小さな歴史旅G

07年08月05日 
埼玉県立歴史と民族の博物館企画展 埼玉遊覧案内
江戸時代以前は、楽しみの旅ではなかった。
律令時代では、国家の命令による旅である租税の運搬や防人である。

中世では、信仰に基ずく社寺参詣や僧侶の修行のためとも言えます。

江戸時代では、街道が整備され、貨幣制度が確立されることにより
旅の快適さは一気に増した。旅は好奇心と娯楽を満たす格好の手段
となった。

明治以降では、明治の末から昭和の始めまでが旅のブームと言える。
鉄道が施設され交通網の整備が進み都市の中流階級が生活を楽しむ
余裕が出来たからだろう。

ここからは自分の見聞きで書く。
江戸時代は今の埼玉県の川口の外環辺りまでが、日帰りのコースであった。

明治時代は、大宮辺りが日帰りのコースの限界であったのだろう。
或いは一泊コースであったのだろう。子規や漱石が大宮公園を訪れている。

小生の知人で新宿生まれ新宿育ちの人がいたが、戦前は、大宮は遠足の
距離であったという。私は驚いた記憶がある。

今は、その路線で無理に考えると、都心の遠足の距離は
高崎辺りであろうか。遠足といっても新幹線だが。




07年08月07日 
さいたま市西区 福田陣屋址
福田という名前に憧れて訪れた。
戦国末期から江戸時代の陣屋址だという。
埼玉県立嵐山史跡の博物館のサイトには江戸初期と書かれている。

名前に憧れてとは、小生はある文章を今年の春ごろから書いているが
その中で、福田はフケタのことで、フケとは耽のことであると書いた。

勿論、他の文献に書いてあったことを勝手に自己流で信じているだけ。
そこで、福田陣屋のロケーションをみれば、確証がえられるかもと思った。

福田という土地に土着すれば、その土着した人は福田と名乗るのである。
名字とはそのような場合が大変多い。

私はその場所をみて、やはり思っていた通りであった。
福田陣屋があった場所には福田神社があった。
その周りは低湿地であったことが一見して理解できた。

一般に城や砦は舌状大地の先端に造るので、その先は当然低地である。
福田神社にある埼玉県の案内板には「田畑にある浮島のように見える」
と書かれていた。

つまり、昔から、この地は低湿地を開いた田畑であったことが解る。

此処へ陣屋を開いた者は、この低湿地を立派な田畑にして
自らを福田又左衛門惟康と名乗ったのである。と私は信じて止まない。




07年08月13日 
さいたま市岩槻区 渋江館
武蔵七党の野与党の大蔵経遠が岩槻の渋江という地に住み着き渋江氏を
名乗ったという。 それがいつの頃であったのだろう。。

東鑑に出ているそうだから鎌倉時代だろうか

やがて、1400年代の中頃には、扇谷上杉の家宰・太田道灌が岩付城を築城
した(実際の縄張りは成田氏)。渋江氏は、その家臣となった。
江戸時代でいう家老級であったのであろう。

1,480年少し前に、太田道灌が扇谷上杉定正に入浴中に謀殺されてしまい
武蔵地域は一気に動乱となる。(山内上杉の讒言といわれる)

1,520年代には、後北条氏が川越夜戦を勝利することで武蔵地域を領有する。

岩付城は太田氏の血は絶えたが養子が連綿と家を継いだが、後北条が攻めた
時、渋江氏が後北条に内応して、岩付城は後北条の城となる。

それにより、渋江氏は、岩付城の城主になったようである。
しかし、太田資頼が岩付城を奪還してしまう。その後の渋江氏は不明。

その後は省略。

私は、渋江氏の館であったといわれる場所にある浄安寺へ行った。
岩槻には残念ながら渋江という地名の場所は存在しない。

岩槻市役所の近くに御成り街道の交差する交通信号地点があり
そこは渋江と書かれてあった。

そこから、約200mほど北に行くと、浄安寺があった。
入場料金のつもりで、賽銭を進ぜた後、周りを踏査すると、北側と東側は
顕かな低地になっている。

このお寺さんはいわゆる舌状台地先端にあることがわかった。
やはりここは渋江氏の館址であったのであろう。
と思いながら酷暑の中を帰宅した。




07年08月21日
神明宮
近くにある神社に行ってみた。神社という呼称は明治以降である。
それまでは、明神とか権現などとしていた。

何の力もない明治新政府は天皇の権威を必要以上に高めて
それを借りるほか無かった。当然、岩倉は喜んだ。

さらに全国の神社を天皇と関連づけるアイデアも駆使した。

不平士族に対する強烈なプレッシャーの中
大久保一蔵などは、毎夜寝られなかったに違いない。
そういう中で、廃仏毀釈や神社の権威高揚は効を奏しただろう。

閑話休題
行ってみると、境内がやや高地に造成してあることが解る。
参道には人家が既に建てられており、残るは200坪ほどの境内のみ。

社殿は本来神様とは何の関係も無い。社殿は仏教の影響である。

その境内のどこかの地に、神が木を伝って降りてくる場所があるはずだ。
だから境内の、そのどこかの土地に拍手を打つのがいい。

狭い境内には、特に明治時代の石の記念碑が、かなり多くある。
以下ほんの一部だが読んでみた。

〇明治17年 光華明彩
  これは意味が解らない。採の字が読み間違いかもしれない。
  しかし、考えようによっては、明治時代の心意気が伝わる。

〇正八位 東角井福臣書照徹六合 猿ケ谷戸村 当社氏子中 太古鴻荒之世
 明治十九年九月
  東角井氏は大宮の氷川神社の社家である。この辺りはかつて猿ケ谷戸村
  と称したのであろう。太古の時代から云々とある。 
  氏子が明治19年9月に、この石碑を建てた。

〇伊勢太二連
  伊勢参りに行って無事に帰ってきた。太二連とは太二という講の連合か。

〇松澤丑松謹誌章山松澤君碑 古之君子収教育為 明治三十一年一月
 正三位勲二等清浦圭吾
  松澤丑松と言う人がこれを書いた。 (現在もこの地は松澤姓の人が多い)
  何かの事で顕彰されたのでここに碑を建てた。教育関係のことだろう。
  清浦圭吾という人の関係のことらしい。その人は正三位の位階を受けた
  ので誇らしげであったのだろう。(明治には位階を乱発していたのか)

〇寛政六年
  手水鉢に書いてあった。
  少なくともこの神社は1796年には存在した証拠だ。
  
  どこの神社の年号も享保の年号を最古として散見するが
  文化文政時が最も多い。時代が新し過ぎるので面白くないが。

  私は根源的には縄文時代にあると信じている人間である。
  八百万の神である。

小生は悲しいかな漢文も読めないし、古文書を読む学識もない。
学問も学歴も学識も何にも無い悲しさをこの歳になって気がついた。

近在には神社仏閣が驚くほど多く存在する。
日本各地には神社は無数にある。それが何を意味しているか。
その歴史は何であるかを、たれも声高には言わない。

つい最近である明治時代さえもう解らない時代になっているのだ。
たいていの神社には日清日露の戦役の記念碑がある。

最近のことであるにも関わらず、たれも無視している。
我々の祖父の時代だ(私のお爺さんは明治18年生まれで昭和41年他界)

