小さな歴史旅F

07年04月06日 
さいたま市見沼区代山 代山城址
岩付城の支城である。太田氏の家臣小久保氏であるとされている。
また、山田氏であるとも言う。

私は地方選挙の選挙カーの間を縫って出掛けてみた。
岩付城の南西約7kmほどであろうか。

浦和学院高校に隣接していた。
よく踏査してみると、なんと素晴らしいロケーションであることか。

南側、北側、西側が全て、低地の要害でかつ敵が丸見えである。
攻め手から考えると突破できるのは東側だけだろう。

小さな規模の砦で、これだけのものは久しぶりに見た。
嬉しくなってあちこちと見てまわると、神社や祠が多い。

歴史的な情報は少ないが、来てよかった。
帰宅への足取りは嬉しく飛び跳ねる思い出あった。




07年04月11日 
埼玉県久喜市中曽根 館山遺跡
今から5百年ほど前の武士の館址であろう。
久喜市のサイトには「室町時代か、構堀あり」とだけある。
それ以外には何の情報もない。

私は期待しないで出かけた。探したが見つからない。
「竹薮を見たら城址と思え」という言葉があるそうである。

よって、「ここであろう」と思える場所を決定した。
「ここしかない」と今までのカンで決めた。

全くの平地で竹薮があるだけで壕もなければ土塁もない。
何にもそれらしき遺構は見つからない。市のいう横堀も不明。

その後、足利成氏の弟で足利政氏の「閑東院」の前を通り過ぎ
それが1,519年のことであったことを確認する。

1,519年ごろ、ここ館山で必死に生き抜く武将がいたことだろう。




04年04月12日
さいたま市 埼玉県立歴史と民族の博物館 「絵馬」
馬は神霊の乗り物であったという。
だから、人々は馬を神社(明神)に奉納したという。

余談だか
神社という名称は明治維新に、公家の思惑や薩長政権等が
自分達の都合で、天皇を無理に祭り上げる為に使った言葉。

だから明治以前の文献には単独で「神社」は無いはずだ。
あるのは権現や明神。

話しは戻るが
絵馬は
@神仏への祈願
A祈願成就の御礼
だそうである。

当館によると
絵馬の言葉が最初に文献に現れたのは1012年(寛弘9年)で
大江匡房(まさふさ)が北野天神社に献上した色紙絵馬3匹が最初。

最古の実物絵馬は奈良天平時代に静岡県伊場遺跡跡の
地層から木簡や土器と共に発見されたという。

埼玉県東松山市にある妙案寺にある馬頭観音が有名で
毎年2月19日に例大祭が行われ関東各地から人を集めるという。

後日、その妙案寺に行ってみたい。




07年04月14日(訪問は4月13日) 
栃木県宇都宮市 宇都宮城
行ってみると綺麗に櫓が2箇所とそれをつなぐ土塁が観光客に解り易く
整理され、周りも濠がまことに綺麗で、江戸時代を彷彿とさせた。

城内敷地の清明館を期待して訪れたが、私の期待する年代はなかった。

ボランティアの説明員の方によると全体の3割ほどを再現しているという。
清明館にあったという櫓は天守閣の役目をしていたらしい。

その櫓を敢えて本丸の正面に建てている。本丸通りから良く見える。
本丸通りは大鳥圭介や土方歳三が逃げ込んだ二荒山神社から
1kmほどであろうか。

本丸通りを歩いてみた。意外と起伏があり、東側が低地になっている。
城からも、やはり東側の敵を遠望できるようになっているようだ。

さらに西側は田川が自然要塞になっているのが解る。
北側は二荒山で敵を防げるが、南側が弱すぎるのが欠点だ。

本丸通りが北を向いているのは、この城が初めて築かれた平安時代から
奥州の押さえとしていたからだろう。と案内者も言う。

創建は前9年の役の時の藤原宗円であるとされている。
宇都宮氏(宗円)の最盛期は鎌倉から南北朝の中頃までである。

宇都宮氏を巡る抗争はその後200年以上断続するが
関ヶ原の2年前の1598年に、秀吉により改易になり宇都宮氏は消滅した。

それにしても、宇都宮氏の関係の戦役の歴史は、まことに激しいが
それだけ、この地が重要地点であった証拠である。幕末もそうであった。

帰路には二荒山神社の東側にある、みんみんという店で餃子を食った。
腹も減っていたが、焼き餃子が旨かった。水餃子も捨て難い味だ。




07年04月17日 
さいたま新都心 ラフレさいたま 維新三傑と薩長同盟
朝日カルチャーセンターの特別講座であった。
この講座は殆ど東京で開催されているので、参加したのは初めてであった。

事前予約制であったが、予定参加者をオーバーしていたようであった。
参加者は皆さん歴史オタクであることが、受講していて直ぐに解った。

なぜかと言うと、「長征」などと言う言葉が出ても皆さん充分承知して
いるのである。そのことがよく解る会場の雰囲気がアリアリと解る。

講義での維新三傑とは西郷、大久保、木戸であり、竜馬や勝ではない。

ところで本日の薩長同盟の結末として
〇西郷の違約の背景
 →第1回目の薩長会談だが、薩摩のメンツだろう、だから西郷はすっぽかした。
〇薩長会談での木戸の態度が何故尊大であったか
 →木戸の立場上そうせざるを得なかった。木戸は薩摩に卑屈になれない。
〇薩長会談で、西郷が竜馬が現れるまで何故話しを進めなかったのか
 →西郷は会談の間、幕府の動きを見て判断する必要があったので。
〇薩長会談は薩摩にメリットはあったのか
 →長州の暴走を制限する効果はあった。
〇盟約は果たされたのか
 →不明
〇この同盟は政治同盟か軍事同盟か
 →政治同盟だ。




07年04月21日(訪問は4月20日)
埼玉県立嵐山史跡の博物館講堂 小田原北条氏と戦国城郭
まず押さえておかねばならないのは
後北条始祖の伊勢宗瑞(北条早雲)は斉藤道三とよく比較されるが
道三は全くの裸一貫からであったが、早雲はそうではなかった。

自分が知らなかったこと。
〇後北条は武蔵進出の契機を古河公方との姻戚関係でつくった。
〇後北条がなぜ武蔵で領土を短期間に拡張することができたかであるが
 それは、後北条侵略地の在地領主に自治を任せたからだと思っていた。
 自治を任せるとは、江戸時代の各藩の自治と同じだ。
〇ところが、本日の講義によると、拠点地では後北条は直接統治をしていた。
 例えば
 川越市の河越城、葛飾区の葛西城、高崎市の箕輪城、千葉の関宿城、
 群馬太田市の金山城、寄居町の鉢形城、八王子市の八王子城。

〇これらは、現代では支城と呼ばれる。
 つまり支城でない城はその地域の実情に合わせて自治を認めていたことに
 なる。江戸時代の先取りであった。
〇それが、後北条のやりかたであり、領地拡大の秘策であったのか。

〇私は以前から、なぜ後北条が、これほどに武蔵進出が出来たのかを
 知りたかった。山内上杉や扇谷上杉との違いをである。




07年04月21日
埼玉県立歴史と民族の博物館講堂 盆栽の歴史と盆栽村
さいたま市盆栽町の、清香園の経営者である
山田登美男(日本盆栽作家協会会長)氏の講演。

発祥は中国説と日本説がある。
中国には記録が残されてないが日本には多くある。

日本での愛好を考えると、日本の美しい山野を縁側でも楽しみたいという
心であろう。

歴史上の記録は鎌倉時代の執権三代目の北条泰時の「鉢の木」が有名だ。
上野の太田で、暖をとるために盆栽を燃した話しは謡曲で有名である。

ということは既に鎌倉時代から盆栽は認知されたものであった証左である。

さらに
盆器(盆栽を植える器)が重要な位置を占める。
よい盆器に植える木を心待ちにする粋人が多くあるそうだ。

盆器は中国で作られたものが、かなりレベルが高いそうだ。
盆器とそれに植える木の調和が重要である。

盆栽は、ヨーロッパではドイツが中心であるそうな。
米国は、日本から指導者が行き、すでに盆栽美術館が十数ケ所あるそうな。




07年04月22日 
埼玉県立歴史と民族の博物館講堂 卑弥呼の時代と東国の古墳
講師は埼玉県立歴史と民族の博物館前館長高橋一夫氏。
高橋氏は先月の末まで館長であった。

