バナナフィッシュの世界―小説と映画の小部屋―

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『移ろいと、誠実と、それから……』

 

  娘と夫が、それぞれ修学旅行と出張とでおらず、彼女一人きりの日に、それは始まった。
 彼女はアイスティーを入れていた。今、飲む分と、作り置きの分。少しでもおいしく、と思い、水出しにするつもりで、茶葉をティーパックに移していた。その周囲は、しん、とし、家具の息遣いが聞こえるような気さえした。この感じ――一人だからこそ肌や耳を伝ってくる、この感じに、いつも心がほどけていく。不思議な解放感の中、ゆるゆると感覚が泳いでいた。
 だが、一瞬で、その心地良い空間が裂かれた。インターホンの無遠慮な響きによって。瞬間的にどくっと心臓が打ったが、すぐにそれは胸の中で落ち着き、寸秒後には、回覧板かな、という考えが過ぎった。足早に玄関へ向かい、ドアを開けると、しかし、そこには見慣れぬ男が立っていた。
 三十代半ばといったところだろうか。黒い髪を短く切り込んだスポーティなヘアスタイルに、日焼けした顔。爽やかな、好感の持てる男性だった。彼の姿が目の中で鮮やかになるに従がって、なぜか胸の内がくすぐられるような感覚が生まれ、気が付くと、彼女はぎゅっと腹に力を入れていた。
 この間引っ越してきたところで、今、近所に挨拶して回ってるんです、と彼は言った。お互いに軽く自己紹介をすませると、他にも挨拶回りが残っていたのだろう、彼はあっさりと去り際の空気を作り出した。そして、
「じゃあ、また今度、美沙子さん」
 その瞬間、彼女の心に電気が通った。
 しかし、彼は背を向け、玄関ポーチの階段を下り始めていた。その背が遠ざかるのを眺めるうちに……彼女の胸は締め付けられていった。一瞬、灯った明るい期待の色が落ち、くすんでいく。数秒後、思いがけず、こう言っていた。
「今、アイスティー入れてるところだから、良かったら飲んでいきませんか? 本当に、良かったら」
 十三年も、前のことだ。

 整理が行き届いたリビング。部屋に溢れる一つ一つの物はその身をぴったりと所定の位置に収め、整然としている。だが、長年使い込まれてきたそれらは、決して画一的ではない。まるで呼吸するかのような、不思議な温かみを帯びている。日常という生命の営みの一部となったそれら物物へ、人肌の体温が伝っていくのだ。
 そんな生活といういつもの空間に、トントントン、と包丁がまな板を叩く音が響く。二十数年、ほぼ毎日繰り返されてきた、音。その軽やかな響きを紡ぎ出しているのはキッチンにいる、髪を一つに束ねた後姿。慣れた手つきで野菜を刻んでいく。この日は千切りにした大根と人参を、ほぐした帆立とマヨネーズであえたサラダを作るつもりだ。長年、連れ添ってきた夫のささやかな好物だった。
 彼女は野菜を切り終えると、ふう、と一息漏らし、包丁を置く。そして、帆立に取り掛かろうとした時、リビングから電話の音が聞こえ、手を止める。彼女は再び、はあ、と溜め息をつくと、エプロンで手の滴を拭き取りながら、早足でリビングへ向かう。
 電話に手を掛けた時、テーブルの端からはみ出していた手紙の束を体が掠め、あ、と思った時には、ばらばらばら、と雪崩れを起こしていた。受話器を取り、「はい佐藤です」と口にしながら、屈んで床に散らばったそれらをかき集める。十二年ほど前から送られ続けてきた、大切な手紙たち。矩形の封書の散乱は、彼女の胸の片隅の感情を、つつき、ほどき、乱す。覚えず、寂寥と郷愁の両方が込み上げた。しかし、
「お母さん」
 娘の沙里の声が耳に入って来、胸に迫った感情が掻き消える。代わって、彼女の母という張りつめた一面が胸に上ってくる。向こうから連絡してくるなんて、珍しい。何かあったのだろうか?