私は、明治時代は江戸時代の続きあったという思いが今更にして思う。
庶民の心が、1867年を堺にして、一気に近代になったのではない。

近代になったのは、正確に言えば戦後だろう。
もっと云えば昭和30年以降になってからだろう。

小生の子供時代は江戸時代の最後の果てをやっていた。
今にして思えば、まことに懐かしく歴史であり文化である。
近郷近在にいくらでも歴史的文化遺産は存在する。

いや私は
儒教が最高の道徳であると云っているのではない。
誤解のないように。




07年08月23日 
埼玉県県民活動センター古文書解読講座 離縁状
江戸時代の離縁状の名称
〇関東では離縁状
〇他では、去状 暇状 手間状 隙状(ひまじょう) 一札之事 差出申一札之事

行数
〇三行半
〇文字の書けない人は三本半の縦線を書く
〇一行半から十六行まであった
三行半になった理由
七去影響説ー離縁原因の七去の半分の説、中国の離縁状(休書)を模倣した。

離縁理由の文言
我等勝手ニ付、不相応ニ付、不縁、不叶心底、家内不和合、双方似熟談、
相談之上 不埒ニ付 などがある。

縁切寺
幕府公認の縁切寺
〇相模の国鎌倉の東慶寺
〇上野の国、新田郡徳川郷の満徳寺
寺に駆け込もうとして、寺の直前で亭主に捕まりかかれば、寺門の内側に履いている
履物を投げ込めばOK・セーフとなることになっていた。

以下私は思う。
江戸時代とは「ことほどさように」ファジーなことを許すアイデアがあった。




07年08月24日 
埼玉県県民活動センター古文書解読講座 貨幣
よく知られているように、奈良時代には国産の銅銭が流通していた。
平安〜室町〜戦国末期近くまで中国明銭などが使われた。明銭や永楽銭である。

秀吉が国内で銭を作るまで、なぜ輸入に頼っていたかの理由
〇政府の財政基盤が脆弱で、貨幣発行者としての信用が得られなかった。
  つまり幕府の力が弱かった。
〇政府が鉱山を一元的に掌握できてないため、原料が充分でなかった。
  つまり全国の各地方勢力が鉱山を握っていた。
〇貨幣鋳造技術が未熟であった。
  つまり技術を磨く必要もなかった。
〇銀を含む銅の輸出が歓迎され、交換に輸入される銭を使うことが簡便であった。
  つまり簡単な方法で済ませていた。貨幣経済の重要性が認識されてなかった。

私、個人の考えは
中国の銭は希少価値があったので、流通貨幣として便利であったからだと思う。

余談だか
江戸幕府の荻原しげひでが貨幣の金を抜き取って貨幣の質の悪化を故意にして
幕府財政に大きな貢献をした。

徳川中期・元禄時代に、これを憂えた新井白石が金の量を増やして、幕府の信用を
回復したと言われているが、現代史では失敗であったとされているらしい。

その後、1770年ごろ田沼意次が画期的な着想をした。
つまり例えば、貨幣に1両と書いてあれば、それは1両の価値があるのである。
現代の貨幣の考え方と全く同じである。

それは極当たり前の発想であるが、それを誰もが理解できなかった。
但し、誰もが同じ貨幣を造らないという前提の話であるが。

そこのところが理解出来なかったのではなかろうか。
何故なら、いくらでも造れたし、全国を統一した信用というものが存在しなかった。
(私は無理もないと思う。貨幣経済の意味が理解できるのには時間がかかる)


やはり明治になって日本が一つの国になったのが切っ掛けで
皆が貨幣にやっと信用を認めたのだろう。

小生のような無学な輩が偉そうに書いているが、実は貨幣は非情に奥が深い世界
であるそうな。




07年08年26日 (訪問は08月25日)
さいたま市 深作ささら獅子舞
この舞いをみて十数年になる。舞いには必ず何か意味が隠されている。
日本の舞には権力者への抵抗や揶揄が含まれているのが西欧との違いである。

実に日本の舞や劇は面白い。歌舞伎などは典型的である。
但し、歌舞伎の源流である能は死者との対話が主であるところが違うが。

本題に戻すと
私は長年、ささら獅子舞の最初に演じられる「綱きり」の意味が解らなかった。
要は「沼地を田圃にするので干拓をします。沼の神様了承して下さい」である。

これだけなら、1727年享保12年の八代将軍吉宗礼賛だけである。
ところが、おっとどっこい、この舞の途中に妙な謡曲に合わせて舞う部分がある

二度あるのである。
ところが、この謡曲を謡う人が何を謡っているのか解らないように謡っている。
故意にそうしているのだそうである。

その中に何か秘めたもの、つまり干拓による社会矛盾を突いている部分がある
と考えられる。その社会に対する矛盾は、漁業を行えなくなったことだろう。

それだけなら、面白くない。
江戸幕府体制や封建体制に対する抵抗が内包されているのではないか。
と、私は考える。




07年08月27日 
さいたま市 神明社
8月21日は神明宮へ行ったが本日は神明社へ行ってみた。
宮も社も実質同じであろう。

神明社は辞書によると
鎌倉時代以降、伊勢神宮の分霊をまつる神社。神明宮。神明神社。
伊勢宮。とある。
つまり伊勢神宮の末社のようなものか。

伊勢神宮は
正式名称は神宮。皇居の祭祀する最高の存在として社格を
超越するものとされた。
中世以降、伊勢講などによる民間の参宮が盛んになった。
明治以後国家神道の中心となったが、1946年(昭和21)以降は
一宗教法人。正殿は神明造りといわれるとある。
つまり、大和朝廷の源流と言いたい。明治以降の王政復古で益々
伊勢講が盛んになった。であろうか。
そういえば、明治以前の伊勢参りの記念の石柱を見たことが
ないと思うが、どうだろう。今後見つけてみたい。

私はこの神社のアチコチにある石柱のアチコチを眺め回して携帯電話に
写真など撮らずに、イチイチ文字を入力した。

アイツは何をしているのだろうと
不信の目で見られているのも構わずに、猛暑の中を夢中であった。

その一部は下記である。
〇安政五歳次戌午秋九月吉 当邨氏子中
 安政5年の戌午にこの村の氏子がこれを建立した。
 安政5年とは1859年で、ペリーが来てから6年後である。

〇明治四十二年六月十日村社小深作神明社
 明治42年の小深作村の神明社(に何かをした)

〇嘉永二己酉年六月吉辰 願主当所浅子八郎右衛門
 嘉永2年の己酉に浅子八郎右衛門(という人がこれを建立した)

〇手水鉢には伊勢大○連
 伊勢参りに行ってきた(記念に手水鉢をここへ寄進した)

〇応神明社氏子而 飯島良助謹書
 応神明社の氏子である飯島さんと言う人がこれを書いた
 応神明社とは何を云うのだろうか。ひょっとしたら伊勢から
 もってくる時、応神天皇をもってきたのであろうか。

〇御即位大典記念植樹大正四年乙卯十一月檜二百本
 大正天皇の即位の記念としてヒノキを200本植えた。
 そんなものは今は全く不明である。

〇御神灯明治十九年伊勢太々連
 明治19年に伊勢参りをした一団(記念にここに建立した)

〇嘉永四梓亥年 大六天 正月日
 嘉永4年の梓亥年に第六天(をここに建立した)
 
