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「ついてないですね」
後ろから、しかも思っていたよりもはるかに離れたところから声が聞こえ、私は胸にひやっと冷たさを感じる。振り返ると、まだ海から上がりきっていない私の相棒の足元に、小波が打ち寄せては砂浜に白い気泡を残して引き、再び戻ってきている。そのささやかな波と砂に足を取られるように、よろよろと彼女は歩いてくる。
「あのなあ、いくら疲れているとはいえ、遅いぞ。もっと早く歩けんのか?」
「だって、私たち、遭難したんですよ。小さいボートでこんなよく分からない孤島に漂着して。逆にエリカさんはなんでそんなに元気なんですか?」
「情けないぞ。私たちは泣く子も黙る女海賊ではないか。お前はもっと肉体を鍛えねばならんな」
私が言うと、相棒――ミーナは物言いたげに、はあ、と溜息を漏らす。
「違いますよ。ここまでずっと私が舟をこいできたから疲れてるんです。エリカさんは、ただ乗ってただけじゃないですか? 昼寝までして。私が言っているのは、なんでこんな一大事に、昼寝もできるくらい元気なんだってことですよ。しかも、今月も私たち赤字ですよ。苦労ばっかりして、結局なんにも奪えないんですから」
腹に、ずどん、と重さが来た。砲丸投げの球みたいな重さが。ずいぶん鋭く的を突かれてしまった。こいつは、いつもこうなのだ。常に合理的に物事を捉えて、冷めた判断を下し、私を咎めてくるのだ。
「う、う、う、うるさいな、ともあれ、ぐずぐずしている暇などないというのは間違いないだろう? 急ぐぞ、住民がいれば助けを借りられるかも知れん」
私はそう言うや否や、くるりと向き直り、砂を蹴散らしながら足早に進む。もう、ミーナのことなど意に介さん、という風を装いつつ、実は、じっ、と澄ませた聴覚で背後の気配を確かめながら。多少癇に障るところがあっても、一人しかいない仲間なのだ。私が彼女の身を案じるのは、当然だ。
私が前、ミーナがその後ろになって、砂浜の先の森へ進んでいく。途中、私がその暗い森に足を踏み入れようとした時、「危なくないですか?」とミーナが言う。理屈っぽい人間特有の臆病さを、彼女はしっかり持っているのだ。私は、ここにいても、どうにもならんよ、と返し、僅かに残っていたポケットのコインを地面にぽとりと落とす。降り注ぐ太陽の光が、コインの表面をちかちかと滑る。
「目印になるだろう」
私はそう言って、再び歩き始める。
いくつものコインを落とし、私たちは進んだ。頭上には木々が枝葉を広げていて、僅かな木漏れ日しか物を見る頼りがない。そのちらちらとした明かりを、コインは微かに反射するのだが、果たしてその小さな光が、引き返す道標となるかは分からない。ミーナは、やはり私と少し距離を取って、ついてくる。不満があるのだろう。合理的な人間というのは、自分の理にかなわないことには、すぐにへそを曲げるものなのだ。しかし、彼女がどれだけ大きくへそを曲げたとしても、こうするより他にはない。
そうやって、しばらく経ち、木漏れ日すら入ってこなくなった。真っ暗な中、僅かな薄墨色が宙を漂う。月明かりでは、せいぜいこのくらいしか、暗がりを照らすものがない。私の心にも、この先にゴールなどないのではないかという不安が淀み始めた。が、その矢先、すぐ脇の繁みから、がさがさっ、という音がし、私とミーナを飛び上がらせた。比喩ではなく、本当に二人揃って小さくジャンプしたのだ。何かがそこにいる、それは黙々と進むうちに薄れていった意識――“危険”そのものだった。体に、鳥肌が立つ、ぞわ、とした感触が走る。私はミーナの方へ近づき、手を取り、息を潜めて繁みを見つめる。ごく、と生唾を呑み込んだ瞬間、胸の打つ早鐘をいっそう強く感じる。繁みの揺れは、次第にこちら側に、私たちに、近づいて来、がさがさいう音が耳に響く。そして、木々の暗闇が開けた時、私の心臓は撃ち抜かれたようになり、ぎゅっ、と、より強くミーナの手を握る。中から姿を現したのは――肩部が大きく盛り上がり、頭部には五十センチにもなる湾曲した角を持つ、バイソン級の巨獣! ではなく、普通の人間だった。
