小さな歴史旅E
06年12月14日 
埼玉県蓮田市 閏戸足利館
東北新幹線の両側にあるらしい。全くの平城である。
叢や竹薮の中を覗いた。

土塁らしきものや、壕らしき場所も解らない。勿論人家もある。
中世の城址によくあるような、藪というか叢の佇まいであった。

閏戸とは地名でる。室町や戦国時代の遺構とされている。
足利というから、当初は古河公方の関係の砦として構築された
のであろう。

場所から考えて
その後、岩付城との関係や私市城との関係もあっただろう。
室町・戦国時代には両上杉の割拠する場所でもあった。

付近にあと2箇所、館址があるらしい。
別の日に訪れたい。




06年12月19日 
埼玉県桶川市 白幡山城址
行ってみると、ロケーションが、まことに城址らしい面影である。
舌代上地の先端に氷川神社があった。それが白幡城のあった場所だという。

北側を除いて全てが急な低地となっている。
私は、その当時の武者になったつもりで見渡してみた。

白幡は源氏で赤旗は平氏の旗である。
ここは源氏の者の館があったと推定するしかないそうである。

案内板もなければ何も無い。
ただ白幡山城址であるというだけであるが、満足な探索であった。




06年12月20日
東京都台東区 上野の森美術館ダリ展
サルバドール・ダリが特別好きでもなんでもない。

ただ、来月1月4日に終了するので
学校が冬休みになる前に見に行っただけである。

シュールレアリスムと言えばマグリットの大家族を直ぐに想像する。
私の知識はその程度である。

マグリットが生まれたのは1,898年でダリは1,904年というから
同じ時代の欧州人である。

ダリは「描いた画は私にも解らない」といい、マグリットも確か
「私の画に何か意味を考えないで下さい」と言っていたと思う。

ただダリは
「奇妙な画は非現実的であるからこそ、そこに意識外の意味がある」
などと、思わせぶりである。

私は二人が同時代人であることを重視する。
1,900年といえば明治33年である。

第一次世界大戦が1,914年ごろからで、1,930年ごろが世界大恐慌
1,940年ごろから第二次世界大戦か。

この世相と密接な関係があるに違いないと思うのである。
勿論私に何ぞには、分析して、その因果を引出すことが出来ないが。




06年12月24日 
埼玉県立歴史と民族の博物館 室町から戦国時代展示室
約260年間が狭い部屋に、ほんの僅かの展示である。
この時代ファンとしては寂しい限りである。

資料が少ない事と埼玉出身の有力武将がいないことからだろう。
展示室解説のレクチャーに偶然遭遇出来た。

いくつかあったが一つを質問した。
新田が都で優遇され足利がそうでもなかったのは、
後醍醐の時代の2年間だけですかと。YESということであった。

鎌倉北条では足利が優遇されたのとは反対ですが逆恨みでしょうか、と
文脈の通らない質問をしてしまった。

解説者の方は「そうですね、教えて下さい」と実に謙虚で
私は思わず、頭が下がった。歴史マニアの鏡であると。

それとは全く別の話しであるが
太田道灌の軍配での場面で、軍配は本来吉兆を占うものであり、
戦場では軍配を用いることはなかったでしょう。扇子で采配したでしょうと。

なるほど、そうれは今まで考えなかったことである。
その通りだろうと納得した。

以下も別の話しだが

足軽の軽具足の場面で、鉄砲などで、先ず倒れるのは足軽であったと
説明されたが、戦国末期でさえ、鉄砲は戦闘の道具としては
実際には役にたたなかったのではないかと言われている。

これは菅谷遺跡で先日実演された河越の火縄銃愛好会(名称?)の
代表の方の実験的考察ではあるが。しかし解説者の説明に問題はない。

封建の世では自分の土地を守る代償として、いざ出陣はあたり前だろう。
しかし戦傷死しやすい農民どもは、それでは農事に差し障りがあったろう

などと愚なことを考えてしまった。次男坊以下に出征させたのだろうと
戦前の叔父さん達のことを想起した。
(ちなみに私は戦後の46年生まれの五男坊ではあるが)




06年12月25日 
埼玉県加須市 設楽氏陣屋址
1575年長篠の戦(織田・徳川VS武田勝頼)は設楽が原で行われたと言う。

その設楽が原を領有していたのが設楽氏である。
もっとも設楽氏はその地名を自らの名前として名乗ったのだろう。

結果、織田・徳川軍が勝って、家康が関東に入部したおりに、設楽氏は
ここ武州礼羽に知行地(徳川天領地(旗本)だろう)を与えられ、陣屋を築いた。

東武伊勢崎線加須駅の北口ロータリー前である。
現在の地名は中央1丁目であるが、維新まで、ここに設楽氏は存在した。

行ってみたが、当然だが全く何もなかった。
駅前の店や住宅が密集しており、平地(ひらち)で全く遺構は無い。

ただ当時を偲ぶだけであったが、それはそれでいい。




06年12月26日
戦国時代の農民の生き様
戦国の世はまさに毎日が生死の刹那である

「戦国時代の農村」を近隣の図書館で読んでいた
1400年代、兵農分離が、すでに行われていた地域の前提で書かれている

〇合戦の勝者側は農民奴隷狩をして東南アジアに売っていた
〇落ち武者狩を戦闘者が予め農民に依頼していた
〇攻め手は、民衆の家を焼くのが常套であった
〇攻め手は、農民の作物を奪うのが常套であった
〇農民側は戦闘の両者に金を払い身の安全を計ることもした
〇農民は戦闘から身を守る為、山に城を築いていた
〇農民は鐘を叩いて村中に戦闘の緊急を知らせるシステムを完備していた
〇その他 数限りなくある。
〇農民は祭りなどで刹那を激しく楽しんだ

庶民の姿が見えてくるではないか
悲しくも哀れな、そして逃げ惑う我々の先祖が見えてくる。
私の先祖も柴田勝家の合戦のおり、そうであったろう。

私は、疾病がないのに、時として夜中に悪夢を見て魘(うな)されるが
先祖の恐怖がトラウマとなり、私のDNAが傷ついたようだ。




07年01月07日 
埼玉県立歴史と民族の博物館 亥年コーナー (訪問は1月5日)
猪は縄文時代の土器にも描かれており、古墳時代の埴輪にもある。

埴輪には犬とセットで出土すると書いてあったので
犬を使って猪の狩猟をしていたのであろう。
勿論、食用としていたのだろう。

また猪は多産であることから、縁起の良い動物として祀られた。
今日でもそのような風習が残っているそうである。

このコーナーには各地の猪の置きものが展示してあった。




07年01月09日
さいたま市鈴谷 今宮館址
太田氏房の家臣で立石甚衛門の館であったといわれる。
かつての発掘調査では、内壕東西160m、南北370m。
外壕にいたっては東西200m、南北760mもあったという。

行ってみるとマンションが林立しており、城址がある等と全くわからない。
しかし、近傍を廻ってみると確かにこの地域は僅かに高台であることが
確認できた。それだけが収穫であった。




07年01月10日 
さいたま市白幡 白幡本宿遺跡
白幡中学の敷地が目的地であった。
規模が、かなりの大きさである。

この遺跡の主も年代も定かではないらしい。

壕などの遺構は全て埋めなおしてある模様である。
付近を探索してみたが、何もよすがはない。

ただ地形からみて、台地の上にあり、しかも西側には沼がある。
そして東側は旧中仙道が通っている。
白幡と言うから源氏との関係があったのだろう。

台地下の医王院には2m以上の板碑(半分に破損しての大きさ)があり、
延慶2年(1,309)の銘があることから鎌倉時代から存在した
のだろう。当然台地の城址もそのころから存在しても不思議ではない。