専門は古代史や古墳ではなく「土器」だろう。

〇卑弥呼は181年に小さな独立国家の共同の王として共立された。
〇239年卑弥呼は魏に朝貢し、金印と鏡100枚を受けた(?)。

〇手焙形土器は100年の後半から出現し300年の初めには消滅した。
 たった150年間ほどの時間だか、各地に存在する。

〇各地に在地形の土器と非在地形の土器があるが非在地形の土器
 も、やはり各地に存在する。

〇つまり、土器が勝手に飛んで行ったりすることは有り得ないので
 人が持ち込んでいるのであるが、人が土器と共に移住したと考える。

〇上記から言えるのは
 土器を研究することにより古代人がダイナミックに
 移動・移住していたことが解る。

〇大和政権では尖兵として東海地方の人々が
 東国に移住していたと考えられる。
〇その人々は東京湾岸などの低地の開発に関わっていたことがわかる。

〇本日のメインであるが、東国の古墳は200年の中頃に既にあった。

以上が講演のポイントであったと思う。




07年04月27日 
埼玉県比企郡小川町 猿尾(ましお)城址または中城址
鎌倉時代に猿尾太郎直種が築城し、室町時代には斉藤六郎尉重範が使い
その後、戦国時代にも使われたと思われる。

上記の武将については何もわからないが、登ってみてまことに素晴らしい。
何が素晴らしいかと言うと、東西南北何処からも攻められにくい城である事。
私は行ったことがないが、これじゃ太平記に出てくる千早城だね。

さらに、高い土塁やその外側に掘られた深い濠がハッキリと解り
見学者としては、現実味が迫ってくる。

登ってみると、単郭の城であった。そもそも城とは何かと考えてみると
敵が攻めて来たときに、直ぐに逃げ込める安全な場所と言える。

だから、この城は小さな規模の豪族の城であっただろう。
確かに篭城しやすく攻められ難いが、大勢の人々を養える設備ではない。

また、篭城は味方の援護を待つ場所でもある。
こなければ餓えて死を待つ場所でもあるが。

それらは兎も角、自分が寄せてであったら何処から攻めるかを考えた。
他の方角に比し、南東側がやや緩やかな傾斜であろうか。

それでもやはり攻め手としては、かなり厳しい。
崖にとりついても、郭から、矢や鉄砲で撃たれ易いだろう。

くどいが
私は嬉しくなって、土塁の上で四方を見回した。
木々が茂って見える範囲は制限されるが、それでも最近になく満足であった。

ちなみに、戦いの時代には、木々を刈り取って、敵の動きを観察した。
城は住まう場所ではなく、逃げ込む場所であり、敵の動きを観察する場だ。

さらに
いざ敵が攻めてくるときは、農民も城に逃げ込んだと、どこかで読んだ。
農民あっての武士であるし、だいたい兵農分離は織豊時代になってからだ。




07年04月29日 
さいたま市岩槻区 岩付城址・築城者
私は何回目かの岩付城址訪問をした。
説明板には、築城者は室町時代に太田道灌父子によるか成田氏であろうと。

私は現在の行田市にあった忍城の城主・成田正等が築いたと思う。
何故なら、水城といわれる忍城と余りにも似ているからである。

もっとも、道灌父子が築いた江戸城も水城のようなものであろうから
道灌父子が岩付城を築けないとは言えないが。

忍城も岩付城も川の水を巧みに引き入れているのがそっくりである。
秀吉軍も落とせなかったあの堅固な忍城を築いた
成田氏に軍配を上げたい。

築城時期が室町時代末期と書かれているが、ここで言う室町時代とは
戦国時代が始まる応仁の乱の前までである。

太田道灌が扇谷上杉定正に謀殺されたのは1487年で、戦国時代が
始まってすでに10年近くが過ぎている。

築城者が道灌とすれば
道灌は築城後暫くして殺害されたことになる。無念であっただろう。
武蔵では、扇の要であった道灌が他界し、それが基で戦乱となった。

その後、岩付城は後北条が増築する、それが新郭や加治郭である。
確かに説明板に言われるように、後北条の築城の特長が出ている。
掘障子などは顕著である。

私は「歴史の散歩道」と書かれた高さ10m以上の堀の中を歩いた。
続きは明日。




07年05月01日(訪問は4月29日)
さいたま市岩槻区 岩付城址・攻撃と防御
私は壕の底を歩きながら考えた。もし自分が守る立場ならどうするか。

内側と外側が同じ高さであるのに疑問を持った。

もし自分が縄張りをするなら
土塁の高さを内側を高くして、外側の敵を見やすくする。
平和な4百年の年月が土塁の高さを同じにしてしまったのだろう。

また
説明板には、空壕であったと書かれてあるが、これにも疑問をもった。

すぐ側の目と鼻の先に元荒川があり、敵が攻めてくれば水を引き込めば
いいのである。説明板は記入を失念したのだろう。

寄手から考えれば、味方が内側の土塁に取り付いたときに
これを援護する為に、外側の味方は土塁上で盛んに内側の敵に向かって
矢弓や鉄砲で射撃しなければならないだろう。

それでないと、内側の土塁に取り付いた者たちはただ無駄死にするだけだ。
そうでないと効率が悪い。

しかし実際は、守り手が篭城を決めてしまえば、これを落城させるのは
困難だ。持久戦に持ち込むのだろう。

最も最近で有名なのは小田原城がそうだった。
但し援軍がないと開城か餓死する。

武蔵の支城・忍城は1ヶ月篭城を続けたが
本城・小田原開城でやむなく開城。




07年05月07日 
埼玉県杉戸町 高野城
鎌倉時代よりの城であるらしい。
上杉謙信の攻撃で落城したという説もあるらしい。

幸手城の一色氏の臣下の城であったとも言われる。
幸手城は古河公方に属していた。

いずれにしても、時代により、情勢次第でどこにでも
属さねば生きていけなかった。

私は、鬱そうとする森のような城址に分け入る道を探した。
ようやく、かじりついて少し登ってみたが、森の中に入り込むのは無理である。

意外と城址は小高い。最も高いところで約3mほどはあったであろう。
そこから、東を望むと、その方面は低地で、かなり遠望が利く。
確かに要害としてのロケーションがいい。

道路を挟んで、小川のようなものがある。よくみると淀んでいる。
これはやはり、濠であったのであろう。

但し、東側以外は攻められ易い。
西側は江戸時代に作られた日光御成り街道である。




07年05月09日(訪問は5月8日) 
さいたま市島町 医王寺
正しくは瑠璃山医王寺という。薬師如来を祀っている。
世話役の婦人に「何宗ですか」と聞くと「解りません」と言われるので
私は「知っていると争いが起こるので知らない方がいいのでは」と言った。