閑話休題
三社とは辞書によると
伊勢神宮・石清水八幡宮・賀茂神社(または春日神社)
とある。
浅草の三社祭りのあれは、これとは全く違う。
神社の一角に三社が鎮座する神社があるので書いてみた。




07年08月28日 
さいたま市 深作氷川神社・諏訪神社
昨日に続いて神社巡り決行
例によって下記の如く石柱から字を拾って携帯に入力。

〇深作右氏子 越谷宿石工長兵衛作 神護弊宮 供進指定 村社氷川社
  神の加護を願って深作の氏子(がこれを建立した) 越谷の石工が造った

〇日露戦役記念碑 ○東京帝国大学院 法学士八木橋克○書
 明治三十七八年戦役従軍者 維時明治三十九年十二月一日建立
  日露戦争(で地元の多くの若者が戦病死した)ここに明治39年このために
  ここへ石碑を建立した。(ついては)東京帝大の八木橋氏
  (地元の名士で江戸時代の庄屋)に書いてもらったものである

〇伊勢大々構 為紀念村社に田地六畝歩をたてまつ里為る
 明治四十一年三月十五日
  明治41年に伊勢参りをして、その記念に田地6畝を寄進した

〇五穀成就 当邨氏子中
  文字の通り (邨は村である)

〇稲荷神社 天下泰平
  文字の通り

〇第六天神社 前宝御納奉 世話人平林○ト
  前宝とは不祥

〇 惣若者中 安永○○酉年十一月吉日
  安永とは1770年代のこと この境内では最も古い記述

○神社 菅原神社
  文字の通り

〇伊勢大々構 奉獣
  無事伊勢参りの御礼に獣を(狛犬のようなもの)を奉納した

〇昭和六年二月二十三日御神楽奉奏 岩槻町石工栗原竹之助同紀○○碑
 埼玉県武蔵国北足立郡春岡村大字深作此地の字字に斉ひまつ里鎮の云々
 大正三年氷川神社宮司云々
  昭和6年にこの深作の鎮護のために神楽を奉納した 
  多分、官幣大社武蔵一ノ宮氷川神社の宮司が司ったのだろう

〇諏訪社石段寄付者連名 大正十年十二月二十八日
  大正10年に諏訪神社のために寄進した
  この神社は氷川神社と並列して同じ境内に大きな諏訪神社があるが
  ここで行われる深作ささら獅子舞はなぜがこの諏訪神社の方から入場する。

〇石橋供養塔 寛政五○○年深作村正月吉日世話
 世話人獅子門人中 
  寛政5(1800年ごろ)年にささら獅子舞の門人中の事が書いてある。
  この石柱は捨て置かれてあったが何か意味があるのだろうか。


〇天保十五年九月吉日
  天保15年(幕威が衰え始めたころで、幕末が近い頃)に何か寄進した
  のだろう。近くに力石が放置されてあった。

〇諏訪神社 神明神社 八幡神社 三嶋神社
  狭い境内にはメインの氷川神社のほかに上記の神様が鎮座していた

伊勢参りのことであるが
埼玉県立歴史と民族の博物館では江戸時代には盛んに伊勢参りをしたと
展示しているが、やはりここも江戸時代のものはなく明治である。




07年08月30日 
埼玉県北本市 榎戸館址
この辺りは誠に中世の城跡・館址が多い。ラッシュである。他にはこれほどない。

石戸という処は広く土地が上下にうねっている。
しかし本日訪問した所は比較的平坦である。ロケーションも良くない。

実はこの榎戸館については何も解っていないようだ。
時代も、勿論確定していないし、推定する資料もないのだろう。

北本市が調査をしたのは今から40年前だそうでその後は放置されて
いるのだろう。

私は目星をつけて行ってみたが、目的地は見事外れた。
間違った場所より200mほど北側にあった。多分間違いないだろう。

ほんの少しだが道路から土塁の一部と、さらに土塁を造るために掻き揚げた
壕のようなもの、らしきものを僅かに目にすることが出来て満足した。

例えば、戦国時代に石戸城の重臣クラスの武将がここで外敵と対峙して
いたのであろうか。そして春夏秋冬のいつ彼は潰えたのであろうか。

その時の彼の心情はいかばかり、であったのであろうか。
などと、今私は、PCのキーを叩きながら思っている。




07年09月01日 
埼玉県春日部市郷土資料館講座 下河辺庄と春日部氏について
講師 神奈川県立金沢文庫 主任学芸員 永井晋氏

〇春日部は少なくとも平安時代から人が住んでいたと思われる。
〇春日部氏は京都の公家の出であるが、頼朝の河内源氏ではなく
  摂津源氏である。(この表現は始めて知った)
〇春日部氏が春日部を支配地としたのは東鑑によると1187年(文治3年)と思われる
  (歴史家も、東鑑や太平記や平家物語を頼りに史実の証拠として
  盛んに用いている。用い過ぎである。私は古文書や発掘などの事実を積み重ねて
  それに重きを置いてほしいと思う。でなければ歴史家の価値がない)
〇春日部は下総の下河辺の一つの郷であった。下河辺氏は小山氏の一族である。
  小山氏は頼朝の河内源氏でなく摂津源氏である。下河辺氏は小山氏の一族の
  中でも低い立場として、稲作の出来の不安定な現在の吉川市辺りを与えられていた。
  (現在の下川辺町とは直接には関係はないようだ)
〇春日部氏の最も華やかであったのは吾妻鏡に出てくる寛元元年(1243年)の
  鶴が丘八幡宮で行われた流鏑馬の儀式だろう。春日部氏は第十番目に現れて
  流鏑馬を行っている。流鏑馬はあくまで儀式であって実戦とは関係ない。
  ただし、この儀式には多額の費用がかかる。その費用を春日部氏が負担しているが
  大変な名誉であった。春日部氏にとって、この時が最盛期であった。
〇思えば、春日部氏は弓矢の実力者ではなく、都の儀式に通じた貴族の世界に詳しい
  家柄であった。鎌倉政権が3代で消滅し、北条執権の時代になるが、4代目の時に
  公家が征夷大将軍になる。その時の公家の相手が出来るのは河内源氏でなく
  摂津源氏の都の公家文化に詳しい者であった。それが春日部氏であった。
〇その後、春日部氏は本家は滅亡するがその傍系が南北朝まで生き残り、
  春日部重行を最後に消滅する。その後の春日部氏は全く別の人々であろう。




07年09月04日 
宮城県多賀城市 多賀城址
奈良時代の初めに陸奥の押さえとして国府を設いた。
その後、その国府の面積を徐徐に拡張した。

奈良平安までは陸奥には夷の住む未知の国、と言いつつも平安時代には都人にとって
憧れの地でもあった。私は、仙石線都城駅からタクシーで1200円で訪れた。

まず国府のロケーションの良さと国府に至る堂々たる道の広さと長さであった。
ロケーションは小高い岡の上に北を背にしている。

背後の北側の背が平安後期の砦のような要害ではない。
南側に当たる正面はなだらかに岡の下に向かって2km程もあるはずだ。
幅が20mはあるだろう

但しその長さは現地にある説明版の想像図による。
実際は殆んどの場所に人家が建ったり田である。

国府とそれに至る道路は如何にも夷を威圧する装置であると思える。
ところで夷とはどんな人々てあったのだろうか。

アイヌ人だろうか。いや私は単に大和政権にまつろわぬ人々であったと思う。
あるいは稲作をまだ完全に取り入れない人々、つまり税金を米で払わない人と
考えたらどうだろう。

