小さな歴史旅H



07年10月18日 
埼玉県春日部市 春日部氏館址

私は八幡公園の稲荷神社へ行ってみた。

案内板には次のことが書いてあった。
中世の時代になって、武士団が結成されこの地に住していた領主は、武蔵の国
荏原郡に住した本姓紀氏の一派であり、在地名春日部を名乗ったと言われる
豪族です。
当社の所在するこの地は春日部氏の屋敷跡であり春日部稲荷大明神は春日部氏
の屋敷神として京都から勧受した。                  春日部稲荷神社

現在、春日部と呼称している名称が元の名であり、粕壁は後世の名である。
よく逆であると思い勝ちである。

春日部氏は少なくとも鎌倉時代に、この地に住し始めたのは間違いなかろう。
詳しいことは、ここを押して参考にして下さい

広い八幡公園の中に、八幡神社や稲荷神社があり、その裏には富士塚があり
江戸時代に、近辺の人々が富士請に集まって賑わったことであろう。
私もその富士塚に登って江戸の人々の心に馳せてみた。素朴の一言である。

神社の裏手に周り観察してみると、起伏が激しく、かつては壕や土塁があったであろう
ことが容易に推察された。

いい忘れたが、この地は武蔵と上総の境界地、つまり埼玉県と千葉県の境であった。
つねに、攻防の戦いが繰り返される要衝の場所であったはずである。

本日も好日であった。




07年10月19日 
埼玉県立嵐山史跡の博物館 太田金山城跡(後北条)
群馬県太田市の難攻不落城、金山城の話しを、前・太田市教育委員会の宮田氏より。
ちなみに宮田氏は本年4月より税務署に転勤されたが当城址の発掘に尽力された人。

本日の講演を箇条書きにする。
〇新田の系譜である岩松家純が1469年(文明元年)に築城を始めた。
 その後、家臣の横瀬氏が乗っ取っとり、由良氏と改姓し、全盛時代になった。

〇位置関係だが、金山城は北関東を見渡す独立峰で、しかも利根川を渡るのに都合よい
 場所でもある。

〇金山城は周囲を武田、上杉、古河公方などに包囲されたが落城しなかったが
 1584年(天正13年)後北条により開城し、後北条側の一員として秀吉軍と闘った。

〇独立峰の360ヘクタールある内、最終的に300ヘクタールを占める巨大な城である。
 言い変えると、城の面積は3km×2kmほどであるという巨大さ。

〇石垣が多いのが特徴。後北条の影響であろうと思われる。
 用いることが出来る石と、それを加工して積み上げる技術者が当然必要だが
 斜めに反った石垣が丈夫で、それがいいのだか、当地で採石できる石では
 それをすることが出来なかったので、真っ直ぐ垂直にしか石を積みことができず
 石垣が絶えず崩壊し、大変な苦労があったと考えられる。当時の不順天候も影響した。

〇よって、演者は「金山城は人には強いが自然に弱かった」と評された。

〇本丸などを取り巻く場所に、なんと10m×20mほどの池が二箇所ある。
 その池は標高200mほどである。この池の存在が水の供給に困らず難攻不落の理由の
 大きな原因であった。

〇この池は、万葉時代のうたにも歌われており、山頂にある神秘な池として崇められていた。
 池は本丸である実城(みじょう)の東西に、日の池・月の池の二箇所ある。
 とくに日の池では祭祀をおこない、軍事的に臣下のもの達の心をまとめるのに利用した。

〇石垣であるが、後北条氏が八王子城の技術を持ち込んだのであろう。

〇なんと云っても、後北条氏にとって北関東を制するには、ここ金山城は重要であった。

私はかつてここへ二度ばかり来たが殆ど見ていない、来年にはゆっくりと踏査したい。
私はこの文章を書くにあたって、殆どレジメなど書類を見ないで記憶で書くようにしている。
その方が自分に対し緊張感を強いるし、自分の言葉で書ける。

本日も好日であった。




07年10月25日 
埼玉県行田市 行田市博物館 忍城主成田氏
5館連続展示・関東の戦国を知る・スタンプラリーの為に出かけた。
1館目は川越博物館であった。2館目・行田は残念ながら単なる常設展示であった。

そうならそうと断ればいいのに。ただ、その為の講演会が催されるところが違うが。


そのことは別として
すでにかつて、このサイトで記載しているので今回は、異なった角度で展示見学を試みた。

パンフレットによると
武蔵国成田郷を拠点とした武蔵武士成田氏は、縁戚関係にあった安保(あぼ)氏の一族
がその名跡を引き継ぎ、北武蔵に勢力を広げた。

以上の文言だけでは正確なことは解らない。
武蔵国成田郷に勢力を張っていた成田氏がいた。
その地盤と看板を親戚の安保(あぼ)氏の一族が、跡をついだということであろうか。

あるいは、安保(あぼ)氏の一族が成田郷に勢力を張ることが出来たということだろうか。
私はかつて、現在の熊谷市のはずれにある成田氏の館跡を踏査に行ったことがある。
それを考えると成田氏を称するころは、まだ行田には居なかったことになるのは確かだ。

いわゆる戦国時代とは応仁の乱の終わり(1477年)からを言うそうである。
丁度そのころ成田氏(元・安保氏)が忍城を築いたという。

その後、武蔵地域の他の勢力と同じく、ご多分に漏れず、古河公方・上杉氏・後北条へ
追従や離反を繰り返し、日々苦しい生き延びを図っていたのであろう。

その時代が70年ほども続いたのであろうか。誠に辛い時代であった。
最終的に後北条の傘下に入らざるを得なかったが、それも結局メジャーの秀吉に駆逐された。

ただ云えることは、三成に落城させられなかったことである。小田原城に居た成田氏の
命令で開城せざるを得なかったのは残念至極である。

先日、後北条氏についての講演会の冒頭に、講師が「皆さんにとって後北条は
的ですか味方ですか」と質問して度肝を脱がされた。

これを読んだ方は、どう思われるでしょうか。
ちなみに小生は敵である方に挙手した。


07年10月28日 
埼玉県県民活動センター 西鶴・日本永代蔵に学ぶV回目
明治維新では武士階級の処理をどうするか、消滅する武士階級の不満にどう対処するかは
非情に大きな社会問題であったし、西南戦争もそれが原因であったと云える。

戦闘要員として武士は1615年の大坂夏の陣で完全に終了していた。

その後、幕府は「浪人狩り」をしたという。あぶれ浪人が徒党を組んで宿泊する宿を襲って
あぶれ浪人を捕まえて、無理やり職業に着かせようとしたのであろう。

考えてみると、浪人狩りと西南戦争はどこか似ている。政府の智恵のある者は
武士を北海道の開拓団員にしようとした。実際そうなった武士もいた。

西鶴は江戸時代1642年生まれの人である。西鶴の中年ごろから経済バブルになった。

その西鶴の中年ごろである元禄時代からは日本で最初の貨幣経済バブル時代である。
西鶴はその世相を、日本永代蔵に書き込んだ。

〇書物好きの権六は、神田の筋違橋で太平記読の勧進読み。
〇好色の新左衛門は、十面新吉と呼ばれて、田町に茶屋して、日頃きいたる口三味線、
 太鼓持ちとなれり。
〇細工好きの半内は、芝の神明の前にて、渋紙敷きての小間物売、今に編笠をかし。
〇音曲好きの甚八は、又九郎が芝居に入りて、やうやう口の世で抱えられ、朝から晩まで
 尤も役に(その他大勢役でモットモ・モットモと云うだけの役)つかはれ身をそれになしける。
〇武士顔をやめざる宇左衛門は、心の如く乗馬に十文字もたせ、先知五百石の時にあひぬ。
 (以前の知行地五百石で召抱えられ返り咲いた)
〇また、後生願ひの番左衛門は、いつしか墨染めの袖となり、おのが姿も大仏のあたりにて
 我と心をせめ念仏、申しても申しても口惜しき身の行く末、皆知行も取り者の、死なれぬ命
 なれば、かくはなり下がりける。(かつては知行地をとったのに死ぬに死なれず落ちぶれた)