07年01月13日 
埼玉県嵐山町国立女性会館 説経節 親子対面の場〜小栗判官実動記より
秩父の皆さんによる人情芝居である。舞台には琵琶を弾く人と語る人。
スクリーンに、秩父で演じられた芝居が映画で写し出される。

説経節とは
語り物の一。説経が平俗化、音曲芸能化されたもの。
三味線を伴奏に操り人形と提携。
古浄瑠璃の一種として扱われるそうである。江戸中期には衰退した。

ところで、
説経とは僧が経文を講釈することだそうな。
判官とは律令制の官位で宮司の職員を取り締まる。

今日の場面のストーリーは
小栗判官の一周忌の追善供養が行われているところへ
あの世から現世に帰ってきた小栗判官が父母を訪ねる。

母は一目見て我こと判ずるが、父は、ならば矢を射るので
これを見事取ってみせる秘術を示してくれたら我子の証であるとする。

これだけの話しである。

中世の人々の、人間があの世と子の世を行き来する考えや
母の情、父のその時代の心を実に示していて興味深い。


シンポジューム「大蔵合戦と武蔵武士」
大蔵とは、嵐山町大蔵字御所ケ谷戸にあった大蔵館のこと。
平安末期1,155年(久寿2年)にこの地で合戦があった。

合戦は源氏の内部抗争である。
「悪源太・源義平」が父義朝の弟義賢を攻め滅ぼした源氏内部のお家騒動。

悪は強いの意味
源は源氏
太は太郎で長男。但し妾の子供。
   頼朝は三男だが正妻の子供。義経は妾の子供で九男。

この話しには、武蔵での最有力者・秩父党が絡んでおもしろい。

結局、義平が勝つのだが
このことが、頼朝が鎌倉幕府を成立できる要因の一つとなっていく。
もし義平が敗戦していたら、頼朝による鎌倉幕府は無かった。

鎌倉幕府と埼玉は大きな関係がある。




07年01月14日 
埼玉県立嵐山史跡の博物館 シンポジューム「武蔵武士と寺院」
結論から言えば
鎌倉幕府の武力を支えていたのは武蔵に居た武蔵武士であった。


私は以前から、埼玉人に鎌倉時代を作ったのは埼玉・東京の人ですと。
しかし、上述であることは気がつかなかった。

但し
頼朝から北条執権になって、北条は武蔵武士を殺害し尽くした。
北条の執権体制を守る為である。体制を作ってしまえば、もう無用でった。

本日の講演
〇霊場としての岩殿丘陵
〇中世の坂東三十三札所
〇比企の観音霊場をめぐる武士たち
〇武蔵武士と浄土庭園
〇比企の板碑と武蔵武士
紙上発表として
〇武蔵武士と経塚
〇東松山市正法寺と周辺遺跡
〇吉見町安楽寺と周辺遺跡
〇瓦・仏像・浄土庭園遺構

講演者の名前と所属はここでは敢えて記さないが
全て、この分野のそうそうたる研究者だそうである。

我々素人と同席で、受講者側として大学や教育委員会の人が多数おられた
のには驚いた。

我々素人とは
歴史学を専攻する学生から元教員や郷土史愛好家や一般の老若男女まで
私は一般の老男である。




07年01月19日 
故吉村昭の「戦艦武蔵」
読了して、吉村昭は「隠蔽」について書きたかったのだろうかと思った。
以下は、この小説の私の読後感想である。

昭和17年ごろから大和と共に武蔵が建艦された。46センチ砲を積んだ
世界一の戦闘の為の巨艦であった。

巨砲は敵より遠方から大砲を撃つことが可能である。
よって、早期に相手の艦を叩く事ができる。

悲しいかな、すでに巨艦巨砲の時代は既に終わって戦闘機の時代であった。
しかも、戦闘機の時代の幕開けは山本五十六が真珠湾で実証していて
これを見ていた、米軍は戦闘機をフル生産して待機していたのだろう。

もっと悲しいのは、軍部は戦闘機時代を勿論気づいて知っていたが
日露戦争での日本海海戦での成功体験が頭から離れなかった。
しかし、それは本国近海でのケースであった。遠海ではない。

本題の隠蔽だが
武蔵の規模を建艦時から南太平洋での沈没後まで隠しまくった。
沈没後までも隠蔽したのは、不沈艦が沈没したのを味方に知られたく
なかったからである。

もっとも悲惨であったのは、武蔵に乗艦していた生き残りの兵士の
口封じのため、傷ついた兵士にも爆弾を抱えさせて敵戦車に体当たりさせて
死亡させたのである。

勿論、故国に偶然帰ることが出来た人々もあった。

これ以上私は書くことができない。

なぜなら
叔父達は海軍と空軍で戦死した。一人は志願兵であった。まだ少年であった。




07年01月20日 
埼玉県立嵐山史跡の博物館  経筒
当館のパンフレットによると
経筒は経塚に埋納する経典類を納める筒型の容器で
嵐山町平沢寺(へいたくじ)蔵の場合、埋納の趣旨や願主などが刻まれている。

江戸時代に平沢寺の裏山の「長者塚」から偶然発見されたという。
1148年の刻印があり、県内で最も古い経筒であるという。

ところで経塚とは
仏教経典を後世に残すのが目的で埋める。
極楽往生・現世利益を願って経典・経筒・経石・経瓦などを埋めるのだそうな。
上に五輪塔を建てる。

「埋納金」というものがあるが、やはり銭を地中に埋める。
これと同じ考えなのだろうか。

我々現代人は地中に埋めるといえばタイムカプセルしか思いつかない。
かつての人々は「地中に埋める」にどのような願いを持ったのだろうか。

死者の土葬と同じ意味があるのだろうか。




07年01月26日 
さいたま市西区水判土 水判土城址
新大宮バイパスから少し西に入ったところで、交通量の多い交差点がある。
よく通る道端に水判土観音がある。実はその直ぐ奥に慈眼寺があった。

ここにある案内板(大宮西口ロータリークラブ)によると
この寺院は平安時代に開創された。1,563年(永禄5年)小田原の北条氏康
は岩槻に居城する太田氏の領地をおびやかしました。

当時、岩槻の慈恩寺とともに太田氏の厚い保護をうけ密接な関係にあった
慈眼寺は、この戦いで焼き討ちをうけ焼失しました。
とある。

寺の周りを徒歩で探索したが、人家がびっしりと建っており、当時を偲ぶ遺構は
何もなかったが、確かに舌状地の最南端に存在するのは確認できた。

1,400年代の半ばから、太田道灌が謀殺される1,480年ごろまでは太田道灌の
支城の役割を果たしていたのだろう。太田道灌亡き後はどういう状態であったのか。
そして誰がここで武張っていたのだろうか。

慈眼寺の水判土観音から南側の低地を眺めて思った。




07年01月28日 
埼玉県立歴史と民族の博物館 慈光寺開山塔
慈光寺は奈良時代初期の開山といわれ、頼朝からの1,200町歩の寺領の
寄進もあったので有名である。