中東での宗教戦争を思い出したのである。まことに日本はいい国である。

別の世話役の男の人に聞くと真言宗智山派だそうである。
なんだそれは、現在の自分が檀家であるお寺さんと同じだと気がついた。

ところで
本日5月8日は当寺の「灌仏会」である。旧暦灌仏は現代の5月24日である。
但し、現在の新暦では「灌仏会を」4月の8日に行っているそうである。

世話役の男に聞くと「1ヶ月遅れでやるのですよ」と言われた。
そういえば、小生の子供の頃、村のお寺さんに行ったのは5月であった。

近くの正福寺というお寺さんから、午後3時にお坊さんが来て読経される。
私はその読経を聞こうと思ったが、気後れがして遠慮した。

素朴なことであるが、当山は真言密教であるが、なぜ薬師如来を祀るのかと。
空海さんの真言宗は、大日如来さんがご本尊ではないかと思ったが。

本堂に上がらせて戴くと目と疱瘡の病気快復を祈願する絵馬が多いように
思われた。古い絵馬は嘉永や弘化の年代のものがあった。

お薬師さんは病気を治してくれるのである。
名前の通りである。江戸の「かさ」とは疱瘡のことであろう。また性病も。

ここは円空さんが立ち寄って、十二神将や月光菩薩や日光菩薩を彫って
残して行ったので有名な寺であるが、年に3回ほど開帳するそうだ。

私はガラスのケースの入った円空さんの10体以上の作品を見せて戴いた。
暫くみていたが、人が擦ったとみえ磨り減っているような作品もある。

私はガラスケース越しに、じっと見つめ、何か自分の心に浮かぶものが
あるかと、期待したが何も浮かんでこない。

世話役の男性は、最近までここは人家はなく林だったという。
江戸時代には、深い森の中であっただろう。

円空さんは、ここで近在の家に泊まらせてもらいながら彫った。
今でも近所の人で円空仏を所持している人がいるそうな。

本堂の裏に回ると、石仏やら五輪の塔に似たものがあり
享保11年5月9日の銘がある。1726年である。

円空さんは、1630年ごろ生まれて1695年ごろ亡くなったから
ここへ来たのはその間だが、世話役男にいつ来たのかを聞いても
解らないという。

寺の起源だが、私は最も古い場合、太田道灌が居た時代を考えたが
ロケーションから考えて砦があったと思うのは、先ず無理である。

かくして、楽しい時間は終わった。久しぶりに、いや数十年振りに
甘茶を掛けたり、堂に人々が集まったりして、子供時代に帰れた気がした。

過去は不祥で、建物は朽ち掛けていく、それでも人々は寄り集まる。
過去の文化は、主に女性が継承していく。歴史とはそういうものらしい。




07年05月12日
埼玉県越生町 越生氏館 越生氏の高取山城
私は、越生氏の館址と言われる越生神社を訪れた。賽銭箱が無いので
堂の前に僅かな硬貨を置いて鰐口をガンと打ち付けた。

越生神社は越生氏の居館があり、その裏の高取山城は後詰の城と
言われている。

そのあと、神社の裏山の道を上がり始めた。
道の左右は枝が、刈り取られ、歩き易きようにこしらえてある。誠に有難い。

やがて山の頂上に近づくにつれ、道は人間一人が何とか通過できる
ような道になり、更に急峻になる。私は岩のむきだした部分に運動靴を
あてがいつつ登った。それ以外の部分では靴底はずるずると谷底へ行く。

10分ほど登ると、鳥居が見える。その鳥居のある場所へたどり着くと
50坪ほどの平地に、先ほどの粗末な鳥居と小さな祠があった。

まるでこの城は太平記に出てくる、正成や護良親王が篭城した
千早城のようである。これでは寄せ手は手が出ない。

但し郭は極めて狭く守勢の命運は水・食糧次第である。

越生氏は児玉党の武将で、この館(越生神社)や城(高取城)を
築いたのは南北朝の始めであるらしい。それ以外は何も解らない。

児玉党とは平安末期の武蔵七党の中でも最も有力な武力集団である。
現在の埼玉県の児玉郡から興ったので児玉党という。




07年05月14日
さいたま市緑区 南部領辻の獅子舞(訪問は5月13日)
この獅子舞が源義光が、兄の義家を追い奥州出征時に
この地の鷲神社を訪れ獅子舞を奉納したのが始まりとしている。
(勿論伝説である。一泊したぐらいだろう)

よって源義光(新羅三郎義光)について考えてみた。

平安の時代、出羽の清原氏、陸奥の安倍氏という豪族がいた。
この豪族の戦いに源義家(八幡太郎義家親子と義家義光兄弟)が絡んだのが
「前九年の役(1051〜1062年)」「後三年の役(1083〜1087年)」である。

永承六年(1051年)将軍源頼義(よりよし)、義家(よしいえ)親子が
清原氏の力を借りて陸奥の豪族安倍氏を滅亡させたのが「前九年の役」

このお蔭で清原氏は阿部氏の領地を併合して巨な支配者となった。
20年後には清原氏内部の争いが生じた。

この清原氏の内紛に義家がからみ、弟の義光が加勢して
清原兄弟の下の弟の家衡は滅亡した。これが「後三年の役」である。

この役での有名談として「雁行の乱れ」や
「片目のかじか」が作られたのでしょうか。

この後、上の弟の清衡が藤原氏を名乗り、平泉の黄金時代を築くことになる。
その後、頼朝が義経追討の名を借りて、平泉を滅亡させてしまう。




07年05年18日
埼玉県立嵐山史跡の博物館歴史講座 上杉・後北条攻防の城 河越城
講師 川越市教育委員会 田中信氏

1,546年(天文15年)河越合戦で後北条が山内上杉・扇谷上杉・古河公方
に勝利して、後北条は武蔵を完全制覇した。

〇河越城を守る側の後北条は3千人、攻め手の3派は6万から8万人
 後から助太刀に小田原から来た後北条8千人。
 田中講師は「6万から8万人は間違いで2万だろう」と。

〇100年も遡るが江戸城、河越城、岩付城などおびただしい
 数の城が築かれたのは1,457年前後である。何故であろうか。

〇田中講師は「このころ全国的に飢饉の状態がひどくなっており
 公共事業である築城で飢饉にあえぐ民衆を救うのが目的であった」と。

〇また100年ほど戻るが、上杉謙信が1,561年から1,574年に12回も
 越後から関東に度々遠征したが、特に秋から冬にかけての遠征は
 越後の人間を武蔵に連れてきて食物を乱捕りさせて飢えを
 凌がせるためであった。また、食物を奪って越後へ持ち帰った。

 どうもこの話しは私は違うと思う。なぜなら上杉謙信の国は決して
 貧しくは無かったと言われている。越後の特産品を日本海航路経て
 西国へもって行き豊かな経済的基盤があった。

 だから、上杉謙信は配下の者に領地を与えることなくして長躯遠征を
 繰り返すことができたといわれている。全く反対の考えだが。

〇河越城の遺構は扇谷上杉時代のものは多いが後北条時代のは少ない。
 しかし、僅かであるが、障子掘りが確認されているのでやはり後北条の
 遺構であることに間違いない。

以上が私が今までに知らないことであった。
勿論、講師の自説であるが。面白いではないか。




07年05月20日 
埼玉県立歴史と民族の博物館講座 最新!邪馬台国所在地論
講師 滋賀県立大学講師 高橋徹先生

07年04月22日は学者クリックの講演を聞いたが、本日の先生は学者ではなく
ジャーナリストである。ジャーナリストの観点からの講演であった。

〇ズバリ言って、邪馬台国は畿内に存在した。
 なぜなら、九州の遺跡は卑弥呼が存在した紀元後200年前後より古い。
 
〇それに対し、おびただしい遺物が続々と出土する奈良県桜井市の
 纏向遺跡は完全に卑弥呼の時代と一致するからだ。
 さらに、纏向遺跡には各地から人々が集まった土器が多く出土する。

〇三角縁神獣鏡は国産であるのは確かだが、この銅鏡とは異なる
 種類の銅鏡(画文帯神獣鏡?)がある。

 その銅鏡に書かれた年号が卑弥呼の時代と合致する年代のもので
 あるが、その書かれた年号が絶対確実とは言い切れない。

〇滋賀県能登川町の神郷亀塚古墳は前方後方墳であり
 ここが、この時代の東国のぎりぎりの境界であったのだろう。

〇魏志倭人伝を読み解く、文献歴史学での倭国の存在場所は
 ハッキリ言って、如何様にも場所を特定できる。
 
〇だから、それでの場所は無視してもいいだろう。
 何故なら、魏志倭人伝に書いてある通りに忠実に辿れば倭国は
 ジャワ・スマトラにあることになってしまう。

〇邪馬台国はどこにあってもいいではないか。
 論争することに意義がある。論争を盛り上げれば宅地とならずに
 遺跡文化財として残る。

〇それは、いかにもジャーナリスト的発想でおもしろい。それはそれで
 いいが、やはり、学者の話のほうが科学的であるのは言うまでもないが。



07年05月24日(訪問は23日)
岩手県平泉市 中尊寺
どうも私には、平安時代の肉親同士や身内同士の殺し合いが多すぎるの
は、儒教の影響がないからだと思えてならない。