「――祐介が、あの、祐介に、あたし、大変なことしちゃって、どうしたらいいか分かんなくなっちゃって――」
「何? 何か発作でも起きたの? 怪我でもしたの?」
 寸秒の間。電話の向こうから娘の呼吸が響いてくる。震える、呼吸。
「祐介、また、あたしにいろいろ言ってきて、それで、あたし、嫌で、すごい嫌で、黙らせたくて――首、締めちゃったんだ。なんでか、なんでか、分かんないけど――」
「大丈夫なの? 祐介君は」
 無意識に沙里を遮って言っていた。ぞわりと鳥肌が立ち、内腑が締め上げられるような感覚が走る。最悪の想像が脳裏を掠めていく。だが、しばし置いて、うん、たぶん大丈夫、という声が返ってきて、強い緊張が彼女を放す。そして、すぐ、こう尋ねた。
「他に誰かに連絡した?」
「してない」
 その返答に、再び安堵する。彼女は、ふう、と息を吐いてから、胸にしっかりと意を固める。
「これからそっちに行くから、もし、何かあったらケータイに電話しなさいね。それと――他には誰にも言わないで、いい?」
「うん」
 沙里の返事を確認し、じゃあね、と言いながらも、電話機を耳に当てたまま、向こうが切るのを待つ。しばしの空白の後、遠慮するような、ぷつ、という音がし、続けて、ツー、ツー、という機械音が響いてくる。そこではじめて、彼女は電話機を耳から離し、打たれたように動き始めた。

 沙里が結婚したのは、三年前。二十五歳の時だった。相手は高校で知り合った一つ年上の祐介。高校当時、バスケ部のエースだった彼は少女漫画のヒーローのようなモテっぷりで、周囲には常に女子の黄色い歓声があった。そんな中で、なぜ、彼が沙里を選んでくれたのか、彼女自身にはさっぱり分からなかった。好奇心から尋ねてみても、返ってくる答えは、顔がエロそうだったからだよ、などというふざけたものばかりだった。
 唯一、思い当たることと言えば、趣味が合うところだろうか。
 バスケ部の練習を見に行ったある時、沙里は初めて祐介と話した。
「あ、ニルヴァーナじゃん」
 休憩中、彼女が運動着代わりに着ていたニルヴァーナのロゴ入りTシャツに目を留めて、祐介が言った。胸がぎゅっと縮む。声を掛けられたこともそうだが、ニルヴァーナについて触れられるとも思わなかったのだ。
「ニルヴァーナ、いいですよね!」
 気づいたらそんな風に言っていた。少し遅れて、自分の妙に弾んだ声や言葉が脳に溶け込んでいき、急に恥ずかしくなった。祐介は目を見開いた。
「うわ、ニルヴァーナ、知ってんの? ただTシャツ着てるだけかと思った」
 沙里は視線を下げ、体育館の床を見ながら、「じゃあ、なんでニルヴァーナって言ったんですか?」
「あ、いや、それはなんかノリで……別にいいじゃん。オレもニルヴァーナ好きだよ。曲、何が好きなの?」
「えっと――」言われてすぐ、脳をフル回転させた。なんだか悔しかったから、俄かファンじゃないというのを見せたかった。「あの、『オピニオン』とかです。なんか、曲調とか、声の出し方とか、あの曲が一番好きで。あと、オピニオンって言葉の繰り返しが、なんか、クールだなって思って」
 声に出す前は、なかなか曲を分かっているつもりだったが、いざ自分の言葉を耳にしてしまうと何とも幼稚に聞こえた。腹の底に気持ちが沈み込んでいった。しかし、
「オレも『オピニオン』好きだよ。繰り返しんとこ、カッコいいよな。女の子なのに、趣味いいね」
 それから、二人は体育館の隅に座って、ニルヴァーナから始まり、レディオヘッド、U2、スティング、オアシス、パール・ジャムなど、洋楽の話をずっとしていた。本当に、不思議なくらい好みが合って、初めて話すのに話題に困ることなく、いつしか彼女は、二人の感覚が溶け合っているような、そんな気分になっていた。そして、気がついた時には、休憩時間が終わっていて、祐介は練習に戻っていった。
 とにかく、そんな風にして二人は知り合い、そして、いつの間にか付き合い始めて、結婚にまで至っていた。
 しかし、その結婚の先に、幸せな生活などなかった。結婚してすぐ、祐介にALSという病が発見されたのだ。運動神経細胞が侵され、体を思い通りに動かせなくなる病気だ。五十代から七十代の年齢層に多いと言われ、祐介のように二十代での発症は珍しいらしい。初期症状は人によって異なるが、彼の場合は手足の異常から始まった。食事の際、箸をうまく持てなかったり、物をよく落としたりするようになり、しばらくすると足が思うように上がらず、階段の上り下りに苦労しているのが、傍から見ても分かるほどになった。仕事で疲れてるからだ、と彼は言い、なかなか病院へ行こうとはしなかったのだが、彼の週休日に沙里が半ば無理やり連れて行き、病気が判明した。
 大変なのは、それからだった。彼の症状は、徐々に、徐々に、進行していった。ちょうど、夏の頃、海の潮位が次第に上がっていくみたいに、ゆっくり、しかし目に見えて、悪くなっていったのだ。今では、自力で起き上がることはおろか、寝返りさえもままならず、夜中に突然呼び起されて、体位を変えるのを手伝うことが日常と化していた。まだ、多少腕は動くので食事はなんとか自分でとっていたが、下半身は全く動かず、数か月前からはおむつをあてて生活するようになっていた。その時感じた心を刺すような痛みは、常に沙里の胸の片隅に――時にはそのど真ん中に、残っている。夫がおむつを付けていることや、その世話をすることが嫌だ、不思議とそんな気持ちはなく、むしろ沙里が嫌がっていると祐介が思ってはいないか、その疑問が彼女の胸を傷つけた。彼がそういう自分をどう思っているか、他人からどう思われていると感じているか。その時感じた痛みは、そういう気持ちだった。