帰路は国府多賀城駅から乗ることにしたが、有名な多賀城碑を見て、
松尾芭蕉がここを訪れたのを想った。

たまたま調査員の方々がおられ、碑に書いてある
解読を助けて貰った。ここは多賀城跡であり都から1500里離れている。

現在の里とkmの関係とはことなるが、それでも感慨深いものがあった。




07年09月05日
栃木県小山市  小山城(祇園城)
1148年に小山氏は太田政光氏がこの地で名乗ったものであり
俵藤太の子孫であるという。案内版には小山城は藤原秀郷(俵藤太)の
築城とも書いてある。

大田氏は道灌の系譜とは違うのだろうか。
その後小山市は源平合戦などにも参戦したという。

恐らく最初は平氏でその後源氏側になって鎌倉の御家人になったのであろうか。
南北朝時代にはどうしたのであろうか。

恐らく紆余曲折があり北朝側になったのであろう。
戦国時代までは敵味方のどちらに付くかは
それほど恥でもなんでもなく、茶飯事であったと言う。

要は武功を上げて認められて所領が増え安堵されればいいのである。
野球選手と同じだ。大相撲とは違う。

ところで小山氏は南北朝の終り頃宇都宮城を奪取したのがもとで
小山義政の乱が起こりそのため自害し、系譜は途切れたという。

北条氏照に城を取られたりして一族の結城氏か再興し
北条氏に側の一員であったので小田原開城後滅亡した。

私は蒸し暑い中を城跡を歩き通した。
郭後とに深い広い見事な空壕があるのに驚いた。

それに何といっても思川を天然の要害に実にうまく利用している。
鉢形城を思い出した。

駅への帰路、市役所構内の案内版に小山評定が書いてあるのを見た。
家康の狸振りに思わず苦笑した

(以上の文面は後日、間違い箇所を訂正します)




07年09月06日 
山形県米沢市 米沢城址
私は米沢城址の上杉神社を訪れた。
明治の初めに鷹山を意識して建立されたのであろう。
明治新政府の苦しい財政と新日本への意気込みが感じられるがどうだろう。

その証左として、ケネディが最も尊敬出きる日本人は鷹山と言わしめている。
(勿論、ケネディの計算済みの、記者への発言だが)
私も鷹山の率先実行に打たれ、心が現れる者である。

それはともかくとして、米沢藩には偶然にも二人の並々ならぬ人が
現れていたのである。

この米沢の最大の売りは、この人物そのものだろう。その前に上杉謙信への
信仰が良くもあり、あるいは改革には弊害となったのであろうか。

直江兼続の上杉氏への心身共に忠誠は関羽に似たものがある。
だからこそ景勝も兼続を夢中で信じた。関ヶ原前後の事共はこれが大きく影響した。

一つ間違えば家康に取り潰されていただろう。
いや名門好きの家康がそれをしなかったとも言えるが。

三代目の上杉綱勝の急死で、名門管領上杉氏は血が絶えた。
保科と吉良の子供を四代目にして以降、家はつながった。

その事件から100年後の1700年中頃過ぎには飢饉もあったが財政危機に陥った。
どういう経緯で鷹山が藩主になったか不明だが、鷹山の改革のポイントは、

江戸時代の表面で、米本位制のの世を実相は金本位制で世の中が動いているのを
認めていた事だ。当時は武士としてあるまじき考えだろう。

鷹山は縮綿や絹織物やロウソクなど、商品経済を取り入れて各藩と貿易を行った。
しかし、おいそれとは行かず晩年までかかって成果を得た。
時間をかけて踏ん張ったのを称賛したい




07年09月07日 
埼玉県県民活動センター講座室 東海道中膝栗毛
十返舎一九の作品を江戸文化としてどのように理解をするかの講座である。

この作品は1802年(享和2年)に出されたが、その前にすでに種々の旅物や
狂歌は出ていた。しかしそれは古典を知っている者にはパロディとして
楽しめたものであった。

十返舎一九の東海道中膝栗毛は
古典を知らなくても楽しめるところが画期的であった。ここがポイントである。

時代背景を考えると、戦乱の時代が終わり既に200年近くが過ぎていた。
つまり1700年の終わりに近い世紀末であった。

田沼意次の経済至上主義の時代から、松平定信の政治はまるで先祖帰り
のような武士は武士らしく、庶民は質素倹約を奨励する時代を演出した。

それはすでに江戸時代は庶民は、貨幣経済社会にすっかり溶け込んでおり
定信の寛政の改革は成功する素地はすでになかったと言える。

お金本位の経済の社会は武士の権威社会ではなく、
金さえあれば地位は低くてもいいのである。金さえあれば、寺子屋で
読み書き算盤を習い充分にその時代の社会の一員になれるのである。

そのような背景で
松平定信に反するかのように庶民の笑い、知識がなくても笑える小説が
受けたのは当然であったのだろう。

日本の社会は武家社会から、もうすっかり庶民の社会になっていたのである。
私は東海道中膝栗毛を受講してそう思った。




07年09月09日 
埼玉県立歴史と民族の博物館講堂 モースの大森貝塚はどこか
講師 埼玉県立歴史と民族の博物館学芸員 田中英司先生

結論を言えば
大田区にある大森貝墟と品川区にある大森貝塚はどちらも正しい。

但し
モースが最初に発見したのは大田区の大森貝墟で
最初に発掘されたのは(モースが立ち会ってない)品川区の大森貝塚とも云える。

貝墟も貝塚もほぼ同じ意味だが、貝墟はそのポイント地点を云う。
貝塚はその広い場所を指す。

1877年(明治10年)多くのお雇い外国人の一人として、米国のモースが
やってきた汽車の窓から発見したという。

発掘考古学は勿論古来より日本にあったが、緻密に報告書にしたのは
日本ではモースが最初であるという。それまで、そのようにするのを日本人
は知らなかっただけだ。

鎖国であったこともあり、自分の考えを不特定多数の人に伝える手段の常識を
知らなかったので無理はないと思う。

とにかくモースが貝塚を見つけて、他のライバルお雇い外国人に先んじて
唾をつけた或いはパブリックにしたと考えていい。

ところで、大森貝塚の場所であるが
モースは三ヶ所見つけていたが、その三ヶ所の関係は明でなく、
また、そも位置関係も明らかでない。それが混乱の基である。

そこでモースが帰国したあと、場所について問題が持ち上がった。

ここで、強引に貝墟と貝塚のバトル関係を示すと
貝墟派・・・モースの一番弟子・佐々木忠次郎(東大動物学教授)
       貝墟の土地の地主・臼井氏(積極的に派かどうかは不明)
       モースの寄付した団体
       東京府
       朝日新聞(?)
       (司馬風に言えば、余談だが東京帝国大学)

貝塚派・・・大阪毎日新聞(日日新聞?)社主・本山修一
       日露戦争第一軍大山巌大将(のち元帥?)の子息・大山柏
       品川区(大田区も結果として間接的に)
       (司馬風に言えば、余談だが山本の出身大学・慶応大学)
       

