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空を眺める。ちょうど、白や黒の絵の具が付いた筆をすすいだ水のように、濁った色が寒々しく頭上に広がっている。仕切られた車の窓からは、後ろへ流れていくはずの空が、ずっと同じに見えている。三時間前と変わらない、しみったれた空の色。周囲の景色は後ろへ、後ろへ、流れていくのに、空だけ見ているとまるで動いていないかのようだ。
直人は窓の外から視線を移し、運転席に座る女を見た。そう、直人には女にしか見えない。三時間ほど前、そいつに、車に乗せられてから、ずっと、濁った空とその下のうっすら鼠色の影がかかった街並みを見ているふりをしながら、質問する機会をうかがっているのだ。しかし、女にしか見えないそいつは、ただ、「お母さんの友達だから、一緒に来な」と言ったきり、きつく閉じた口を開こうとしないし、直人の方を見もしない。ただ、マネキンみたいに固まった表情のまま、道の先を見つめて、車を走らせている。
直人は大きく吸い込んだ息を吐きだして、胸に小さく決意を固めた。
「なあ、どこ行くんだよ?」
直人が言っても、そいつは聞こえなかったように、眉一つ動かさずに、相変わらず、ずっと先の方を見つめている。
「なあ、どこ行くんだって聞いてんだろ?」
やはり何も答えない。苛立ちが胸にずずずと広がった。直人は、ちっ、と舌打ちをすると、胸の苛立ちを吐き出すように、大きく吸い込んだ息を吐き、座席に深く体を沈めた。そして、また窓の外に顔を向けながら、舌打ちと同じように小さく、
「オカマ野郎」
すると、オカマ野郎はやっとマネキン顔を動かして、直人の方を見ると、
「今、なんつった?」
直人はオカマ野郎の方を見ながら、さっきよりはっきりと、
「オカマ野郎」
すると、そいつは車を道路の脇に寄せて、止まった。直人の胸にぞくりと冷たさが触れる。そいつは、道へ向けていたその目で、がちりと直人の視線をとらえた。さっき張った虚勢が一気に小さくなってしまう。
「誰がそう言った?」
「……母さん」
口を微かに動かして答えた。
「オカマ野郎って?」
「そうは言わないけど……」
それを聞くと、そいつは直人をとらえていた視線を再び前へ移した。胸の緊張がほどけ、直人は再び息をふうと吐いた。
「だったら、そんな風に言わないで。あたしには玲奈って名前があんだから」
――男なのに?――
出かかったその言葉を呑み込むと、それと一緒に気持ちの悪さが喉元に広がる。彼はそれを吐き出すように、また、大きく息を吐いた。
再び、車は濁った空の下、走り始めた。
それから、ひたすら前を見て車を走らせながら、玲奈は胸のムカつきを抑えていた。隣に座る、確か一三歳になるこの少年のことを意識すると、どうしてか苛立ってしまうのだ。それは彼の反抗的な態度のせいかもしれないし、この少年のことを任されたという重荷のせいかもしれない。
玲奈が直人を預かる羽目になったのは、つい数時間前のことだ。友人の美穂から電話があった。
お願いがあるの
美穂はそう言った。
直人のこと、連れて行って。姉のところへ行かされたら、あの子はきっと嫌な目に合う。だから、すぐ来て、直人を私の父のところへ連れて行って
美穂の様子は、おかしかった。玲奈は嫌な予感とともに、車で彼女の家へ駆けつけた。すると――
美穂は死んでいた。風呂の浴槽に、首を傾げた状態で頭を預け、うつろな目で天井を仰ぎ、首から赤い血を流して。手には剃刀が握られている。長い髪は湯船に浸り、まるで海藻のようにゆらゆら、ゆらゆら、揺蕩っている。屈折した光が水面をゆがませ髪の揺れをより大きくする。玲奈の目には、その長い髪の波うつ様子ばかりが映っていた。