もちろん、その後の時代も似たり寄ったりであるが
平安や鎌倉ほどではないのだろうか、と思えるが。

それはともかく、奥州・藤原氏四代を簡潔に調べてみた。

前九年の役(1051〜1062年)とは
 奥羽の清原氏が源氏の力で陸奥の阿部氏を滅ぼして両地域を得た。

後三年の役(1083〜1087年)とは
 清原氏は兄弟で争い、兄清衡が源氏の協力で弟を殺害して
 藤原氏を名乗り、平泉・藤原三代(四代)の祖となった。

〇清衡の嫡子は妾の兄弟を殺害し、二代目・元衡となる。

〇この藤原氏は陸奥の特産である「砂金と駿馬」を都に贈り
 京都に負けないほどの平安文化を平泉に築いた。毛越寺など。

〇三代めの秀衡については不祥であるが、やはり権力争いで血が
 流れたのであろうか。

〇奥州・藤原氏が栄華を誇っていたころ、世の中は大きく動いていた。
 
〇院政の始まりと天皇の内輪での喧嘩の始まりに乗ずる源平の力が
 強くなり、武士の時代が始まりかけるのが後述である。
 
保元の乱(1156年)とは
 上皇−崇徳−源為義・平忠正 VS 天皇−後白河−平清盛・源義朝
 皇位継承で両者争い、後白河側の勝ちとなる。

平治の乱(1159年)とは
 後白河が院政を始めると、後白河の臣下である平清盛と源義朝が喧嘩。
 結果は清盛の勝ち。ここで清盛は義朝の子である頼朝と義経を
 殺害しなかったのが悔やまれるだろう。間違いなく歴史は変わっていた。

〇これにより「平氏でなければ人でない」の世になる。

〇頼朝挙兵だが、奥州・藤原氏は後白河・平氏・源氏とは中立を保った。
 義経の活躍で源氏が勝つと、頼朝は奥州・藤原氏を攻めにかかる。

〇話しは変わるが歌人の西行法師が奥州・藤原氏へ行ったが
 これは勧進のためではなく、頼朝の放った諜者であったともいう。

〇ここからは、少し細かい話しになるが、頼朝は義経を殺害しようとして
 後白河対して宣旨を出させる。義経を匿う秀衡に対して義経を殺せと。

〇後白河も弱くなったものである。その弱くなった立場を理解しない義経も
 ハッキリ行って馬鹿である。もう律令の時代(平安)は終わったのである。
 時代は変わっていったのである。それが義経には解らない。

〇そうこうする内に義経の擁護者・秀衡は死去する。四代泰衡は義経を
 大将にして闘うか、義経を殺害してその首を頼朝に出すかと考える。

〇やっぱり泰衡は自分が大事で、衣川で義経を殺害する。
 義経の首を入れた、ご飯を入れるお櫃(ひつ)みたいのが陳列してある
 のをみてきた。意外と小さいと思ったが人間の首は、そんなものだろう。

〇やがて、泰衡の弟が、義経殺害につき文句言う。
 頼朝を恐れた泰衡はこの弟をあっさりと殺害してしまう。
 
〇頼朝は泰衡征伐の宣旨を後白河に出させたが、ぐづぐづして
 出さないので、頼朝は見切り発車して進発した。

〇泰衡の兄(側室の子だろう)の国衡が頼朝の大軍を迎え撃つが
 とても支えられるものではない。やがて、埼玉県吉見町の大串氏が国衡
 を討ち取ってしまう。

〇頼朝軍が平泉に入ろうとする直前に泰衡は平泉に火を掛けて炎上させて
 さらに北へ逃げるが、哀れなことに泰衡は家臣の河田次郎に打たれてしまう。

〇頼朝は河田次郎を、家臣の立場で主君を討ったと、へ理屈を述べて
 河田を殺害する。これでおしまい。奥州・藤原氏はすべて終わった。
 芭蕉のいう「つわものどもの夢のあと」となった。

〇ところで、冒頭の「儒教の影響がない」話しだが、儒教の影響がでるのは
 室町時代ではなかろうか。なぜなら、儒教を教えることを旨とした足利学校が
 できたは1430年ごろだからだ。

〇儒教が庶民まで浸透するのは江戸時代であると言われている。
 もっとも儒教を真面目にやりすぎると朝鮮半島になるが。




07年05月27日 
八王子市高月町 滝山城址
日本100名城の一つであるそうな。以前から見たいと思っていた。
ざっくり言えば埼玉の松山城を巨大で複雑な構造にした様かも知れない。

八王子市教育委員会の説を一部参考にすると、永正18年(1521年)に
山内上杉の重臣或いは武蔵国守護代の大石定重が築城したと言われる。

(かつて大石氏は高月城から、ここ滝山城へ移転したのであるが)

永禄元年(1558年)に、北条氏照は大石定重の子、大石定久の娘婿となって
この滝山城に入城した。勿論、大石氏は北条氏の軍門に下ったのである。

永禄12年(1,569年)武田信玄は2万の兵で滝山城を攻めた。
武田信玄は三の丸まで攻め込んだがそれ以上の攻撃を出来ず兵を引いた。

北条氏照はこの15年後の天正12年1,584年には、滝山城を捨て八王子城へ
移転した。武田信玄に攻め込まれて、考えを変えたのであろう。

八王子城は最新の石垣で築かれた城であったが、天正18年(1,590年)秀吉軍の
上杉景勝、前田利家、真田昌幸1万5千に攻められ、城を守る1000名は自害した。
そのとき、氏照は小田原城にいたが小田原落城で兄・氏政と共に自刃した。

滝山城はやや高めの丘陵地帯にあった。

私は武田信玄が攻め込んだと言う三の丸を過ぎて二の丸の手前まできて驚いた。
とんでもなく深くて広い壕が横たわっていた。これでは如何に武田信玄の荒武者も
ここを突破するのは無理である。

二の丸には高い部分とやや低い部分があった。低い方には屋敷があったという。
二の丸は防御と攻撃の両方を兼ねていると言われるが、確かに二の丸の高地から
寄せての低い方へ、矢や鉄砲で打ち込まれたら寄せての損害は甚大となる。

持久戦をするとしても武田信玄の立場からは、当時の客観情勢では困難だろう。

私は中丸から本丸へ向かった。その間は引き橋が掛けられていた。
いざという時にはその橋を落としてしまって守りに徹したのだろう。

本丸の裏手から見下ろすと眼下が急な崖でその先に多摩川が横たわっていた。
それにしても巨大な城砦である。

北条氏特有の障子掘りは無いというが本丸の虎口は、枡形となっており
その手前が引き橋で、工夫が凝らしてあった。

攻め落とすには武田信玄のような遠征のついで
ではなく準備万端の持久戦だろう。




07年06月04日 
埼玉県朝霞市 岡の城 城址
朝霞の住宅街に黒目川が流れていて、その川沿いに急峻な岡がある。
城山公園という市民の憩いの場であった。

約20mほどの岡を登ると、郭の址らしき広場が何箇所かある。

案内板によると
8,000年から4500年前の縄文時代の集落跡で
中世に築かれた平山城址でもある。

この当時の築城者や城主は不明である。
この城は南北朝期、室町期、戦国期と使われたらしい。

応永の乱(1339年)や永享の乱(1,467年〜1,477年)の戦歴の跡を
物語っているといえよう。

(応永の乱とは足利義満に対して、守護大名大内義弘が起した乱)
永享の乱とは鎌倉公方・足利持氏が、関東管領・上杉憲実と
室町将軍足利義教軍との戦いで、持氏は結局自刃し結城合戦に続く)

また、この城の特長は自然の地理的条件をいかしたもので、城の北側
斜面は、低地を流れる黒目川が取り巻くように走り、舌状台地上にあり
まさに天然の要塞である。

城内は「折れひずみ」と呼ばれる濠と土畳によって区分した曲輪があり
一の郭・二の郭・三の郭・四の郭。虎口・堀切・北側の搦め手、南側の
腰郭、櫓台、犬走りなどによって構成されている。

=朝霞市岡の城山総合調査委員会中間報告=より
昭和56年1月10日
朝霞市

黒目川を要害として、急峻な手頃な高さの条件がそろった見事なものだ。
所沢の滝の城を大きくしたような感じがする。

どこからも攻め込まれない。
これなら私もここを根城にしたい。




07年06月06日
解説ボランティアの皆様、ご苦労様です。
埼玉県立歴史と民族の博物館に行くと毎日午後からボランティアの皆様に
よる解説を聞くことができる。誠に有難い。歴史好きの小生には楽しみだ。