体から、力が、緊張が、一気に下へ落ちていった。自然と、ミーナと握り合った手が緩む。すると、頭の方も落ち着き、私は突然現れたその人物に視線を走らせる。おそらくは、二十歳前後の若者だ。すらりと丈高く、幅の広い肩の上には、すっと伸びた首に支えられるようにして、端正で小さな顔が乗っている。きょとんとしてこちらを見つめるその表情に、私の胸で、布に水が染み込むように、じんわりと安堵が広がっていく。安心すると知恵が働き始める。
「良かった。この島の住民の方だろう? 私たちは遭難してしまったのだ。助けてはいただけまいか?」
若者は相変わらずきょとんとして、問う私を見つめ返す。薄暗い中、黒々した瞳が木漏れ日を反射して、きらきら光る。彼は薄い唇を、小さな白い歯で少し噛む。その様子に、私の胸が、きゅっ、と音を立てる。離れ小島に不釣り合いな美しさに、心を取られたのだ。
青年は口を開いた。
「あんたら、何者だ?」
やや低く、落ち着いた声音。私は、はっとして再び言葉を紡ごうと、思考を巡らせ始める。しかし、咄嗟のことでうまい返答が浮かばない。
「あ、ああ、ええと、そのー、なんだ、私たちは――海賊だ。女海賊だ」
私が言うと、すぐ脇でミーナの体が、びく、と強張る。視線を向けると、咎めるような彼女のそれとぶつかった。しかし、
「そうか、海賊か」
彼は意外なほどあっさり、そう言う。
「なんかいろいろ盗んだりすんのが、海賊だろ? でも、悪いけどここには盗める物はなんにもないぜ」
彼はくるりと背を向けて、「ついて来いよ。とりあえず、家で休んでくといい」
私たちは青年に誘われるまま、進んだ。そして、彼の家――掘立小屋――に着くと、やっとのことで腰を下ろすことができた。
「あー、疲れたー、良かった―、本っ当にありがとうございます」
ミーナが言うと、青年は起伏のない声で返す。
「別に、オレは、ただ、いつも通りここまで歩いてきただけだから」
「いや、本当に助かったよ。私たちだけでは、あの森でのたれ死んでいたかも知れん。なんと礼を言って良いやら」
私が言っても、彼は少し首を傾げ、ああ、まあそうか、と言うだけ。どこか、感情が鈍麻してしまっているような印象を受ける。私は、努めて明るい口調で言う。
「とにかく、ありがとう。私もミーナも疲弊し切っていてな――」顔を顰めるミーナの表情が視界の隅に留まる(が、そんなことどうでもいい)。「――昨日なんて、それこそ荒ぶる神のごとくひどい嵐で、船を捨てて逃げなければならないほどだったんだ」
彼は眉を寄せることも、口元をほころばせることもせず、ただ、ふうん、と言う。それから、ちょっと出掛ける、と、再び森に入ってしまった。
「変な奴ですね」
彼を見送り、どれだけ地獄耳であっても、さすがに聞こえないだろうという頃になって、ミーナが口を開く。私は、ああ、と呟くように言ってから、ふうと息を吐く。
「だが、親切であることに変わりないよ。本当に、あの青年には助けられた」
「そうですね」と言い、ミーナは口の端を上げて悪戯っぽく笑んでみせ、「それに、可愛いですしね」
瞬間、心臓が、ぎゅうっ、と縮む。続けて、真っ白な頭の中でせかせか歯車が回るようになり、私は妙な焦りを感じる。何か返さなくてはと思ったのか、気が付いた時には、こんなことを口走っていた。
「お、お、お、お前、何だ? 私は、べ、別に、彼を可愛いなんて、思ってないぞ。断じて、そんな、俗っぽいことは考えてないぞ」
「あ、いや、エリカさんのことじゃなくて、私がそう思ったってだけです」
ミーナはそう言うと溜息をつく。私の方も頭で回っていた歯車が緩まっていき、はあ、と息を漏らす。なんだ、と頭で言葉にしたが、ミーナの次の言葉で墓穴を掘ったことに気が付いた。
「エリカさんも、可愛いって思ってたんですね」
どれくらい経ってからだろうか、青年が戻ってきた。その時、私たちは、可愛いと思った、思ってない、というやり取りに飽き――というか、ミーナが飽きて、私はやっと言い訳地獄から解放されたのだが――今度は彼の女の好みはどんなだろうという話題――こちらも、ミーナが始めて、私はそんな不埒な話は好まんと、拒否していたのだが――を始めていた。彼を目にすると、やっと、この恥知らずな相棒との恥知らずな会話を止められる、と私は安堵したが、それも束の間だった。ミーナはこともあろうに、本人に女性の好みを問うたのだ。