ここからあとは学術でなく、意地の歴史である。それなりに面白い。

1929年(昭和4年)先に大森貝塚の碑を建立したのは経済的優位の
大森貝塚派の本山・大山であった。

佐々木はモースが帰国した後、直接自分が発掘作業をした強みがあるので
どうしても貝塚派に負けるわけにはいかない。

佐々木は官僚を味方につけるのは容易いが、資金難に陥ったが結局
地主が何故か協力してくれて、翌年になったが貝墟碑を建立できた。

ここで発掘場所の地主を示す
貝墟・・・臼井氏(現アンメルツでお馴染みの小林製薬創業者)
貝塚・・・桜井氏
但し
臼井氏の地所の位置関係は地図が添付されているのではっきりしている。
桜井氏の件は発掘許可の遣り取りの文書がある。

ちなみにモースの月給が350円であったが
当時もっとも高給は英国のキンドル(貨幣制度)1,045円
大久保利通でさえ500円。(以上は教科書・浜島書店の新しい歴史に掲載)

司馬風に余談だが
モースが日本に再来日しなかったのは
西欧人からみて珍奇で素朴な日本人を彼は好きであったのに
脱亜入欧の日本は面白くなくなった。

そう云う欧米人に有り勝ちな単純な理由だろう。

食人の話だが
ヨーロッパの大航海時代にはアメリカ大陸には巨人や二つ首
の人種がおり、食人も行われていたと信じられていた。

それは後世まで真実として信じられ続けたという(NHK高校講座)
だからモースが欧米以外には来日前から食人があったと信じていても当然。

まことに長閑な時代であったと云える。とは云うものの
日本は鎖国と言いながら実は世界の事情をかなり知っていた。

寺子屋の存在で
庶民までもが、識字率が高く、日本人は意外と進んでいた人々であることを
欧米人は見抜けなかったのだろう。

そうでなければ、あんなに速く近代化できるはずがなかった。

中国・朝鮮は儒教が邪魔をして、日本に先を越されたのが実相だろう。
田中先生のお蔭で、種々のことどもを考える機会を得た。有り難い。

私は、つい最近まで、医学者を訪れるのを仕事としていた。
優秀な教授は、助教授以下に「貴方はどう思うのかそれが問題だ」と云い続けた。

つまり、著名な人が言った話しとか、著名な本に書いてあったとかを
云い立てるのは時間の無駄である。
田中英司先生のように自らの意見を言える人間が素晴らしい。




07年09月14日 
埼玉県県民活動センター講座室 東海道中膝栗毛2
東洋大学文学部日本文学文化学科 教授 中山尚夫先生

この小説は、実はすでに「五十三次馬子の哥袋」(まごのうたぶくろ)の刊行の
準備が既に整っていてのにこれを中止して、膝栗毛に取り込んで発刊したという。

しかし何故、五十三次に満たない、四日市で止めたのだろうか、質問しようとしたが
機械を逸した。

十返舎一九の名称であるが、十返舎は香に出てくる専門用語であるらしい。
彼は大阪に居た時、香をやっていたという。
一句は幾という名前から取ったらしい。彼は幾と呼ばれていたのだろうか。

彼は実は江戸の生まれではなく、静岡の生まれであるという。

この作品は狂歌が重要な役目をする。
狂歌を歌いたいが為に、その物語が存在する。狂歌を出せば次の幕に変わる。

狂歌を以下に示す。
おとまりはよい程が谷ととめ女戸塚前でははなさざりけり(程が谷宿)

狂歌は1700年の少し前に絶頂期を向かえ、寛政の改革で弾圧されて
下火になり、再び幕末に隆盛した。

この作品で最も謎とされているのは、最も重要な宿である府中が
他の場面と違い、客観的にさらっと仕立てられていて、実に不自然
であることだという。

作者の十返舎一九の出身地であるからだろうと、講演者はいう。

狂歌は、庶民を勿論のこと武士階級まで浸透したという。

しかし寛政の改革で弾圧されたということは、まだまだ幕威が盛んで
あったのであり、幕末には(正確には天保ころから)その威力がなくなった
からである。と私は思う。




07年09年17日 
埼玉県川越市 大堀山館址
大堀山館址は新編武蔵風土記稿(1804年〜1829年編纂)に
掲載されているという。

さっそく行ってみた。
近くにそれらしき藪がここかしこ数箇所見える。

その中の一つに近づいてみた。近所の人家の婦人に聞いてみた。
その藪の中に「おさわさんがあり、よく行く人がありますよ」と。

行ってみると、諏訪神社があった。付近を踏査したがどうも違う。
壕らしきも土塁らしきものもない。その雰囲気さえもない。

諦めて帰り道、ふと思い直して再度捜索してみた。
県道から少し入った場所に見当をつけて、車を止めてみた。

車の中から目を凝らすと案内板が立っているのが見える。
急いで徒歩で近づいてみると、川越市教育委員会の案内板であった。

案内板には
大堀山館址は、約500年前の戦国時代に築かれた城址です。
一辺200mの三重の掘りと土塁で囲まれた方形を呈し、この種類の城址
としては県内最大の規模で良好に保存されている。

すぐ東にには、中世の南関東と北関東を結ぶ鎌倉街道が通じていた。
またすぐ西を通る県道は、扇谷上杉氏の川越城と鉢形城、
さらに山内上杉氏の五十子陣(本庄市)をつなぐ当時のルートと重なる。

つまりこの大堀山館址は戦国時代の関東における主要な二つのルートの
交わる重要な拠点を押さえるという役割をもって築かれたと推定される。
と書かれてあった。

500年前というと、後北条氏が本格的に武州を侵略している最中で
あった。1520年過ぎには埼玉県区域で、かなりの力を得た。

1,545年には川越夜戦の劇的な作戦で後北条氏の勝利となり
埼玉・東京は後北条の天下となったのである。

但し、扇谷上杉氏が太田道灌を謀殺せずにいたら、そう容易く後北条の
天下にはならなかったであろうと私は思う。

ところで私はその案内板の奥に分け入って侵入を試みようとしたが
ブッシュがひどく、とても藪に入り込むのは無理と判断した。

やむなく、藪の中を目を凝らしてみると、壕や土塁らしき雰囲気が
漂っている。僭越ながら私の200箇所ほどの探索の経験がそう思わせた。

冬が来て、ブッシュがなくなれば是非訪れなければならないと思いながら
その場所を後にして、鶴ヶ島の登利平なるところで遅い昼食をとった(3時)。

嗚呼人生感意気 
人生日々是好日




07年09月19日 
さいたま市見沼区 瑠璃山薬王院
1,600年中旬に円空が訪れ作品を残した。この地域では名所である。

舌状台地を降った妙な場所にある。
しかし、1mほど土盛りがして威厳を保っている。
近くの蕎麦屋の親父は城址というが。まず違うだろう。

〇坂東四番 薬師如来瑠璃山薬王院
これが正式な名称だろう。

〇戦没英霊之碑 埼玉県遺族連合会会長 
 永代施餓鬼料 金壱万円也 昭和三十四年三月
昭和34年に建立されているが、その時代まだそういう風な雰囲気であったか。

〇奉 造立六地蔵 為二世安楽也敬白 享保十一丙牛年四月吉日 嶋村
石に刻み込んだ六地蔵である。享保11年といから1,726年である。
嶋村とはこの地域の名称である。現在は見沼区島町である。
安楽也と云う2代目の人の為に建立したと意味だろうか。違うかな。
そうではなく、二世安楽の為と、誰かが敬白しましたよと云う意味か。