小生の好きな時代は平安末から後北条の出てくる迄だが、残念ながら
展示は少ない。基本的に資料がないので止むを得ない。

しかし小生は、無い物ねだりで困った人間である。

それとは別の話しだか
ボランティアの方は皆さん真面目な方で、一生懸命ご説明戴く。
但し気の毒に、その方の専門以外の時代の説明をされる場合がある。

その場合小生どもは、僭越ながら、不満か残ってしまう。
僭越ながら逆に我々が教えて上げなくてはならない場合もあり得る。

先日は数名の参加者の中でそのことに詳しい人があり、教えて戴いた。
別にボランティアの方が辱めを受けたわけではなかった。
小生は心配したがボランティア氏は決して、めげることなく明るかった。

しかし、いいではないか、皆で教えあいながら
知識を深め合うのはいいことだ。

けんばく(県立博物館)へ行けば何か必ず得るものはある。
豊な心になれるし、人生が嬉しくなることは確かだ。




07年06月07日 
埼玉県桶川市 加納城址
殆どが戸建の団地になっていて、南側のほんの一部に土塁らしきものを
確認できた。

桶川市教育委員会の案内板によると
発掘調査された戦国時代の城址であるが、城の沿革や居住者は不祥である。

戦国時代、自らの土地を守ろうとした土豪であろう。家康入部後には
帰農したものだろう。

北側には湿地帯があり、東と西は入り江が切り込んでいて、南側には
壕があった。と書かれてある。

私はその景観を確認しようと目を凝らすが全く不明であった。
ただ、東側は確かに低地になっているのかなと思われる程度であった。

埼玉県の平野の城址では、忍城や岩付城などの巨大な水城でない限り
簡単に攻め込まれたであろう。

八方美人的な外交を繰り返し、何とか命を永らえていたのだろう。
それが武蔵地域平野部の実態であろう。




07年06月13日 
さいたま市浦和区 宇田川弾正館址
武蔵浦和駅から1.5kmほどであろうか国道17号沿いに白幡観音がある。
ここが、岩付城主太田氏家臣の宇田川弾正の館址だという。

廻りはマンション群と東京に近い交通頻繁な平坦な場所である。
ここに館を造る位なら、東へ2kmも行けば高台があるのに。

ここに館を置いた理由は全く謎である。
それは兎も角、戦国時代のことであるという。

ところで
弾正とは、要は正五位の者のことであるらしい。




07年06月15日 
埼玉県立嵐山史跡の博物館歴史講座 戦国末期の要害山城・八王子城
講師は八王子郷土資料館 戸井晴夫氏
戸井氏は発掘が専門である。私は築城の専門家か歴史家の話を聞きたかった。
講師の選定に我々は口出し出来ない。

発掘の専門家からみた研究発表である。
滝山城を完全に廃城にしてから、八王子城を築城したと言える。
何故なら、虎口の奥に敷石の石が大量に積まれていたから。

この当時は(1587年ごろか)石垣の専門集団、など種々の専門集団がいた。

城の図面は当時のものは守秘から存在しないが、江戸時代の絵図が意外と
正確に描かれていることが解った。

発掘された生活用具とは
例えば日本では作られていなかった中国製の白磁皿・青磁皿など。
菊牡丹や鳥鹿蜂猿や鹿鶴、獅子、などの文様入り食器。
貯蔵容器、酒器、台所用品、打火器、暖房器、文房具。

武器・武具類では土弾・鉄弾・鉛弾・弾の鋳型
大量のすり鉢が発掘していることから、火薬を摺った跡があるので
ここで製造していたのであろう。

明銭が大量に出ており
また銅の砲弾も多いことから、ここで銅箋から弾を鋳造していたのであろう。

米、大麦、小麦、粟、大豆、小豆、貝殻(はまぐり、アカニシ、さざえ)
なども大量に発掘する。

発見された遺物から当時の生活がわかるということであったが
参考にはなるが、城は生活の場所ではないと思う。

長期篭城を決め込んでいたのであろうか。
実際は1,590年小田原城落城の前に、半日で落城した。




07年06月19日 
埼玉県越谷市 大相模次郎能高館址
武蔵七党の野与党の一族であるという。

武蔵七党は国語辞典によると
平安末期から室町初期にかけて、武蔵国を本拠として活躍した同族的武士団。
横山・猪俣・村山・私市(きさい)・丹・西・児玉などの諸党が挙げられるが
七党の数え方は一定していない。

国司の後裔(こうえい)や国衙(こくが)の有力者が小領主化し
地域ごとの領主連合に発展したもの、と書かれている。

野与党は、「後段の七党の数え方は一定していない」の中に入る。

私はこの館址を探して2箇所を選定したが、現在中村氏がお住まいの場所が
大相模次郎能高館址であると確信した。

ロケーションは、別に高地でもなければ要害があるわけでもないし、壕も土塁も
何にも見えない。中村邸に不法侵入するわけにはいかない。

平安時代の後期に武士が、ここで武張っていたなどと想像するのは
よほどの想像力が逞しくないと出来ない。




07年06月21日 
埼玉県小川町 高見城址
私は一人で森閑とする急斜面を登り始めると、やがて犬走りが現れた。
この上が二ノ曲輪か三の曲輪であろう。さらに登るとやがて腰曲輪があり
不動明王が鎮座して睨み付けている。

さらに急階段を登ると、明るい200坪ほどの平地に辿りつく。
ここが山頂でいわゆる本曲輪である。眼下の眺めは素晴らしい。
敵の動きを全て正確に把握することが出来る。

まるで城の為の独立峰の山である。
中世の城としては、ほぼ完璧であろう。寄せ手は先ず諦めるしかない。

訪問した事は無いが、太平記に出てくる千早城のようであろう。

さてウンチクである。
ここは現在では四津山神社とも言われる、
この続きはまた明日。

6月22日
本郭にある案内板の、小川町教育委員会の掲載文によると以下です。

高見城跡は、独立峯、四津山の頂上に築かれた中世の典型的な山城です。
城跡からは、北は荒川流域一帯、南は市野川筋を一望できる要害の地に
築かれています。

市野川筋には「旧鎌倉街道上道(かみつみち)」が走り、戦国時代、鉢形城と
松山城の中間にあって、街道を押さえる重要な役割を果たしたと考えられます。

城跡は細長い尾根を巧みに利用し、四津山神社の建つ本郭と北に連なる
三つの郭によって構成され、それぞれの郭は土塁と掘切によって画されている。

本城の築城年代や城主については不明な点が多いのですが
「新編武蔵風土記稿(1804年〜1829年編纂)では長享元年(1487年)に没した
増田四郎重富の居城と伝えています。

また、長享二年(1,488年)及び延徳三年(1491年)の二度に渡り城の
北東方向の高見ケ原において、山内上杉と扇谷上杉による激しい合戦が繰り広げ
られたと伝えられています。

平成五年三月二十五日

(小生より、「曲輪と郭はほぼ同一であると考えていいと思います」)




07年06月23日
山内上杉氏のこと
足利高基の子である足利晴直が上杉憲寛として山内上杉氏の家督を継いだ。
その後憲寛は失脚して憲政が家督を相続する。

山内上杉憲政は扇谷上杉氏と共に天文十四年(1545)、河越夜戦で北条氏に
大敗する。これが契機で扇谷上杉は滅亡する。

山内上杉憲政は本城の上野平井城で北条軍に攻撃され、長尾氏ら重臣衆にも身柄の
保護を拒否され、平井城を退去し、永禄元年(1558)に越後に逃げた。

越後に逃れた憲政は、長尾景虎(上杉謙信)に上杉家の名跡を相続させた。

(山内上杉は関東管領で且つ、各地の関東各地の守護でもある。
長尾氏はその守護代や家宰。長尾氏は桓武平氏の流れを汲む関東八平氏の一つ)

やがて春日山城の謙信死後、勃発した家督争いで景勝方の兵に殺害されたという。
関東管領山内上杉氏の末路はまことに哀れであった。




07年06月24日 
埼玉県立歴史と民族の博物館講堂 車人形による傾城阿波の鳴門他
埼玉県は古くから神楽、獅子舞、囃子、万作、芝居の盛んなところのようだ。
入間郡三芳町には人形芝居がある。県内にある4つの内の1つである。