玲奈は、浴槽にもたれかかっていた美穂の体を寝かせ、天井に向けられている曇った瞳に瞼をかぶせた。そして、警察に電話すると、女性が自殺していることを告げ、そのまま電話を切った。それから、すぐに二階へ向かい、ベッドで眠る少年を見つけると、ゆすって起こし、
「お母さんの友達だから、一緒に来な」
そう言って、彼を連れてきたのだ。この少年は、まだ、何も知らない。
車が走っていくうちに、少しずつ太陽が上の方へのぼり、濁っていた空の色を明るくする。周囲の街並みにも、透明な光が差し始め、どんよりとした影がだんだんに引いていく。光に照らされて、道路も街路樹も道の両側の建物も、鮮やかな色を見せ始めた。
外が明るくなってくると、車の中にも光が差し込んで、まぶしくなった。直人は目を細めて、そのまぶしさを遮る。胸のムカつきが、何だか少し引いたように感じた。そして、ふと、すごく眠くなっていることに気が付いた。このオカマや……いや、玲奈って人に、まだ暗いうちにたたき起こされて、そのままずっと、起きていたのだ。目を細めていたせいもあり、急にまぶたが重くなってくる。視界が狭くなっていき、そのうちぴたりとまぶたは閉じられ、その外側でまぶしさが差しているのを感じながら、いつの間にか彼は眠りに落ちていた。
直人が目を覚ましたころには、あたりはすっかり昼の温かい光に包まれていた。それが意識に入って来たのに続けて、自分に掛けられているコートに気が付く。おそらく、玲奈って人が掛けてくれたのだろう。あれ? そーいや、あの人、いないな……。そう思ったのと同時に、こんこん、とくぐもった音が、左手から聞こえた。
音の方に顔を向けると、窓の向こうで玲奈って人がこっちを向いていた。窓を開けると、
「腹減ってんでしょ? 食いな」
そう言って、玲奈はフランクフルトを手渡してくれた。
「ありがと」
口をついて、そんな言葉が出てしまった。しまった、という思いを胸に感じながらも、確かに腹は減っていたのでフランクフルトを受け取る。
それから玲奈って人は再び車の中に乗り込んで、エンジンをかける。
「あんたは食ったの?」
直人が聞くと
「あたしは肉は食べないの」
「別にフランクフルトじゃなくても、なんかあんじゃないの?」
「いいから、さっさと食いな」
玲奈は、フロントガラスを見つめながらそう言うと、車を発進させた。
それから、無言の車の中、直人がフランクフルトを噛むくちゃくちゃという音ばかりが響いていた。その音に玲奈の胸で張りつめている細い糸が刺激され、
「ねえ、もっと静かに食べれないの?」
苛立って言うと直人は
「何? しゃべってないよ」
玲奈は、はあ、とため息をついた。このガキには日本語が通じないのかもしれない。
玲奈がまた黙ってしまったので、直人は、その言葉をさして気にも留めず、再びくちゃくちゃと音をさせながらフランクフルトを食べ続けた。
それから、ほんのわずかの間に、フランクフルトはなくなってしまった。まだ満腹には程遠く、彼は名残惜しい気持で、残っている脂っこさを口の中で転がしていた。で、そうしているうちに、ふと、何もすることがないのに気がつく。何にも、本当になんにもすることがないのだ。舌に残った旨みもすぐに消えてしまい、完全に手持無沙汰になってしまった彼は、仕方なく、肘のところにできたかさぶたを爪でひっかいてはがし始めた。すると
「やめな」
玲奈の声に彼の手がぴたりと止まった。
「なんで?」
「余計ひどくなるよ」
「別にいーじゃん」
「いいからやめな。目障りだよ」
――と、直人の胸に火の粉が舞い飛んだように、小さく怒りが燃えた。
「目障りってなんだよ? 勝手に連れ出しといて、勝手なこと言ってんなよ」
直人はそう言って、玲奈の方を睨みつけた。が、玲奈はその言葉が聞こえなかったかのように、何も言わず、ただ前を見て運転を続けている。直人の胸の怒りはじりりと広がっていく。で、その怒りに押されて、彼はまた肘のかさぶたをはがし始めた。ちらりちらりと玲奈の方を気にしながら。でも、玲奈はもう、かさぶたについては何も言ってこなかった。ただ、前を見て車を走らせていく。