 沙里が嫌だったのはおむつではなく、彼がよく喋ることだった。彼は手足に比べ、舌や喉の筋肉は病状の進行が遅く、まだ自由に話すことができた。しかし、いずれはそれも不可能になる。だからか、彼は未来に話すはずだった言葉を、全部語りつくそうというようにべらべらと話した。しかし、紡がれる言葉は同じことの繰り返しだったり、時に支離滅裂だったりし、聞いていると苛々してきた。それで、いい加減に聞いていると、それを感じとったらしい彼は怒りだし、ひどい言葉を浴びせてくるのだった。
 医師の話やネットで調べた情報によると、これからはもっとひどくなる。それを思うと、小さな絶望が目の前に暗い陰を落とし、その先が見えなくなった。
 電話を切ると、沙里は大きく息を吸い、肺いっぱいに空気を送り込んで、止める。そして一時置いた後、はあ、とすべて吐き出し今度は肺を空っぽにする。空気に洗い流され、やや胸がすく。同時に、――うん、たぶん大丈夫――さっき母に言った自分の言葉が、頭の中に浮き上がって来、すっ、と心に溶け入る。そう、大丈夫だ。祐介は何ともなかった。少なくとも命に関わるという意味では。ただ、彼女が我に返って手を放した後、仰向けのまま噎せ返り、解き放たれた苦しさが涙になって目から止めどなく溢れた、それだけだ。その後、彼女は心を失い、しばし目の前の彼の様子を、自分が彼にしたことを物語るその様子を、見つめた。彼の咳き込みは次第に小さくなったが、涙の方は際限なく流れ続けていた。そんな姿が彼女の脳裏で次第に輪郭をはっきりさせ、思考を捕え――そして、はたと気がついた。
 私は祐介を殺そうとした。
 その瞬間、ざっ、と心が戻って来、沙里の心臓を抉った。彼を見ていられなくなり、彼女は部屋から出、ドアを閉め、他にどうしようもなく、母に電話したのだった。
 でも、落ち着いてみれば、そこまで動揺することではないかも知れない。祐介が無事なのだと心が納得すると、沙里は努めて一歩下がり、自分の意識を客観に押し入れて、あの時のことを思い起こしてみた。すると、それはただの不幸な事故のようにも見えてくるのだ。テレビドラマでたまにある、介護に疲れた悲劇のヒロインが彼女だ。観ている側は彼女に同情こそすれ、責めるなんてことは、まずない。そう、私はそういう類の可哀想なヒロインなんだ――。そんな風に自分の心を不幸という淡く甘美な色に染めようとする。それくらいしか、彼女には自身を慰める術がないのだ。しかし、どれだけ心を「不幸なヒロイン」という味に酔わせようとしても、その隅には祐介の姿が、体をまともに動かせず、手足の筋肉が痩せ細ってしまった彼の姿があり、すぐに心地良い微酔から覚めてしまうのだ。いつも、いつも。
 電話してから三十分ほどで、母が到着した。開口一番、母は「祐介君は?」と尋ねてきた。沙里の腹にぐっと重さが来る。大丈夫だよ、と自分の口が言うのを感じつつ、彼女は母と顔を合わせられない。母は私のしたことをどう思っているのだろう? そんな疑問が自然と脳裏を掠めていったのだ。どんな顔で母が自分を見ているのか、それが怖かった。
 とりあえず、リビングへ案内しながら、沙里の胃ではバツの悪い思いが漂う。それを隠そうとしたのか、「麦茶でも飲む?」と口が勝手に言っていた。「ええ」と応える母。どこか形式ばった、お互いを伺い合うようなやり取りに、胸の緊張の糸が、ぴん、と張り詰める。ちょっと待ってて、と言いキッチンへ向かう。
 沙里は麦茶の入ったペットボトルと二つのコップをテーブルに置き、母と向き合う恰好で座る。ありがとう、という声が妙に離れたところから聞こえる。うん、と返したが、その自分の声すら遠く、もう周りのあらゆるものが彼女の思考まで、感覚まで、届いてこないようだった。
 麦茶を口に含み、あ、おいしい、と母が言う。が、その後に大きな沈黙が続いてくる。何気ない言葉などでは壊せない、微動だにしない静けさが、ここにはある。ついさっき自ら助けを求めたのに、今の沙里は母とのこの時間が早く流れ去ってしまえばいいのに、と感じている。早く、早く、早く。しかし、母が何もせずに帰る訳もなかった。
「沙里」
 低く、落ち着き、ずしりと重みをもった声。はじめて薄靄を突き破って思考に飛び込んできたそれに、沙里の胸がきゅっと音を立てる。
「大丈夫なの?」
「大丈夫だって、さっきも言ったじゃん。今はもう寝てんじゃない?」
「祐介君じゃなく、あんた。大丈夫?」
 あたし? そう思った瞬間、心に暗い陰がかかった。突然に、彼女は恥を感じたのだ。それを悟られまいと、反射的に口が動く。
「大丈夫に決まってんじゃん。だって誰にも何もされてないし、別に、大丈夫も何もないでしょ?」
「いろいろ言われたんでしょ? 祐介君に」
 その言葉に、喉の奥が塞がれ、息が詰まる。触れられたくない傷を、直接指でなぞられたみたいだった。心臓がどくどくいうのが分かる。気が付くと、別に、と口から零れていた。
「疲れてんのよ、無理ないわ。ちょっと外にでも出て、ゆっくりしなさいよ。今日は私が看てるから」