この寺には重要文化財があるが
この開山塔も重要文化財に指定されている。

その塔と全く同じものが造られ、博物館に展示されている。
この塔は宝塔(多宝塔ではない)という分類に入るそうである。

宝塔は、死者の遺骨が甕に入れられ、その上の木製の塔である。
甕に入れられた死者の遺骨がこの寺の開山僧かは不明である。

高さが3mほどもあろうか、まるで3重の塔や5重の塔を小型化したようである。
但し多層ではない。

木製であるが一種の墓石と同じである。また板碑、卒塔婆の類でもある。
それを宝塔というそうである。

慈光寺開山塔は1,500年半ばに建立されたことが解っている。
私は出土の金具は焼けた跡がありますかと質問した。

やはり焼けている痕跡があるという。
思った通り、何度も兵火にかかっていることだろう。

巨大な寺には僧兵がいて影響力が強かったはずである。
当時の武将たちは寺を味方につけたが、寺はそれが原因で
焼き討ちをされたのだろう。




07年01月30日 
埼玉県久喜市 米津氏陣屋 (訪問は1月29日)
家康の関東入部時に米津氏は、ここ久喜に領地が与えられた。
米津氏は旗本であったのだろうか。或いは久喜藩を急遽作ったのだろうか。

江戸中期に他藩の領地に組み込まれて、米津氏は改易となったのだろう。
その米津氏の陣屋址が久喜駅西口から車で5分ほどのところにある。
現在は御陣山児童公園となっている。

行ってみたが、大きな公民館の北側に、小さな児童公園があり
その中心に、こんもりと3mほどの高さの墳墓のようなものがあり
小さな祠が建てられていた。

ロケーションから考えてだが、多分公民館も含めて陣屋があったのだろう。
ほんの少し高台になっている程度であり、ほとんど気がつかない。

それよりも、近くに古河公方・足利成氏の子、政氏の甘棠院(かんとういん)
があるが、その場所を何故使わなかったのか不思議である。
何かに遠慮したのか。




07年01月31日 
埼玉県東松山市岩殿 正法寺@
殆どの参詣者は便利の良い裏の道から来られるが、私は真正面から
本堂に向かった。

参道が真っ直ぐに約500mほどあるのだろうか。
参道の左右は丘陵が迫っている。
両側には家々が立ち並ぶ門前町。正法寺は正面の階段上の高台にある。

私は、ふと鶴岡八幡宮を連想した。
自分のいま通っている所は若宮大路である。そして段葛を空想する。

石段を上がると右手に、鎌倉時代鋳造の梵鐘が、元禄時代の鐘楼に
下がっていた。

東松山市教育委員会の案内板によると
鎌倉時代とは1,322年(元亨2年)で
元禄時代とは1,702年(元禄15年)である。




07年02月01日
埼玉県東松山市岩殿 正法寺A
昨日の続き
東松山市教育委員会の江原昌俊氏によると
創建は寺伝によると、717年〜23年(養老年中)である。

またその後、806年(大同元年)に坂上田村麻呂将軍が再興した。

余談であるが、高坂に住む知り合いが、かつて、地元の学校の生徒であった。
学校の校歌に田村麻呂という歌詞が出てくるという。

過日、拙宅で校歌を歌ってくれて驚いた。
仕事の関係だが、彼は本日も拙宅に来たので歴史上の話題を歓談した。

ところで、坂上田村麻呂将軍が再興した当時、六十余院もあったという。
そして、利仁山と唱えたという。

まてよ、利仁って、それ野本将軍塚の、塚上にある神社の藤原利仁だ。

ちなみに、野本氏の居館は、その塚の隣にある無量寿寺にかつてあった。
ただし、その塚と、野本氏や利仁との関係は明らかにされてはいない。

1,200年(正治2)には、頼朝のカミサンである平政子(北条氏は平氏)が
この正法寺に帰依して、再再興された。比企能員(よしかず)に、この堂の
別当職を兼ねさせたらしい。

鎌倉街道が造られたことから、頻繁にこの正法寺へ鎌倉の武家が訪れて参詣
したことや、頼朝や実朝が熱心な観音信仰者であったので、坂東札所になった。
(岩殿山正法寺は坂東札所十番岩殿観音だそうな)




07年02月02日
埼玉県東松山市岩殿 正法寺B
昨日の続き
1,558年から69年(永禄年間)の松山城での太田氏と北条氏の戦乱は
正法寺にも影響して、ことごとく焼失した。

中興の栄俊は、現在の坂戸市勝呂の大智寺から法流(仏教の系譜)を受け
松山城主上田朝直の庇護を受け1,574年(天正2年)に観音堂を再興した。

これは
正法寺に残る、上田朝直や長則からの制札(高札)や寺中掟書で解るそうである。
江戸時代には家康が寺領を寄進した。

江戸時代の庶民の霊場巡りが盛んになると、門前町の集落が潤おい
別当職や賽銭の分配で争いが起こった。

平和な時代には、それなりに、やはり人間は軋轢を生じるものです。

それは別として
私が正法寺観音堂(正確には正法寺は存在せづ、観音堂だけとおもわれるが)
を訪れると、普段着の40歳くらいの男が、般若心経を熱心に唱えられていた。

在家の者も般若心経を唱える人は多いが、声からすると多分
お坊さんであろうと思った。

唱えが終わり私とすれ違った。私が「こんにちは」と挨拶をしたら軽く会釈された。
恐らく、真言宗の住職だろう。

余計な肉の付いてない、密教系の精悍な僧に思えた。




07年02月03日
埼玉県東松山市岩殿 正法寺C完
更に昨日の続きで
東松山市教育委員会の江原昌俊氏によると

門前町が途切れる先に岩殿阿弥陀堂址と惣門池(弁天池又は鳴かずの池)がある。
更にその東側に足利基氏の館址がある。

岩殿阿弥陀堂址からは13世紀中頃から14世紀前半の蔵骨器と思われる常滑壷
瀬戸美濃梅瓶、瓦質壷、板石塔婆などが出土している。更に浄土庭園の存在。

高坂台地の西側緩斜面に築造され、土塁や堀跡は良好に残存し、東西180m
南北80mである。南面する九十九川と水田が外的を阻止する役割を果たした
だろう。

新編武蔵風土記稿(1804年〜1829年編纂)によると、岩殿村の累跡として記述があり
鎌倉公方足利基氏が1,363年(貞治2)に芳賀高貞と戦ったとされ、岩殿山合戦の際
参道に面するこの館跡が陣地となった推定し、岩殿正法寺は軍兵の宿営地と推定される。

但し、足利基氏は、元からあったこの館を岩殿山合戦に利用したのだろう。
元からあったこの館の主は不明である。

私は上記の遺構を訪れた。
特に、岩殿阿弥陀堂址の裏にある斜面の板石塔婆が見事に現存しており驚いた。

高さは2m50cmはあるだろう。割れなど全くなく、綺麗な状態である。
文字や絵柄もはっきりしていて、640年前のものとは思えない。

東松山市教育委員会によると、これは胎蔵界大日板碑で
南北朝中期1,370年(応安)ごろのものであることがハッキリしている。

私は、これをデジカメで撮影し愛用のノートのデスクトップに飾った。
私の知人の家の代々の墓がこの板石塔婆(胎蔵界大日板碑)のすぐ下にあるという。

知人によると
ここは個人の墓地ではなく、村の共同墓地だそうである。

足利基氏の館址も訪れたが、濠と土塁が確認できた。
その直ぐ上は高坂CCというトーナメント開催などで知られる名門コースである。

地図をよくみると、石坂CC・清澄CC・鳩山CCがあり、この中に大東文化大学
と共に存在して囲まれている状態である。更に周りを調べると、ここはゴルフ銀座であった。




07年02月06日 
さいたま市北区土屋 土屋陣屋址
伊奈氏は家康の関東入部と共にきたと言われている。
もしやと思い、地図でしらべると
三河湾岸から少し入ったところに小坂井町伊奈という地名があった。