それからしばらくすると、前方にスターバックスの看板が見えてきた。
「ねえ、オレ、車乗ってんの疲れた。スタバ寄ろうよ」
その言葉と、不満めいた言い方が、玲奈の癇に障った。どっちの方が疲れてると思ってんだ、このガキ。が、そうは言っても、玲奈自身本当に疲れていた。直人の言う通りにするのは癪ではあったが、寄っていくことにした。
店内に入るなり、むわっとするほどの熱気。空気も湿っていて、そのうちに汗がにじんできそうだった。列の最後尾に並び、
「あんた、なんにすんの?」
玲奈が聞くと
「んーと、キャラメル・フラペチーノ」
「ちょっと、冷えるよ」
「別にヘーキだよ。暑いじゃん、ここ。」
「でも、夏じゃないんだから、絶対、後になって寒くなるから。」
そうして、直人はキャラメル・フラペチーノを、玲奈はブレンドコーヒーを頼んだ。
二人は黙ってそれぞれの注文品を飲んで――フラペチーノは「食べる」か――いた。向き合って座ると並んでいた時よりも気まずい。ずしりと重い沈黙が二人の間に生まれた。そんな中、この少年を目の前にしているからだろうか、玲奈の頭には、しばらく気になっていたことがさらに色濃く浮かんできていた。しかし、沈黙の重さに、それはなかなか口から出ない。と、直人の方が先に、
「母さん、また入院したの?」
その言葉が玲奈の胸にずぶりと刺さった。
「あ……うん」
意識よりも先に、言葉が出てしまった。
「だよな……最近やばかったもん。雨降ってたり、寒かったりするだけで、すぐ泣いたり騒いだりしてさ……」
そう言うと同時に、直人は目の中が熱くなり、鼻の奥にもつんとした痛みさした。が、同時に玲奈の視線を感じて、顔に熱さが上ってくる。すぐに彼は話題を変えようと、
「あのさ……小学校の文化祭でさ、クラスの出し物で、こういうコーヒーショップ的なのやったんだ」
話し始めると、先ほどの目ににじんだ涙は嘘のようにすうっと目の奥へ消えていった。顔の熱さも引いていき、さらさらと言葉が出ていく。
「魔法使い的な感じの店でさ、ごみ袋で黒マント作って、お化け屋敷みたいな感じの飾りにして、面白かったよ」
「そう……」
玲奈の方は、胸に受けた言葉の重さが簡単には引かない。直人の言葉と真実がずしりと心にのしかかったままだった。いろいろな真実。それをこの子に伝えることが、自分にできるのだろうか?
直人はぺらぺらと話し続けた。さっきまでがあまりにも暇だったからかもしれない。話すのがすごく楽しかった。たとえ相手がオカマ野郎でも。
「近所にさ、パソコン教室みたいなのがあって、その名前がさ『パソコン太郎』ってゆーんだ。だっせえだろ? しかも、畳の教室でさ、なんつーんだっけ、なんか江戸時代とかでやってた、寺子屋? 的な、そんな感じなんだよ。パソコン教室のくせに」
直人はしばらく、自分が話すのに夢中になっていた。が、だんだんと玲奈の様子がさっきまでと違ってきたことに気付いていった。
――眠いのかな?――
そう思って、直人は話すのをやめ、ストローを咥えてフラペチーノをすする。どろりして、でも冷たくて甘い味。甘くて、冷たくて、冷たい。しばらく黙ってその甘さを口の中で楽しみながら、唇がひやりとしてくるのを感じていると――玲奈が頬杖をついて、目をつぶっている。直人はそっと起こさないように席を立ち、カウンターへ行くと、ホットカフェオレを注文した。
玲奈が目覚めたのは、それから大分経ってからだ。もう周りの客はほとんど帰ってしまっていた。がらんとした店内では、店員同士が話す声ばかりが聞こえてくる。
「結構寝てたね」
声がした方を向くと、直人が隣のテーブルに座って――煙草を吸っている。
「オカマって、いびきとかすごいんだと思ってたけど、全然掻いてなかった。すげー意外」