三芳町の人形芝居は車人形といい、人がお尻を前後左右可動式の車に乗せて
自由に移動しながら人形を操る。通常の人形芝居に較べれば移動性が豊に
演出できるのが特長であろう。

幕末には、江戸西多摩郡で考案された車人形が大変流行していたが
その影響であるという。現在三芳以外で車人形は八王子と奥多摩町川野だけ。

江戸の庶民の御気に入り芝居は、人情話が主であったのだろう。
やはりここでも同じであった。

それにしても、文化文政天保安政時代には種々の文化が花開いた。
幕威の衰えと相関するのであろうか。いや平和な江戸時代の人々の心が
文化を熟成させて、それが一気に噴出する時期であったと考える。

我尊敬するピアニストの中村弘子さんは、鎖国閉鎖社会であったからこそ
特異な文化が熟成したという。
確かに世界に例の無い日本独特の文化が花開いた。

本日の出し物は、寿式三番叟、傾城阿波の鳴門、文七元結(もっとい)。
三番叟は赤い舌を出すことによって、邪を払う特異なものであったのが面白い。
三番叟の三という数字に意味は無く、事の始めや幕開けということである。




07年06月25日 
埼玉県熊谷市 成田氏館址
1053年に藤原助高がこの成田の地に館を構えて、成田氏を称したのであろう。

成田氏は1450年前後だろうか、岩付城を縄張りした。
巧みに荒川から大量の水を引き込んで、水に浮かぶ城とした。

話しは変わるが
現在の行田市の忍城址はもともと、忍氏の砦があったのだろう。
1489年、成田氏はこの忍氏を襲って砦を奪い自分の城としたのだろう。

その後、いつのころか、ここに利根川や荒川から水を引きこみ
得意の水城を築く。秀吉軍はこの城を落城させることが出来なかった。

成田氏は、水に浮かぶ城を縄張りするのが得意なのである。

私は、熊谷市の成田氏の館址を探索に出かけた。
熊谷バイパスから少し西に入った成田小学校から近い場所にあった。

乳牛舎の一角に、石材で「成田氏館跡」があり、さらに白い木材の柱があり
「史跡 成田氏館跡 熊谷市指定」とあった。

この史跡の周りを見渡しても平安時代の武士の館址である遺構は
全くない。ロケーションを見ても全くその雰囲気はなかった。




07年06月29日 
さいたま市岩槻区 芳林寺大田氏資・宝篋印塔
お賽銭を境内の三箇所に入れて手を合わせてから(お寺さんに対する礼儀だ)
標記の場所へ行った。

岩槻市教育委員会の案内板によると
氏資は太田山楽斎資正の嫡子であった。

太田山楽斎資正は関東管領上杉氏側に属し、武蔵の
国に勢力をのばしてきた北条氏康・氏政父子と対峙していた。

太田山楽斎資正が援軍要請のため他所へ行き留守にしていた間に
息子の氏資は北条氏の勢いに屈し、これと和した。

このため、永禄7年(1,564年)に氏正と弟政景は常陸の国に逃れた。
氏資は、北条氏の娘婿となり父・太田山楽斎資正の跡を継いで岩付城主となった。

以後氏資は北条氏麾下の守将として領国支配にあたり、永禄10年(1567年)8月
上総三船台において里見氏と戦い討ち死にした。

この後、一時期北条氏に直接支配を経て、岩付城は氏資の娘小少将に配された
氏資の子氏房に継承された。

また、別の案内板の太田氏資公事績によると
関東における情勢の変化により父資正と政治的に対立。
家臣たちに推戴され永禄7年(1564年)岩付城主となり、領地の経営に力を尽くした。

小田原北条氏に属し、北条氏政の妹を妻に迎え、名を資房から氏資と改めた。
永禄10年(1567年)里見氏との上総三船台の合戦で、北条軍の殿を努め、家臣
53騎と共に討ち死にした。享年25歳であった。


新時代の氏資は古い世代の父・太田山楽斎資正を拒否して、いざ出発という時に
若くして討ち死にした。

実は
ここへ来る前に私は郷土資料館を訪れた。嫡子氏資は父資正を追放したのであった
と書かれてあった。

つらくも新時代に乗らねば生きていけないと悟った息子氏資の
止むを得ない合戦(本来なら出陣の必要が無い)での殿での非業の死であったと
云える。(殿は死の確立が高い)

しかし、北条氏も1,590年(天正18年)に秀吉軍に落とされ、1,600年の
関ヶ原でようやく天下は静になり、幕末まで続くのであった。

だれか、非業の氏資を小説にしてくれる人はないか。




07年07月01日 
埼玉県立歴史と民族の博物館講座室 江戸切子
切子には現在、手作りのものと、オートメーションものと、型で造ったものがある。
型で造ったものは、彫られた角が丸いので直ぐ解る。オートメは全て均一である。

このページを読まれた方で、本物の切子を求められる事がある時の参考である。
実は小生は数年前、日本橋三越で江戸切子を購入しようとして随分躊躇した。

私は本日、切子の製作の経験をさせて戴いた。切子とは、要はカットグラスである。

文献では、1,834年(天保5年)江戸大伝馬のビードロ屋・加賀屋久兵衛が砂を
用いてカットしたのが始まりであるとされる。

1,882年(明治15年)イギリスからお雇い外国人技術者ホープトマンが招かれて
技術が伝えられたという。それは砂でのカットでなく、現在の用いられている
回転式の摩り駒が回る方式であろう。

現在では電気で回り、駒の先端が石からダイヤモンドになった位で
それ以外は全く同じだという。

本日の講師の小林淑郎氏(1,950年生まれ)の祖父は、ホープマンから技術指導を
受けた大橋氏の弟子であったという。(大橋巨泉は大橋の孫であるそうな)

薩摩切子は島津斉彬が江戸から江戸切子の職人を招いて、藩財政で切子を
藩の特産品に仕立てたという。但し、薩英戦争で工場は消失して再興されなかった。

江戸切子は品質の高いクリスタルガラスを使ったが
薩摩切子はソーダーガラスを使った。ソーダーガラスは鉛が多いので軽くて融点が低い。
色彩が施し易い。だから薩摩切子は彩色が豊である。江戸切子は透明である。

ざっとの評価だが、ガラスの品質は江戸が良く、彩色は薩摩ということになるだろう。
骨董的価値は薩摩だが、手に入ることは先ず無い。あっても偽者。本物は800万円。




07年07月03日 埼玉県立文書館 展示室 検地
後北条が川島町の検地をした文書が展示してあった。
ただそれだけである。多くの展示品の中で私はこの古文書にもっとも惹かれた。

検地といえば秀吉との印象があるが、もちろんそれ以前に検地が行われていた
のは極当然である。ただ後北条が検地したという証拠は初めて見た。

この古文書の年代は確か1560年代であったと思う。
その年代の検地はどのような方法で実施したのであろうか。

秀吉時代のように竿を使ったのであろうか。そこが知りたい。

何気なく、不図、文書館へゆくのもいいものである。




07年07月04日
6月29日芳林寺大田氏資・宝篋印塔のつづき
岩槻博物館では大田氏資が討ち死にしたことで太田氏は滅亡したと書かれている。
私はどうも、この点が気になるので続編を書いてみた。

結論を云えば太田道灌が殺害されて太田氏は滅亡したといえるだろう。
但しその時点では道灌の父・道真はまだ在世であったと思うが。

再度、道灌の歴史を辿ると
@1,486年(文明18年)太田道灌は扇谷上杉に謀反の疑いで殺害された。
山内上杉の讒言であると言われているが、不明であるとされている。

A岩付城主は、道灌に代わって道灌の養子・資家が継いだ。
B1,525年(大永5年)後北条が資家の子・城主資頼の家臣である渋江三郎を
 抱き込んでまんまと、岩付城を手に入れた。

Cその後、資頼は岩付城を奪還し子の資時が城主となる。
D1,546年(天文15年)川越夜戦後、資時が死去し、資時の弟の太田山楽斎資正
 が城主となった。
 この後が6月29日の文章となる。