「お前、何言ってるんだ!」ミーナに向かって声を上げてから、私はすぐに青年の方へ顔を向け「とんだ無礼を、本当に申し訳ない」
しかし、私が慌てても、青年は表情を崩さず、さらりと言う。
「いや、別にいい。そもそも、オレは女のことはよく分からないんだ。親父とずっと二人だけでこの島にいて、偶にお前らみたいに遭難したって女が来ることはあるけど、まあ、それだけだからな」
「お父上がいらっしゃるのか。それはごあいさつした方が良いな」
私が言うと、彼は眉一つ動かさず、返す。
「いや、今はもういない。二年前に死んだからな」
その言葉に、鳩尾で、ずし、と思い冷たさが生まれる。無意識に私は視線を落としていた。彼の無感動な様子が、なにやら目に痛い。ミーナも同じようで、彼女の体が強張るのが、空気を通して伝わってくる。
「すまない」
私が言うと、彼はきょとんとして、
「いや、まあ、別に。事実だからな。それより――」
彼は手にしていた袋を私たちへ放る。
「食い物だ。腹減ってるだろう?」一旦言葉を切ると、彼は部屋の奥を指し示して、「そこに毛布があるから、寒かったら被って寝るといい。オレはもう少し外の様子を見ないとならないから」
そうして、再び出ていった。
「変な奴……」
ミーナが再び口にする。先ほどと違い、そこには戸惑いが含まれている。不安を孕んだ戸惑いだ。私は、そうだな、と応えながら、青年が去っていった小屋の入り口に目を向けている。確かに、気味悪くはある。彼は感情が欠如しているようにしか見えず、それが私の胸に、さざ波のような不安を引き起こす。しかし、感情のない人間など、いるはずがない。私は、じっと目を凝らし、彼が立っていた場所に、空気の中に、その心の残根の湿り気を見出そうとする。しかし、いくら見つめても、そこには、乾いた夜気があるだけだった。
私とミーナは床に着いた。いや、寝床があるわけではなく、ただ、毛布にくるまった体を直接床に横たえただけだったが。それでも不気味な冷たい森で野宿するよりは、はるかにマシだ。
さわさわ、という音が耳に当たり、私は目を覚ました。今、自分がどこにいるのかすぐに思い出せず、体を起こして、しばし記憶の糸を辿っていく。すると、はたと、あの青年のことが意識に留まり、その日のことが一気に脳裏で鮮明に色付く。寸秒を置いて、自分の眠りを破った微かな音に気が付き、視線を巡らせ音の元を探す。――と、私の目は小屋の入り口で留まる。あの青年が、そこに背を向ける格好でしゃがみ込み、何かしているのだ。私は意識せず立ち上がり、彼の方へ近づいていた。
「何してるんだ?」
私がそう尋ねると、彼は背後からの声に驚いた素振りも見せず、ゆっくり首を回し、私の姿を認めると、あんたか、と口の中で言って立ち上がる。
「木を切って来たからな、枝を落としてたんだ」
彼は、はあと息を吐き出し、森に視線を投げる。私はその様子を見つめつつ、気になっていたことを尋ねてみようと、胸に意を固める。言葉を出そうとした途端、喉が収縮して、変な声になってしまった。
「なんで、こんな島に、一人で暮らしているのだ?」
彼は一瞬、目を見開いて驚きを露わにした。初めて見えた彼の感情。しかし、すぐにそれは緩まっていく瞼に吸い込まれる。彼は、ああ、と相槌をとってから、語り始めた。
「昔はな、この島にも大勢の人間が住んでたらしいんだ。木の実や森の動物を糧としてな。けど、森の恵みにも限りがある。人が増えすぎて、色々食い過ぎちまって、だんだん果実も動物もなくなってった。そのせいで、森が痩せ始めた。細くなった木が、ばたばた倒れてったらしい。で、木を使って小屋なんかを建てたり、家を修理したりすることもできなくなってな、人々は飢えたし、雨風をしのぐこともできなくなっていった。離れ小島だからな。外から物を運んでくるのは、簡単じゃない。ここで生まれ育った奴ばっかりだったみたいだしな。それで、僅かな食料と木を巡って、争いが始まった。ほとんどの人間が飢えや抗争で死んで、僅かに残った者もこの島で生きてくのは無理だと考えて、なけなしの木で船を作って、出ていった」