玲奈は、直人の手から煙草をひったくると、すぐに火を消す。
「あんた、十三でしょ?」
「来月で一四だよ」
「同じだよ」
玲奈の言葉で、直人の胸にはまた火の粉が舞い飛んできた。
「違う、全然違う。中一と中二だよ? 一年は、ぜってえ、レギュラー取れねえし。身長だって……」
「そういう話じゃないでしょ?」
玲奈はふうとため息をつきながら言った。煙草吸うなって話がなんで部活のレギュラーの話になるんだろう? よく分かんないガキだな、ホントに。
それから、二人は再び車に乗って進んだ。先ほどのやり取りですっかり機嫌を損ねた直人は、ふてくされて寝てしまっている。その間にどんどん、道を進んでいく。
玲奈は考えた。どうやって教えよう。いろいろなことを。母が死んだと知ったら、この子はどうなってしまうんだろう? 自分の父親のことを知ったら、どんな反応をするんだろう? そんなことを考えながら、暗い道を進んでいった。
直人は起きるとすぐに、ぼんやりした頭の隅の方で違和感を覚えた。辺りがやけに暗い。スタバを出た時から暗くはなっていたのだが、どうも、暗すぎる……。隣の玲奈の顔も、暗い影のようで、はっきり見えない。何だろう? 思っているうちに、だんだんと思考が活動を始め、周りの様子を認識していく。と、カチリと気が付いた。街灯がないんだ。その答えに行きつくと、すぐさま、頭にふうっと新たな疑問が湧いてくる。ここはどの辺なんだろう?
「なあ、ここ、どこだよ?」
直人が言うと
「ああ、起きたの」
直人の胸に苛立ちの芽が出る。
「だから、ここどこだよ?」
「富士吉田」
「富士吉田って、どこ?」
「山梨だよ」
直人の頭に再び疑問が湧いてくる。なんで山梨なんかにいるんだ? それを聞こうとして玲奈の方を向くと、ちょうど街灯に照らされて、顔がはっきりと見えた。それは本当に……きれいだった。で、それを見るとさっき頭に浮かんだ疑問より、ずっと、大きな疑問が湧いてきて、
「ねえ、あんたさあ、ホントに、下付いてんの?」
玲奈は心臓を鷲づかみにされたような驚きを感じて、直人の方を見た。少年は、本当に少年らしい、素朴な顔を浮かべてこちらを見ている。それを見ると、驚きがゆるりと心になじんでいって、
「ついてるよ」
「見せてよ」
直人の表情は先ほどと同じ、素朴でまじめな顔をしている。その顔と彼の言葉を思うと、腹の方から笑いが込み上げてきた。それが、顔にも出てしまっていたんだろう、直人は、
「何笑ってんだよ?」
「ん? 別に、面白いこと言うなと思って」
「バカにしてんの?」
「違うよ」
玲奈は言うと、少し間を置いてから、にこりと笑うと、
「煙草が吸える年になったら、しゃぶらせてあげるよ」
それから、車を走らせ続けると――目的地。
玲奈は車を止めると、
「ここでちょっと待ってな」
そう言って、目の前の小さなアパートの方へ歩いていった。
インターホンを押す。と、一瞬の間を置いて、ドアの向こうから人の動く気配がした。そのまま待っていると、
ドアがガチャリと開いた。
出てきたのは、老人だった。彼は玲奈を見ると
「どなたですか?」
玲奈……という名前をごくりと呑み込み、
「玲二です。美穂さんの、友人の……」
――と、老人の表情が急に険しくなる。眉間に深くしわが刻まれ、そのしわと同化しそうなほど細めた瞼の隙間から、玲奈を睨みつけた。
「何の用だ?」
玲奈はふうと息を吐きだし、心を落ち着けようと、何とか整理しようとする。が、やはり心はぐらりぐらりと支えを失ったように揺れ動いてしまう。
「美穂さんが、亡くなりました。自殺です。彼女は、私に子供をあなたのところへ届けてほしいと言いました……」
老人は目を細めたまま、吐き捨てるように言った。
「無責任なことだな」
そう言って少し間を置いてから、再び、
「自分の子なのに、オレに渡すのか?」
