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その日、二十五歳の禿げた男、マーティンは公園にいた。そこでベンチに座り、何かを頭に思い描いている真っ最中といった風に、顎を少し上に向けて目をつぶり、たまにぴくっと口元を吊り上げて気味の悪い笑みを浮かべていた。
その実、彼は「何か」を思い描いていた。同じ場面を何回も何回も。それは、昨夜見た『アメリカン・ビューティ』という映画のワンシーン。ミーナ・スバーリが乳房を露わにするその瞬間を、何度も何度も頭の中で再現し、その柔らかさを、触れた時の弾力を、想像していた。その想像がどういう風にかうまくいき、手に弾力を感じた瞬間、頬の筋肉が痙攣するかのようにぴくっとして、不気味なにやけ顔を作るのだった。柔らかくて白いミーナの乳房。下から持ち上げた時の弾力と確かな重み。温かい。固くなった乳首を口に含んだ時の――
――と、突然、甲高く安っぽい音を立ててベンチが揺れた。一気に心臓が冷たくなり、マーティンの意識はミーナの乳房から離れ、ここへ――公園のベンチへ戻ってきた。見ると、サッカーボールがちょうど足元ある。持ち主は誰かとふいと顔を上げると、数人の少年がいた。彼と微妙に距離を置き、こちらを見つつも、眉をゆがめて何やら話し合っている。彼がボールを投げてやると、少年たちは驚いた様子で、踵を返し、逃げていってしまった。
彼の投げたボールは、誰もいない地面をゆっくりと転がっていたが、小石か何かがあったのだろうか、はたりと止まると、捨てられた孤独を表すように、動かなくなった。すると、急に、マーティンの中でむなしさが生まれ、広がっていった。先ほどのミーナの乳房から得た充足感は、満ちた潮が引いていくようにあっさりと、当然のようになくなり、空虚さだけが胸を満たした。これが彼の人生そのものだった。ああ、彼は思った。ミーナのような美少女が、オレの前にも現れないものだろうか。そんな孤独に浸りながら、マーティンは、ただ目の前の空間を眺めていた。
しばらくの間そうしていると、視界に何やら人の姿が入った。その姿はゆっくり近づいてきて、だんだん大きくなり、顔がはっきりと見えるくらいの距離まで来ると、彼の心を鷲づかみにした。
それは青年だった。美しい青年だった。
青年は柔らかな笑みを湛えながら、近づいてくる。そう、柔らかな、美しい笑顔だった、が、しかし、どこかはかなげな感じもした。細めた目は黒目勝ちで、そのせいか少し潤んで見えて、口元は右側を少し上げ、優しげな笑みを作り出している。その目元と口元から感じられる繊細な美しさに囚われ、マーティンは気づかぬまま目が離せなくなっていた。あの目に触れたい。唇に触れたい、いや、唇に唇を重ねてみたい。そんな衝動さえ生まれていた。
すぐそこまで来ると青年は、
「すいません、道を教えてほしいんですけど……」
言われた瞬間、マーティンは驚きとともに我に返った。青年の美しさに見とれていたせいだろうか、驚きの衝撃が下半身を刺激して下着の中で彼の一物が固くなった。彼の無意識の理性はその衝動を抑えようとする。
「あっ、ああ……、はい……」
頭の中が真っ白で、そんな言葉しか出てこなかった。人に……しかも、こんなにも美しい人物に話しかけられたという事実に、驚きを通り越し、動揺していたのだ。自分が何を言っているのかさえ、分からずにいた。
それから、青年は持っている地図を取り出し、マーティンに見せながら行先を説明した。驚いたことに、その場所は、ちょうどマーティンの自宅のすぐ側だった。彼はこの美しい青年ともうしばらく一緒にいられることに、美しい顔を眺められることに、大きな喜びを感じた。だが同時に、胸の片隅に不安も小さく生まれた。彼の孤独で空虚な日常に、非日常が起こっているのだ。彼はどこかで怯えていた。
しかし、喜びの方が、期待感の方が大きかった。マーティンは、青年を案内してやることにした。
目的地に着くと、青年は美しく、そしてはかないあの笑顔をマーティンに向けた。
「ありがとうございました。助かりましたよ」
この美しい笑顔が自分に、他の誰かではない自分に向けられているのだと思うと、マーティンは感動を覚えた。この笑顔は、今のこの笑顔は、オレの物なんだ、オレだけの物なんだ。しかし、そう思うと同時に、もっと強い欲望が燃え上がってしまった。触りたい……。彼に触りたい。触りたい、触りたい、触りたい――
「これからまだ時間あるし、お礼にしゃぶってもいいですよ?」
一瞬、マーティンは何を言われたのか分からなかった。が、ゆっくりと一つ一つの言葉が脳に溶け込むようにして入ってきて、その意味を、言われた意味を理解すると、驚くとともに喜び、期待し、そして恐怖していた。それに、疑問も持った。なぜだ? なぜ彼はこんなことを言うんだ?