結局
太田道灌の血が途絶えたのは太田道灌が殺害された時点だ。
血は繋がっていないが、太田家という家門が途絶えたのはその81年後の
1,567年であるといえる。

その後、後北条氏の指図で氏資の子氏房に継承されたというがどうも解らない。
後北条氏が名門太田氏の名前を残した方が有利と考えたのだろう。




07年07月06日(訪問日は7月5日)
さいたま市見沼区 伊達城址

埼玉県立嵐山史跡の博物館のページによると
さいたま市見沼区大和田323の大和田陣屋(戦国時代、土塁あり)と
さいたま市見沼区大和田1−346の伊達城(戦国時代、堀あり)が
記載されている。

ほんの数十メートル離れているだけである。
私はかつて大和田陣屋を訪れて、このリンクコーナーに記載している。

本日は、伊達城を訪れた。さいたま県立商業高校のグランド際で、周囲は
新しい人家で密集している。その中に林が森閑として存在する。
(よくあるパターンであるが)

私は鉄条網を潜って入ってみた。今の季節ではブッシュでよく見えない。
目をこらすと、ほんのりと明るい日が射した部分がある。

多分ページに書いてある堀とはこのことであろうか。
いや違うだろう。もっと明確に解るところがあるに違いないが
これ以上の潜入を諦めた。

バス通りに戻って案内板をみると、大和田陣屋と伊達城は区別して書かれて
いない。どうゆうことであろうか。

徳川が関東入部になって、伊達氏は、旗本に取り立てられて確かこのあたりの
扶持をもらって支配したと思うが、そのときの陣屋を過去の伊達城の一部を
利用したのだろう。

思えば
1560年ごろ太田山楽斎資正は岩付城の支城として
現在の中丸地区に2箇所の城、更にこの伊達城と、見沼を挟んで
この城の西側数百メートルの寿能城を縄張りし、重要であったと思われる
寿能城には4男の潮田氏を配し、ここ伊達城には家老の伊達房実を配した。

結局、江戸時代から明治まで伊達氏が存続できたのである。
人生とは解らないものである。




07年07月08日 
さいたま県八潮市 興津氏館址
東武鉄道谷塚駅から近い場所の西袋陣屋公園を訪れた。
市の案内板によると、この地は古くから陣屋と呼ばれていた。江戸時代の
関東郡代・伊奈忠次の家臣興津良次がここに陣屋を構えていたという。

興津氏は後北条氏の家臣であったらしいので、中世の館址であったと思われる。
興津氏はその後曽根氏をなのり江戸へ出て幕臣となったという。

その後に西袋村名主小澤家の一族が住んだという。
説明書きでは構え堀・二重堀があったと書かれている。

私が踏査したところ、100m×200mほどの面積で、その周りに小さな濠があった
と思われる。濠の掻き揚げ土塁らしきものや、今では3mほどの高さの櫓あと
らしきものもありその上に小さな祠があった。

興津氏は1560年ごろ太田氏がらみの前線基地との関係もあったのだろうか。
あるいは太田氏没落のあと後北条氏の手先としての砦であったのか。




07年07月11日 
埼玉県行田市 須賀城址
利根大堰から近い須賀小学校がある。その小学校が須賀氏の須賀城址である。
確かにここだけ台地になっている。北側は利根川の要害である。
同行したY氏は自然の台地であろうか、利根川の土砂を積み上げたのであろうかと。

鎌倉時代の築城したとすれば、その頃に利根川はここを流れていたのかと言う
ことから検証しなければならないだろう。

利根川と云えば東遷や川筋の移動を思い出す。
よって、築城当時は川が存在したどうかは疑わしい。つまり台地であったのだろう。

須賀城は鎌倉時代には存在したとする。
南北朝時代には北朝の足利尊氏の側であったという。

話しは変わるが
足利氏の室町将軍継嗣問題から室町将軍と鎌倉公方の喧嘩が発端となる。
1438年に鎌倉公方足利持氏は、和解を勧める関東管領上杉憲実との争い。

これが以下の「永享の乱」である。
室町将軍・足利義教+上杉憲実 VS 鎌倉公方・足利持氏の戦争になった。

戦いは結局、鎌倉公方・足利持氏が負けて1440年に自刃した。
さらに、持氏の子・足利成氏(しげうじ)は1455年に逃げ出して古河公方となった。

この頃と云えば太田道灌が江戸城や川越城の築城の時代である。
やっかいな古河公方がこの地方に割り込んできたものである。

話しを戻して
1,440年には一色氏が須賀城に焼き討ちを掛けて攻め滅ぼしたという。
その後もどういういきさつか不明だが秀吉の天下統一まで継続したが小田原開城
とともに廃城となったらしい。

現在も城址の南側(利根川の反対がわ)が切り立った崖になっている。
但し、本日の踏査では木や草が生い茂り解りにくい。




07年07月13日
本邦最初の軍用犬
柳田敏司の「埼玉の歴史と点描」によると
太田三楽斉資正は訓練した50頭の犬を、それぞれ岩付城と松山城入れておいた。
それぞれの犬には松山と岩槻への道を教えておいたという。

1561年松山城を北条氏政、氏照、福島綱成3万が包囲した。
密書を首にした犬を、北条軍を突破させ岩槻ヘ走らせた。
資正はその犬の密書を見て、岩槻城から松山城へ援軍を送ったという。

その後資正は上杉謙信と組んで北条氏に抵抗。しかし子の資房は北条に降参。

その後、資正は一人抵抗し、茨城の片野で寂しく死去した。
その後資房の娘が氏房を向かえ、岩槻5代城主になった。

氏房は天正18年に3000騎を連れて小田原に行き奮戦の後降伏。




07年07月19日 
栃木県足尾町 足尾銅山
銅の話し
奈良時代の初め700年ごろ、武蔵の秩父から銅が産出されたことになっている。

鎌倉時代から織豊時代時代の前まで中国から銅銭を盛んに輸入して通貨とした。

江戸時代の1610年(慶長15年)に足尾から銅が発見されたらしい。
元禄期までは年間1000トン産出し、オランダ・中国に輸出したらしい。

1741年(寛保元年)に銅銭の鋳造を開始した。
そのころから再び増産したのだろう。

1877年(明治10年)古河市兵衛が明治政府から払い下げを受けた。
これが古河鉱業の始まりだろう。

そのご機械を導入して増産し、重要な輸出品となった。
但し、鉱毒による環境破壊で、田中正造は日本で最初の環境に対する
問題提起をしたのだろう。

1973年(昭和48年)には枯渇して生産が中止となった。
現在は観光資源としている。




07年07月20日 
埼玉県立嵐山史跡の博物館講堂 関東進出の拠点小田原城
講師 小田原市教育委員会 佐々木健策氏

武蔵では後北条というが、その呼び名は
小田原北条、北条五代、などと特に小田原の人々は称するのであろう。

意外と本城の小田原では、財政が厳しい中、関東一円の領域の支城に
兜や焼き物を盛んに送って結束を強めることに傾注していたようだ。

僅か70年の間に、あれだけ広範囲を領有できたのは、農民などのその地方の
人々を大切にしたからだろう。しかし証拠はない。

講師が受講者(140名)に、貴方にとって北条は敵ですか味方ですかと挙手を
求めると、30%は敵で30%は味方と答えた。小生は太田道灌が脳裏に浮かんだ
ことから、敵の方に挙手した。

群馬県の人は、圧倒的に敵とする方に挙手されるらしい。
極端に言えば小田原の住人以外は皆、敵と答えても不思議ないが。
ちなみに講師は埼玉県蓮田の生まれの人で、近年小田原に住まわれたそうな。