西鶴は最後に、少し器用なものを、もっているからと云って、それをやっても所詮は駄目になる。
やはり、その人の本来の持っているものでなければいけないよ、と諭しているのである。

現代の社会に照らしてみると、企業はバブル景気のとき種々の異業種に手をだしたが
結局、本業に専念していた方が最終的には、うまくいくものであった。(小生も納得する)

西鶴論は、現代にも生きていると云える。




07年10月30日 
さいたま市見沼区 砂陣屋
徳川が関東に入部したときに、家臣の西尾吉次という者を安立郡に5000石を与えたと
新編武蔵風土記稿(1804年〜1829年編纂)によると、書いてあるそうである。

場所は東大宮駅から程近い場所で、ドイトという老舗のホームセンターから道を挟んで
50mほどであろう。

私は行ってみた。それらしき遺構は全くなく住宅や駐車場があった。
直ぐ北隣の公園の中に稲荷神社がある。
さらに南100mへほど行くと有名な砂の大けや木がある。

西尾という名前は聞いたことがないが、家康が三河から、つれて来たのであろう。
それにしても5000石とは破格である。それほどの人物であったのであろうか。
かの伊奈氏でも同じく5000石であるから。

もっとも、この砂陣屋は西尾氏の出先であったらしい。
当時、大きな市の立つ原市が本拠であってその出先である。




07年11月01日 
埼玉県立歴史と民族の博物館 特別展・お伊勢さんと武蔵
神明社は、埼玉県内74社あり、 伊勢関係では105社あるそうだ。
伊勢関係とは意味が不明である。

それは兎も角、特に見るべきものは無かったが、最後の一枚のパネルが参考になった。

それによると
江戸時代の庶民は、お伊勢参りが信念であったが、多額な費用を要するための費用を
積み立てて交代で参宮(代参)をする伊勢講が組織された。
(こんぴらふねふね、という歌の中に、だいさんぐう(代参宮)が出てくるが、これで解った)

この参宮には村々に回ってくる御師(おんし又はおし?)の存在が大きかった。
檀家から初穂料をとる代わりにお祓い大麻や伊勢土産などを配って結びつきを強め
参宮の勧誘を行った。

講員は伊勢では御師の宿に泊まり、両宮の参拝や太々神楽を奉納、撒き銭などを行った。
一方御師からは今まで経験したことがない接待を受け夢心地で帰郷した代参を終えた
講員の土産話は、未だ参宮を果たしていない者の期待を膨らませた。
と書かれてあった。

展示で不思議に思ったのは
「信念であった」とは一体なぜその信念が発生したのかが全く言及されていない。
例えば、単に御師がその信念を植えつけた効果だけであろうか。

また
「檀家から」とあるが、例えば今では檀家と言えば境内に墓地を持つそのお寺さんの
サポーターである。境内外の墓地はサポーターではないだろう。

伊勢神宮の檀家とは、それと同じであろうか。そうだとすれば随分と異なる感じがする
説明がない。

「初穂料をとる」とあるが、檀家からとるべき「初穂料」を取らないで、逆に
お祓い大麻棒状の串に麻や紙垂を付けたもの)などを無料提供して過剰営業したが
そのシステムが我々素人には、よく解らない。

それよりも
なぜ御師は武蔵をターゲットにしたのかが記載されてない。
残念ながら、まことに不備なと特別展である。

更に根本的に、江戸幕府はなぜこれを黙認したのであろうか。吉良はこともあろうに
加担したのであろうか。本願寺の経験が薄れているのか、何も説明もない。

御師は参宮者一人当たり今の金で100万円から300万円を巻き上げたと言われている。
江戸幕府は上前を刎ねたと云うなら解るが、全く触れていない。研究者の話しもない。
友の会とやらでは、当然言及するのだろう。




07年11月02日 
さいたま市中央区 真鳥山城址
JR埼京線から数百mほどであろうか、人家の密集する中に高台がある。
いってみると町の集会所である。そこには墓があるが寺の建物はない。
私は暫く、その台地から東西南北を眺めて、思いを馳せてみた。

案内板には
畠山重忠の家臣で真鳥日向の守の城があったと書かれていた。
鎌倉時代この高台に、大きな城があったと云うが、それほどの土地がここにはない。
せいぜい100m×100mであるが、なぜだろうと思う。

ここには東京から続く古い街道が北に向かって走っている。
古い街道は鎌倉街道の脇道だろう。

鎌倉街道の本道である上道(かみつみち)は川越街道より西の丘陵側で、
中道(なかつみち)は現在の14号線の西側である江戸時代の日光御成街道である。

それと一にして現在の17号線の西側にある、鎌倉街道の脇道が本日の道である。
この道は現在の鴻巣市の石戸に繋がっていたはずで、その先に畠山重忠の本拠が
あったはずである。

私は、その裏街道をゆっくりと北に向かった。
途中には一山神社や氷川神社などがあったが、やがて細い道となってしまい諦めた。




07年11月04日 
埼玉県立歴史と民族の博物館 講座・縄文から弥生へ
縄文時代がいつ弥生時代になったかが本日の趣旨であった。

私の考えでは
縄文時代は、人々は野山を駆け巡って食糧を得るために鳥獣を狩って生活をしていた。
社会を構成していなかった。

弥生時代とは、稲作が行われて、稲作と云う食糧の富が計画的に蓄積されて
権力社会が構成されていた。

更に
弥生時代とは弥生式土器が使われた時代を云う
などと思っていた。

本日の講演はズバリ
「水田耕作を始めた時期が弥生時代の始まり」であった。一瞬驚きと感動を覚えた。
この弥生時代の土器を弥生式土器と言う。だから弥生式土器に縄文もある。

当然、稲作は全国一律に始まった訳ではない。西から始まり東に移ったのだろう。
しかし、そう簡単に解釈することが全て正しいわけでなく、稲作や雑穀作や漁労が混在
して地域をを構成していた。

しかし、水田で稲作をすることに一線を引いて決めるならば、その時代の水田跡を探せば
いいことになる。この考えは画期的である。素晴らしい。(水田での耕作は社会を構成する)

(だから縄文時代に稲作が行われていても何の不思議もない)

一般に水田耕作は紀元前400年、700年と言われるし、炭素(C)での科学的処理方法で
ある程度解明されている。

関西では比較的弥生時代の発掘が行われているが、関東では行われていない。
我々の住む関東では台地を調べて発掘している。湿地に水田があるはずがないと言う
考えである。(私もこの考えに賛成であるが)

講師は、現在の水田の下に弥生時代の水田があるはずだと云われる。
特に加須低地にはあるはずだとも云われる。

かつての高速道路建設は盛り土をした。しかし最近の高速道路の建設は柱を立てて
その上に高速道を造るので、柱の部分は深く掘ることになり、その時に弥生の水田が
発見されるはずだと言われる。




07年11月06日 
東京都葛飾区 葛飾区郷土と天文の博物館にて、葛西城
私は友人を訪ねることもあり、関東の戦国を知るシリーズで上記博物館を訪れた。
最初に言っておかねばならない事がある。それは博物館の職員の方に大変親切に
して戴けたことである。(警備員の方も含めて)。

はっきり云って下町の人情に感動した。
小生は、ド田舎者であるが、東京の下町の人々の方が親切であることを知った。

パンフレットによると
@考古学的調査研究をした城として日本で有数の城址である。
A15世紀に葛西地区(葛飾・江戸川・墨田・江東区域)の要の城として築城された。
B古河公方・足利義氏が在城した。
C海と内陸を結ぶ重要な城であった。

またパネルによると
城館は城と館に分類できるが、城とは軍事施設であり、館は居住施設。
鎌倉時代の城館は、西国では、条里区画であり、東国では丘陵斜面や谷。

南北朝から室町時代に城は
戦時のための詰城(生き残りの為の最後の城)のための城である。
これに館機能を持たせたのが山城である。

@西国では
1336年 足利尊氏が室町に幕府を開く。
      〇諸機関を管領が統括した。管領は足利尊氏の一族の細川・斯波・畠山の
       三家が交代で任についた。東国の統治には鎌倉府、九州には九州探題。