 看てるから――その言葉が今度は沙里の心を抉る。続けて、腹の底が熱くなる。その熱が蛇のような形となって、ぐねぐねと身を捩り、内臓を潰し、肉を押し、そしてどんどん上ってくる。それが喉へ達すると。彼女は一気に口から吐き出した。
「何よ、それ。看てるって、何? あたしがいつも何してんのか知ってんの? 夜中に起こされて体の向き変えてやって、体拭いてやって、下の世話だってしてやるんだよ。それに――」そこで言葉が突っかかる。沙里は、ごく、と唾の飲み、そして喉を収縮させて張り付く声を外へ押し出す。「セックスだって。あいつがしたいって言えば、セックスだってやってやんなきゃなんないんだよ。あいつの前で裸になって、モノをしゃぶってやんなきゃなんないんだよ。やるの? ねえ、お母さん、やってくれんの?」
 そんなことしたら、許さない。
 口から出たものとは裏腹な言葉が、沙里の心に滲んでくる。絶対に、許さない。
「やっぱり、疲れてるのよ」
 母の声の落ち着きが、やけに悔しい。
「少しゆっくりしなさい。大丈夫だから」
 母の言葉は静かだが、不思議な、強制力とでも言うべきものを含んでいる。仕方がない。沙里は言われるままに、祐介を母に任せることになってしまった。

 ほとんど追い出すようにして、沙里を出掛けさせると、彼女はすぐ、祐介のいるらしい寝室へ向かった。沙里は大丈夫だと言ってはいたが、自分の目で確かめないではいられないのだ。
 ドアに手をかけ開けると、薄闇が、しん、と迫ってくる。そこにある閉ざされたカーテンも、椅子も、ベッドも、こちら側とはどこか違った佇まいだ。胸に緊張の糸が伸びてくる。彼女は、きっ、と腹に力を入れて、足を踏み入れた。
 入ってしまうと、不思議と歩は速まる。一直線に部屋の奥まで行くと、カーテンを開けた。シャー、と金具がレールを滑る音が空気を切るように、響く。その音に目を覚ましたのか、ベッドから声が上がった。
「何してんだよ、閉めろよ!」
 以前、何度か話した時とは全く違う荒っぽい口調に、思考が凍り、一瞬心臓が飛び上がった。だが、すぐにそれは元の位置に収まり、思考も溶けてゆるりと流れはじめ――ふと、ある考えを捕まえた。沙里にはこんな風に話すんだ、この男は。
「閉めないわ。暗すぎるでしょ、この部屋」
「え」祐介の口から声が零れる。沙里ではないと気づいたようだ。
「沙里はいないわ。出掛けさせたの。ずっとこの家にいたんじゃ、息が詰まっちゃうもの」
 そう言う後に、沈黙が続く。その間に、彼女は、昼の白々した明かりではっきり見えるようになった彼の姿に、無意識に視線を走らせていた。
 天井を仰ぐ恰好で、彼は身じろぎもしない。はだけた掛布団がベッドの隅に投げ出されたままなのに、僅かに足に掛かるそれを、彼はどうすることもできないのだ。分かっていたつもりだったが、実際に目にすると急に事実が色付いていく。布団を剥ぎ取られたその体は――こんなに小さかったかな、という印象を彼女に与えた。腕や足が痩せたせいだろうが、それにしても一回り以上縮んでしまったように見える。
 きゅっと胸が痛くなる。
 すると、思いがけず、足が動きだしていた。ゆっくり、彼の姿を見つめながら、一歩、二歩、三歩。すぐそこまで来ると、彼女は彼の足もとでたぐまっている布団を、そっと、掛け直してやった。傷を隠してやるように。
「あ」
 その時、やっと、思うように首を回せない祐介にも、彼女の姿が認められたらしい。彼女が反射的に顔を向け、目が合うと、彼は眉を寄せて下唇を噛み、視線を落とす。それが布団の上を滑っているのを見るうちに、彼女の胸の痛みが和らいでいく。痩せはしても、彼の表情は健常者のそれと大きく変わりはしない。テレビのドキュメンタリー番組にあるような、呼吸器をつけ、瞬きでしか意思も感情も示せないほどには至っていないのだ。しばし置いて、
「すいません」
 祐介が言う。視線を落としたまま。耳に入って来たその声は、先ほどからは考えられないくらい、弱々しい。すると、なぜだか腹の底の焦慮が刺激された。その感じは、血と一緒に血管を流れるように、体中に伸びていく。熱い伏流が、彼女を静かな怒りに駆り立てる。だが、熱が頭まで回っていきそうになると――ふいに、理性の冷たさが邪魔をする。
 娘を不幸にしているこの男も、十二分に不幸なのだ。
「大丈夫なの?」
 結局、何も言葉が思い当らず、彼女は無難な選択をする。
「何がですか?」
 祐介は、やっと彼女に視線を向け、眉を下げた定まらない表情で返してくる。その瞳を見ていると、なにやら切なくなってきて、彼女は目を逸らしてしまった。仕方なく、彼の体を覆い隠す布団を見つめながら、言葉を絞り出す。
「色々あるでしょう? あなたも沙里も、大丈夫じゃないことが」
「オレは大丈夫です」
 すぐさま声が返ってくる。その意外なまでの速さに彼女は思わず顔を向ける。
「――それに、沙里だって、きっと大丈夫です。オレらはオレらで、ちゃんとやってけます」
 彼の言葉は彼女の脳に溶け込み、深く刻まれていく。それに従い、再び、内腑に熱さが生まれ、次いでその熱は風船のように膨張していった。そして、最後には、ぱんっ、と裂して、理性の冷たさを突き破った。
「大丈夫? 沙里が大丈夫だって言うの? そんなのあなたの勝手な思い込みでしょ? あの子は全然、全然、大丈夫なんかじゃないわ。分かってるでしょ? 今日、何があったかだって聞いてるの、私は。あの子にあんなことさせるほど、追い詰めてるじゃない。どこが大丈夫なのよ?」