彼はそこで言葉を切ると、視線を森から私の方へ移す。
「親父は、その時に船で出てこうとしてたんだけど、赤ん坊が一人、取り残されてることに気がついて、それで戻って一緒に連れてこうとしたんだ。けど、反対されたらしい。何週間も、もしかしたら何か月も海を小舟で渡ってくのに、赤ん坊は邪魔だってな。それで、親父と、見知らぬ赤ん坊だったオレが残されたんだ」
彼は言葉を切り、小さく息を吐きながら視線を落とす。その先の木でできた粗末な床をじっと見つめているが、その目が捉えているものは、果たしてそこにあるものだろうか? 暗がりで、ぼうっと不思議に光る彼の目は、もっとずっと遠くの、形のない何やらに向けられているように、私には見える。聞きたいことはまだあったが、彼の心をこの場に引き戻して良いものか、躊躇ってしまう。しかし、これを逃したら、もう機会はないかも知れない。それほど、私は彼に確かめたかったのだ。ごく、と息を呑み、意を決し、尋ねた。
「なあ、ここに一人でいて、寂しくはないのか?」
私の言葉に、彼の目から、瞬時にぼんやりした光が引き、はたと私を捉えた。
「何?」
彼が聞き返してきたので、私はもう一度、
「寂しくはないのか? 一人ぼっちだろう。それに――怖くは、ないのか?」
「なんで?」
そう言う彼の表情は、元通りの、きょとんとしたものに戻っている。私は息を吸い込んでから、話す。
「私もな、海の上でずっと生活しているから、お前と似た状態に置かれることはあるんだよ。だだっ広い海の上で、地平線まで、ただ、ただ、海が広がる上で、何日も漂ったりな。そんな時、ふと、不安に駆られるんだ。すごく、変な話なんだが――ここはもしかしたら、宇宙ではないか、とな。もちろん、そんな訳はないんだが、何と言えばいいか……もう二度と、人の世に戻れない場所、声を上げてもそれは誰にも届かずに、ただ闇に消えていく場所、かな。そう、私が何をしても、それが全て闇に呑み込まれて、誰にも届かないまま無になっていくような、そんな場所だ。そんな場所に、一人、放り込まれたような感覚になるんだ。そして、言い知れぬ恐怖に襲われる。孤独というものを、私は海に出て、初めて知ったよ。これが、孤独なんだ」
私は言葉を切り、息をつく。それから、ふいと顔を上げると、青年と視線がかち合う。彼の真っ直ぐな、素朴な視線が眩しい。私は、顔が火照るのを感じながら、続ける。
「でも、私にはミーナがいるからな。あいつがいてくれるおかげで、私は宇宙にいる訳じゃないと、気付ける。孤独ではないのだとな。あいつは、確かに嫌なところはたくさんある。変に理屈っぽいし、すぐに不満を言うし、ふて腐れると口をきかなくなるし、それでいて男に関しては下品だし、私の喋り方をからかうし、私の料理はまずいと言って食べないし、私のいびきがうる――」
「お前ら本当に仲良いのか?」
彼に突っ込まれて、なにおう、と言い返しかけた、が、その時目に留まった彼の表情が、あまりにも素朴そうな、真面目そうなものだったので、思いがけず、声を上げて笑ってしまった。
「何がおかしい?」
私は、いや、すまん、と言ってから、「とにかく、人と接さずにたった一人で、怖くはならないのか?」
彼は、いや、ならないな、と答える。そして、小屋の外へ目を向ける。その視線には先程と同じ光――ぼうっと不思議に輝きながら、遠くの形にならない何かを求めるような光が湛えられている。そして、彼の口から、小さく言葉が零れる。
「でも、それは、オレが外の世界を知らないからなんだろうな」
それは私の胸に突き刺さった。生まれつき盲目の子供は、そうと言われなければ目が見えないと気付かない。同様に、彼もまた、ずっと孤独であるために、それがどういうことか分かっていないのではないか。そんな思いに押し出されるように、腹から喉へ、言葉がせり上がってくる。
「なあ、お前、私たちと一緒に来ないか?」
彼がぱっとこちらへ顔を向ける。その目からは、先程の光が消え、代わって驚きが夜の光を反射しててらてらと光っている。
「ここの外へ、か?」
「そうだ」
私が言うと、束の間、彼の目の中で光が揺れたように思った。しかし、すぐに彼は顔を伏せる。