〇天保十四○牛 力石四十五貫目 嶋村  三月吉良日
力石を持ち上げてみんとしたがビクトモしないので足で蹴ると若干動く
書かれている45貫の事を考えていると、通りがかりの人吉出身の81歳になる人が
それは掛け値じゃわ、あるいは持ち上げた人が、いばって書いたとよ、と。
私は、天保の時代の45貫は今の重量の45貫とは異なると思う。
調べてみたら、やっぱり熊本県人吉市出身の方の云われるのが正しいようだ。
余談だが、その方はここへお嫁に来られたのでのでなく
子息が此処にお住まいの関係で来られているようだ。
小生は「子供の頃は1表(16貫)担げれば一人前の大人と言われ担ぎました」と
云って話をさせて戴いた。

〇奉 造立庚申供養 天明三葵夘年正月吉日
 南部領 嶋村 講中世話人 治左二間 文右二間 
天明の時代というから、1,700年代の終わりでフランス革命の時代である。
天明は7〜8年続いた。その最後の年がフランス革命だ。
洋の東西を問わず、人はルネサンス以来の人間性に目覚める時代となった。
南部とは現在の岩手県だが、天明の頃その南部藩の飛び地であったのである。
庚申講はなかなか面白いが、ここでは省略する。
治左二間 文右二間これはなかなか意味深である。
これを解明すれば立派な論文が書けるだろう。

神社に放置されている石に刻まれている文字を探ってみると実に楽しい。
生きた郷土史である。本など買って読まなくても、この方がいい。




07年09年21日 
埼玉県立嵐山史跡の博物館講堂 西上野攻防の城 箕輪城
関東で最も巨大な規模で、しかも当時の状況が解る城である。
嵐山の杉山城を巨大にしたようであろうか。
国立の城址として指定されている。

場所は群馬県高崎市と榛名山の中間地点である。
1,500年ごろに長野氏により築城されたという。平山城である。

長野氏は管領山内上杉氏の補佐役であったという。
1,500年頃の川越夜戦で古河公方・扇谷上杉・山内上杉連合は
後北条に、負けてほとんど滅亡した。

山内上杉氏はその後数年上野にいたが、越後の上杉謙信を頼った。
その後は、上野や北武蔵は、後北条、上杉謙信、武田信玄による
バトルが続いた。

最も長く入城したのは武田で16年間であったという。真田も入城した。
後北条は8年ほどであろう。

最後に関東を支配したのは、後北条であったが
1,590年(天正18年)、秀吉により小田原が落城し、秀吉の天下に。
勿論その後、徳川の伊井直正が最後に入城したが、伊井は彦根に移り廃城。

この城の特長は壕が、幅30m深さ20mであった。これは戦国時代最大だ。

かつてより訪問の予定であった。まだ行ってない。後日、訪れる予定。




07年09月22日 
さいたま市見沼区 秋葉権現
中世・岩付城の支城時代に始まる伊達城址に近い場所にある小さな社である。
現在、その直ぐ隣は、当地の集会所である。

〇権現
社に捨てられているようにして、半分は土中に埋まりかかっている
「権現」と書かれた石碑があった。つまり江戸時代の石碑である。明治ではない。

埋まりかかっている石碑は、実はどこの神社にでもよくある悲しい風景だ。
なぜが誰も注目しない、或いは無視をする。お蔭様で私の出番がある(笑い)。

〇大門道顕主○○ 秋葉
「権現」の傍に、またしても割れた石碑が土に埋もれかかっている。
そこには大きな字体で「秋葉」と書かれている。

そう、この神社の名称は正式には「秋葉権現」で、明治以降の無理な呼称では
「秋葉神社」となる。大門道については、また後で。

ここまで丁寧に書いてくると少々疲れてくるが、次へ行こう。

〇奉造立庚申供養構中江内安全祈所
中江内とは何を指すのか解らない。いずれにしても庚申講の為の石碑だ。
しかし、安全とは又異な文言である。何だろう。


〇領主河本子立系 構中拾四人
河本氏が有力者であったが、子立系とは何だろう。読解間違いか。
講の14名がお金を出して建立したのだろうか。

〇享保十二年 丁 末 十月 吉○日
享保12年は1,727年であるが、実は丁末はまだ不勉強である。

それにしても、1727年といえば、見沼が沼から田圃になった年である。
それと関係があるのだろうか。見沼の干拓は庶民にとって歓迎であったか?

〇武州中足立郡南部領大和田村 村中男女四百五拾人
同じその場所で、武州外と書かれている庚申塔もある。これはどういうことか。
武州のど真ん中で、内とか外とは何だろう。

南部領大和田村については、この時代(1,700年代の初め)は現在の見沼区
のかなりの部分は南部(岩手県)の飛び地であっただけのことで深い意味はない。

それにしても大和田村には450人の人口があったのだろうか。
450/5=90である。1,700年の初めに100軒近くも人家があったのであろうか。

現在は恐らく、5万人、1万5千軒はあるだろう。但し、その周囲を全て含むが。
300年後の今は100倍の人口になっている。




07年09月23日 
さいたま市見沼区 続・秋葉神社
昨日に引き続き、踏査してみた。

〇神社の広さは、歩測で15歩×25歩あり、約10m×15mほどの小いささでである。
→勿論、元からでなく、何かの理由である。

〇地元の方に聞くと、秋葉神社とは聞いたことはなく、「成田講」と呼んでいるとのこと。
→この地の人々は、盛んに成田山新勝寺へお参りに行かれたのであろう。

〇小生は寺があったと思いますがと聞くと、寺のあった場所は、神社の北東を指された。
→行ってみると学校の体育館があった。


〇さらに詳しい事は第二産業道路を渡った左側の門のある「〇○○えき」の家で
 聞けば解ると言われる。
→えきとは駅ですかと聞くとそうではないと言う風であった。
今にして思えば役、つまり戊辰戦争(戊辰の戦役)との関係があるのかとも思う。

何故なら廃寺になったのは、その頃であるからだ。
勿論原因は、薩長明治新政府の大馬鹿な廃仏毀釈令が主であるが。

廃仏毀釈令がなければ、今も真福寺と秋葉権権は同一地内に存在していた。
考えてみれば、廃仏毀釈に真面目に取り組んだ大和田村の
人々が透けて見えて面白い。

江戸に近い武蔵の人々の新政府を見る恐怖が。
新政府とは、西国の薩摩や長州である。私は、武蔵の庶民にとって、西国は
あたかも律令時代の蝦夷に思えたのだろうか。いやそうではないのだろうか。
などと想像をするのです。

〇その「えき」の門のある家に行くと、古文書のある嶋村家と標柱か立っている。
 当家の方に聞くと古文書は市に寄付したと言われる。
→市立博物館か県立古文書館にあるのだろう。

〇当主は、門は明治時代のものだといわれる。当家は庄屋であったとも言われる。
→例の「えき」を聞き忘れたのが残念。当主は背の低い方で大変好人物であった。

→余談であるが、嶋村家のご先祖様は島町からいらしたのですかと聞くと
不明と言われる。先日、島町の医王院で、江戸時代の地名が嶋村であったので。


ところで、さいたま市教育委員会 生涯学習部文化財保護課の案内板があった。
それを要約すると以下である。

〇当地には明治時代初期まで真福寺があり、現在も大和田の旧家の墓地が存在する。
〇当地は、交通の要所であった。それは庚申塔に書かれている文字から推察できる。
 幕末に近い天保時代(1840年ごろ)の話しであるが
 北の方面の原市はここから一里(約4km)で、東の岩槻はここから一里半、さらに
 西の方面の大宮は八丁(約1100m)である。1100mって氷川の森か?)