1,441年 嘉吉の乱
      〇播磨の守護・赤松満祐が室町6代将軍・足利義教を殺害。

1,467年 応仁の乱
      〇細川勝元と山名宗全が対立


A東国では鎌倉府は足利尊氏の次男・基氏が鎌倉公方に任き代々受け継がれた。
1416年 上杉禅宗の乱
      〇鎌倉公方4代目の持氏とその補佐役の関東管領上杉氏憲(上杉禅宗)が対立

1438年 永享の乱
      〇持氏自刃


B室町VS鎌倉+上杉の対立。持氏の子・成氏が鎌倉公方に就任
1454年 享徳の大乱
      成氏は上杉憲実を殺害し、古河へ走り、古河公方となる。

このころに葛西城は大石・石見守により築城された。
青戸の中川沿いである。現在では遺構は殆ど無い。

このころ武蔵では
岩付城が成田氏により縄張りされ、川越城が太田道信に、江戸城が太田道灌に
縄張りされた。ほぼ同時代であった。

以下小生の雑感
一般に江戸城ほどには葛西城について知られていない。当時その重要性は
江戸城以上に重要であったことを忘れてはならない。

1,400年中旬は全国的に大飢饉が続いていた。築城は今で云う公共投資の
意味のあったという学者の論文があるが、私は賛成である。雇用の創出である。

武蔵の平野での縄張りの特長は、水城である。
北から忍城、岩付城、葛西城、江戸城。

実は小生は本日初めて葛西城が水城である
ことを知った。秀吉によっても落城しなかったのは、忍城だけであった。

本日も好日であった。




07年11月08日 
さいたま市見沼区砂町 砂の大けやき
街中にコジンマリとした広場がある。よく見ると神社の様である。
そこに大木とお堂がある。この地区(砂)では著名な場所である。

一角に案内板があり、それによると
けやきは、武蔵野の防風林を代表する。、このけやきは高さ30m根回り19m。
樹齢600年と推定。馬頭観音堂の西南に位置(約10mだが)する。と書かれている。

その「けやき」には〆縄がされてある。
木の下に力石もある。木の直ぐ側南側に石仏がある。

その石仏は次のようである。
武州足立郡と書かれてあり、石仏の最上部に、 左に太陽と雲のレリーフ
右に月と雲のレリーフ。まてよ、これって明治維新の時の新政府側の旗と同じだ。

さざれ石状態で、ほとんど読めないが「岩鳥豆」と無理をすると読めるかもしれない。
6本の手で合掌し、その石仏の本体が、何か生物を踏み付けている。人間のようである。

人体の脇から「取り合えず出ている」右手は矢を持ち左手は曲がった物をもつ。
頭は髪が多くかつ高く結う。

最下部分には見猿、聞か猿、言わ猿がのレリーフがある。
高さは、台座込みで180cmほどであろう。

お堂をみると
馬頭観音を奉っていて、明治2年の手水鉢がある。

明治始めの混乱した時代が見えてくる。
それもそうだが、「けやき」が600年の樹齢であるとすると、足利義満の時代から
太田道灌が生まれた頃(1430年ごろ)の間ではないか。

けやきは神で、お堂は仏。ここにも神仏習合がある。
神は本来は建物ではなく、その場所をいう。木はその「よりしろ」。
仏教が入ってきてその影響で神社に社殿が出来た。まことに余計なものじゃわい。

石仏は明治初期であろうが、「けやき」の方に歴史を感じ入ったものである。
しかし、いくらでも、この程度のものは全国にあるのだろう。真実は不明にしても。

云い忘れたが、ここは確かこの地区の「万作」の本拠地であると思う。
「万作」とは江戸時代の五穀豊穣を祈ったり祝ったする祭りのことであるらしい。




07年11月11日 
埼玉県県民活動センター 日本永代蔵に学ぶ4回目・最終回
1680年頃から既に大坂では、米の先物取引が行われていた。
つまり世界に先駆けて先物売買をしていたらしい。

らしいというのは、その頃、外国でも行われいたからだ。但しそれが日本にもたらされた
のか、日本で独自で行われたのかは不明だ。状況証拠では日本独自らしい。

以下は講師の日本女子大学・津田眞美先生のプレゼンだが
大坂の淀屋の行ったこと
〇初代・常安 中ノ島の開発
〇二代・介(山の下にトと書く) 北浜米市場の開設
                    淀屋橋の完成 1622年
                    大名蔵元
                    西廻り航路の開設
〇五代・辰五郎 けっしょ(罪を受け更に財産没収)

淀屋は、今までの堺や博多などの海外貿易と異なり、都市開発を行った。
さらに米の先物取引を発案し、米を加賀から下関周りで運んだ。

五代目の辰五郎の時の没落は、時の政治家とうまく遣らなかったのが
原因らしいと講師は言う。だから新参の同業の者にとって代わられたらしい。

やがて、元禄バブルは終焉をつげ、幕府は財政難に陥り、享保の改革、田沼意次の改革
寛政の改革、天保の改革でも成功をしないまま幕末となった。




07年11月13日 
さいたま市 大久保領家遺跡
国立埼玉大学の北1kmほどの場所に大泉院というお寺さんがあった。
そのお墓の前に行くと案内板・浦和市教育委員会があった。

それによると、春日行光は江戸時代に旗本として市内中野田村などを知行していた。
春日氏は中世以来、足利氏や上杉氏、後北条氏、太田氏などの有力家臣として足立郡内で
勢力をもった武人一族であったという。

春日行光は、太田氏に従いつつ最終的には家康から取り立てられ1500石を与えられた
ようである。

戦国の世をうまく乗り切り、徳川の時代になっても没落せずに生き延びた、この武蔵の地生の
武将達は多い。家康も地元の有力武将を手なずけたかったのでもあろう。

三河から人物をもってくるだけが良いとは限らないことを知っていたのだろう。
それは後北条の遣り方と同じである。それを踏襲したのだろう。

私は大泉院の境内の南側にあったとされる春日氏の館跡を期待したが新興住宅地でもあり
まったく不明であった。




07年11月17日 
埼玉県立歴史と民族の博物館 講義・お伊勢さんと武蔵
講師 当館 学芸主幹・杉山正司氏

以下、前後の脈絡も無く箇条書き。

〇伊勢神宮の正しい名称は「神宮」である。(一般名詞が固有名詞だ。権威だ)
〇伊勢神宮は迷信の排除。よって「おみくじ」も無い(ピュアー・原理主義)。
〇天皇専用の神社である。皇后や皇太子と言えども不可
〇私弊(個人的なこと)は受け付けない(原則、一般庶民は当然お参り禁止)
〇これを破った最初の人物が源頼朝(朝廷は武力と財力に降参した)
〇明治以前は、何故か天皇まで参りしなかった(代理が参った)
〇神宮の公報担当は2,000年前の創建という。実際は3〜4世紀だろう
〇なぜ伊勢に設立したかは不明
〇20年に1回造り変える。「再生」、建築の伝承、後継者の育成が目的
〇埼玉県との深い関係の理由(埼玉だけではないが)
 ●頼朝が埼玉に多くの神宮の「御厨」(みくりや・飯の種)を寄進した
 ●御園の寄進(御園とは何か)
 ●腕利きの「御師」(おんし・御祈祷師のことを言う)が埼玉を担当した
 ●御師が伊勢講を多く組織した
 ●村に1つは講を作った
 ●一般民衆は神宮にお願いのお参りをすることが出来ない
 ●御師に金を出して頼めば一般民衆に代わりに神宮にお願い可能と形而的宣伝
 ●大名を味方にした
〇参宮者(正式には参拝者)から御師の家で神楽を奉納させて、大金を巻き上げた
〇参宮は天皇以外に出来ない(と、もったいぶって更に権威を高める)のを利用した
〇参拝者が御師に支払う金は多い場合100両(約50万円)
〇御師の家で行う神楽と神宮で行う神楽とは全く関係がないのを神宮も認めている
〇だから本来参拝者にとって何の利益もない(にもかかわらず、御師の口車が効を奏した)
〇(これを見破った)明治政府は明治4年に、御師の制度を廃止させた
〇これにより大量の御師が路頭に迷った
〇神宮は賽銭を受け付けなかったので、参拝者が神宮に行くときに、御師が賽銭箱を
 担いでいき、参拝者がその箱に賽銭をいれると、御師は賽銭箱を担いで持ち帰った
〇神宮の禰宜(ねぎ)は神宮からでられず、権禰宜(ごんねき)=御師は出られた
〇よって、御師は種々の営業をしてお金儲けをすることが出来た