「いや、オレはここにいる。外の世界には興味がない。親父は――たぶんいつでも出ていけたんだ。二人で何年もかけて木を植え、森を元通りにしようと、やってきた。いくらか復活すれば、小舟を作って出ていくのは簡単だったはずだ。一人でも、二人でも。でも、そうしなかった。なぜかはオレには分からないけど、でも、要は外の世界とか出てった仲間に、何の未練もなかったってことだ。だから、オレも行きたくはない」
彼は言葉を切ると、再びしゃがみ込んで木の枝を落とし始める。
「もう寝ろよ。風が乾いてきたし、海鳥も落ち着いてる。明日の海は穏やかなはずだから、すぐにでも出発できるだろうし」
仕方なく、私は言われるまま、床に戻った。
朝、青年の案内で海辺へ戻ると、本当に広がる大洋はまるで眠っているかのように、波一つ立てていなかった。驚く私達をよそに、彼は言う。
「夜は波がないと、周りにあるものを見つけにくくなるから、気をつけろよ」
「それも、お父上から教わったのか?」
夜の波のことなんて、島から出ないなら関係ない。彼の父親は、彼がいつでも出ていけるように教えたのだろうか。
私の言葉に、彼は平坦な調子の声で、そうだ、と返す。表情も固まったまま。その様子を見ながら、私は、彼の、外に表れない内奥の深さを思う。ほとんど他人と接することなく育ったために、感情を表に出せないだけなのだ。昨日見た、彼の目に宿る心の色は、その一端でしかないのだろう。きっと、内側では、はるかに大きな心宇宙が広がり、目の前のこの海のように揺蕩っているのだ。だからこそ、私は、私の提案を断った彼の心を、推し量れないでいた。何を思って、彼が行きたくないと言ったのか。
砂浜に上げておいた小さなボートを海に押し出し、私とミーナは乗り込む。
「世話になったな」
私が声をかけると、青年は、ただ無感動に、ああ、とだけ応える。そして、私たちは孤島を後にした。
「分かりましたよ」
しばらくボートを進めると、ミーナが口を開く。「あいつ、あれですよ。『無の境地』ってやつですよ。ずっと人里離れたところにいて、もう、一人で悟り開いちゃった、みたいな感じなんですよ。きっと」
面白いことを言っているつもりのようで、ミーナは満面に笑みを湛えて、私の顔を覗くように見る。
「なんですかー、エリカさん、珍しく元気ないですね。そんなにあいつのこと、気に入ってたんですか?」
「別に、そういう訳じゃないが」
私が言うと、ミーナは、やれやれ、という具合に溜息をつく。
「あのね、エリカさん。可哀想なんて、思っちゃダメですよ」
私は、はっとして彼女を見やった。しっかり目が合うと、ミーナは続ける。
「あいつは、あいつの意志であそこにいるんです。自分でちゃんと決めて。言ってたじゃないですか、いつでも出ていけたって。そうなんですよ。あいつはいつでもあいつの意志で、出ていけるんです。私たちと一緒だろうが、なかろうが。でも、そうしないのは、きっと、あいつにもちゃんとゆずれないところがあるからなんですよ。ほんのちょっと話した私達なんかには見えないし、分からないような大事なものが、あいつの中にはあるんですよ」
僅かの間を置いて、私はやや声を低めて、
「というか、起きていたのか、お前」
「当たり前じゃないですか。エリカさんはそそっかしいんだから、私が見てないと危ないですよ。しかも、私が寝てると思って、嫌なところがたくさんあるなんて勝手なことも言って、本当に。私はいつも目を光らせてますからね」
「さすが――私の相棒だな」
ミーナは嬉しそうに顔をくしゃっとほころばせる。
「さあ、今度こそ、どっかにお宝をぶんどりに行きましょう」
ミーナの声は開けた空を、四方に突き抜け、風のように走り去っていく。どこまでも届きそうだった。広い空に吸い込まれ、無になる訳ではない。私たちの声は、空を通ってどこまでも渡っていく。後にしてきたあの孤島にも、名前すら聞き忘れたあの青年の元にも。彼のいるところも、宇宙ではないのだ。様々な声が彼の元に届けば、地球という一つの生命の島に、大勢の人間たちといるのだというその事実を、噛みしめていられるだろう。きっと、そうであってほしい。
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