 言ってしまってから、静寂が耳に付いた。しまった、という後悔が胸にじわりと滲んでくる。
「でも、大丈夫です」
 祐介が言う。静かで、淡々とした、揺らぎのない声。その声の毅然さが彼女の胸に落ちて来、心にさざ波を生んだ。声が詰まって出なくなり、ふと、視線に意識を向けると、彼のそれとぶつかって、はたと気が付く。彼の目の中の意志の色に。それが眩しく、痛く、彼女は目を落とす。
「オレ、決めてることがあるんです」
 祐介の声が再び飛び込んできて、彼女の臆病な部分が、びく、と強張る。
「呼吸器はつけないって」
 鳩尾にパンチを食らったようになった。ALSの患者は呼吸筋力も侵されていき、遅かれ早かれ、自力で息をすることはできなくなる。人工呼吸器をつけない、というのは、死を意味するのだ。
「オレの介護に二十四時間つきっきりなんて、沙里に出来ないの分かってるし、他人にやられんのはオレが嫌なんです。それに、オレが早く死んだ方が沙里も変に気兼ねしないで新しい男作れるし。その方がオレも気が楽なんですよ――」
 祐介の言い方は他人事を語るみたいにあっさりとしており、口元には微かに笑みまで浮かんでいる。その、なんでもないような様子が、彼女の心に沁みる。まるで酸をかけられたように。じわじわと痛みが触手を伸ばしていく。聞いていられなくて、つい、彼を遮り、声を上げてしまった。
「沙里に何て言ったの?」
 刹那、祐介の口元の笑みが消え、表情が強張る。それを認めると、彼女はすぐ悔いたが、もう遅い。無言で彼女を捕える彼の視線は、言葉の真意を求めて動かない。仕方なく、彼女は、ふう、と息をついてから、喉に詰まる声を絞り出す。
「沙里が言ってたのよ。あなたに今日、いろいろ言われたって。それで――あんなことしたんだって」
 彼女が言葉を切ると、寸秒、彼は視線をゆらゆらと宙に漂わせてから、別に、と口から零すようにして言う。
 その瞬間、彼女の心に事実が降ってきた。
 彼の言葉は、ただのきれいごとだ。自分をいい人間だと思うことで、自己満足に浸る、そのための空論だ。自慰行為と同じだ。そんなことのために、沙里を利用しているのだ。
「呼吸器つけないとか、新しい男作った方がいいとかね、沙里を自由にしてあげたいって、そういう意味で言ってるんでしょ?」気が付くと、彼女は話しだしていた。「でもね、本当はそんなこと思ってないんじゃない? ただ、自分はいい人だって、思いたいだけなんでしょう? だって、本当にあの子のこと思って、自分じゃない誰かと幸せになってほしいって思ってるんなら、未だにセックス要求したり、しないでしょ? 沙里が自分を見失っちゃうほど、ひどいこと言わないでしょ?――」
 彼女が言葉を放つ度、祐介の眉尻は下がっていく。そのうち口が薄く開かれたが、しかし、それは彼女の言葉に阻まれているのか、何も言えない。ただ弱々しく呼吸に合わせるように開閉するだけだ。彼のその様子に、彼女は言葉を切る。言いたいことがあるなら、言えばいい。そんな気持ちで彼を見つめる。彼女と視線がぶつかると、祐介は慌てた様子で目を逸らし、宙空でおぼつかなげに彷徨わせる。だが、彼がそうしても、彼女は許さない。無言で彼を正視し続ける。すぐに割れてしまいそうなほど薄く、空間が凍りついていく。それを肌に感じながら、彼女は押し黙り、見つめ続けた。
 しばし置いて、
「当たってます」硝子ほどにもろい沈黙を、壊してしまうことを恐れるように、細い声で祐介が話し始めた。
「病気になって、体動かせなくなって、オレ、すごく情けないっていうか、そんな気分になって……。だから、変ですけど、優しくしたり、思いやってるっぽいこと言ってみたりすると、なんか、優越感みたいなのが湧いてきて、気分良くなるんです。逆に、むしゃくしゃしてひどいこと言って、ああダメだなって思った後は、優しくしないと、自分が嫌な奴に思えるんです。自分の変なプライドのために、優しいこと言ってるっていう部分は、あります。だから、それは本当に当たってます、けど――それだけじゃ、ないです」祐介は一度、話すのを止め、上の歯で下唇を噛むと、視線を下に向け、
「本心の部分だって、あります……」
 また、寸秒言葉が途切れる。
「それに、セックスしたいっていうのは、ただ、生きてるって思いたいんです。実感したいんです。たまに、どうしようもなく不安になって、なんか、うまく言えないんですけど、死んでるみたいな気分になるんです。オレはちゃんといろいろ思ってるのに、なのに、こうしたいと思っても体は全然動かなくて、なんにもできなくて、それで、自分のしようと思うことが、全部本当はないことみたいな気がして。叫んでも誰にも聞こえないんじゃないかっていうか――なんか、宇宙にいるみたいに、声が全部暗闇に呑み込まれちゃうような、そんな気がして、自分は存在しないんだって、そんな気持ちになるんです。急に怖くなったりするんです。だから、怖くて、自分の思ってることを、周りに分かってもらいたくて、いろいろ話すようになったんです。でも、話してうまく伝わらなかったりすると……すごく、いらいらするんです。本当にすごく。それで怒鳴ったり、ひどいこと言ったり、します。で、不安でどうしようもなくなると……自分はいるんだって確かめたくて、なんて言うか、生きてる感を確かめたくて――フェラしてもらって気持ち良かったりすると、なんか、安心するんです。ああ、オレはちゃんといるんだなって、思えるんです」
