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ふっと目が覚めた時、龍斗の頭はまだぼうっとしていた。意識の輪郭がぼやけている感じ。しかし、闇に包まれた虚空に視線を泳がせるうちに、だんだんに思考が回転を始め、その輪郭がはっきりとしてくる。くるくる、くるくる、と頭の中が動いていく。――と、はたと思い留まる。暗すぎる。夜中であっても龍斗の家はカーテンの隙間から漏れる街灯や月明かりに照らされて、真っ暗になることはない。しかし、今、ここは「一寸先は闇」的な状態なのだ。言葉の使い方が間違っていることに、当然、彼は気づいていない。
すると、記憶のスイッチが押されたように、今にいたるまでの出来事が、どうと押し寄せる。そう、ここはじいちゃんの家なのだ。
じいちゃんは、七月のはじめに亡くなった。知らされた時、そりゃあ驚いたし、葬式では生気のない空っぽの人形みたいになったじいちゃんが可哀想で、泣いたりもした。でも、だからといって、一か月もある夏休みを、東京から遠く離れた長崎のじいちゃんの家で過ごさなくてはならないというのは、どうにも納得いかなかった。しかも、その間中、別に親しくもない親戚たちに囲まれて、縮こまるように過ごさなければならないのだ。あまりにも理不尽だ。だって、別だろ? じいちゃんが好きだったってことと、こんなつまらない休暇を過ごさなければならないってことは。
本当なら、この休み、友達や彼女と一緒にゲーセン行ったり、映画観たり、カラオケでオールしたり、海行ったり、それから、ちょっとエロいことしたり、色々できるはずだった。なのに、現実は……つまらない大人たちと一緒に、一日中テレビを観て過ごしているのだ。さらに悪いことに、かかっているチャンネルは、大抵、クイズ番組か、時代劇か、ニュースかなのだ。少しずつ、少しずつ、退屈によって活力が削ぎ取られ、代わって、暑さと倦怠感がじとっと体にまとわりついてくる、そんな日々を過ごしていた。
目覚めてから、随分と時間が経った。すでにシャッターのわずかな隙間に沿って、細い線のような朝の光がのぞいている。あれが目いっぱい開かれたら、相当なまぶしさだ。そんなことを考えるや否や、畳を踏みしめる乾いた音と振動が、寝そべった頭に伝わってくる。そして、次の時には、ガラガラガラ、という音をさせてシャッターが開かれ、透明なまぶしさが部屋を一気に色づかせる。目に強い光が飛び込んで来て、龍斗は思わず目を瞑る。
「何だよ、まぶしいじゃんかよ」
そう言うと、母の声が返ってくる。
「まぶしいってね、もう八時なんだから起きなさい。みんなもう、起きてあんたが来るの待ってんのよ。ごはん食べないで」
「八時って、はえーだろ。フツーに……」
たまった不満が喉元から上がってきて、口から漏れ出す。しかし、それは文字通り漏れ出すだけで、彼の苛立ちは気休め程度にも和らがないし、母はずっとこちらににらみを利かせてくる。龍斗は胸にムカつきを抱えたまま、観念して、ぬるいふっくらとした温度を惜しみながら――夏であっても、寝床の温かさというのは心地いいものだ――布団からゆっくりした動作で這い出す。母は彼がしっかりと床から抜け出すのを確認すると、障子の引き戸を開けて居間へ入る。龍斗はそれに続く。
居間では、本当にみんな食卓に着いていた。夜や昼とは違う、朝特有の親戚同士の無言の空間がそこにはある。特に硬い雰囲気をまとっているのは伯父で、爺くさい金縁の眼鏡をかけ、眉間に皺を寄せ、口を真一文字に結び、新聞に視線を走らせている。この沈黙の中、みんなが自分のことを待っていたのだ。そう思うと、みぞおちの辺りがぐっと重たくなる。
「さ、しんがりも来たし、ご飯にしましょう」
母が言うと、みんな、それまでやっていたことをあっさりと放り出す。伯父もすぐに眼鏡を外し、僅か程の未練もないというように、新聞をパタ、パタ、パタと手際よく折りたたんで横に置く。そんな様子を眺めていると、龍斗の頭をある疑問がかすめる。
――この人たち、何が楽しくて生きてんだろ?――
朝食を済ませると、テレビタイムが始まる。十四時間の超ロングタイムだ。それはひとまずは夜七時頃の夕食までずっと続き、そこで一旦中断されるが、食べ終わると再び電源が入れられる。それからは、夜中の十二時から一時頃まで、終わることのないつまらない番組を垂れ流し続けるのだ。その間、親も含めた親戚たちは、ただ食卓を囲んで、画面を見ているような、見ていないような様子でやり過ごしている。
「ねえ、ちょっと出かけてドーナツ買ってくるけど、何個食べる?」
母が流しの洗い物を済ませ、エプロンで手のしずくを拭き取りながら、居間へ向かって声をかける。居間の人々は、さして興味もなさそうにテレビ画面に顔を向けたまま、それでもちゃっかりと、二個、四個、などと言葉だけ返す。龍斗の体に気怠い重さがずしりとかかる。こんなに暑くてだるい時に、甘ったるいドーナツなんか食ったら、それこそ胃が悪くなって胸焼けおこしちまう。考えるだけでも胃と胸にじとっとした熱さが広がる。龍斗は「オレ、いらない」とだけ言い、居間から出て、玄関からも出て、裏庭の方へ行く。
