バナナフィッシュの世界―小説と映画の小部屋―

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『純粋のかけら』

 

 朝起きて、私がまずすることは、掃除だ。掃除機を使うと埃が舞い上がるので、クイックルワイパーで部屋の隅々まで拭いていく。角のところはワイパーの先が届きにくいので、何度か向きを変えて、三角形の白い埃を掻きだしていく。それを一通り終えると、今度はハンディモップでもって、本棚、タンス、パソコンデスク、テレビとその台などの汚れを絡めとるのだが、パソコンのキーボードの隙間や本棚のガラス戸の溝は、やはり埃がたまっていて――特に本棚の溝は白い埃が若干黒みを帯びるほどにたまっていることもある――濡れティッシュを使って、丹念に溝をなぞっていかなくてはならない。それから、食卓テーブルを布巾でざっと拭いてから、台所へ行くと、昨晩洗って乾かしておいた食器を、音をたてないように、そっと、棚に並べていき、朝のひと仕事は終了する。

 それから、料理に取り掛かりながら、コンロのまわりが、はねた油で黄ばんでいるのに心が留まり、胸にぽつんと黒い染みが生まれる。あ、今度きれいにしなくちゃ。その思いはぽつんとしていたが、しかし、鮮やかに心の片隅で、私自身を見つめている。

 こういう類の染みが、私にはいくつもある。昨日は風呂場の排水溝に髪の毛がたまっていて、すぐにとったのだが、気が付くと、また一、二本の細くて柔らかいうねった髪の毛が、排水溝の入り口にへばりついているのだ。それに、家の外の花壇に植わったパンジーも、一列にきれいに並べて植えたつもりだったのに、なぜか四方八方から芽が出てしまい、その上、色もばらばらで、何とも恰好悪い。これを外から見る人がいるのだという思いが頭をかすめると、心の染みは、まるで白い紙にインクが染み広がっていくように、大きくなった。

 だが、最も大きな染みは別のものだった。小学校二年生の息子だ。いや、息子のことが嫌いなわけでは、決してない。彼はおとなしそうなたれ目をしていて、その目は笑うと三日月形の何とも人懐っこい感じになる。笑窪も、ぽち、ぽちと二つ、くっきりと出て、周りの大人を笑顔一つで和ませてしまう類の子供だった。

 しかし、彼が学校で休み時間にトイレに行きそびれて、授業中に漏らしてしまったとか、面白がって隣の席の女の子の前髪を鋏でざっくり切ってしまったとか、そんなことで学校に呼び出される度、周りの先生や生徒たちの視線が胸を貫くくらいに心に沁みて、いつも顔を下に向けて息子を連れて帰るのだった。

 掃除を終えて、私が料理をしていると、階段の方から、とんとんとん、と軽い音を立てて息子が降りてきた。

「もう起きちゃったの?」

 私が言うと、彼は耳に響く、ちょっと張り上げた声で、

「うん、だって、お母さん、うるさいんだもん」

「お掃除してたんだから、しょうがないでしょう?」

「でも、うるさいよ」

 彼はそう言うと、私の返事など待たずに、すぐ脇をすり抜けて、ストーブの前にぴったり座る。

「あー、あったかい」

 もっと大きい子を真似するような、どこかわざとらしい口調で彼が言った。そのちぐはぐとした感じが何とも愛らしく、私は頬を緩めながら、再び、台所へ向かう。

 朝ごはんの支度が整うと、食卓テーブルに皿を並べていく。まずは、薄桃色に桜の花模様があしらわれた底の浅めの御飯茶碗と、それよりひとまわり小さい『ワンピース』のチョッパーの絵がプリントされた子供用のそれ。それらの隣には、浅皿を。乗せられているのはさんまの塩焼きだが、チョッパー柄の茶碗の方に置かれたものは、骨をきれいに取り去られ、細かくなった魚の身が、こんもり、山を作っている。それから、深皿に盛られ、つややかに光を反射するふきの煮物をテーブルの真ん中に置き、最後に明るい茶色、もしくは濃いオレンジ色にてらてらとした、なめこの味噌汁をそれぞれの席に並べたら、朝の食卓が完成する。

 息子は、うれしそうに三日月形に目を細めて、小さな箸を持つ。

「ちゃんと、いただきますしてからでしょう?」

 私が言うと、彼は、一瞬、手に持った箸を止め、それからふきの煮物に視線を置いたまま、惜しむような、仕方なさそうな様子で、テーブルに戻す。そして、そのままふきを見ながら、私が、

「はい、じゃあ、いただきます」

 と言うのに少し遅れて「……ただきます」と、口をもごもごさせて言うと、パッと箸をとり、ふきを挟むとぱくりと口に入れる。もぐもぐと口角を上下させながら、だんだんに目が三日月形に細められていく。