 祐介は言葉を切り、やはり何もない空間を見つめる。しかし、その視線は先ほどとは違い、揺れてはいない。宙空の一点に留めた眼差しは、そこに何かを、物体ではない何かを、求めるように、見出そうとするかのように、てらてらと光っている。そんな風に彼女には見える。そうしていると、また、祐介が口を開いた。
「オレ、沙里のことが好きなんですよ」
 その言葉が唐突だったせいで、彼女の胸で心臓が小さく跳ね上がる。続けて、言葉の意味がじんわり脳に溶け入ってきて、それに合わせるように、飛び上がった心臓が所定の位置に収まり、鼓動を落ち着かせていく。どく、どく、どく、と。彼の方へ目を向ける。
「高校の頃、オレ、結構モテたんですよ。バスケの試合の後、しょっちゅう後輩とか他校の子から告白されたり、バレンタインの時にチョコと一緒にラブレター貰ったり。沙里の前に付き合ってた子も結構いたんですよ。オレ、キホン、エロいからエッチもたくさんしたし。でも、セックスなんてできれば相手なんて誰でもいいんですよ、オレは。だから、本当に好きな子とそうじゃない子って、よく分かんなくて、だから――」
 祐介は一度言葉を切ると、ふう、と息をつく。
「それでこう考えてみたんです。セックスなんてしなくても、エロいとこ見なくても、好きだって思える子は誰かなって。そしたら、沙里だったんですよ」
 彼はそこで止め、面映ゆげに下唇を噛む。
「矛盾してますよね。セックスしなくても好きって言ってんのに、セックス要求してんだから。でも、今のオレにとっては、セックスって自分の存在確認みたいなもんなんです。沙里がどうこうじゃなく。でも、オレは沙里が好きだから、他の誰かにやられんだったら、沙里にしてもらいたいんです。沙里と一緒にいたいんです。二人でいたいんです。なんか、急にむしゃくしゃして、ひどいことも言っちゃうけど、でも、気をつけます。なるべく言わないようにします。だから、今まで通り、二人でいさせてください。呼吸器つけないなら、あと一年とか、二年とか、長くてそのくらいですよ、きっと。だから、その間はオレの好きなようにさせてください」
 祐介の声は、彼女の心に直に来た。ぎゅっと締め付けられた胸の中で、どくどくいう鼓動がやけに際立つ。
「ごめんなさい」
 他に言いようがなくて、彼女はそう口にする。彼は、別に、と返してから、すっ、と目を逸らし、そして、「ありがとうございます」
 虚を突かれたようになり、彼女が思わず、え、と口から漏らすと、彼はこう言う。
「聞いてくれたから」
 その言葉に、なにやら胸の締め付けが緩くなった。彼女は視線を下げる祐介を見つめて、「こっちこそ、話してくれて、ありがとう」
 しばらくして、彼女は沙里に連絡を取った。そろそろ帰って来なさい、と。沙里は分かったと応えたが、一時間しても戻らない。電話しても繋がらなかった。
「久しぶりの外出だから、沙里もゆっくりしたいんですよ。別にオレなら平気だし、お義母さんも帰った方がいいですよ。お義父さんも帰ってくるかもしれないし」
 祐介の言葉はありがたかった。何よりも、それが気にかかってしまったのだ。つまり、夫が帰ってくるということが。今から帰れば、大丈夫だろう。
 心に一抹の後ろめたさを感じながら、彼女は娘夫婦の家を後にした。その時になってようやく、祐介が沙里に対して恨み言の一つも口にしなかったことに気が付いた。普段のことならまだしも、今日のあの出来事に対して、一度も沙里を責めるようなことを言わなかった。彼自身がそのことによって責められたというのに。彼女の胃がぎゅっと縮まり、胸が突かれたように痛む。下から上へやり切れない感情がせり上がってきて、目頭を熱くした。

 自宅を出てしばらく、ぶらぶらと歩いていた沙里だが、なんだか手持ち無沙汰な感じが拭えず、すぐに実家へ歩を向けた。鍵は、以前、母から一つ預かっていて、いつも使うキーケースに入っている。それを使い、二十年以上を共に過ごしてきた家に、久々に足を踏み入れていた。
 母から連絡を受けても、このまま自宅に戻る気になど、ならなかった。どうしても確かめたいことができたのだ。リビングのテーブルにつき、そこに肘を立てた状態で、まるで祈るように口元の辺りで両手の指を絡め、その上から視線を彷徨わせる。そうやって、ただ母を待っていた。
 しばらくすると、玄関から、キンッ、という金属音が響いて来、沙里の心臓を引掻く。帰ってきた。そう思うと体に電気が通ったようになる。身を強張らせ、耳をじっと傾ける。カチョン、という音に続けて、ドアの軋み、それに混じり外の喧騒が流れ込んでくるが、すぐにそれらはバタンと遮断される。沙里はいないと思っている母の様子は、構えなく、ゆったりとしている。気配で分かる。息を殺すようにして、待つ。
 母の姿がリビングのドアのところに現われる。沙里の腹にいっそう力が入る。母は、寸秒、繕わず、力を抜いたままだったが、視線を上げた瞬間、沙里のそれとぶつかり、目を大きく開く。
「家に来てたの?」
 やや上ずった声で言われたが、沙里は表情を崩さず、視線を母に定めたまま、うん、とだけ返す。それから、目をテーブルの上に積まれている手紙の束に移して、言う。
「何? これ」
 その一瞬で、母の表情が変わる。ざっと、その顔の上に降りてきたのは、緊張だとか危機感だとかそういった類のものと、驚きとが混ざり合った、どこか定まらない表情だった。目はさらに大きく開かれている。
