えが
壮大な期待と心意気を感じるものであったので、ここへ来てよかったと思った。

「岩橋家」では戸沢さんという方が説明をされた。
私は南北朝時代の戸沢氏を連想した。
また山城であることにも疑問を感じていた。

南北朝時代から始まると言われる戸沢氏は秀吉の小田原攻めに参陣し
角館4万5千石の大名として安堵された。

天下が家康になって戸沢氏の力を削ぐためだろう、常陸へ移した、
そして久保田(秋田)を本藩として、常陸からは佐竹氏をここへ持ってきた。

支藩としての角館には会津から芦名氏(佐竹からの婿養子だが)を置いた。
そ芦名氏が潰れると本藩の佐竹北家が乗り込んできて幕末となる。

全国どこでも、そうであるが
肝っ玉の小さい(信長や秀吉に比し)田舎百姓(石高本位制)大名・家康は、
まるで鉢植えの鉢を移すように、地生の或いは戦国大名を移動させて
自らの安堵を得た。

現在の街並みは芦名氏が久保田の本藩にならって造ったされる。
私は、城址を地図で探すと「古城山」と書いてある山の絵があった。

下界には城址が無く近世の城としては、珍しく思った。

戸沢氏の山城をなぜ芦名氏や北家が使用し続けたのかと思うのである。
奈良の有名な壷坂寺に近い山奥にある高取城を思い出した。

平和な江戸時代、高取城・植村家は結局不便な高取城から降りるのであった。
佐竹は降りずに明治維新まで居つづけた。もっとも高取城ほどの山奥ではないが。

私は帰路の新幹線で岩橋家を始めとする武家たちの日々の登城に思いを巡らした。
毎日の山登りは大変だったろうなと。

100石前後の武士では籠に乗って登城はないだろうとも考えながら。
いや馬に乗ってかと思い直したが。

それにしても
なぜ平和な時代に山城に拘ったのだろうか。

最後に
戸沢様の大変素晴らしく暖かい雰囲気のご説明に角館の人々の優しさを
感じつつ帰る事が出来ました。有難う御座いました。

お話しをして戴く中で、がっこを戴きました。
更に栗・ぎんなんを囲炉裏で炒って戴きました。

地元の方言で説明されたが、最後に「解りましたか」と、きずかわれた。




06年12月11日(訪問は12月9日)
岩手県 陸中地方
八戸線で久慈に向かうと左手が海、右手が山側である。
海側の種市の知人によれば、人々は半農半漁であるという。