伊奈半十郎忠治は江戸時代初期に玉川上水開削に心血を注ぎ
1,629年(寛永6年)には、見沼を巨大な溜池としたことで
武蔵地域だけでなく関東でも著名な人である。

忘れてならないのは、伊奈氏最大の事業で、伊奈氏数代に掛けて行った
利根川の東遷と、荒川の西遷といわれている。

伊奈氏は徳川家臣の関東郡代(百万石に相当する地域の責任者)であった。
有能な人で関東地方の治水に絶大に寄与した。

伊奈半十郎忠治の父親が伊奈忠次(1,550〜1,610)である。

その忠次が荒川の改修や新田開発の為に、現在のさいたま市土屋に陣屋を置いた。
開発が終了すると、忠次の家臣永田という者に、この陣屋を下した。

私はこの陣屋址を見学に訪れた。
それは荒川の東数キロの地にあった。平和な江戸時代だけあって、単なる平地である。

現在も永田姓の人が住み続けている。
屋敷の一角が内科小児科の標榜で永田医院とあった。

もし内科学が専の医師であったとすれば、なぜ小児科を兼ねられるのか。
小児は大人を小さくしたのではあるまいし。などど思いながら見学させて戴いた。

誰が攻めて来るわけでもないのに
屋敷の周りを立派な壕で巡らしているのが、なんとなく可笑しかった。

その壕は武士の館としての権威を見せ付けたいのだろう。
大名が天守閣を作るのと同じだ。

長屋門の側には大宮市指定文化財と書かれた案内板があり
門や塀が市内で最大規模のものと書かれている。
但しこの建造物がいつ建築されたものであるかは書がれてなかった。

私は伊奈氏が代々関東の治水事業に寄与した事で、単に威張り散らす江戸の武士の
中では好ましく思っている。但し殆どの武士は極貧であったが。

ただ残念なことに、確か18世紀終わりごろに改易になったのは悲しい。




07年02月08日 
埼玉県入間市 金子十郎家忠館址
私はかつてより仕事の関係で、武将・金子十郎家忠の名前だけは知っていた。
その人は金子十郎家忠の子孫であった。

知ったといっても、その人が著書で明にされていたからである。
その人は某大学の助教授だったと思う。

一昨年だと思うが、入間市博物館で標記の武将についての詳細を知った。
埼玉県人なら、熊谷次郎直実や畠山重忠はかつての英雄であり誰もが知っている。

にもかかわず、金子十郎家忠は知られていない。平家物語や太平記の記述が少ない
からだろうか。私はそれらをキチンと読んでいないので解らない。

金子十郎家忠の祖先は桓武平氏の出で、武蔵七党の一つ村山党の出自である
とされている。

金子十郎家忠自身は、保元の乱や平治の乱で源氏側で活躍し、源平合戦では
義経に従い、一の谷で活躍したしたという。

その功績で、「入間の地」の他に「西国の地」の地頭にも任じられたという。

私は入間市木蓮寺という地を訪れた。

十郎家忠は村山党から出てこの地で金子を名乗ったのである。
何と最寄の八高線の駅名が金子駅であった。金子の地名はこの地ではポピュラーで
金子病院、スーパーの金子支店など、種々の名称が使われている。

瑞泉院というお寺さんの側が金子十郎家忠の館址であるというので
行ってみたが、瑞泉院の参道はあるが、本堂は建立予定であるという立て札があった。

そこは丘陵地帯の斜面で、墓地公園として大々的に売り出されていた。

館址は全く解らずしまいであったが、小高い地であり、見渡しのよいロケーションは
如何にも平安末期の武将の館が存在したであろうと思わせるに十分であった。




07年02月11日 
埼玉県羽生市 堀越館址 平野館址
かつて、標記目的地近傍の羽生城址を探訪したが、本日はそこから数百mと近い。

まづ堀越館址。

林の中が臭いと思って近づくと果たして、五輪塔が立っている。

私は実は五輪塔を見たのは初めてであった。尖塔に丸い輪が5個付いているのかと
思っていたが、上の画像を言うのである。

羽生市教育委員会の案内板によると
五輪とは古代インドで考えられていた宇宙を構成する物質の五大要素である。
それをわが国での考えで具象化したものであるという。

上から空風輪、火輪、水輪、地輪の四つの部分から成り立っている(一つ不足?)
他の書物で調べたら、空輪と風輪とに分けて書いてあった。つまり五輪である。

蛇足だが
地は最も下で四角い、その上の水滴は丸い、更に上は炎で△に燃え上がる。
風が吹いているが最も上に空がある。なるほどだね。

多くは墓碑や供養塔として立てられ、埼玉県北部に多い。
凝灰岩製で高さ127cm。鎌倉時代末のもの、と書かれていた。

館址のすぐ隣の老人に聞くと
館址に住んでおられるのは2軒あり、1軒は空家になり
もう1軒は83歳になる人が住まわれているが、その人が亡くなれば。無住となる。
この館址は市に寄付されたそうである。

私は市の許可もなく林の中に侵入した。北側と東側に浅い壕あとがある。
さらに西側に回り、丈夫な竹の垣根越しに覗くと
さきほどよりは深い壕が東側と北側に森閑としてあった。

さらに
平野館址を踏査に出かけたが、人家と田んぼがあるばかりで何も遺構らしき
ものは見出せなかった。

羽生城の支城として堀越館があったと考えられている。
時代は下り戦国時代の平野館もそうであるのだろうか。




07年02月13日 
埼玉県春日部市 井上将監館址
岩付城の太田房氏(1,565年〜1592年)の家臣・井上将監(判官のこと)の館址
を踏査にゆく。

春日部は東武鉄道の一ノ割駅西口から徒歩5分ほどに円福寺があり、その境内に
隣接して香取神社があった。その両方の地が館址であろう。

神社の境内には塚があり、これが館址の櫓址だというが、その気になって
13段の石段を登って辺りを見渡した。

この地は高台ではないが、
せいぜい2mほどの塚の高さであるのに周りがよく見えた。

円福寺本堂の前にある春日部市観光協会にる案内板があった。
その板によると、井上将監の次男が弘〇2年に、ここで誕生した。

次男は家康に講義するほどの高僧になり、後に太田の大光院
の開山上人となった。いわゆる太田の呑龍さんである。

太田房氏は後北条の一族で、北条第4代の北条氏政の三男である。
1,567年に太田氏資が戦死し、その娘を娶って太田家の家督を継いだといわれている。

やはり、北条を名乗るより、武蔵の太田姓を名乗る方がはるかに、聞こえが良かった
と思われる。




07年02月16日 
埼玉県八潮市八条 和井田氏屋敷址
八潮市は背中合わせが東京都で
常磐自動車道、首都高速、外環道や筑波エクスプレス鉄道が引かれている。

町中が灰神楽が立つ様な又おもちゃ箱をひっくり返したような
活気ある且つ、無秩序な雰囲気であった。

それもあり、遺跡の周りは何か騒然としていたが止もう得ない。

埼玉県・八潮市・八潮市教育委員会の案内板によると
和井田氏とは、中世からの土豪である。

江戸時代1800年ごろは35ケ村の取締り役を務めた名主であった。
和井田氏は、いわゆる開発名主であった。と書かれてあった。

開発名主とは、開発請負商人のようなものかと思ったが、そうではなく
直接に奉行から、その土地の開発を許可された者なのであろうか。不明である。

江戸時代の名主とは、奉行の下の村方三役である、庄屋(名主)・組頭・百姓代の
一人である。その下に本百姓、その下に水呑百姓(小作農)がいたと浜島書店
の中学教科書に書いてある。

