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健一はまゆみのことが好きだった。まゆみの笑顔を見ると、彼の心は、まるで太陽を投げ入れられたように、わあっと明るく照らされるのだ。それまで、かわいいなと思って、好きだと自覚していた子は何人もいたが、こんな気持ちになったのは、まゆみが初めてだった。そもそも、まゆみはそんなにかわいいわけではなかったし。それで、彼は、好きってこういうことなんだ、と思うようになっていた。かわいいとか、かわいくないとかじゃなく、とにかく好きってこういうことなんだな、と初めて、ちゃんと知ったような気分になっていたのだった。
まゆみとは大学の同級生で、同じ英文学科に所属していた。一、二年の頃は必修科目が多く、少数の選択科目以外はほとんどの授業がまゆみと一緒だった。学籍番号順に並ぶと、ちょうど前と後ろ。だから、自然と仲良くなり、自然とケータイの番号を交換し合い、自然と一緒に学食で昼食をとるようになっていた。当然、他の友人も一緒に、だが。
だが、三年生になると、必修科目はみんなほとんど終えてしまい、残るは卒論で扱う自分の研究対象の科目ばかりになってくる。まゆみが、前にサリンジャーが好き、と言っていたので、たぶん米文学を専攻するのだろうと思っていた健一は、迷うことなくそれを選んだ。が、蓋を開けてみると、まゆみは言語文化という、全く別のジャンル選んでいたのだ。それを知ると、健一の心はしおれたへちまみたいに、へなへなと頭をうなだれた。
このままでは、まゆみと全然会えなくなってしまう……。会えなくなったら――きっとまゆみは自分のことなんか、どうでもよくなってしまうに違いない。まゆみにとっては、自分は大勢の友人の中の一人にすぎないのだ。それは、二年間、一緒に過ごしてきて、嫌というほど分かっていた。
健一は決意した。まゆみに告白しよう。断られたっていい。そもそも、それは目に見えているのだから。だから、そういうことじゃない。少しでも、まゆみの記憶に残っていたかった。他の奴らといっしょくたに、「その他大勢」という枠にはめられるのだけは嫌だった。そうならないために、彼は告白しようと思ったのだ。
そのためには、まず、会う口実を作らないと。
健一は、まゆみの知らない高校時代の友人を使うことにした。最近、山梨の実家から東京に出てきたらしい。そいつの東京案内にまゆみに付き合ってもらうってことにしようと思ったのだ。
友人の名は幹(もとき)。そこそこのイケメンなのだが、ちょっと太り気味だった。高校の頃からずっと。だから、まゆみが気をひかれることは、まずないだろう、と、そう思っての人選だった。
東京案内の当日、駅前での待ち合わせに、幹がかなり遅れてやって来た。
「わり、なんか、人多くて分かんなくなちゃって」
そう言って小走りでやって来た幹が、記憶の中にある姿より、ずっと……痩せたように見えて、健一の心臓がきゅううと縮まった。が、だんだん近づいてくると、痩せたにしても、やっぱり太っていて、安堵で心が再び緩んだ。
それから、三人で、いろいろ散策してから一休みしようと、喫茶店に入った。
「幹くんは、東京で何すんの?」
まゆみが言うと、幹は少し考えるように目を伏せながら、
「ちょっと、外国に行く用事があるんだ。だから、それまでの間に金ためようと思って。山梨ってさ、バイトあっても安いしさ」
「外国ってどこ? 何しに行くの?」
幹は口の右端をちょっと吊り上げて笑いながら「それは内緒だな」
それから、いろいろとまた話しているうちに、まゆみがどきりとすることを言った。
「幹くんは、彼女とか、いないの?」
瞬間、健一の心臓が再びぎゅうううと縮まる。まゆみを見ると、その目は幹の顔をじいっと見つめていて――。健一は自分がここにいないような、妙な錯覚に陥ってしまった。
「いないよ」
幹の返答に、まゆみの目が輝きを増した。増したように健一には見えた。
「なんで? カッコいいのに」
幹はちょっと下を向いて、笑うと
「変わってんね」
「え? なんでよ?」
「普通はさ、デブのことカッコいいとか言わないんだよ。彼女作りたいんだったら、ダイエットして出直してこないとな」
「そのままでいーじゃん」
まゆみの目は、もう、幹の顔にくっついて離れなくなってしまったみたいで……そして、間違いなく、こう言っていた。
――幹くんって、最高にカッコいい――
それから、喫茶店を出ると、まゆみが、せっかくだから買い物をしていきたい、と言い出した。三人で目についたショップに入ると、
「あー、これ超かわいい」
まゆみがすぐさまお気に入りを見つけた。
「ああ、ベストか」
幹が言うと、まゆみがすかさず
「ベストじゃなくて、ジレね」
「え? ジレって何?」
「だから、こういうの。ベストみたいなやつのこと」
「結局、ベストじゃん」
そんな風に二人で話しているのを見ていると、何だか普通のカップルに見えてきた。二人の姿が目に沁みるような感じがして、健一はその日はずっと、目を伏せて歩いていた。
それから、一か月ほど過ぎた。その間に、また何度か三人で出かけていた。まゆみがそうしたがったからだ。そもそも、まゆみが話すことは幹のことばかりになっていた。だから、まゆみに会うたびに、健一の心には、一人置いてけぼりにされたような、静かな寂しさが水のように溜まってくるのだった。