言われると、胸に熱さがせりあがってきた。それはどんどん上がってきて、どんどん熱くなって……それに押し出されるように、思わず声を荒げた。
「私だって、手放したくないんですよ」
そう言ってしまうと、玲奈は頭をうなだれて
「憎たらしいくらい、かわいい子なんですよ」
玲奈の耳に棘のある声が届いてくる。
「そりゃそうだ。美穂の子だからな」
老人は、そう言うと少し黙っていたが、そのうち
「その子は知ってるのか? お前のこと」
玲奈は首をふった。
「美穂のことも……知りません」
「全部オレに押しつけていくわけだな」
玲奈はただ地面を見つめた。老人の言う通りだった。自分では言えない。言って、直人がどんな顔をするかが、言うことで自分が憎まれるのが、怖い。美穂が死んだと言ったら、直人はどんな顔で私を恨むのだろう? 父親がニューハーフだと知ったら、彼は彼自身のことをどう思うだろう。言わないでほしい。せめて、私のことだけは。
「私のことは、黙っていてください」
「当たり前だ」
老人が突き放すように言うのを聞くと……、矛盾している、胸に一抹の寂しさが生まれた。直人との唯一のつながりが、断たれたのだ。玲奈はうなだれたまま、
「直人を呼んできます」
直人は座席に深く体を沈めて外を見ていたが、やっと、玲奈の姿が見えると、ちっ、と舌打ちをして「やっと来た」
玲奈は助手席のドアを開けながら
「ごめんね、遅くて」
「ホントだよ」
直人はドアから出ながら言った。それから、玲奈がやって来た方向を眺めて
「あのじいさん、誰?」
「あんたのおじいちゃんだよ。お母さんの、お父さん」
直人は目を大きくして、再び老人の方を見ると、
「でも、じいちゃんもばあちゃんも、いないっつってたよ」
玲奈は、ふう、と息を吐き
「いるんだよ、ちゃんと」
そう、いるんだよ、ちゃんと。
直人は老人に向けていた視線を、玲奈の方に移した。
「あの人のところに行くってことは、母さんの入院、今度は結構長いんだな……」
玲奈の胸に、その言葉は再びずぶりと刺さった。奥の方まで貫くように、ずぶりと。その素朴な考えの後ろには、玲奈の身勝手さが潜んでいた。憎まれたくないから、言わない。それが、後に直人やあの老人を傷つけることになると分かっていても、どうしても、言えない。その代りに
「じゃあ、私はもう行くから」
玲奈がそう言うと、直人はさっきよりずっと目を大きくして、
「え? 行くって?」
「あんたは、おじいちゃんと二人で暮らすんだよ。私は戻らないと」
直人の驚きは次第に歪んでいき、眉をひそめた表情に変わっていった。
「一緒にいてくれるんだと思ってた……」
再び胸にずぶり――
「向こうで、仕事とかあんだもんな……。そりゃ、そうか……」
言いながら直人はうつむいた。目に再びじわりと涙がにじんでくる――が、彼は思い立ったように顔をあげると、潤んだ瞳で、でも、精いっぱい口元を吊り上げて生意気な笑顔を作りながら、
「じゃあ、大人になったら、しゃぶりに行くから、待ってろよ?」
その言葉に、玲奈の胸にほわりと明かりがともった。その温かさで、心がほどけていく――
「直人……」
気づいたら、直人の名が口から零れていた。それと同時に目からも涙が溢れてくる。
「オレさ、母さんが自分のことでいっぱいいっぱいだったから、大人とずっと一緒にいて、こんなに話したこと、なかったんだ。面白かったよ、オカマだけど」
きっとその記録はすぐに塗り替えられる。向こうにいる老人と、直人はずっと一緒に暮らすんだから。でも、今のところ私が記録保持者なんだ。なら、それでいい。
玲奈と直人はそこで別れた。
直人は老人のアパートへ向かいながらポケットに手を入れる。そこに入っている煙草の箱を取り出しかけて――
大人になってからだ
そう思って、再びポケットにしまい直した。
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