「ふきは、おいしいねえ」

 彼はまた、二年生らしからぬ、大人をまねたような言葉を、変に大きく響く声で言う。

「そうね、おいしいね」

 私はそう言いながら、ふと、昨日息子の宿題に付き合っていた時のことを思い出す。

 宿題は、国語の『ふきのとう』の音読だ。彼が妙にふきを意識しているのは、このためだ。彼は真剣な眼差しで、教科書に顔をうずめるようにして、読み始めた。

「よが……あけました。あさのひ……ひ……ひ、じゃない『こう』をあびて、たけやぶのが……」

「ちがうよ、もうちょっと落ち着いて読みなさい」

「ちゃんと、読んでたよ」

「ちがうでしょ? 朝の『こう』じゃなくて『ひかり』。『たけやぶのはっぱが』。」

 彼は声を大きく、いかにも不当に非難されたというように、

「そう読んだじゃん」

「読んでない。じゃあ、もう一度、はじめから読んでみなさい」

 彼は子供らしく頬を膨らませて、挑むような目で、再び教科書に向かうと、口調を強めて、

「よがあけました。あさの……ひ……かりをあびて、たけぶやが……」

「ちょっと待って、違うじゃない。ちゃんとひらがなは読めるのに、どうして勝手に言葉を変えちゃうの?」

「変えてないよ」

 そんな風にして、結局、音読は最後まで終わらなかった。聞いているうちに私の胸にはピリオドのようなぽつんとした黒点が打たれて、それがだんだんに染み広がって、心を侵食していった。次第に、彼の大きく響く声が、その鋭さを増し、胸を貫くようになっていったのだ。私は「もう、ご飯を作るから」と適当な言い訳をして、彼を子供部屋に連れて行くと、ぱたりとドアを閉めた。

 昨日のことを思い出すと、私の心はきゅうと縮まった。幼い息子を拒むために、私はドアを閉めた。それは母親として、あまりにも身勝手な行為だろう。あのぽつんとした黒い染みが、じんわり広がってくる。この染みは、きっと、息子のせいなどではないのだ。私自身の――母親や、妻や、主婦としての、私自身の不甲斐なさのせいなのかもしれない。息子を受け入れられない、自分の家を美しく保つこともできない、不完全な母親なのだ。完璧でない私は、家も、息子も、完璧にすることは、できないのだ。

 食事が終わると、私は皿を流しにおいて、お湯につけ、洗濯を始めた。グワン、グワン、グワン、と音を立てて、洗濯機が回る。その間、本でも読もうと、スタインベックの『赤い仔馬』を手に取る。

 その傍らで、息子はこの間買ったばかりの革靴の空箱に、マジックで落書きをしている。彼は赤や青や緑の色で、箱を塗りつくしていき――塗り方が雑なので、いたるところに隙間があり、地の色がのぞいている――何を思ったのか、今度はその紙の箱を手でちぎって、色とりどりの破片を床に散らし始めた。私は叱ろうとして、彼の方を見た。すると――

 私は息をのんだ。硬直したように視線はそこから動かなくなった。その先にあるのは――黒真珠のように輝く瞳で、目の前のものをただひたすらにむさぼる純粋さだった。そのあまりの美しさに、私は声を失っていた。

 それに続けて、今度は熱さが胸いっぱいにせりあがってきた。洪水のように感情が溢れて、目の中が熱くなり、視界がにじんでくる。目の前のその純粋さは、私がいつの間にか、どこかで、落としてしまったものだった。ただ、ただ、無心で、言葉の分からない洋楽を、サリンジャーの繊細な世界を、悲しくて甘い失恋を、胸をときめかせた会ったこともないアイドルを、心躍らせる活劇を、大好きで常に身に着けていたスヌーピーやなんかのキーホルダーのコレクションを――とにかく、恰好なんて関係なく、目の前にあるすべてのものをむさぼった、あの純粋さはどこへ消えてしまったんだろう?

 そんな思いが胸の内から、今にも溢れ出しそうだった。が、息子を見つめていると、あることが、ぽつんと、芽を出した。そう、あの、冷たい雪の中から顔を出した、ふきのとうのように。

 私はあの子の純粋さに、感動することができるんだ。その程度の純粋さは残ってるんだ。

 その小さな思いは、もはやそうであってほしいという願望でしかないかも知れない。しかし、それでも、私はその願望にしがみついているしかない。小さな、小さな、純粋のかけらを、私は胸で温めていよう。

 私は息子に近づいて、ささやくように、こう言った。

「ねえ、これから、一緒に、クッキー作って、食べようか?」

 息子は顔をあげて私を見ると、黒い瞳をてらりと輝かせて、三日月形に細めながら、

「うん」

 本当は、夫から甘いものは食べさせるなと言われている。子供のうちに甘いものを食べすぎると、肥満体型になる可能性がぐっと上がるそうだ。しかし、そんなこと、関係ない。

「お父さんには、内緒だよ」

 そう言って、私は、彼の子供らしい、膨らんだ頬に、ちょん、と人差し指で、触れた。

 

 



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