〇幕末では、原市と岩付は商業の盛んな土地で大和田の人々は買い物に出掛けた。
〇大和田村も庚申信仰の盛んな土地であった。
→現代の我々は思う。
原市や岩槻はそれほど商業の盛んな処でもない。大宮が大変盛んな地となったのは
鉄道の影響であると今更に思う。天保時代の人々は墓の下で苦笑しているであろう。




07年09月27日 
川越市立博物館企画展 後北条氏と川越城
企画展室入り口の女性の方に親切に種々教いて戴いて有難かった。

後北条氏三代目の北条氏康には子供が十人以上いるように書かれていた。
その7人目の子供のところに上杉影虎と書かれていたので、くだんの女性に
お聞きしたら、不明といわれる。

暫くすると、その女性は他の女性を連れて来られて、説明戴いた。

それによると、北条氏は7人目の子供を上杉謙信に人質にして差し出していたが
その人質に上杉謙信が自分と同じ姓名を与えたのが、理由であると云われる。

この企画展のポイントは自分にとっては
〇後北条氏は1,490年ごろ武州にやってきた。
〇後北条が武州を押さえることが出来たのは1,520年の中頃であること。
〇後北条氏が完全に武州を制圧したのは1540年代であること。

私は、くだんの女性にお聞きした。
なぜか、たかだか30年で後北条は武州を獲る事が出来たのでしょうかと。

彼女が言うには、古河公方、山内上杉、扇谷上杉のお互いの足の引っ張りあいで
結局だれもが、武州を統一できなかった。

それでも、太田道灌の存在がなんとか、武州をまとめているのであった。
ところが太田道灌が謀殺されて、一機に武州は混乱しそこへ後北条が入り込んだと。

なるほど、それもそうだろう。しかし、私はなぜ後北条が短期間に武州を押さえたかが
やはり不思議である。

私は彼女に云った。
古河公方や両上杉氏は地元の人々を粗暴に扱っていて人気がなかたのでしょう。
ところが、後北条氏はその反対で、武州の庶民を撫育して心を掴んだのでしょうと。

実は、これは北条早雲の遣り方なのである。
彼女には言わなかったが。

その他にも種々の事を対話させて戴きあり難かった。
大変勉強されておられて感動した。

私は古文書がサッパリ読めない(県立古文書館で少しならったが駄目)。
それでも太田道灌の書だけは、おーこれが道灌の筆がなどど思った。

私は研究者ではないので
早雲、氏綱、氏康、氏政、氏直の肖像をボンヤリと唯みているだけであった。

よく見ると、氏康だけが生き生きとして見える。
何かを遣らねばという気概が顔に見えるではないか。(先日他界した実兄を想起した)

早雲の面は創始者らしく、ふてぶてしく恐ろしいまでの面は、個人的には好ましい。
氏綱は何が何だか解らずに親の後を必死で付いて回るだけのボンボン面である。
氏政、氏直は金持ちの息子によくある、権力欲だけの面である。

などと思いながら、自動車で帰路大宮方面に向かった。
行田が奈良で、川越・岩付は京都である。特に川越は埼玉の自慢である。鰻も旨かった。




07年09月30日 
埼玉県立歴史と民族の博物館 太平記絵巻
大島紬の伝統工芸展の実演を見学に出かけたが、急に気が変わり
太平記絵巻を見学した。

今まさに、新田義貞が足利尊氏の帷幕に矢を射掛けて、尊氏と直接対決せんと
おびき寄せている。尊氏は、おーやろうじゃないかと思っていると、臣下が
項羽の例を持ち出して、尊氏を引きとめている場面が見えるように
巻物が開けてあった。

画そのものは、現代の我々から見れば、はっきり云ってそれほどリアルな代物ではない。
我々が、現代の日本の特異の漫画の劇画を知っているからだろうが。

それは別にして
太平記の話しは鎌倉から南北朝の話しで、書かれたのはその後だろう。
太平記絵巻が描かれたのは、江戸時代初期である。

日本に、この博物館にしかないという希少価値はある。
これをきかっけに私はもっと太平記を知りたい。

当博物館のパンフレットによると、
太平記は全40巻であるが、それを12巻の絵巻物にした。
そのうち、5巻を当博物館が所有している。勿論すべて本物である。

残りの巻きは
ニューヨークと国立歴史民族博物館にある。
模倣品はボストン美術館と東京国立博物館にあると誇らしげに書いてある。




07年10月04日 
さいたま市桜区 榎本出雲屋敷跡
新編武蔵風土記稿(1804年〜1829年編纂)には榎本出雲守道琳
という人物が掲載されているそうである。1,400年半ばの人である。

埼玉大学の正門の40mほど西(荒川方面へ)の並びにあったそうである。
私は踏査に出かけたが、商店・大手外食店・住宅が立ち並び、全く不明。

ロケーションは荒川から300mほど東側であろうか。
但し、江戸時代に江戸を水害から守る為に、荒川は西遷したので意味がない。
(ちなみに、同じ理由で利根川は東遷した)

いずれにしても、起伏のない、ただの平地であった。

ものの本によると、これとは別に
埼玉大学の正門を入って直ぐに遺跡があるそうである。
ふと埼玉大学生を見ながら、司馬のいう配電盤説を思いだしたが、空しい。

榎本出雲屋敷または本村遺跡と云うそうである。
その遺跡らしき前にはバス停があり、本村という名称が書かれあった。

1,400年半ばといえば、世は、天災で庶民は食うや食わずの苦難の時代
であった。武蔵では古河公方、山内上杉、扇谷上杉の三者が争奪戦を
繰り返していた。

その中でも扇谷上杉の家宰であった太田道信・道灌父子が出色である。
そのころ、太田父子は江戸城や川越城などを縄張りした時代である。
岩付城も成田氏により築城された。

これらの城は不況の世間を救うための公共事業であったという大学教授の
研究もある。勿論、前述三者の、つばぜり合いが主な原因であるが。

などと思いながら、直ぐ近くのMACで珈琲を飲みながら西日に射されていた。
仕事もしないで、暢気にこんなことを考えている自分を幸せ者じゃと思いつ。




07年10月05日 
さいたま市見沼区 某神社月待講碑
以前から気になっていた場所を、本日通リ過ぎた。慌てて戻ってみたら
叢の中に次の石碑があった。

〇正徳元 辛夘 天 施主
 正徳とは1711年で、かのと・う、の年である。、辛夘とは丙午と同類。
 正徳時代の石碑は珍しい。
 天は実際は、夭と書いてあったので、夭折した人のことであろう。

〇奉造立御月待為供○二世安楽
 月待講碑は、庚申信仰の庚申講碑の以前の形らしい。
 庚申石碑は寛政や文化文政期のものが多いが、それよりも100年古い。
 つまり1700年ごろには庚申信仰は盛んではなく、後年であったのだろう。