「それは――中、よん……」
「読んだ」
 母を遮って、沙里が言う。母は視線を下げ、うろうろと彷徨わせながら、薄く口を開く。しかし、言葉が思い当らないらしく、その口からは、何も出ない。
「お母さんのこと、美沙子って、名前で書いてたね、その人」
 沙里はそう言いながら、胸に小さな痛みを覚える。この手紙で母の名を目にした時と、同じ痛みだ。これまで、彼女にとって、母は母でしかなかった。常に傍にいて寄りかかれる、何があっても許してくれるし、味方でいてくれるし、面倒を見てくれる、「お母さん」という存在だった。沙里だけでなくみんなから、そう呼ばれていた。だから、「美沙子」という名を見た時、一瞬誰のことか分からなかった。すぐに思考が追い付いてきて、母のことだと気付いたが、母が親戚以外からそう呼ばれるのをほとんど初めて目にした彼女は――突然に隔たりを感じた。自分の知っている母とは別の人、自分の知らない母の一面、それを目の当たりにしたのだ。そして、この手紙の主は、そんな母のことをよく知っている。彼女の知らない、触れたことのない母と通じている。母を取られた気がした。
「……その人のこと、聞きたい?」
 その言葉の輪郭は、沙里の耳にあまりにもくっきりと滑りこんで、すぐに頭がその意味を捕まえる。鼓動が強く胸を打つ。心臓の位置がはっきり分かるほどに。聞きたいかどうかなんて、分かる訳がない。考えてもみなかったのだ。母を責めたい気持ちはあったが、それがこの手紙の男のことを聞くことなのだと、彼女はやっと気が付いた。沙里が黙っていると、母は勝手に話しだした。
「その人は柏原さんっていって、会ったのは十何年か前かな。覚えてないだろうけど、あなたとお父さんが修学旅行とか出張とかで、いない時があってね、たまたまその日に引っ越しの挨拶に来たのよ」
 母は息を止め、一度、大きく深呼吸する。そして、沙里の顔に目を留め、再び話し始める。
「ご近所づきあいは、そりゃ、いろいろあったけど、でも、家族以外の男の人と二人きりで話すって、家庭に入っちゃうとね、あんまりなくなるのよ。だから、ちょっとね、はじめ新鮮だったんだと思う。それでね――名前で、下の名前で呼んでくれたのよ、その人。あんたの言う通りね、名前で呼ぶ人って、いないでしょ? それがね、嬉しかったっていうか、そんな感じだったのね」
 また、母は言葉を切ると、視線を何もない空間に向ける。そこに思い出を描くように。
「二人で、しばらく話してたんだけどね、そのうち、なんて言うか――すごく懐かしい気分になったのよ。はじめて会ったのに変なんだけどね、とにかく、話しててすごく楽しかった。ずっと、頭の深い所で眠ってて、私自身忘れてた感覚がね、こう、急に目覚めてきたみたいだった。それでね、その日、一人で布団に入って天井を見てたら、気が付いたの。懐かしかったのはあの人じゃなくて、私自身なんだって。結婚してから、ずっと、ずっと、しまわれていた、妻でも母でもない部分がね、やっと表に出ることができたの。あの話してたちょっとの時間、昔の自分に戻れたのよ」
 母は言葉を切り、ふう、とため息をつく。その目は蛍光灯の光を反射し、ぼう、と不思議に輝いている。その輝きの先にはテーブルがあるが、母の目はもっと別のものを、もっと遠いところに見ているように、沙里の目には映る。沙里も、はあ、と息を吐いてから、
「要するに、結婚生活が不幸だったんだ」
 母の目から不思議な光が消え、代わって驚きに目を見開いた。心を遠くに泳がせていた人が、急に現実に引き戻された時の表情だ。驚きが、ゆっくりと瞳に被さる瞼に吸い込まれていくのを、沙里は眺める。
「そういうんじゃないのよ」
 母が再び話し始める。
「私だけじゃなく、みんな同じような面があるのよ。お父さんみたいな家庭を持つ社会人だったらね、会社での役職とか、父親であることに縛られるの。縛られて、そうじゃない自由な一面は出せないまま、出せないから気づいてさえもらえないまま、時間が過ぎていって、そのうちもうその出し方も忘れちゃうのよ。だから、そういう一面を引き出されたらね、もう失いたくなくなるの。引き出してくれた人も、引き出された自分も。それでね、私はその柏原さんと何度も会うようになった。言っちゃえば不倫してたのね。でも、一年経たないうちに、柏原さんがまた仕事の関係で引っ越すことになってね、それで手紙を送ってきてくれるようになったの。ほとんど会わないけど、手紙のやり取りだけは続いてるのよ」
「で、たまに会って、自分は女だって思わせてもらってるわけだ」
 母が話しを区切ったので、沙里は嫌味ったらしく付け加えた。ありったけの嫌悪を込めて。
「お母さんの話は勝手だよ。だって、その柏原さんじゃなくても、誰でも、妻でも母でもない、女を思い出させてくれる人だったら、誰でも良かったんでしょ? そんなの愛でも恋でもなく、ただの自己満足じゃん。そんなののために十年以上も手紙送ってきてくれるなんて、その柏原さんも変だよ。本当に、変だよ。お父さんにもさ、悪いじゃん。裏切ってんじゃん。なのに、抑圧された主婦の葛藤、みたいなもので、全部きれいに見せようとしてんじゃない? そういう話し方だよ、お母さんのは」
 母は表情を固めたまま、ただじっと、沙里を見つめ返してくる。言葉を口に出す度、沙里にはその視線が痛くなっていった。