私は講師に「武州埼玉の人は御師の口車に乗せられ易かったと思うのですが
講師は如何思いますか」と質問した。講師は今までの説明を繰り返すだけであった。

講師としては答える事はできないだろう。講師の専門分野以外の質問であった。
歴史精神史家の研究分野であろう。

私は埼玉の人は、なぜもこう御師の営業に載せられたのかと考えた。
埼玉県人は、私の知る限り、今でも素朴な人が多い。江戸時代は尚そうであっただろう。

今でも生粋の埼玉人はそのことに気がつかない。
生き馬の目を抜く東京がこんなに近いのに。それが風土という悲しさ誠実さであろう。

と、思いつ帰路の途についた。




07年11月18日(訪問は11月16日)
埼玉県立嵐山史跡の博物館 講義・松山領と城郭
講師 前館長・梅沢太久夫氏

以下、前後の脈絡も無く箇条書き。

〇中世の城はどこが本丸かは不明である。本丸・二の丸と云うのは近世の言葉
〇中世の城は土塁であるが、近世の城は石垣である。
〇近世の城は天守のあるところが本丸である。
〇中世の城でも石垣のある場所は「石積み」で、近世の城の石垣は石組みである。
〇腰越城は中世でも近世に近い魁の城である。石積みがある。
〇永禄年間(1557年〜1569年)に杉山城は後北条により築かれただろう。
〇典型的な後北条の城と云える。馬だし、横堀(構え壕)がある。
〇後北条の遣り方は婿に入って城を乗っ取る。
〇後北条は松山城の上田を信用していなかったので人質をとった。
〇比企の山城は1975年から始まると考える
〇上杉謙信の北武蔵への侵入ルートは、宇都宮城ー羽生城ー騎西城ー松山城
〇馬出しや枡形から考えて中世の城は、関西より関東の城が古いのであろう。
〇中世の城のスタートは関東では関西のより100年先行していたと考える
〇城郭についての縄張りでの特徴で武田流、北条流などと云うのは江戸時代の
 軍学者のいうことだろう。

梅沢太久夫先生が自らの足での丹念な踏査から述べられるのは誠に迫力があった。

最後に梅沢先生は
「本日、国から連絡があり、比企地域郡の城が国指定とする発表がありました」
梅沢先生の嬉しそうな顔があった。研究者冥利に尽きるのであろう。




07年11月21日 
埼玉県寄居町 鉢形城歴史館
鉢形城は、山内上杉側の長尾影春が1400年代の中頃に築城したと言われている。
そのころは、川越城、岩付城、葛西城、江戸城などの築城ラッシュの時期であった。

太田道灌はその直ぐ後に、鉢形城を攻め長尾影春を城から追放した。
その後は種々攻防が繰り返されたようである。

北条氏那(北条氏康の子)が生まれたのは1542年といわれている。
北条氏那は18歳のとき鉢形城に移った。ここは北武蔵、上野を押さえる要衝である。

若い彼はこの重要な場所にある城を絶対不落の城とすべく、改造に余念がなかった。
彼が18歳の時とは1560年である。つまり落城の30年前であった。

現在、鉢形城歴史館に造られている鉢形城模型は彼が人生を掛けて造った
玉のような城である。近世を思わせる石積がすでに存在したという。

天正18年(1,590年)の開城はいかにも無念であったろう。彼は48歳であった。
真偽のほどは別として、落城でなく開城したという意味を私はセンチメンタルに
思うてやりたいのである。




07年11月29日 
埼玉県伊奈町 春日山館址
新幹線に併設されている新交通システム・ニューシャトル・内宿駅の東500m。
春日下総守景定の館があったというので踏査に出かけた。

東光院という寺を探した。小さな無住の建物があり、かなり多くの墓があった。
建物の陰に水を入れる桶があり、これに東光院と書いてあったので間違いない。

この建物のある敷地の南側に、その陣屋があったという。
陣屋と云ういいかたは江戸時代であるから、元は館址というべきだ。

さて春日下総守景定であるが、最初は現在のさいたま市見沼区中丸に城を構えて
いたが、1569年にこの地に館を移したという。

中丸城は岩付城の支城であった。

1569年と云えば、
戦略名人・太田山楽斎資正の嫡子・太田氏資が里見氏との上総三船台の合戦で
北条軍の殿を努め、家臣53騎と共に討ち死にした2年後である。

1569年すでに、北条の天下が決まってしまっており、岩付城も後北条の
云うがままであっただろう。

その状況の中で、春日下総守景定は、なぜに中丸城から春日山砦に移ったのか。
いや後北条の指図で、他勢力を防ぐ一員として、将棋の駒のように移動させられた
と考えるのが順当だろう。 また、3kmほど南方の伊奈城との関係はどうなのであろう。

徳川の世では旗本に取り立てられここを知行地にしただろう。
よくあるパターンである。

私は館址を、ぐるりと周りロケーションを考えた。ほんの少し高台にになっているだけ
である。当時は濠や土塁があったのだろう。新築の人家が立ち並び全く不明であった。
本日も好日であった。




07年11月30日 
さいたま市見沼区 砂の氷川神社・関東大震災碑
大正十二年九月一日午前十一時五十八分相模湾を震源トシテ関東地方・・・
石鳥居幟框ハ為に倒覆破損ノ厄に遭フ・・・
幟ト共ニ之ガ修理再建ヲナシ尚破壊セル石鳥居ノ一部ヲ利用シテ碑トナシ
文ヲ刻シテ記念トナス
大正十三年四月氏子中 村社氷川社社掌細井一郎謹誌

とある。
・・・の部分は省略した。
関東大震災の被害は、ここ武州北足立の砂村は少なかったが、それでも
村社・氷川神社の石鳥居幟框が破損した。石鳥居と幟框が倒壊したのだろう。

ところで「いしとりいのぼりかまち」と読めばいいのだろうか。国語辞典にはない。
幟框とは幟竿を固定させる為の石杭のことだろう。神社の入り口でよく見かける。

石鳥居幟框とは石鳥居と幟框のことか、石鳥居幟框というものか。
いずれにしても、石鳥居と幟を立てる装置が倒れたのは確かの様である。

私は近くを調べてみた。比較的小さな石鳥居が建っている。
幟を建てる幟框も、勿論建っている。

次回いつかは、この奥にある石碑を調べたい。




07年12月01日 
埼玉県立嵐山史跡の博物館 後北条氏の城ー合戦と支配ー
薙鎌(なぎかま)と直垂(ひただれ)を知った。
薙鎌は、三国志の張飛がもっている「じゃ鉾」のようなものである。
30cmほどの鎌の先と柄の一部が展示されていた。

これで馬上の武士を引き摺り下ろしたり、敵の下肢を「なぎる」のに使ったという。
農具に使う鎌からヒントを得て造ったという。これは効果がありそうだ。

直垂は、実は私は戦闘用の服かと思っていたが、そうではなく、まるで貴族が
普段着に着るような鮮やかな着物であった。そういえば映画に出てくる戦国武士が
着用しているものかも知れない。