〇十二月吉日 ○○○右つ
 文字がハッキリせず、不祥であるが、右つ、とはその石碑の右側に死骸
 を埋めたという意味であろうか。恐らく、最愛の幼少児であったのだろう。

その石碑のある極狭い神社らしき境内には比較的大きな祠が鎮座していた。
神社の入り口に洗濯物を干しておられる婦人がおられたので聞いてみた。

なんと言う神社ですかと。解りませんがここへ越してきたころは拝んでました
と云われる。更に聞いてみると、この神社は私有地で個人の神社であると
云われる。

私はどうもこの神社は江戸時代には庚申講が盛んな神社であった
と推定する。




07年10月09日 
さいたま市緑区 鶴巻遺跡
浦和レッズのサッカーの聖地さいたまスタジアムの南西の地で堀が発見されている。

現在は国道と県道の交差点で全く面影がない。
それでも、私は広い交差点の周りを周ってそれらしき場所を考えたが全く不明。

実はこの県道は江戸時代の御成り街道である。
徳川将軍が、日光の権現(家康)にお参りに行くための街道であった。

しかし元を正せば、この道は鎌倉街道であった。
その鎌倉街道についてウンチクを考えてみた。

埼玉県の入間川で上道(かみつみち)と下道(しもつみち)に分かれる。
前者は嵐山町から上野(上野・群馬)経由で信濃へ。
後者は熊谷市経由で足利から小山へ。

中道(なかつみち)は赤羽から川口市、岩槻から栗橋・古河経由で奥州へ。
下道(しもつみち)は東京湾岸経由で千葉県から茨城へ。

勿論これはメインの道路で、枝道が無数にあったのだろう。

ところで鶴巻遺跡は、中道で川口から岩槻に至る鎌倉街道の浦和の東端。
現在の県道である鎌倉街道に面していた。

以上から推察して
発見された堀は、鎌倉時代から戦国時代末期までの遺跡であろう。
江戸時代でないことは確かだ。

私は、1,400年代の岩付城の支城とまではいかないまでも、関係があった
と思いたい。遺跡の痕跡を見る事はできなかった。

しかし、小生にとって、本日も好日であった。
(私は日々好日である事を願っている)




07年10月10日 
茨城県五霞町 山王山砦
当町の東昌寺に出向いた。もともと関宿城に敵対する為の砦であり
1,574年(天正2年)北条氏照がここから関宿城を攻めたということになっている。

私は寺に残る壕や土塁を見て周った。特に北側には顕著に残っていた。

たまたま居られた当寺住職のお話を聞かせて戴いた。
当寺は関宿城の出城であった。現在は関宿城と当寺は中川で分断されているが
戦乱のころは、川は無かった。

家康が少しここへ立ち寄って、当時の支配地を安堵してくれた。
豊臣秀吉が宿泊したこともあった。

江戸時代になり、家康と当寺の住職が喧嘩して以来、当寺の下寺(末寺)は
バラバラになった。そして寺の境内は10分の1になった。

それでも寺は、通常見る寺では見たことも無いほどの広大さである。
しかも巨大な山門が残されている。住職によると元禄時代の建造である。

しかし
住職は北条氏のことについては全く触れられなかった。
住職は43代目であることから鎌倉時代には存在したであろうと思っていた。

住職は、寺は戦国時代の戦乱の後に、砦あとに建てられたのだと云われる。
流布されている事と住職の説明される内容はかなり異なるが、教育委員会の
調査が待たれる。




07年10月11日 
さいたま市立博物館 大宮における鉄道の歴史
1853年(嘉永6年)ペリー来航。
翌1854年ペリーは小型蒸気機関車も他のものと共に贈り物として引き渡した。

ロシア艦隊もアルコール燃料の蒸気機関車模型を持参幕府に公開した。
1855年安政2年佐賀藩の精錬方が日本で始めて蒸気機関車の雛形を完成。

ボイラーなどの主要部分は銅でつくり、シャーシー、
車輪などは真鍮で作られている。ギアをいくつも組み合わせて
小さな力で車輪が動くようにするなど工夫がみられる。

展示には書かれていなかったが、雛形とは云っても
勿論、動いたはずである。実用には無理であったが。

私はその当時の技術の高さに驚いた。
日本には既に西洋の科学や技術は浸透していたのだろう。

ペリーを始め西洋人は、さぞ日本人は驚くだろうと、たかを括っていたはずだ。
中華思想の中で儒教を重視しなかった日本の勝利であったのだろう。




07年10月14日 
埼玉県県民活動センター 「日本永代蔵」に学ぶ
井原西鶴は1642年(寛永19年)に大坂で生まれて1693年(元禄6年)52歳没。
松尾芭蕉は1644年(寛永21年)に三重で生まれて1694年(元禄7年)50歳没

井原は俳諧(俳句の連歌様のもの))をたしなみ、芭蕉は云うまでも無い。

二人ともその文章の中で李白の有名な詩を引用している。
西鶴の引用する、その部分を自分なりに訳してみたい。

〇天地は万物の逆旅、光陰は百代の過客、浮世は夢幻

自分の訳
現在我々の住むこの世の森羅万象は変化している。
自分が変化しているのではない。
連綿と続く時代の中で自分は、その一部を過ごし、
過ごす自分の人生はまるで、夢をみているように儚いものだ。

文学者の訳
天地は万物を宿す宿屋で、歳月はちょっとそこに泊まるだけの
永遠の旅人のようなもの。いわば人生は夢か幻だ。

つまり、空間と時間を云っているのであった。




07年10月17日 
さいたま市見沼区 不食供養塔

不食供養塔へ行く途中に下記の石碑があった。
〇念仏供養塔 享保廿二 十一月吉祥日 新堤村 〇みち〇

新堤村では1736年11月に念仏供養をした。
「みち」と書いてありその前後は石が書けていた。

この供養塔の位置関係であるが。
恐らく、鎌倉街道中道(なかつみち)(江戸時代の日光御成街道)と
大宮宿と岩付を結ぶ街道(かつての16号の古道)へ抜ける脇街道の
交差する場所にあったものを現在の位置に移したと間違いなく思う。

それはいいとして
「みち」とはこの道を行けば上述の道に抜けられますよと言う
案内板をも兼ねていたのだろう。

念仏供養塔については今回は触れない。

その「みち」を700mほどゆくと古道大宮・岩槻線に突き当たった。
その角に奇妙な石碑が建てられていた。

〇奉造立不食供養 元禄十六二月十五日 新堤村施主長島○○衛 原丈 於長○○々
不食とは何か不明である。施主は長島だが、「原丈 於長○○々」の原丈は解らない。
元禄16年と言えば1703年で赤穂浪士討ち入りの翌年である。

この塔の後ろに案内板があり下記の文言が書かれたあった。元禄時代の
不食供養と言う民間信仰は毎月、特定日に何も食べず、3年3か月念仏を唱え修行する。

この塔は村の長島八郎右衛門が信仰成就して立てた。とあった。
不食供養とは何かは不明であるとも書かれてあった。

不食供養をネットでみると、来世の極楽往生を目的としたのであろうと云う。
小生が思うに、庶民が来世の極楽往生を願うのは中世からのトラウマであり、この後は
奇妙な庚申信仰が流行するのではないだろうか。