果たして、江戸時代に小作農はそれほど、いなかったのではないかと思われるが。
小作農の増加は明治になってからだろうという研究者もいる。私もそう思う。

水呑百姓(小作農)の存在は武士にとって、得策ではないと思う。

私は屋敷址を周ってみた。
濠を、随所に見ることが出来た。かなり巨大な屋敷と思えた。郡代が住みそうな
地所であった。江戸時代に造られた藁葺きの門があった。

きっと武士階級に遠慮して藁葺きにしたのだろう。




07年02月17日 
埼玉県県民活動センター 平家物語・語り本と読み本
講義の正式な名称は
「さいたま彩発見講座・古典文学による武蔵武将」
〜「熊谷直実」と「畠山重忠」の人物像と歴史的背景〜
講師 恵泉女学園大学 佐谷眞木人

本日(熊谷直実)の講義の要点は
平家物語は殺戮しあう武士の「鎮魂と救済」がテーマとして書かれている。
である。

具体的には
同じ平家物語りだが
「語り本」としての琵琶法師による、熊谷直実の出家の理由
「読み本」としてのリアルな表現の中における武士の一所懸命

一所懸命が有ればこそ直実は懸命に戦ったが
その戦いにより、我子と同年齢の平清盛の甥・敦盛を殺害する。
直実は、戦役といえども、その哀れと無常を感じて結局出家をする。

それを旨く解説したのが、観阿弥世阿弥の「能」であった。
と、佐谷眞木人先生は分析するのである。

もっとも歴史的には熊谷直実の出家の原因は
平家物語に言う出家と、吾妻鏡にいう領地が原因による出家の2説があるが。

全くの余談だが
銀座の鳩居堂の店主は直実の末裔と称している。




07年02月18日 
埼玉県立嵐山史跡の博物館 松山城主上田氏
当館の前館長・梅沢太久夫氏は昨年「松山城主上田氏」を著した。
その著者の講演である。300名の参加希望者で100名限定であった。

要旨
〇上田氏は相模の出身である。(太田道灌の謀殺地に近い)
〇上田氏が比企丘陵に来たのは1,483年頃だろう。
〇上田氏が松山城の城主に初めてなったのは、1547年(天文16年)だろう。
〇上田氏が慈光寺を焼き討ちし領地を横領したのは1549年(天文18年)だろう。

梅沢氏の研究の方法は
過去帖の法名で上田氏の関連名380名近くを抽出して分析したことにある。

また氏の説によると
中世の城は土塁を盛り土するのではなく、斜面を切るのである。
斜面を切れば、そこは城を防御する施設の要所となる。

小高い自然の丘に囲まれれば、それは既に城(砦)である。
勿論、その周りは自然の沼地や川などを要害として利用する。

中世の城は原則、どこからでも攻められるが、どこからでも逃げられる。
そこが、安土城以降の城とは違う。安土城以降は天守へ行けば終わりである。

講師はメリハリのある話し方でプレゼンスも自信に満ちたものであった。

氏は
「文献と自らの足で歩くこと」と言われた。




07年02月22日 
埼玉県吉見町 金蔵院・宝篋印塔
篋印塔とは、要は墓である。
埼玉県立嵐山史跡の博物館刊の書物によると、
板碑と同じく、先祖への供養の為の塔とある。

吉見町教育委員会の案内板によると
畠山重忠と源平合戦の宇治川の戦いで先陣争いをした
大串次郎重親の墓であるとされる。

吉見町教育委員会太田賢一氏の発表資料によると
大串次郎重親は平安から鎌倉に活躍した横山党の武蔵武士。

元服に際して畠山重忠の一字を貰い重親を名乗った。
それ以降、宇治川の合戦や奥州出征に向かう重忠の家臣団の
一員として各地に転戦した。

生没年は不明である。

また太田賢一氏は金蔵院について
その周辺の寺などすべてを含む、隆福寺の坊中であった。
現在は存在しないが七棟伽藍を備えた大寺院であったという。

私はそこを訪れてみたが、侘しいお堂がポツンと一つあった。
お粗末な参道の入り口に小さな宝篋印塔が一つと、お堂の西方の
田んぼの中に青い屋根のある素通しの小さな建物が見えた。

そこ行くと、自分の背丈より高い宝篋印塔が鎮座していた。
吉見町教育委員会の案内板によると1m90cmあるという。
永和2年(1376年)のものであるという。

宝篋印塔の台座付近を良く見ると確かに永和2年11月と読めた。

埼玉県立嵐山史跡の博物館刊の書物や
吉見町教育委員会太田賢一氏によると

この下を掘ると甕の中から壷が出てきてその中に骨があった。
それが大串次郎重親の骨であるらしいという。

私は630年前の往時を偲び、石をそっと触ってみて(触ってはいけない)
大地を見回した。
早春のまだ冷たい風が僅かに流れていた。




07年02月23日 
埼玉県吉見町 大串次郎重親館址(訪問は2月22日)
金蔵院・宝篋印塔のある場所から西方の地が、館址であろうと言われてる。

新編武蔵風土記稿(1804年〜1829年編纂)によると
「村ノ東ニアリ、少シク高キ所ニシテ」と書かれているそうだから、台山地区と
推定されると、吉見町教育委員会太田賢一氏はいう。

私は金蔵院から南東1kmほどの市野川の東縁の土手から眺め探した。
土手の東側には小高い所は全く見当たらず、ただ寺とお墓群がみえるばかり。
土手の西側(内側)には藪がある。藪の向うにまた土手がある。

後世、洪水が原因で土手を二重にこしらえることになったのでろう。
藪は土手と土手の間にあったが、小高くはない。

しかし今までの経験からこの藪が館址であろうと思った。或いは土手が館址の
一部であるかもしれない。土手を造成時に館址を利用したかも知れない。

大串次郎親が、畠山重忠麾下の基いざ出陣する姿を思索したが
藪の木々が森閑として答えてくれず。

大串次郎親は畠山重忠の家臣団の一員ということになっているが
宇治川の合戦で重忠と先陣争いをしたということから
もっと独立した存在であったのだろうか。

その後畠山重忠は北条氏に騙されて殺害されてしまうのだが
その時は大串次郎親は北条方であったのだろう。
(畠山については24日の項に再掲する予定)

現代の我々には、大串次郎親を裏切り者として考えてしまうが
それは、江戸時代的発想であり、当時(鎌倉〜南北朝)は常の事だろう。




07年02月24日 
埼玉県県民活動センター 文学における畠山重忠
講師 恵泉女学園大学 佐谷眞木人

畠山重忠はまさにヒーローである。特に埼玉県では中世の英雄である。

出自は武蔵七党の最有力党である秩父党である。その中でも畠山氏は
河越氏と並び有力者であった。

結論から言うと
鎌倉幕府成立に大きな功績のあった真摯愚直な畠山重忠が
同胞であるべき北条氏に討たれた事への憤懣やるせなさが原因である。

それは義経に対する「判官びいき」と同種のものであろう。

〇平家物語での宇治川の合戦で「徒立ち」での渡河時の
 烏帽子子(えぼしご)大串次郎を対岸へ放り投げて遣った思い遣りと大力
〇源平盛衰記での「一の谷」で馬を背負って遣った優しさ
〇古今著聞集での相撲取りを相手に勝った怪力
〇曽我物語での曽我兄弟を支援する人情