そんなある日、珍しく、幹から電話がかかってきた。
「なに?」
健一は自分の声がいつもより低くなっていることに気が付いた。
「ちょっと、頼みがあってさ……」
幹の声は、いつもに増して静かで、でも、不思議なやわらかさがあった。
「何だよ? なんかあったのかよ?」
少しの間、幹は黙っていて、その間彼の呼吸が電話口から聞こえてきた。声と同じに、不思議な温かさがあり、聞いていると心にゆるりと馴染んできた。
「オレさ、アメリカに行くんだ。で、そこで、死ぬんだよ」
幹の言葉に、健一は自分の耳を疑った。たとえではなくて、本当に聞き間違ったのかと思ったのだ。
「え? え? 何? 死ぬ……の?」
「うん……」
それから、しばらく幹は黙ったままでいた。健一も、どうしたらいいか分からず、居たたまれない気持が胸で泳いでいるのを感じながら、電話口の呼吸を聞いていた。
「自殺するんだ」
そこで幹がまた黙ってしまい、健一は、何か言わなければいけない気がして
「な……なんで、自殺すんの?」
「お前、オレの母親覚えてる?」
「……うん」
「オレんち親戚多くて、毎年、遠い親戚もみんな集めて、パーティみたいなの開くんだよ。で、母親がさ、いつも、『私たちは幸せな家族です』って、そんな感じの演技するんだ。いろんな人に愛想笑いして、父さんとか、オレとか弟をさ、すげー褒めて回るんだよ。いつも文句しか言ってないのに。で、オレたちにも強要すんだ。元気じゃなくても、元気なふりをしろって。幸せじゃなくても、幸せに見えるようにしろって。それ見てたら、なんか、だんだん悲しくなってきてさ。なんかのふりだけしてるんだったら、生きてるのってバカバカしいなって思えてきたんだ」
幹は言葉を切った。健一は何と言ったらいいか分からなくなってしまった。幹の言ってることは、意識の表面を滑っていくようで、何だかよく分からない。頭の中に、フィルターができてしまったみたいに、奥の方まで言葉が届いてこないのだ。
「で、体重がさ、六五キロになったら、死のうって決めたんだ。ほら、最後はさ、やっぱかっこよく死にたいからさ。で、昨日体重計乗ったら、六四キロだったんだ。だから、すぐに死なないと」
幹はそこで一呼吸おいてから、
「それで、まゆみちゃんにさ、言ってほしいんだ――」
と、「まゆみ」という言葉は健一の意識に鋭く入ってきた。
「たぶん、あの子、オレのこと好きじゃん? だからさ、言ってほしいんだ。オレがアメリカに行って、で、もう戻ってこないから、忘れた方がいいよって」
幹はそう言ってから、小さく
「死ぬってのは言わないでな?」
その言葉に、健一の胸に熱いものがせりあがってきた。
「だったら、なんでオレにそんな話すんだよ? なんで死ぬなんて言うんだよ? オレにもアメリカに行って、もう戻ってこないって、それだけ言えばいいじゃんかよ? なんでわざわざオレにそんなやな役押しつけんだよ?」
幹はしばらく黙っていた。耳に入ってくる静かな呼吸が、健一の心を少し和らげた。
「わかんね……。たぶん、聞いてほしかっただけかな。誰にも知られないで死ぬのは、寂しいんだよ、きっと」
またしばらくの沈黙。悲しくて、重くて、でも、気まずいとか、そういうのではなくて、お互いの存在を確かめているような、そんな沈黙だった。
「あとさ、もう一個頼みがあってさ。オレ、猫飼ってんだ。たぶん、人生の中で一番仲良かったのって、そいつなんじゃないかなって思うくらい、かわいがってた猫なんだ。そいつをさ、飼ってやってもらえないかな? オレの代わりにさ」
「……いいよ」
「その猫はさ、ロビンっていうんだけど、キャットフードでもさ、銀のスプーンってCМとかでやってるの分かるかな? あれが好きなんだよ。だから、それをいっぱい買って、やっとけば大丈夫だから。あと、カギは入口の植木鉢の下にあるから」
そういうと幹は、「じゃあ、よろしくな」と言って、電話を切ってしまった。
翌朝、健一はまゆみに会うと、幹はアメリカに行って、もう戻ってこないから、忘れた方がいい、と言った。
「なんで? え? なんで? そんな急に? だって、なんにも言ってなかったよ……」
まゆみは潤んだ瞳で責めるように健一にかみついてきた。
「あんたは連絡取れんでしょ? あたしにも教えてよ。こっちに戻ってきたときは会えるかも知んないし、あたしだってアメリカ行くことだってあるかも知んないよ。ってか、会いに行ったっていいんだし――」
「ダメなんだよ」
そう言った時、健一の頭にふうっと言葉がわいてきた。――幹の代わりに、オレが一緒にいるよ――喉まで出かかったその言葉は、しかし、口から出ることはなかった。彼は質問を浴びせるまゆみを置いて、そのまま学校から出ていった。
それから、健一は幹の家に行くと、植木鉢の下からカギを取り出して、部屋に入った。中は、何も物が置いてなくて、がらんとしていた。
「ロビン」
呼んでみると、ふにゃあ、みたいな変な鳴き声がして、黒猫が現れた。そいつを抱き上げながら、健一は言った。
「幹の代わりに、オレが一緒にいるよ」
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