(他の文献によると、鎧や腹巻の下に着用したらしい。
義経が着たというから平安時代後期からあったことになる)

確か太平記に出てくる「・・・直垂に・・・」のあれだ。
男ものと女性用が展示してあった。女性のは名称が異なったと思う。

両方とも、戦国時代のものとして展示されているが、鎌倉時代以降に発案された
ものだろう。

博物館のいいところは、本で読んでいても実物は解らないが
ここで見て確認が出来ることである。実は太田道灌時代の事を書いているが
大変参考になる。(道灌は時代が遡るが参考にしてもいいだろうか)




07年12月02日 
さいたま市 鉄道博物館
案内板によると
明治日本は、富国強兵策で北海道で資源調査をおこなった(不親切な説明)。

幌内で炭坑開発が行われ、 幌内鉄道は石炭を小樽港まで運ぶために
1880年小樽ー札幌間を開通した。

米国技術者指導のため本州の車両、施設と異なったものであった。
またこの鉄道は、開拓民の物資なども運び北海道発展に貢献した。

北海道での車両は、米国から最初に輸入されたものである。
その車両には、「義経」「弁慶」と命名された。

その車両が展示したあった。

いかにも、アメリカ西部開拓史の映画に出てきそうな姿である。
「義経」「弁慶」の命名は義経の北海道からシベリア逃避にちなんだものだろう。

新政府の意気込みが感じられる。1880年といえば西南戦争も終わり
これからが、やっと本当の新日本の出発という時である。




07年12月04日 
青森県八戸市 根城址
江戸時代に創設された八戸藩の領域を、ほぼ現在言う南部地方と云って
いいのだろう。
八戸の根城は1334年に甲斐にある南部と言う地域(現在の南部町・身延町)の
南部氏第四代南部師行が縄張りした。しかし、それよりも早く1189年に三戸に
三戸南部氏が領地支配していたという。

八戸南部氏は4年後の1,338年に摂津(大坂)で戦死した。

江戸時代になって、八戸南部氏は遠野へ、三戸南部氏は盛岡へ移封される。

話しは戻るが
八戸南部氏が支配する前には工藤氏が居たと言う。
南部師行は甲斐に居るままで、その支配地に根城を造った。
(足利尊氏が足利に一度も居なかったのと同じ。福田総理が世田谷区生まれで
群馬に住んだことがないのも同じ)

師行から数代は八戸には居城しなかったが、南部氏は南朝で後醍醐側の北畠顕家に
従って奥州支配(秋田比内・鹿角地方、岩手閉伊・遠野地方まで)のため八戸に
進出して来たことにはなっている。(いわゆる蝦夷征伐という美名の侵略である)

南部氏が八戸へ移って来たのは1393年というから南北朝時代の終りごろである。
実際は北朝足利氏の圧迫で甲斐を追われて逃げて来たのが事実だろう。
(説明案内の歴史が書かれているのを正しく理解するのには骨が折れる)

くどいが、南部氏は南北朝時代は領地の東北地方には居なくて南北朝の騒乱で敗北して
東北地方の自分の領地へ逃げ込んで来たということになる。これが実際の状況だ。


皇国史観盛んな昭和16年に国指定史跡になった。北朝でなら、指定はなかっただろう。

ボランティア説明員の福田さんによると、根城は戦いの場ではなく政庁であっただろう
と言われる。

根城は、北は馬渕川、東は沼地が要害になるが、それ以外は無防備である。
特に北を望むと、ここが舌状台地であることが分かる。

南部氏(遠野南部氏)は秀吉の時代をうまく切り抜け、1627年まで続いたという。

それにしても、南北朝時代の城址を復元しているのは誠に珍しいのだろう。
個人的には、大変勉強になった。建物配置や名称や機能である。有難かった。




07年12月05日 
青森県五所川原市金木町 斜陽館
私は高校生のころに、太宰治の人間失格を読んだが二冊目は読んでいない。
担任の先生が「ああゆう本はいけないね」と言われたので止めたのである。

その先生は、思春期の子供が自殺でもされては困るとでも思われたのだろう。
決して本を読んでいけないと云う意味ではない。

そのころの若者は今の若者より本に親しんでいたのは確かだろう。

それはいいとして
明治の大地主津島源右衛門が明治40年に今の金で7億円を使い建てた。
この時代の政策の副作用で小作農が30%になり、農地の45パーセントが
小作地に激増した。小作料は収穫の50%であった。(浜島書店の高校教科書)

政策とは1881年(明治14年)に大蔵卿に就任した松方正義の松方財政である。
江戸時代の米本位制から金本位制に変更した(広辞苑)ため、農民は税を米でなく
お金で払わなくてはならなくなった。

これが曲者で、お金のない農民は農地を売って金を得てそれで税を支払ったのである。
このときから小作人が急増した。(NHK・そのとき歴史が動いた)。

江戸時代は小作農民は僅かしかいなかったといわれている。(司馬史観)
米本位制の徳川幕府にとっては、小作人は都合が悪いのであったらしい。

案内人の女性の説明は素晴らしい。
但しこの時代になぜ究極の格差社会が作られたかを全くご存知ない。無理はないが。

小作人は食いはぐれて、娘を女工として生糸生産工場の苛酷労働に
遣らざるをえなかった。これが大正時代の女工哀史である。
私は斜陽館の説明の女性の話は上の空で、こんな事を連想してしまった。




07年12月06日 
新潟県上越市 春日山城址
春日山城は1400年中頃に長尾氏によって築城された。
1400年中半は多くの城が築城された頃であるが、この城もご多分に漏れない。

関東管領・守護である山内上杉氏による、この地方の守護所は4kmほどの距離にあり
現在の直江津駅南側にあった。守護代が長尾氏であった。

1500年中半の川越夜戦で後北条に敗北した山内上杉は、実際は長尾氏の圧迫で
菅領職と守護職を長尾氏に委譲せざるをえなかったのだろう。

1561年に長尾氏が譲受したのは、この越後の部分だけではない。
関東・越後の全てであった。

謙信はなぜに関東に十数回も遠征したのか私には分からない。
その理由を越後の人々は、仏門に居た事・正義・信義のためと盛んに言われる。

ある学者は、冬にも関東へ遠征していることから、食糧を奪うためともいう。

謙信は他の武将と異なり、配下の者に獲得した土地を与えたのではない。
土地を与えられないのに謙信に十数回も従って関東に遠征するのは不自然である。
いくら、正義・信義のためと云えども。

正義・信義とは、関東の管領職を全うするためであるという。

私は配下の武将に土地ではなく金銀を与えていたと思う。その財源は金山や越後の米
もあっただろうが、青苧(あおそ)が大きかったのだろうと思う。

「ものがたり館」のパネルるによると
青苧とはイラクサ科に属する多年草の植物で「からむし」とか「ちょま」と云い高級織布の
原料として珍重された。奈良東大寺の正倉院には越後の日本最古の麻製品が宝物として
保存されている。

また、夏の高級織物として、平安貴族など上級階級の人々に愛用されていたようです。
室町時代には幕府の公式の礼服には越後布が指定されるほど、その評価は高かった。

戦国時代には、上杉・長尾家が越後国内の青苧の流通を掌握し、後に越後統一を
成し遂げた謙信がいっそうの振興を図った。

同時に関税を設け取り扱い業者には、「青苧役」を、京・大坂との海運が盛んな越後国府
(上越市)や柏崎をはじめ、沿岸の港では「船道前(ふなどうまえ)」という入港税を徴収。

強力な軍事力を支える財源の一つとした。やがて時代は木綿の時代になり役目は終わる
のであった。と書かれてあった。

それにしても、やはり謙信の驚異的な遠近70回の遠征を支えたものは財力であった。
人は正義・信義だけで、それほどまでに動くものではない。それは心の支えである。

ところで
私は春日山城址に登ることにした。
ところが雪のため三の丸を目前にして諦めた。足を滑らせて谷底に転落の危険を感じた。
城の全面積は、上野の金山城より遙かに小さく松山城位であろうか。