これらが江戸時代に歌舞伎の題材として取り上げられて
民衆に大いにアピールした。

上記の作品に流れているのは、平安時代の貴族社会から鎌倉の武家社会
への端境期の都人の驚きと異郷(東国)への憧れであろうと言われる。

講義が終了し、私は、畠山重忠が北条氏に殺害される時の大串次郎重親が
文学作品中では、北条方でしたかと質問したが、解りませんとのことであった。

なぜなら、頼朝の弟・範頼が鎌倉から謀反を言われ北条から襲われたとき
大串は北条方であったからだ。




07年02月25日
墓石のこと。寺院と葬儀のこと
この項で言いたいのは以下2点である。
〇現代の四角い墓は江戸時代の初めごろに出来たのだろう。
〇お寺さんが葬儀を専らするのは幕末以降だろう。

但し我々庶民の話である。

中世(鎌倉から織田豊臣時代以前)には
五輪塔、宝篋印塔、宝塔、多宝塔、層塔、板碑などが
墓石の代わりであっただろう。

但しこれらは武士や身分の高い人の中でも一部の人の場合である。
庶民の墓はせいぜい土饅頭だろう。

次に葬儀だが、我々庶民では
今の様な葬儀は幕末までは行わなかっただろう。
お寺さんは有力者から寺領を貰っていたので、食うに困らない。

それがどれ位の程度の大きさ(格式権威)の場合か、また
その寺領を貰っている寺の割合が、どれ位か全く解らないが。

いづれにしても
寺が食っていけるかどうかを基準に考えればいいわけだ。

檀家が葬儀で寺に種々の名目で(護寺会費や読経料、戒名など)
費用を出してくれないと、寺はやっていけない。

あるいは墓地をドンドン売る(限界があるが)以外にないだろう。
そうでなければ、ただただ、お布施を期待するしかない。

種々の場合があり、簡単には論じられないが
そういう事をしない住職さんは、教員などする人が誠に多い。

要は私は
お寺さんがマルで葬儀の為に儀式をする精神的装置になったのは
幕末からだろうと、いいたいのである。
くどいが葬儀の為だけである。

では葬儀の為の儀式をするなと言うなら何をすればいいのかと
問われれば、小生なんぞには全く解らない。説教だけではね。

話しを戻すが
江戸末期の創作幽霊話が功を奏して、人々は死者を恐れたに
違いない。だから、土饅頭では具合が悪くなったのだろう。

そして、墓石屋が儲けるのである。
ところで、寺と墓石屋の関係は不明である。
金銭関係が無いのからズブズブあるのまでピンキリだろう。

これらの話しは柳田國男の本を読むとキット書いてあるのだろう
私はまだ読んでない。




07年02月27日 
さいたま市見沼区島 坂東四番 薬師如来 薬王院(寺)@
決して高地ではなく、言わば平凡な緩い坂の途中に存在する。
境内の庚申塚の石には、享保11年(1726年)と刻銘に読める。

また別の石には天明(1780年代半ば)のも見える。
力石や六地蔵もあるが年代は解りずらい。

いずれにしても、ここは、少なくとも江戸時代中期には存在した。
お堂があり、その前に案内板によると、円空さんの作品が存在する。

円空は1632年生まれて1695年に没している。この島の地に来た折に
製作して、置いて去って行ったのだろう。

だとすると、ここ薬王院はそのころから存在したことになる。
円空さんの足取りが解れば更に詳しい年代が判明する。

私は境内を踏査してみたが、壕や土塁の痕跡は全く見当たらない。
おそらく、この地の純粋な宗教施設であったのだろう。

この続きは、後日書いてみたい。




07年02月28日 
埼玉県川越市古谷 古谷城跡(古尾谷館址)
鎌倉幕府の御家人の館址である。
川越の武将といえば、河越氏、仙波氏を思いつくが古尾谷氏もそうだ。

ただ河越氏が最も古く、鎌倉の御家人ではないだろう。
源平時代の武将だ。義経のカミサンの実家である。

それはともかく
国道16号の上古谷交差点を少し北に入った場所に曹洞宗・善仲寺がある。
これがその古谷城の址であるそうな。
実はその直ぐ側に天台宗実相寺があるが、どうゆう関係だろうか。

私は善仲寺の境内に入らせて頂き、まず、お賽銭をしんぜた。
そのあと、本堂の裏手の方を踏査すると、土塁と壕が藪の中に見える。

この寺の境内は現在は狭いが、ロケーションを見るに
どうやら、かつては広大な規模の古尾谷氏の館址に建てたようだ。

もっともこの城は
古尾谷氏は南北朝時代まで或いは北条氏が来たころまで居たがその後
家臣が引き継いだのだろうか。

この寺は、まっ平の土地にあり、守りに余りにも問題があると思っていた。

帰路、近くに伊佐沼という憩いの池を訪れた。

この池は、かつては
現在より遥かに広く、古谷城の要害として利用できたのだろう。
などと思いを馳せながら帰宅した。




07年03月02日 
埼玉県東松山市高坂 小代(しょうだい)氏館址

東武鉄道高坂駅から徒歩15分の所にあった。辺り一帯を正代という。
お堂とその側に、板碑を守る為の建物の中に小代氏の板碑があった。

そばの案内板(埼玉県教育委員会・東松山市教育委員会)によると
この板碑は弘安4年(1281年)に建立された。

小代氏は鎌倉幕府の御家人として肥後国野原庄(現荒尾市)の地頭職
の地位を得ていたが、実際は小代氏が九州へは行かず
家臣を代理として行かせて統治させていた。

ところが、再びの蒙古襲来に備えて、小代氏本人が行くことになった。
行く前に、小代重俊氏は供養(事前に供養をする)と一族の一致結束
を願う為に建立したと書かれているという。実際その年に蒙古は来た。

そのため、この地から小代氏は全て引き払い地頭職地の野原庄に行き
そこで長年繁栄したとまで書いてあった。

私は、狭い境内から北を望むと、ここが台地であることに気がついた。
なるほど、ここは要害の地である。

研究者(東松山市教育委員会の江原昌俊氏)によると
この地・正代は小代氏居館として捉えると書かれてある。

江原昌俊氏によると、館の規模は200M×250Mで、壕・土塁が確認されて
おり、幅4M深さ3Mであったという。

また
小代氏は武蔵七党の児玉党の出身であるが、この地で小代氏を名乗った
という。近くの高坂氏は秩父氏の出であるが小代氏と姻戚関係である。

私は、ここから5分ほどのところの世明寿寺の方へいってみた。
このあたりも小代氏の居館の一部であったのだろうと思いながら。




07年03月06日 
埼玉県吉川市 吉川氏館址
吉川氏が何者かサッパリ解らぬまま出かけた。

古利根川に架かる吉川橋を渡り暫くすると南側に延命寺の山門があった。
当寺は庫裏・客殿の建築中と書いてあったが本堂も新築中であった。
足を踏み入れさせて戴いたが、工事関係者の邪魔になるので退散した。

山門にある案内板によると
埼玉県と吉川市によると、1446年(文安3年)銘のある十三仏種子板石塔婆
と文安4年銘のある六字名号板石塔婆があると書かれている。

1,466年と言えば太田道灌が34歳時で、この前後に江戸城や川越城を築城
したのであろうか。

吉川氏は、そういう時代、或いはそれ以前の時代の武将である。
南北朝が終わり、足利将軍の権威だけの室町時代の始まりであった。

1,468年ごろから約10年間の応仁の乱があり
戦国時代が幕開けするのである。そんな事を知ってか知らずか吉川氏は・・・。




07年03月08日
さいたま市北区日進 おはやし城址
ここについての情報は、名称と場所のみである。

私は取り敢えず行ってみた。自衛隊の駐屯地の側であった。
住宅地の中にここだけ、藪のようになっている。

全体として、よくみると小高い土地であるが、ここだけ特に小高くなっている。
武将の目で見ると、西側が低湿地である。南側は低いが崖になっている。

これだけの情報で以下を推定してみた。
〇年代であるが、最初の築城は江戸時代ではない。何故ならロケーションが
  戦国時代或いはそれ以前の様相である。
〇人物であるが、太田道灌の家臣や配下の者。岩付城の最西端であろう。
〇人物の立場は、扇谷上杉と山内上杉との間をうまく全方位外交で
  生き延びていかねばならなかった。
〇城の名称は、「おはやし」から推定するに、「林氏の砦」ということで
  地元民が尊称に御林と呼称した。
〇人物名はそうだとすれば、林と言うことになる。