受講者は一般に戦国時代マニアで、小生は平安末期から室町マニアである。

これ以降は、話しが前後する。

1,500年代の北条・武田・上杉を「関東三国志」というそうな。
丁度、小生も吉川英治の三国志を読んでいる最中なので可笑しかった。

さしずめ無理に云えば、武田が曹操で上杉が劉備で北条が孫権か。
山本勘助は、所属がマッチしないが諸葛孔明か。

障子掘りであるが、小田原のはクオリティーが高いが、他の城では緩々である。
と、講師は嘆く。小田原の障子掘りに水を満たすと、その効果がてき面に解ると。

小田原には青木という石工がその当時からいた。
(今も、その末裔の方が小田原で石工をされているよし)
青木氏は実際、小田原城の池などに巧みに石を使っている。

石の技術者も石積みの専門家もいたが、北条は城に石垣を使わなかった。
鉄砲の戦争でさえ、石垣よりも土の城が有利であったと、講師はいう。

意味はよく解らなかったが、鉄砲の玉が土にブシュと食い込むが
石では跳ね返るからだ、とも言われる。

石垣に足は掛けれるが土では出来ない。一般に土の城は強いと言われる。
それ以外にも効用はあったはずだと。

北条氏の城とされている城でも石垣が残っている場合があるが、それは後世の
人々が構築したものであるはずだと。

よく言われているように石垣の城は見せる為の装置で、実戦向きではない。

小田原では、武士・工人・商人・漁業者が同じ地域に住んでいた証拠がある。
これも、短時日に北条が広範囲を領有できた遠因の一つでしょうか。




07年07月22日 
埼玉県立歴史と民族の博物館講堂 口承文芸の世界
講師 当館員 斉藤修平氏

いきなり浦島太郎の歌が流れる。浦島太郎の伝説は実は数多くあったが、
明治44年に明治政府が尋常小学校唱歌として書き替えて定番となった。

この歌の歌詞をみると放生(ほうじょう)、動物報恩、異界訪問、異郷歓待、望郷、
親孝行、禁忌の設定、異背、相対的時間が読み取れるという。

民俗学者の柳田国男の影響の強い、神話・伝説・昔話・「世間話」は神話より
下位の話しを、神話に根源を求めたがるのが、民俗学研究の常であった。
それに、真っ向から反対した学者もいた。

民話は欠損と欠損の改善の繰り返しがパターン化されているという。

例えば、
お爺さんが田の水が干上がって困っていた。(欠損)
水を田に満たしてくれたら、娘と結婚させると云う。
これを聞いていた蛇(水に縁の深い動物)が田に水を張る。(改善)
蛇は約束だからお爺さんに娘をくれと云う。
3人姉妹の下の娘が蛇と結婚することを了承する。
娘は瓢箪と針を持って嫁いでいく。(欠損)
蛇は、瓢箪をもっている娘が水に浮かんでしまい困り果ててしまう。
そこを娘が針で突き刺して蛇を殺す。
娘は再びお爺さんのところへ無事帰ってきて、めでたしめでたし。(改善)

これが欠損と欠損の改善の繰り返しパターンである。

女が異界(例えば蛇の世界)の男へ嫁ぐと必ず、男を殺して帰ってくる。
男が異界の女と結婚すると子を産む。
(余談だが、能の世界はあの世との交流が主題であるが、関係あるのかな)

民話は常に、主人公のベースとなっている環境は説明しない。
周りの説明が極めて少ない。ストーリーだけを追っていく。

民話は時代の影響をまともに受け易い。歴史的変遷では
まず中国の神仙思想の影響ついで仏教の影響、江戸時代には儒教の
影響など同じ話しでも時代によって次々と変化していく。

最近でも、桃太郎の「鬼が島」は
先の大戦中では「米英鬼畜の島」であった。

そう考えると、民話はその時代のお話、つまり「世間話」であるといえる。
埼玉県でのプールの排水溝に吸い込まれた子供の話しは
すでに「世間話」として子供たちに流布されているという。

だれか先に死んだ子が引張っていると。
民話とはそういうものである、ということだ。

私は斉藤講師に「異界との接触は他の民族との接触に関係ありますか」と
質問したら「あります」と答えられた。

太古からこの列島に住む人々は、モンゴル・朝鮮・中国・シベリア・南方と
常に接触して交雑してきたはずである。

私はここにも、原因があるのだろうと思う。




07年07月24日 
さいたま市岩槻区 柏崎氏館址
岩槻の南西部で東北自動車道が近くに柏崎という場所がある。
私は久伊豆神社を探して行くと、七曲が2箇所あった。これは臭いと思った。

更に柏崎小学校があった。つまり神社は近いわけである。
神社、寺、墓、古くからの学校は高台にある。

学校を過ぎる辺りで土地が突然低くなる。これはもう目的地は近いと直感して
付近の工事関係者に聞くと「この奥に久伊豆神社がある」と云われる。

なるほど、そこには久伊豆神社があった。境内には物見櫓が2箇所あり
西と北は絶壁に近い要害である。

小口(虎口)の入り口が柏崎小学校である。
この一帯全体を武士の館と考えると誠に絶好のロケーションである。

柏崎氏は武蔵七党の野与党に属する武士であったという。
平安末から鎌倉、南北朝あるいは室町に至るまで、ここで武張っていたのであろう。

この柏崎館の始まりは太田道灌の時代より300年古い時代である。
私は、柏崎氏はここから、はたして何を思って遠望し暮していたのであろうかと
私も遠望した。

源平合戦、頼朝挙兵、執権北条氏、足利氏などのことを思い描いた。




07年07月25日 
さいたま市見沼区 松野氏館址A
2回目の訪問である。リンクの無題でここを主題にして、戯れに物語の真似事を
書いているので、実地踏査を再度してみたくなった。

無題での時代は1,400年半ばを想定しているが、ここに松野氏館が築かれたのは
それより100年後の戦国時代であろう。

今日の収穫は、出丸らし場所の再認識である。
前回もこの場所に気付いていたが、出丸という思いは無かった。

その出丸らしき場所は、館址の東方つまり岩付城側30mほどの高地である。
やはり北・西は要害となっている。古文書などで触れていないが、間違いなかろう。




07年07月28日 
埼玉県立歴史と民族の博物館講堂 埼玉県の旅と名所と鳥瞰図
講師 首都大学東京・非常勤講師 藤本一美氏
いろいろな世界があるものである。

鳥瞰図マニアである。この世界では一番の人だ。
特に、吉田初三郎の研究では第一人者である。

吉田初三郎は1878年(明治11年)に生まれて1955年(昭和30年)に他界した。
吉田は画家であったが明治以降の鳥瞰図の先駆者であった。

鳥瞰図は正確な地図でもなければ、いわゆる名所図画でもない。
そういうことから、地理学者からは蔑まれていた。

これが最も流行したのが明治の終わりから昭和の始めであったという。
明治以降の最初の旅行ブームであったという。

いま初三郎の後継者はすでにいない。コンピュータで簡単に製作できるからだ。
しかし、藤本先生は手作りの鳥瞰図を愛して止まない。

どんなことでも、その世界で第一人者であることは素晴らしい。
藤本先生は小生のかつての勤め先の同期生と同じ高校の一年後輩であった。

山陰地方生まれの素朴な真摯な人柄に
受講者は惜しみない拍手を送った。




07年08月02日 
埼玉県所沢市 山口城址
城址を訪ねてみると、洋服のショッピングセンターと、そこを挟んで新住宅街。
挟んでいる県道も勿論城址であった。

いわゆる、舌状大地の先端に縄張りをしたのである。
この時代の城ではよくあるタイプである。

土塁がショッピングセンターの一角と西武鉄道狭山線の脇に充分解る形で
残されていた。壕はほんの一分であるが線路の下にそれらしきものが見られた。

私は土塁の傍のやや高台に登って南を遠望した。要害の低地が解る。

所沢市教育委員会の案内板によると

平安時代末期から鎌倉・室町時代にこの一帯を本拠とした武蔵武士の山口氏
によって築かれた。

この場所は北に椿峰の丘陵がせまり、南は柳瀬川と、湿地に囲まれた要害の地で
西側には鎌倉街道が通っていました。

城址の規模は、東西約400m、南北約200mと推定され、埼玉県の旧跡に指定。
築かれた頃の規模は不明であるが、戦乱の時代に館を囲む土塁や堀は徐々に
広げられた。

室町時代の終わりには、複数の郭が繋がった姿となった。
土塁の上に木や竹の柵を作り、幅が広く、深い堀をめぐらせて敵の侵入を防いだ。

現在も周辺には「堀の内」「城上」「梨の木戸」といった城に関係する地名がある。
但し、「梨の木戸」の意味は私には解らない。教育委員会に問い合わせる予定。

他の資料によると、山口氏は武蔵七党の村山党の出で、この山口で山口氏を
名乗ったのであろう。村山一族がこの地一帯を領有し武張っていたのだろう。

山口氏は保元の乱や承久の乱に参戦したらしい。
保元の乱は天皇と上皇の喧嘩で後白河の勝ち。これで武士の力が強まった。
承久の乱は後鳥羽が北条執権にたてをついたが執権の勝ち。