春日山城を取り囲むように多くの支城がる。大きな城は3箇所ある模様である。
勿論すべて山城である。一度も攻められたことがないと言う。だから落城もしていない。

謙信48歳のとき北陸遠征のとき病を得て病没したという。
信玄や後北条や今川や信長と違い、領土を求めずに戦いに明け暮れた一生は
誠に稀有であり感動を呼ぶ。私も無性に引かれてしまう。




07年12月17日 
埼玉県蓮田市 井沼堀の内
新編武蔵風土記稿(1804年〜1829年編纂)によると、いつの時代かのある時期に
佐藤内蔵助なる者の館があったと書かれているそうな。

この近辺では、西南の方向3〜4kmほどに中世時代の砦が2〜3箇所ある。
また東北数kmには菖蒲城、更に北には騎西(私市)城があった。

本日訪れた井沼堀の内は、すぐ北側が元荒川が流れて、要害となるので存在の
要件としては理解できるが、他の城砦は解り難い。

訪問してみた。宝泉寺と村社久伊豆神社の間の地がその、井沼堀の内であるらしい。
この西側に井沼という地名が付いている。神社の参道に車を置かせて戴いて踏査した。

農家が数軒あり、それらしき方角に行くと、小生と同じ位の年齢の方が、木から何やら
収穫されている。聞いてみると柚子だそうな。ついでに「この中に入ってもいいですか」
と確認をしてみると「いいよ」と云われた。

ズブズブと足がのめり込みそうな腐葉土の裏庭である。裏庭と云っても広大な屋敷裏だ。
やがて、土塁らしきものが見えそれに登らせて戴いた。その直ぐそばに平行して堀がある。

踏査を終えて、お礼をゆうために先ほどの方の場所へ行って、聞いてみると、あれは土塁
ではなく最近ゴミを捨てるために穴を掘り、土手を造っただけだと云われた。

多分馬鹿で暇な奴もいるもんだと思われただろう。
「館があったそうですが」と聞いてみると「館?」と言われただけで否定はされなかった。

ここを辞去して、久伊豆神社に周りんでみた。神社は先ほどの農家のやはり更に裏手で
やや舌状台地の最先端となっていた。
人家がすでに舌状台地の先端に近いのであることが解った。

平安末期からの砦とも推察される。岩付城の支城であるだろうとかいくらでも
小生のような唯の好事家にとっては夢は膨らむ。

ただ確からしきものを新編武蔵風土記稿に求めるしかない。
発掘調査をして専門家が考察をしない限りは。しかし好事家はそれを止められない。




07年12月18日 
さいたま市 砂の氷川神社
境内には様々な石碑が建てられている。

○第六天  伊勢講中九人  世話人 飯島茂吉 武藤幸吉  天保二年卯十一月吉日
第六天とは、国語辞典によると、〔仏〕 欲界六天の第六で、欲界の最高所。
要は仏教修行を妨げる魔である。天というからヒンドゥー教と関係があるのだろう。
しかし、なぜ魔を崇めるのか解らん。天保時代の伊勢参りと第六天の関係も解らん。

○伊勢講 伊勢大々講 明治三十年 大正八年などある
伊勢参りの祈念碑である。明治になってからも衰えることがなかった。
但し、薩長新政府の国策による皇国史観の高揚での影響だろう。

石碑を調べていると
突然高齢者が現れ「調べているのか?」「どこから来たのか?」と言われる。
この土地の方で、この社を調べたり、この社について書かれたものを所蔵しているとのこと。

ここは元は大砂土小学校のあった土地だと言われる。
だから、その関係者の1丁目の金子さんの碑が建ってるとのこと(確かに建っている)

最近は郷土史を調べる人が増えたと言われる(団塊の世代の大量退職の影響か)
1月1日に、ここで大和田鷲神社の大神楽を堀崎の人が実施するとのこと。
良く考えてみると複雑である。鷲神社の神楽を堀崎の人が砂で実施されるという事。

ならば正月1日来て見よう。(他に例年の経理事務などすることがあるが、まあいいか)




07年12月19日 
埼玉県行田市 丸墓山古墳
古墳に興味があったのではなく、その上から忍城がどのように見えるかを確認したかった。

秀吉は備中松山城を水攻めにして城主を船の上で腹を切らせてその直後に
大返しをして光秀と対戦した。

その水攻めで、1,590年(天正18年)に石田三成は忍城を潰そうとした。
石田方の方が洪水で数百人が溺れ死ぬなどして城攻めは失敗した。

その水攻めの方法は、忍城を利根川や荒川から水を引いて28kmに及ぶ堤防で囲んだ。
その時に石田三成は6世紀中頃の丸墓山古墳の上に指揮所を置いたという。
私もその丸墓山に登って忍城を眺めて見た。

巨大な古墳は4箇所あるが、確かに高さ19mの丸墓山の頂上からが最も好都合である。
(丸墓山古墳は日本で最大の円墳である)

そのころ既に「とおめがね」と称する望遠鏡があったはずである。
そう思って小生も双眼鏡を持参してきていて覗いてみたが、それを使うほどのこともない。

忍城(現在の忍城博物館)は意外と近くに見えるのに驚いた。勿論、遮るものがない
真ッ平らな平野である。まことに敵方の動きがよく解る。だからといってこの忍城を潰すのは
難しかったのである。

私は、忍城は戦争のために使う天下の名城であると思う。
忍城は強敵に三回も囲まれたが三回とも城は落ちなかった。

一回目は1,553年、川越夜戦のあとに押し寄せた北条氏康
二回目は1,574年、上杉謙信の関東管領就任式の後に上杉謙信に囲まれた
三回目が1,590年、石田三成。

忍城を築城した成田氏という人物に私は奇妙に引かれる。
彼は非情に強情でしかも有能な縄張り名人であったという性格が見えてくるがどうだろう。

ところで、埼玉県立嵐山史跡の博物館のリンクによると
この忍城は1478年ごろ忍氏の城を成田氏が奪って再築城したものである。
1478年といえば応仁の乱が終りを告げ戦国の世が始まったころである。

武州では戦国時代は全国より早くに訪れていた。
1454年の永享の大乱の最中に足利成氏が古河公方となった時、つまり1,455年からが
武州の戦国時代だろうか。全国の戦国時代より20年早かった。




07年12月21日 
埼玉県立嵐山史跡の博物館歴史講座 北武蔵の要害・鉢形城
講師 石塚三夫氏 寄居町教育委員会・鉢形城歴史館勤務
発掘考古学の立場から説明された。
受講内容を、前後の関係もなく下記に記す。

○城の南側の寺町を防御として利用した(どこの城もそうだろう)
○深沢川を内掘として天然の要害とした
○掘っても水が出ないので溜めて使った場所もある
○石積みに丸い川原石を使った
○中国銭と共に本邦のビタ銭も出土した
○壕幅16m、深さ9mの場所もあった
○薬研壕のような底が狭くなるのは見られなかった
○石済み40m×4mのもあった
○川原石も山石も使った
○郭の武家屋敷には庭園もあった
○石を使った排水溝もあった
○1.2mの石組みの井戸もあり
○10mから12mも水がでるまで掘った場所もあった
○蔀(しとみど)で敵を遮断するようになっているところもあった
○深さ12mの壕に自然に水が溜まるので防御として都合が良かっただろう
○岩盤を削るまで掘った場所もあった
○障子壕りの上は人が通れないような幅になっていた
○後北条の前から障子壕はあったと思われる
○搦め手には八王子城的な石垣もあった
○後北条のミツウロコは弁天信仰からきている(弁天の竜にはウロコがある)

下記はレジメに書かれてあった。各人で読んで下さいとのことであった。
鉢形城は1476年に山内上杉氏の家臣長尾景春が反乱をおこす拠点として整備した
したことに始まる。氏康の4男氏那入城により現在の縄張りとなったとされる。