「あんたの言う通りよ、本当に、そう。お父さんにも柏原さんにも不誠実だし、自分勝手よ、私は。でもね、柏原さんに会ったから、柏原さんの手紙があったから、私は、今こうして普通にしていられる。手紙が支えなのよ。そうじゃなかったらね、私の自由な部分は完全になくなってしまってたわ。母であって妻であって、そういう義務的な、張りつめた中でしかいられなかった。それで、あなたがこうやって大人になって、お父さんはやっぱり仕事であまり家にいない、今みたいな時になったら、もう昔の感覚が思い出せなくて、一人の時にも妻や母って席から、立ちあがることができなかった、きっとね」
 母は言葉を切ると、沙里の顔を、じっと見据える。そこに共感のようなものを見つけようとしている、そんな風に沙里には映って、嫌悪感が背筋を上ってくる。
「あなたも、祐介君に何かあった時、きっと分かる。彼を看病する以外、何したらいいか分からなくなる。だから、誰か別の人見つけたっていいんだよ。私と違って、あなたには理由があるんだから」
 鳩尾にパンチを食らったような衝撃――続けて反発心が体中を駆け巡った。
「あたしは祐介と一緒にいることを義務だなんて思ってない。お母さんと一緒にしないで。あたしは、絶対に祐介を裏切ったりしない」
 声に出すと、自分の言葉が、意志が、胸に染みとおってくる。絶対に、そんなことしない。

 六時ごろ、沙里は家に戻った。祐介の様子が心配で、すぐに寝室へ行き、起こさないように、と明かりをつけずにベッドを覗き込む。彼は眠っていた。彼女はそっとベッドから離れようと体を起こす。が、ついベッドに掛けてしまった手を放すと、ギギ、とマットレスのバネが戻る音がし、祐介が目を開けた。
「ごめん」
 沙里が囁くと、祐介はしばし見つめてから、おかえり、と言う。
「どこ行ってたの?」
「別に、つまんないとこ」
 祐介は、ふうん、と言い、それから口の端を少し上げて、
「じゃあさ、今度、二人でどっか楽しいとこ、出掛けようよ。お前はさ、あの時のさ、初めて会った時の、ニルヴァーナのTシャツとか着てさ」
 それを聞くと、なぜか沙里の心臓がきゅっと縮まり、熱いものが湧いてきた。祐介はちゃんと覚えているんだ。いろんなことを、覚えていてくれるんだ。
「しゃぶってあげるよ」
 沙里はそう言って祐介の体に掛かる布団をどけ、ズボンを脱がせ始める。あてているおむつも取り、男性にしては細く少ない陰毛に埋もれるペニスを掴み、優しくしごきながら、
「私がしゃぶるのは祐介のだけだから。他の男のなんて、絶対やだ。祐介だけだよ」
 そう言って彼女は祐介のモノを口に含んだ。

 沙里が帰った後、彼女は手紙を全て寝室の洋箪笥の中にしまい、沙里からの電話の前にやりかけていた、夕食の準備の続きをした。それが終わると、再び寝室へ向かい、箪笥から手紙を一通取り出し、眺める。三年ほど前に送られてきたものだ。

――最近は寒いですが、体調の方は崩していませんか? 娘さんもご結婚されて、おめでたいですが、美沙子さんにとっては、これからしばらくは寂しい日々になるのだろうと、想像しています。僕は独り身なので、そういう寂しさを実感として、なかなか分からないのですが、正直羨ましくも思っています。ずっと独り身では分からない類の寂しさでしょう。寂しいというのは、きっと、人に囲まれた日々を送っていた人だけが感じられるものなのだと思います。昔、何かで『生まれつき盲目の子供は、盲目であると気付かない』というような言葉を目にしました。僕の孤独も似たようなもののように思います。美沙子さんと会って、はじめて、自分は孤独なのかもしれないと感じました。それに気づかせてくれたことに、僕はいつも感謝しています――

 もう何度も読み返しているので、内容は覚えてしまっている。だが、そのひとことひとことを目にすることで、心の深くから、昔に置いてきてしまった情熱のようなものがふつふつと湧き始め、体に新鮮な力がみなぎってくる。私は妻でも母でもない、美沙子という名の人間なのだという感覚、その一人の人間として、誰かに求められているのだという感覚が、生まれる。目がその文字の上を滑るうちに時間が過ぎ、夫が帰ってきて、やっと心はこの場に戻ってきた。
「おかえりなさい」
 そう言い、彼女は妻に戻る。
「今日は帆立のサラダよ。好きでしょ?」
 夫は、新聞紙をくしゃくしゃにしたような皺を顔中に作りながら笑う。
「ああ、ありがとう」
 ありがとう――そう言ってくれる夫は、きっと少ないに違いない。穏やかな、優しい、いい人。だから、そういうことじゃない。彼に不満があるとか、嫌いだとか、そんなわけではないのだ。沙里と祐介のような、若く不幸で熱い愛情ではないにしても、平凡な毎日を共にゆっくり過ごしていける、安心という類の愛情を、彼女ははっきりと夫に感じている。
 だが、安心だけでは足りないのだ。彼女の内の熱く奔放な、蜂蜜のような一面は、平凡な日々の生活の中に薄められてしまう。弾力も粘性もない自分の心に、彼女は自身を失ったような気分になる。役割に縛られている訳ではない、素の自分の感情を、しっかりと心で温め、噛みしめていられるような、そんな何かが、彼女には必要なのだ。そして、それを共有してくれる誰かが。たとえ、それが裏切りだったり、不誠実だったりしたとしても、どうしても。

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