しかし、何よりも喜びが、期待が大きかった。彼は初めて、彼に自ら話しかけてくれるような人物に、自ら触れようとしてくれる人物に出会えたのだ。
それから、二人はマーティンの自宅に来ていた。
「キスしますか?」
青年は、マーティンの持っているDVDコレクションを眺めながら、何とは無しに聞いてきた。マーティンはベッドに腰掛けていたが、体が硬直したように動けなかった。話せなかった。黙って下を向いていると、青年は彼に近づいてきて、彼の顔の両側に手を当て、上を向かせた。鼻と鼻がくっつくほど近くに、これまで見たことがないほどの美しい顔。すぐ近くで見ると、頬のところに少しそばかすが散っていて、それが再びマーティンの感動を生んだ。こんなものが見えるほど、近くに人がいる、それが彼の心を満たしたのだ。そして、青年はそのまま唇を重ねた。柔らかく温かい唇の感触。青年の唇の温かさで自分の唇が湿っていくのが分かる。そして、少しずつ、口の中に舌が入ってくる。自分のものではない唾液を感じる。ああ、この美しい青年の一部が自分の中に溶け込んでいる、そんな実感を覚え、マーティンの感動をさらに大きくした。そして、その感動、喜びに恍惚となり、既に固くなっていた彼のものは、下着の中に思い切り射精した。
「あっ……、ああ……」
思わず声を上げると、青年はマーティンの唇から離れ、彼の局部を見た。そして、少し笑うと
「じゃあ、もう、しゃぶりますね」と言って、マーティンのジーンズのボタンをはずし始めた。マーティンは、もう、青年にされるまま動かずにいた。
マーティンの一物が露わになった。びくんびくんと脈打ちながら、いまだに白い精液を垂れ流している。青年はそれを手で拭き取ると、彼の一物を咥えた。それは青年の口内の温かさだけで、再び大きく膨らんだ。青年が口を前後に動かし始めると、快感はさらに膨らみ、目をつぶってマーティンはそれに浸っていた。そして、自分でも気づかぬ内に、両手で青年の頭を掴み、前後に動かしていた。
そして、二度目の絶頂を迎え、彼はさっきよりもはるかに大量に射精した。口内に精液を含んだ青年は、そのまま顔を離したが、まだ反応していた彼のペニスは、青年の顔に思い切り精液をかけてしまった。
「あ、ああ、ごめん……」
「いいですよ。慣れてますから」
そう言う青年の顔は彼の精液に濡れて、てらてらと光っていた。薄暗い中で、てらてら、てらてらと。見つめていると精液は涙のようでもあり、それが彼の愁いを帯びたはかなさに似合い、何とも言いようがないほど美しかった。この瞬間、マーティンの心は完全に奪われた。そして、思った。もしかしたら、この青年は本当に泣いているのかもしれない。そもそも、「慣れてる」ってどういうことだ? この青年は、こういう方法でしか世を渡れないのではないか? 生きていく術がないのではないか? それで、好きでもない男のペニスをしゃぶり、精液をかけられて、金を稼いでいるのではないか? だから悲しそうなのではないか? そんな風に思ったのだ。おそらくは、まだ十代か、多く見ても二十歳くらいのこの青年には、そのくらいしか金を稼ぐ術がないのだ。彼は急に、青年がいとおしくなった。守ってやりたいと思った。そう、マーティンには金はあった。人は誰も近寄ってはくれないが、それでも、金はあるのだ。その金があれば、この青年は、もうこんなことをしなくても済むのではないだろうか? 彼はそう思い、そして青年に自分の財産の全て渡してやろうと、決意さえしていた。
その日の深夜、高層マンションの最上階にある自宅で、二十九歳のトミー・エドワーズは、目の前の自分のコレクションの一つに満足し、幼い子供の様な無邪気な笑顔で、それらを見つめていた。眺めていたのは写真だった。その中でも、今日撮った一枚は、これまでで一番面白く、且つ美しく撮れたと思っていた。その写真は禿げかけた変態っぽい男――マーティンとかいう――がパンツを下した状態、しかも大量の白く濁った精液で下半身と床を濡らした姿で首から血を流して死んでいる写真だった。
この写真でトミーが気に入っている点は、美しさと滑稽さの対比だった。むき出しになっている下半身は、醜く、精液という欲望が垂れ流されているという馬鹿げた姿だったが、魂を失ったその顔は、美しいのだった。
トミーは十代の頃、凍死したホームレスを見て、その美しさに感動したことがあった。そして、虜になった。が、生きているどの人間を見ても、同じような美しさはない。どんな人物を見ても、あの感動は味わえない。
それで、一度試してみようと思った。醜く、私欲の塊であった父を殺したのだ。
美しかった――
そして悟った。人間という箱は、どんな姿をしていても、もともと美しいのだと。それが醜くなるのは、醜い魂が宿るからだ。だから、魂を失った時の人間は、みな美しいのだ。
それからは、彼の趣味は写真になった。醜い人物がどれほど美しい箱になるか、それを写真に収めるのが、彼の喜びだった。
さて、今度はどんな奴にしようか。そう思って彼は窓の外を眺めていた。無邪気な笑顔のまま。
しかし、トミーは間違っていた。彼が醜いと思う人間は、みな、孤独なだけだった。
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