以下は講師が、口頭で説明
長尾家は親の時代は、山内上杉の家宰であったが子の長尾景春のとき
叔父にあたる家に家宰が移ったのを景春が立腹して反乱するのである。

景春の反乱を収めたのが太田道灌であるが、道灌は扇谷上杉定正に殺害され50歳と
少々で他界するが、景春は秩父に逃れてしぶとく長命した。


07年12月25日
埼玉県飯能市 龍崖山城址
武蔵七党の丹党の大河原氏の城であったと云われている。
県の案内板によると、城の縄張りは平安末期から鎌倉初期であろう。

武蔵七党とは、国語辞典によると
@平安末期から室町初期にかけて
A武蔵国を本拠として活躍した同族的武士団
B横山・猪俣・村山・私市(きさい)・丹・西・児玉などの諸党が挙げられるが
 七党の数え方は一定していない。
C国司の後裔(こうえい)や国衙(こくが)の有力者が小領主化し
 地域ごとの領主連合に発展したもの。
ということになっている。
勿論、当初は全べて平氏側であったろう。

入間川の近くの小高い山城である。
私は軍多利神社の脇から登り始めた。数分も登ると、いきなり急峻な登りとなる。
龍崖山城址の名前通りであった。

5分も登ると、腰郭らしきところに辿りついた。広さは100坪ほどの小さな平場だ。
更に登ろうとしたが断念した。

何故なら、駐車して来た場所には車を置いてはいけないと町の立て札があったのと
あまりにも急峻過ぎて足を滑らせて谷に落ちる可能性があったからだ。
落ちて一人で起き上がれない場合は悲惨な結果になるだろう。

本当は、主殿(江戸時代の本丸)まで行って確かめたかったが勇気が無かった。
まあ、自分は研究者でもないので、いいかと思って引き返すのも後悔しない。

ところでこれほどの急峻な坂を当時の兵は日常的に登り降りしていたのであろうか。
(中世の山城は、戦いの場でなく、逃げ込む場所であるから、日常ではない)
城主は何か座する物の上に兵に担がれて上り下りしたのだろうかと考えて下山した。

途中から下をみると、まるで真ッ逆さま角度に見える。これでは攻撃側は
城に攻め上るのはまず不可能だ。自分が城主であればこれ位でないと安心できない。

私は今までの講義で、城址の周りには、寺を防御の為に置いたと聞かされている。
当然神社も同じだろう。

龍崖山城址への上り口には軍多利神社(ぐたり神社)がある。
今までも何度もこの様な神社を見てきたが、これも仏閣と同じ意味をもつのだろうか。
確かに、麓には大河原氏が帰依したと云う金蔵寺もある。

つわもの共は、神に祈願する・仏に縋ると云いながら、防御の為には神社仏閣を
盾にしていたのであろう。本日もそれがよく解った。

攻める方も「神仏の祟り」を気にしたのであろうか。
そういう研究発表は聞いたことはないが。多分正しいだろう。何か可愛げを思う。
本日も好日であった。




08年01月01日
さいたま市 砂・氷川神社
先月の18日に、この神社のことを調べていた。
「1月1日午前10時に、ここで大和田鷲神社の大神楽を堀崎の人が実施する」と。

10時に行ってみたら、神楽殿で武蔵太鼓を12時30分から実施するとのこと。
とんだ聞き間違いである。小生はお神楽と聞けば飛んで行きたい心なのだ。

それは兎も角として、「氷川神社の縁起と由緒」監修氷川社氏子総代 高橋時敏氏
と題するA4の3ページ裏表を戴いた。おまけに甘酒も戴いたので文句はない。

縁起と由緒は同じ意味だが不思議な題目である。それもいいとして。この冊子に
新編武蔵記稿に記載する堀崎村及び砂村の鎮守とあり、堀崎の大聖寺(明治5年廃寺)
が管理していた、と書かれている。

(新編武蔵記稿とは新編武蔵風土記稿(1804年〜1829年編纂)のことであろうか)

以下書かれてある通りを記すると
この大聖寺は現存する板碑の年号から推定して、南北朝初期(660年前)の創建である。
従って、氷川社も同時代の開創であると思われる。
氷川神社名の神社は、埼玉県内・東京都下・神奈川県下に及びその数実に、数百を
かぞいます、現在も埼玉県下で百六十余社です。近隣の氷川神社は
武蔵一宮氷川神社(高鼻町)・丸ケ崎氷川神社・深作氷川神社・今羽氷川神社・
櫛引氷川神社・宮前氷川神社・宮ケ谷塔氷川神社・東宮下氷川神社・大谷氷川神社
等です。

私は、明治5年の廃寺は、廃仏棄釈の影響であろうと思う。
また、氷川神社の起源は農耕や武器のための鉄の鍛冶の関係であろうと信じている。

そうであるとすれば
氷川神社の最も古い起源は古墳時代からであり、農耕地が急増した平安時代には
盛んに鍛冶が行われていて氷川神社も急増したことになるが、どうだろう。

そうすると
氷川神社は山間地には存在せず(里山ではない。里山は縄文末期から稲作を
開始のはず)、平野に存在することになる。自分の知っている限り、平野にある。

今まで考えなかったが、氷川神社の存在する場所を調べると面白いことになるだろう。




08年01月07日 さいたま市 
小村田館址
新大宮バイパス東側数百メールでショッピングセンターイオンからすぐである。
なんでこんな要害も何も無い所に館を造ったのかと首を傾げたくなる。

発掘調査で堀が発掘されたそうである。堀か壕か濠かは不明。肝心の年代が
解らない。そこには新興住宅があるだけで、全く偲ぶものは何も無い。

但し、そぐそばに古道が走っている。
私の推測だか鎌倉街道の脇街道であると思う。上つ道と中つ道の中間である。

現在の旧中仙道は江戸時代の道であろう。それ以前の古道であるはすだ。
その道を200mほど北に行くと道沿いに氷川神社があった。後日調べてみる。

小村田館址の名称の由来は全くわからない。古い地名だろうか。江戸時代の
地名である。何故なら古文書に上小村田、中小村田がある。現在は本町。

ところで
その館址の南側に浄土宗の長伝寺があった。武蔵では浄土宗系のお寺さんは
極めて少ないと思う。親鸞さんが越後に流された後に東国に20年居たらしいが
その影響は少なかったのだろうか。

それは兎も角、その寺には与野聖人の墓があった。与野聖人を始めて知った。
案内板によると、1,700年の中頃生まれた人で、天明の飢饉(1781〜89)の時に
私財を投げ打って庶民を助けたらしい。

ここ小村田館址へ来て何も得ることが無かったのではない。
やはり、机の上での歴史を楽しむのでなく、現場へ行けば何かは得るものが
ある。今年もこの気持ちで一見詰まらなさそうなところでも行って見ることにした。。




08年01月08日 
さいたま市 深作縄文遺跡
断っておくが
この遺跡の名称は私が勝手につけた。

「さいたま市遺跡調査会」と書かれた囲いの中で10人の婦人が掘ったり寸法を測定
されたりしていた。昨年の秋頃から調査が開始されている。

天理教会の敷地の一部で、調査面積は5m×40mほどである。作業者に聞くと
縄文時代の土器が出るらしい。

そこで考えてみた。この辺りは縄文海進のあった場所である。
縄文海進のピークは6000年前で今より気温が1-2度高かったとされる。

今、見沼と呼ばれるその地は1727年享保12年に沼の様な池から田圃になった。

8代将軍吉宗の改革だが、残念ながら幕府財政には寄与しなかった。
経済原理が解らなかったのである。その後の田沼意次のほうが皮肉にも効を奏した。

そのことはさておく。
見沼と言われるこの辺り一帯は、沼の高低差の構造が2重になっている。
最も深い、中ぐらいの深さ、高台の3つに大きく分けられる。
これも私の私見であるが、間違いなく正しい。

遺跡は中ぐらいの深さな場所に該当する。きっと縄文海進の終りの頃と考えるのが
妥当だろう。つまり今から3000年前・BC1,000年でどうだろう。つい最近である。
付近に貝塚もあるはずだ。ここは波打ち際であっただろう。