全く当たってないだろうが
推定する楽しみが、中世の城探しの醍醐味である。




07年03月12日 
埼玉県吉見町 源範頼館址

町の年配の蕎麦屋の主人に息障院を聞いてみると、勿論場所は良くご存知で
あった。しかしそこが、源範頼館址であることは全くご存知では無かったのに
驚いた。

なぜなら、氏は短歌が趣味であられるようで、店内にも掲示されており、町の公報
に掲載されたとおっしゃっていたので。当然歌に読み込まれると思ったが。

真言宗智山派・息障院は吉見町役場から近い場所にあった。
周りには壕の址がくっきりと残されている。土塁は全くない。

更に驚いたのは、壕が西方1km近くまで続いていたことだ。
その先には吉見観音安楽寺がある。ここと一体のものらしい。

息障院を入って左手に藁葺きの地蔵堂がある。
これが歴史家では有名な建造物だそうな。室町時代(1,400年半ば)のものらしい。

わたしは、裏手に回ってみると、おびただしい数の五輪の塔や宝篋印塔がずらりと
並んでいた。みると「法印〇〇」と刻んである。全てこの寺の住職さんである。

ところで、吉見町教育委員会の太田賢一氏によると
平安時代の末期に源頼朝の弟・範頼は幼少期に安楽寺に身を隠していたという。

話しは前後し場所も飛ぶが
地蔵堂は室町初期のもので、この場所に移ったのは1390〜1393年(明徳年間)。
息障院と安楽寺はかつては一つの大寺院を形成していた。

範頼は平治の乱後、岩殿山に逃げ比企氏の庇護によって生長した。
頼朝が鎌倉で勢力を得た後も吉見に住んでいたと思われる。

館を中心とするこの地を御所と呼ぶようになったといわれている。(地名は御所)
範頼は遠江国蒲御厨(浜松市)で生まれたことから、蒲冠者とも言われている。
但し、義経などが良く知られているが、範頼の生涯は不祥である。

源平の合戦では義経とともに平氏追悼軍を指揮していたが、後に頼朝から謀反の
疑いをかけられて、1193年(建久4年)に伊豆に流され、その後については不明だ。
多分殺害されたのだろう。

範頼没後はその子範円(範国)、為頼、義春、義世に至る5代が吉見に居住し
範円(範国)以降は吉見氏を称した。義春と義春の子義世も謀反の罪で殺害。




07年03月15日 
埼玉県狭山市 入間川城址
狭山駅から数分に徳林寺がる。それが目的の地である。
行ってみると、市立中央図書館の側で、図書館が極端に高台で、低いほうが徳林寺。

大抵は高台に城址はあるものだが、これは珍しい。
しかし、この高台も含めた地が当然に城址であろう。つまり図書館が城址で
徳林寺はその要害の地であるはずだ。

曹洞宗のお寺さんであることは解るが、それ以上の事は何も説明板など無い。
もちろん、遺構など何もない街中の寺院であった。

この地は
足利尊氏の次男で足利基氏の城であったという。新田氏を牽制するための城だ。

足利氏の内紛からの観応の乱で、尊氏は長男義詮を鎌倉から室町へ呼び寄せ
尊氏の後継とした。1,349年(貞和5年)次男基氏を初代鎌倉公方とした。

基氏は南朝に味方する新田を滅ぼし、執事の畠山を殺害して一時は高氏を
用いたが、結局上杉憲顕を管領の職に復させ、上野越後の守護とした。

その後の鎌倉公方は、古河公方になり、秀吉は名門足利氏の消滅を惜しみ
下野・喜連川で400貫を与えた。

いかにも庶民出の秀吉らしさである。秀吉は自分が名家と程遠い出てあるので
憧れていたのだろう。

江戸時代には、家康がやはり、喜連川藩を創設してそこの藩主にした。
4500石(非大名)ほどであったが、10万石並の大名として遇したという。

家康も基をただせば、流れ者の乞食坊主が先祖であり、名門に憧れていた。
(新田の系譜だ、などと創作して源氏を気取っているが)

そして家康も成功者として、かつての名門足利氏を惜しんだのだろう。

結局、数多い足利氏の末裔で幕末まで残ったのは、
この喜連川だけであったという。

明治になり、名を足利に戻した。新政府は大名でもないのに子爵で遇した。
現在も喜連川15代目の方がおられる。(現代の方は細川からの養子だそうな)

余談だが私は喜連川カントリーでその名を知った。




07年03月17日 
埼玉県県民活動センター イスタンブル歴史と文化@
近代までの世界は西欧世界、中国世界、アラブ世界と考えた場合
我々はあまりにもアラブ世界を知らない。

例えば(王、皇帝、など主語を抜いているが)
西欧社会には貴族がいて彼等に社会を統冶させた。
中国社会には大地主がいたが、科挙で官僚を作り社会を統冶した。
アラブ社会は、王様が直接大衆を統治した。

(日本は、律令時代は西欧型で戦国時代はアラブ型で
江戸時代は地縁血縁型(譜代大名)だろう)

(オスマントルコが成立したのは太田道灌の頃にあたる)

イスタンブルのトルコは宗教や民族で人を差別せず
租税を支払い、謀反を起さねばそれで立派に社会に参加できた。

(今のアラブ社会と何と違うことか)




07年03月19日 
埼玉県幸手市 幸手城址
東武鉄道伊勢崎線の幸手駅東口からまっすぐ300mほどに、一色稲荷大明神
という小さな祠があった。これが幸手城址であるという。

ロケ-ションを考えたが、真っ平である。多分宅地造成や駅前再開発の影響だろう。
ここから、北側に城址の主要な部分があったはずだか俤すらない。

江戸時代の終わりには既に、農地になっていたというから無理もない。

案内板の埼玉県と幸手市によると
このあたりには、陣屋とか城山という地名が残っている。

ここは古河公方足利氏の家臣一色氏が館を構えた跡であるといわれる。
1532年〜55年(天文年間)に一色直朝は足利春氏、義氏に従い
のち田宮の庄(幸手庄)に住したという。

直朝の子の義直も幸手庄に父と住したが、小田原の北条氏没落後は家康に仕え
幸手で5100石ほどの領地を与えられた。

現在は土塁址など何もなく、ただ陣屋から巽の方向(南東)に、陣屋の守り神として
一色稲荷が祀られたものが現存する。

この説明の中で抜け落ちている部分がある。
足利氏は、上杉氏と対峙した1471年には、長尾景信・大田資忠軍が
一色氏の高野城や幸手城、古河城をも落としたといわれる。