車窓から見える僅かな耕作地に、稲の切り株が少ないことを言うと
農業地は車窓の右側だと言われるので、首を右に振ったが俄かにはない。

切り株を見つけて土の色が真っ黒であるのに気がついた。
私は関東ローム層の上に住んでいるので土は赤茶色である。

八戸から久慈までは二本の街道がある。
ある本によると、鉄道の走っている側を浜街道と言い。山側を久慈街道と言う。

そして山側を飢餓街道とも言ったそうだ。
種市の知人は聞いた事が無いと言う。

地元に関係の無い訳知り顔の学者達は勝手に言うのである。
学者どもとは、そういういものだろう。

かつての飢餓街道とは、凶作による飢饉が多かったということだ。
浜街道では、有名な「やませ」による凶作が有名であるが、飢饉は聞かない。

半農半漁だからだろう。
しかし山側にしても、縄文時代のようにドングリを蓄えておくことは出来たと思うが。
私のような無学の者には、解らない。

何処の浜にも松が植えられているが、勿論、防砂防風だろう。
松は痩せた土地つまり砂地でも育つ精力の強い木である。

特に赤松が強いと書いてあるのを思い出して注意して眺めたが木の肌は黒かった。
この辺たりの土地はそれほど痩せていないのだろう。

松並木を見ているうちに、吉村昭の「津波」のことが書かれた本を思い出した。
ここ陸中も明治か昭和のどちらか忘れたが大被害に遭遇された。

防津波堤を探しながら車窓を注意したが、それらしきものは見えなかった。
種市には、そのためのものと思しき巨大な建造物がある。

ところで
戦国時代、久慈に久慈弥四郎がいた。
久慈氏は南部藩の家来の一人であった。

久慈氏は南部の藩主に
「津軽平野は肥沃の地です、あれを獲って南部のものにしましょう」
「私が取ってきます」と出かけてその地方に侵略して獲得した。

ところが「私はここで独立します」「南部藩よ、さようなら」と津軽藩を創設した。
今でも南部と津軽の仲がわるいのはこれが原因だという。

種市のに知人に聞くと「今でも仲が悪い」と言う。

野辺地という所があるが、そこに藩境(四つ盛というらしい)があると野辺地駅前に
説明があった。野辺地は維新まで北前船で賑わったという。

つまり、下北半島も南部であったわけだ。
南部氏は甲斐の国からきた。その前は安東氏の影響下であったのだろう。
その話しは、ここでは割愛する。

話しは変わるが
八戸市は小南部と言われる(大南部は盛岡だろう)。
南部の領主は始め八戸に藩都をおいた(現在の八戸市根城)。

その後、藩都を盛岡に移したが、今でも八戸は
経済文化の面で大きな存在の24万人以上の大都市である。

明治維新で、本来は八戸は南部つまり岩手県であるべきを、青森県にしてしまった。
種市を始め岩手県の八戸沿線の町々は今でも勿論のこと八戸の文化圏である。

経済だけでなく、一部政治面でさえ、そうであるが、県は別である。
薩長政権は罪なことをしたものである。




06年12月12日(訪問は12月10日)
青森県 津軽地方
雪の弘前城に行ってみたが、特に見るほどのものは何も無かった。

ただし良かったのは
追手門の前の観光会館の地下での昼食で「縄文まほろば鍋焼うどん」を
食べたことである。鍋焼きも美味しかったが、それではなく、名称だ。

縄文時代の東北は現在よりも暖かく
日本列島でもっとも先進地域であったと言われる。

まさに、「まほろば」であった。

私は時に思うのだが
もし生まれ変われるものなら、弥生時代のような権力者のいない
縄文時代、それも東北にと思うのである。

もう一つの印象は、青森駅と弘前駅の間の車窓から見た風景で
晴れたと思うと俄かに掻き曇り激しく横殴りの風雪が始まった。

これを幾度ともなく繰り返した。
これが津軽なのかと思った。

しかし津軽平野は豊かな米どころらしい。

弘前城から弘前駅までのタクシーの運転手の三上智五郎さんは
街中の繁華な通りで「農家の人は豊かですから」と。

津軽の藩都が弘前にあったが、明治以降の県庁は青森である。
青森市は明治以降に発展したのだろうか。

江戸時代の北前船は青森港の荷の上げ下ろしよりも
野辺地が主であったのだろうか。やがて県庁所在地の青森が隆盛した。

薩長政権が青森市に県庁を設置し青森県と称し弘前を無視した。
岩手県の県庁所在地は盛岡で、盛岡県ではない。

奥羽列藩同盟とは陸奥、羽州、越後の同盟である。
奥羽列藩同盟は会津藩を救うため、仙台藩 米沢藩などが嘆願したという。

薩長は
仙台県と呼ばせず宮城県、
久保田(現在の秋田市)県や米沢県と言わせず秋田県(秋田は安東氏の事)
いい大人が、まるで子供相手の意地悪である。

話しはそれたが
青森市の三内丸山古墳や青森市美術館の棟方志功を見たかったが
新幹線の時刻が迫っていたので、残念ながら断念した。

その代わり
青森駅隣接の固定された青函連絡船八甲田丸を見学した。
私は40年前ここから北海道に渡ったのを思い出した。

なにより嬉しかったのは
船内で船腹の竜骨をじかに見ることが出来たこと。
江戸時代は船体を大きく出来るので竜骨のある船を造らせなかった。
幕末に巨艦をみて驚くのも無理は無い。

それと
最下層で船のエンジンを目の前にし映画の沈没時を思い出した。
第一次大戦前後、南極の氷山にぶつかる、あの豪華客船である。




06年12月13日(訪問は12月9日から10日)
青森県 下北地方
夕刻の大湊は小雪が舞っていたが、それほど寒くは感じなかった。
3度から4度だろう。関東地方の真冬の気温であるが。

下北という地名と地図上の記憶から、寒くてはならないと錯覚するのだろう。

翌朝6時半ごろ
港を東から西へ歩くと、港が終わる辺りに「斗南藩上陸の地」という
縦長の案内板が、矢印付きで建てられている。

つい今しがた自分が歩いてきた場所でる。

思わず振り返ってみた。 
静かに小波を打つ光景が佇むだけである。

斗南藩とは、会津藩のことである。
幕末、会津は京都守護職を、いやいや受けたことに始まる。

配下に新撰組や見回り組みを置く幕府の京の警察組織である。
会津の他に桑名藩などにも、この守護職を命じたが断られたようだ。

元をただせば
たしか、会津の藩主・松平容保の先祖は徳川2代将軍の妾の子供である。
その家系は代々忠君で聞こえた家だ。それが処世術でもあったのだろう。

ただし
徳川時代の長い年月の間に、養子が入っているので、血は継ながっていない。

幕府は戊辰戦争に負けた。お涙頂戴の白虎隊は有名だ。
薩長新政府側にとっては、幕府に最も忠誠した会津などは厳罰の対象であった。

会津藩士は戦国の世であれば全員殺戮されているだろう。
せめて命を助けて、家族諸共、厳寒で最も物生りの悪いとされたのだろう
1万7千人は下北に移させて、開墾から始める農事につかせた。

会津も雪深いが、ここ下北は更に厳しい風土の不毛の未開地であった。
やがて、盛岡県との合併や農業政策の問題など種々あり
僅かに残った者もあったが、移住者の殆どは全国へ散っていったという。

罰ゲームのようなものだ。その過程で多くの者が寒さや餓えで死んだことだろう。
ところで容保は当然切腹したのだろうか。

と思いきや、彼は大変有名な勤皇家であったのが幸いして
東照宮宮司になったりし、歌道三昧の結構な人生で明治26年まで生きた。

雪模様の空で見えなかったが、大湊から遠くは無い北西に恐山がある。
藩士達は上陸後、大湊から山側にある寺を仮宿舎として入った。

私は、薩長の処置がいいとも思えないし、会津が最後まで抵抗したのが
いいとも思わない。

ただ下級藩士やその家族が厳寒の地で生死を、さ迷ったそのことが不条理と
思うのである。今も永遠の問題なのだろうか。

そういえば
明日は赤穂浪士の討ち入りの日である。
冗談だが、何も無ければと。