海進がかなり後退した頃は、地球の温暖化は止み、現在の気候に向かい始めた頃だ。
その頃ここ奥東京湾では魚介類が豊富であったのであろう。

そうだとすると、人口増加も進んだであろう。幸せな縄文人達の姿が見えてくる。

その直ぐ後に弥生時代が始まり、幸せは終焉となる。
などと思いながら馴染みの珈琲店へ。

話しは変わるが
縄文海進で今より気温が1-2度高かったとされるが、地球温暖化が恐怖である。
六千年前の地球温暖化の理由は今とは全く違うのは当然である。



08年01月09日
さいたま市中央区 上町・氷川神社
境内の石碑を見ていると下記のように書かれている。
○渡是左川越 □増部呼邨呼羅
左方面に行くと川越に行く。渡と云う字が入っているので何か小さな
橋でも架かっていたのだろうか。その
次の文言は不明、多分庚申信仰の関係だろう。

○享保四己夷 三月吉祥日 大宮道 従是右 奥脇道
享保4年(1719年)三月 右へ行くと大宮方面に行く脇道だよ

○見ざる 聞かざる 云わざるが彫ってある。
日光東照宮に有る猿と同じだが、何処の石碑にもよくある。

単に真似ているだけであろうか。武蔵国に多いのだろうか。
幕府に対する当てこすりだろうか。そうとすると面白い。

享保は開幕100年少しであったので面白い。
江戸時代とは有る意味、自由な雰囲気があったと思いたい。

鰐淵の下から、本殿の中にある案内札が見える。
建物は1709年に再建した。神輿は1710年に製作したとある。

火王子社 神明社 権現社 八幡社 天神社 稲荷社
本殿の隣の建造物には上記の札が2m置きにある。
その建造物は、まるで各社の長屋風である。

火王子社とは本宮のことである。
本宮(簸王子社、または火王子社)・男体社・女体社に分かれている。
神明社は伊勢神宮の分霊である。神宮=伊勢宮である。
神宮のことを神明宮と、持ち上げたのか。明治以降は神明神社と云う。
権現社は人が神になっている場合である。日光東照宮は家康が権現だ。
だから譜代や旗本は「権現様」と云った。家康如きが神様だって!。
明治以降は故意に廃れさせたが、本地垂迹説の見本である。
八幡社 天神社 稲荷社はご存知の通りである。

石碑の捨て場あり、半分埋もれて20個も。他から持ってきたものだ。
これを丹念に調査すれば、大きな発見に繋がるかもしれない。

神社を後にして帰ろうとしたら、この神社を管理されている方が来られ
ご説明戴いた。以下はその説明による。

私は開口一番、神社の脇の道は鎌倉街道ですかと聞いたら
やはり、そうであるとのこと。神社の両側の道の狭い方の道が
本来の鎌倉街道でありますかと聞いたら、不明のようであった。

何故なら神社の境内が歪になっている原因が広いほうの道路付けが
原因と思ったからだ。

管理者の方は、そのことには触れずこの神社は、扇状になっている。
かつては杉林であった。その杉を使って社殿を建てたとと思われると。


享保四己夷 三月吉祥日の碑は、ここから100mほど北にあった
二股に分かれている場所にあった庚申塔から誰かが持ってきた。

本殿と奥の院に入らせて頂き案内して頂いた。
奥の院の方が更に古いとも云われる。

中国風の素晴らしい彫り物が対になってつけられていた。
宮司さんは一山神社(諏訪神社)の宮司さんが兼ねられている。

以前は神楽があったが今はする人がいない。

1710年の神輿はぼろぼろで触ると崩れそうであった。
深く頭を下げてお礼を申し上げて神社を後にして家路に向かった。

宗教とは常に人の手が加わる。OSリナックスのようなものだと思う。
本日も好日であった。日々感謝、日々是好日




08年02月16日 
熊谷市肥塚 肥塚館址
肥塚公民館辺りがそうであったらしい。
公民館の隣は籔で、そこを覗いて見たが、堀もなければ土塁跡もない。
近くには成就院があった。ロケーションについては何も解らなかった。

埼玉県立嵐山史跡の博物館のサイトには、
名称→肥塚館
存在場所として→宅地で自然堤防
時代→鎌倉時代            とだけ書かれている。

肥塚館には武蔵七党の私市(きさい)党の者が住まう場所であったらしい。
余談だが、私市は現在では騎西と書く。
古文書には北足立郡に並んで騎西郡が見られる。それは熊谷も含まれる。

武蔵七党は平氏である。その一派の一人が熊谷直実とも考えら
別の私市(きさい)党の者が熊谷氏とも言われるようで良く解らない。

平家物語や太平記で敦盛を討った有名な熊谷直実がいる。
その祖父の祖父が熊谷直季である。その弟に直長という人があったそうで
その人が肥塚に住まい肥塚氏を名乗ったそうである。

埼玉県立嵐山史跡の博物館サイトに書かれている自然堤防と書かれて
いるが、なぜここが自然堤防であるか解らなかった。かつての地形であろう。

それはともかく、平安から鎌倉時代に少し思いを馳せながら帰宅路に。




08年01月20日 
埼玉県県民活動センター 「源氏物語」講義
講師 学習院大学 神田教授

確か一昨年の太平記以来の神田先生の講義以来である。
あるいはその後、源氏物語のある一部の講義があった。

源氏物語に特別に興味があるのではないが、上代という時代と小説の
基本的なものに興味がある。それもあるが、講師の簡潔な魅力も大きい。

いま源氏物語一千年紀として京都や関係者の間ではフィーバーしている。
が、実は1,000年の根拠は何なのかよくわからない。

なぜなら
紫式部日記によると、源氏物語の三部の内、1,008年(寛弘五年)は
まだ第一部のみ完成であったのに、なぜ今年が一千年紀なのか。

講義に出て初めて知ったのだが、今後年間5回10年で完結するそうだ。
講師が現在55歳であるから65歳までということになる。

かつて1964年から2005年までの講義があったが、受講生は半分が他界
されたらしい。幸に講師は生存されていたという。笑い話が出るほど長編だ。

そのためにも、自分は70歳過ぎまで生きなければならない!。

作者         →紫式部は、五位・越前の守・藤原為時の女(むすめ)
             越前の守は一地方官(受領)で、大変低い身分。
作者の生年    →不詳
源氏物語の語り手(架空の人物)
            →温明殿の神鏡を祀る人で典侍(ないしのすけ)と
             考えられている。そうでなければ情報が集まらないし
             時代が変わっても、それぞれの人物が良く見える立場。
源氏物語の時代は、いつを想定して書かれているのか
           →その時(1,008年)より100年前、醍醐天皇の時代か。
                     今で言えば明治時代の話、日露戦争の頃の話である。

参考
紫式部は973頃-1014頃の人という説もある。
醍醐天皇は885〜930の人。
菅原道真は845〜903

だから光源氏は藤原道長を直接モデルにしているのではない。
藤原道長は966〜1027。

紫式部日記によると
学問のある紫式部は、天皇までが源氏物語を読んで楽しんでいるのを疎ましく
思っていた。(源氏物語が紫式部が作者であることは紫式部日記による)

なぜなら、紫式部にとって源氏物語の中での本当に言いたい本質的な事を
無学な者達に解ってたまるかと思っていた。彼女は誇り高き才媛であった。
と思える。

以下は辞書の孫引き
藤原 為時は天暦3年(949年)頃? - 長元2年(1029年)頃?で、平安時代中期
一条天皇時代の代表的な詩人。紫式部の父。
刑部大輔藤原雅正の三男で、堤中納言藤原兼輔の孫。
母は右大臣藤原定方の娘。右馬頭藤原為信の娘と結婚し、紫式部らをもうけた。
菅原文時に師事し、文章生に挙げられ、師貞親王に学問を教え、師貞親王が
花山天皇として即位すると式部丞に任じられる。紫式部の「式部」はこれに由来する。