その後も上杉謙信により、古河、幸手、菖蒲、岩付が落ちている。
結局その後に、後北条の軍門に下ったのだろう。

だから後北条滅亡とともに一色氏も一旦は滅亡したが、江戸時代になって
家康が武蔵支配のために一色氏を担いだのだろう。




07年03月23日
東京国立博物館レオナルド・ダ・ヴィンチ展

画から3mの真正面からみて、先ず目に入ったのは
〇大天使ガブリエルの赤い下肢の着物
〇明るく彩色されたマリアの幼い顔
〇白い、マリアの大きな所見台
〇遠い明るい不明な風景

次に気が付いたのは、マリアが余りにも正面を向きすぎていることだ。
驚いて身をよじったのであるが、それにしては、体ごとであるので不自然だ。

最後の晩餐の画が典型的であるが、画を見る者にサービスし過ぎなので
カラバッジョの画の様な、臨場感が損なわれてしまっている。
これは、ルネッサンス絵画が、まだその前の絵画理論を踏襲しているからだろう。

そして、ルネッサンス絵画から次のマニエリスム絵画の時代までには
まだ数十年以上の時間があった。

その後の1,640年ごろにカラバッジョなどを初めとするバロック絵画が出てくる。
(高階先生みたいなこと言って僭越だが)その辺の説明が全く無く不親切だ。

しかし、そうは言っても、
案内によると、この画は右斜め下から見るように書かれているそうな。

レオナルドはイタリアに1,452年に生まれて、1,519年に亡くなった。
戦乱の時代で発見の時代でもあった。

この点がこの展覧会では無視されていて
レオナルドの天才性のみが大きくクローズアップされていた。

以下浜島書店の「新しい歴史」によると
1453年
〇オスマントルコが東ローマ帝国を滅ぼす
〇英仏百年戦争
 イタリアを中心にネッサンス

1,474年
〇トスカネリが地球球体説にもとずいて世界地図を作った。

1,479年
〇スペイン王国がおこる
 大航海時代が始まった

1,485年
〇(ポ)パーソロミュー=ジアスが南アフリカの喜望峰を発見

1,492年
〇(西)コロンブスが西インド諸島を発見

1,498年
〇(ポ)バスコ=ダ=ガマがインド航路(アフリカ廻り)を発見

1,506年(伊)
〇ダ=ヴィンチ「モナ=リザ」

1510年
〇(ポ)インドのゴアを占領

1517年
〇(独)ルターの95か条の意見書
 宗教改革が始まる

1,519年
〇マゼラン世界一周に出発

我々の住む武蔵は
扇谷上杉、山内上杉、古河公方、太田道灌、北条早雲
の時代で室町時代から戦国時代への移行期であった。

観阿弥世阿弥は南北朝の後だから
西国ではそれも含めて大衆文化が芽生えて、活発になるころだろうか。

ただ発見と航海については不祥だ。

日本にも小型のダ=ヴィンチみたいな人がいた。
無理に当てはめると、江戸時代の平賀源内か。




07年03月24日 
埼玉県県民活動センター イスタンブル歴史と文化A
アラブが紛争の地となったのは、第一次世界大戦からだという。

その原因は、貧富の差つまり格差社会が根底にあり、その矛盾を「民族」
という旗印で、いがみ合うことになった。

それまでは、特にトルコにおいては、異なる宗教宗派・民族・言語で
種々の民族が入り混じり、30の言語があったという。

イスタンブルにはイスラム教、ユダヤ教、キリスト教各派が渾然と存在し
数百年間もみな仲良く暮していた。
但し税金を支払うことが条件であった。それは当然だろう。


また鎖国などせず、出入りが自由であった。

第一次世界大戦以降
貧困に民族つまりナショナリズムが導火線となり紛争が始まった。
我々日本人には理解ができないことである。

宗教の特長について
イスラム教・・・人は神と直接対話する(神と取引をする)
カトリック・・・人は神父を介して神と取引をする
プロテスタント・・・人は神と直接取引をする

それではイスラム教のイマーム(導師)とはなにか
信徒の世話役であるという。その他に説教師がいるが神学者である。

だからイスラムには教会の必要がない。モスクは単に礼拝所であり
コミニュティーセンターである。それ以上の何ものでもない。




07年03月27日 
さいたま市岩槻区 馬込五番遺跡
15世紀から16世紀の壕が発掘されているそうだ。

行ってみたが遺構は何も無い。
南側は見沼を見下ろす絶好の要害地の一つである。
だた、それ以外の地から攻められた場合は弱いだろう。

恐らく岩付城の支城であったのだろう。近くには丸ケ崎城がある。
そこと連携していたのだろうか。

1900年(天正18年)の岩付城開城の時の前に
秀吉軍により落城したのだろうか。




07年03月28日 
埼玉県行田市 石田三成陣屋址
来て見るとあまりにも広大な遺跡発掘現場であった。
10人ほどの方が発掘作業中であった。

さきたま古墳の直ぐ側である。
石田三成の攻めた忍城はここから北へ2kmほどであろうか。

1km先には新幹線の下に堤らしきものがあった。
忍城を水攻めにした攻城時のものだろうか。

攻め手は2万3千、守り手は成田氏の残兵(成田氏は小田原城に)
で2,600名。水攻めで、落城に1ヶ月を要したという。

歴史家による、経理官僚石田三成の手腕が問われること
「かまびすしい」が実態は、どうであったのだろうか。

話しは変わるが
作業現場の歴史好きの人の話しを聞いてみた。
〇石田三成の陣屋はここから500mほどに現在もある古墳上。
〇発掘中の場所は三成の数万の軍勢の陣場(兵舎)であった。
〇ここは最近までスリッパ工場があり、さきごろなくなった。

以下時間経過で考えると
〇ここは元は縄文時代の遺跡で、現在縄文の壷などを発掘中。
〇古墳時代には、この上に古墳を築いていた。
〇石田三成は古墳を取り崩して平地にし、その上に陣場を築いた。
〇そして、江戸明治大正と何事かがあり、スリッパ工場が出来た。
〇スリッパ工場の跡に、この度道路が出来、住宅等が出来る。
〇その前に、遺跡を調査して埋め戻す。その調査中である。

まさに歴史である。
後日、水攻めの実態を現在の忍城博物館で確認したい。




07年04月03日 
埼玉県行田市 石田堤 忍城址
秀吉の天下統一は、1,590年(天正18年)の小田原攻めで成った。

その時武蔵では、秀吉が石田三成に2万3千の兵を預けて
忍城を水攻めにさせていた。石田堤は、その折のものである。

なお、秀吉の有力武将である大谷吉隆、長束正家
らも参加させた。

利根川、荒川から水を引くのである。忍城を半円形に堤を築いた。
その堤防がなんと28kmもあった。

私は行田市堤根に今も残る石田堤を見学に出かけた。
高さ1m30cmほどで、幅2m長さ250mほどであろうか。

堤に上がって眺めてみると、西側がやや低く東側がやや高い。
すでに400年以上が過ぎ去っている。当時の巨大な堤ではない。

そのあと、忍城址天守閣(現在は三層櫓が建てられ行田市郷土博物館)
を訪れた。

三成の一ヶ月に渡る水攻めは結局失敗に終わる。
それどころか、逆に城の守り手側に堤を決壊させられて、270名の溺死者
を出した。

やがて、小田原が落城して、この忍城も、やむなく開城した。

それにしても、秀吉の得意技である水攻めを失敗させたこの忍城は
1,400年末に成田氏が縄張りを実施した、関東の七名城の一つである
と言われるだけの事はある。

忍城は浮城ともいう。荒川や利根川の洪水でも水を被らない
忍耐強い城という意味合いがあったのだろう。

数ある小田原の支城で、落城しなかったのは、忍城だけである。
戦国時代初めの成田氏の頭脳は図抜けたものであったと言わねばならない。