裏庭には、小さな池がある。龍斗はそこの淵に腰掛けると、履いていたビーチサンダルを脱いで足を浸す。水に触れた瞬間、ひやっとした冷たさが、足を伝わって胸に届き、心臓がきゅっと縮まる。気持ち良い。そんな風にして足から伸びてくる微かな清涼感を楽しんでいると、ジーンズのポケットに入れたケータイが鳴り始めた。ジャスティン・ティンバーレイクの『クライ・ミー・ア・リバー』。メールだ。開くと、送り主は彼女の理沙だった。
――ぉ疲れ★た〃ぃU〃ょぅふ〃?ひまUτなぃ?こっちは龍か〃ぃな<τ寂Uぃょ★乂→儿Uτね★――
普段はいらいらする理沙のギャル文字。しかし、今はその読みにくい字面に、なぜだか胸で絡まっていた糸がそっとほどけていくような、そんな感覚にさせられる。表情を緩ませながら龍斗はしばらくそのメールを見つめていた。
すると、頭をある思いがよぎる。彼の意識はそれをひょいと捕まえる。
――あいつ、自分のおっぱいの写真とか、送ってこないかな?――
そんなこと、あり得ないということは分かっている。分かってはいるが、しかし、想像であっても楽しいのだ。ずしりと重い気怠さがひき、心は重力から解放されたように軽くなる。彼は一瞬、ダメもとで理沙に「おっぱいの写真送って」と返信しようかと考えたが、すぐに、ダメだ、という思いがその欲求を掻き消す。普段から、彼がヤル気満々で彼女の体に触れても、「今日、そーゆー気分じゃないから」と拒まれてしまうくらいだ。そんなことメールしても、やっぱり拒まれるだろうし、もしかしたら嫌われてしまうかもしれない。想像するだけ、だ。それにしても、「そーゆー気分じゃない」時など存在しない彼にとって、理沙の感覚は理解しがたいものだった。まあ、仕方ない。彼は全神経を集中させて脳裏に彼女のおっぱいを思い描く。お椀のように形が良くて、白くぽってりとした乳房。そこに程よく大きい薄いピンク色の乳首。白い肌にピンク色が映えてきれいだ。触れると柔らかいが、こちらに押し返すしっかりした弾力があり、そのおかげで掌一杯に、たっぷりした乳房の感触が広がってくる。乳首のまわりを指でなぞり、それを、そっと口に含んで――
そこまで想像すると、もう耐えられなくなった。彼は目を開くと、すぐさまジーンズのファスナーを下ろして自分のモノを掴みだす。そして、再び理沙のおっぱいを、さっきの続きを、思い描こうと顔を上へ向け目を閉じようとした――
が、その瞬間、彼の意識は目に飛び込んできた予期せぬ光景に捕えられてしまう。向かいの家の窓にかかったカーテンの隙間から、女性の姿が見えたのだ。トップレス姿。想像でない実物のおっぱいに右手に掴んだモノがビクンと反応する。しかし、すぐに女性はカーテンの枠の中に消えてしまう。目の前にぶら下げられたデザートが取り上げられてしまったかのような、満たされない感じ。口の中に唾液がたまってくる。彼は惹きつけられるように立ち上がり、窓の方へ歩き始める。敷地の端まで来ると、その境を示す低い柵をまたぎ、向かいの庭へ足を踏み入れる。足裏にある地面の感触が、じいちゃんの家のそれとは違う気がして、罪悪感がぽつんと胸に染みを作る。しかし、彼を惹きつける力はそんなものよりずっと大きく、足を止めることはできない。家に近づくにつれて、窓は頭上の方へ移動してしまい、中が見えなくなる。見たい。龍斗は近くの太い木の幹に足をかけて、少しでも登ろうとする。が、そこにはほとんど取っ掛かりがないせいで、ずるずるとビーチサンダルが幹をするだけだ。何度かジャンプして、中を覗こうともしたが、うまくいくわけもない。そのまま、しばらくの間どうにか中を見ようと四苦八苦していると、
突然、窓から女性が顔を出し、龍斗と目がばっちり合う。瞬間、彼は心臓を撃ち抜かれたような衝撃に襲われる。足の力が下の方へ一気に抜け、頭が真っ白になり、女性に目を向けたまま、がくりと膝が折れてその場で前のめりに倒れてしまう。その時、僅かに感じた膝がしらの痛みで、真っ白だった頭が再び色を取り戻していき――ヤバい、と思う。そう、ヤバい。とにかく、じいちゃんの家へ戻らなければ。そう思い、彼はまだしっかりしない足に力を入れて立ち上がると、窓に背を向ける。しかし、
「待って」
女性に呼び止められてしまい、足が止まる。意識はそんなもの無視して前へ進もうとするのだが、なぜだか足はその場に打ち付けられたかのように動いてくれないのだ。
「今行くからそこにいて」
言われるまま、彼は待つ。いや、「待つ」ではなく、単に体が動かなかっただけか。とにかく女性が来るまでの時間が、まるで鉛でもつけられたかのように、ゆっくり、じりじりと動くように感じられる。背中が汗ばんできて、シャツが貼りつく。しばらくして、「こっち来て」という声が真後ろから聞こえて、胸がぎゅっと縮む。頭では心臓の鼓動に合わせて、どくどく、どくどくと早鐘が打ち始める。彼はもう何も考えられず、ただ、女性に誘われるまま、庭を進み、家の中へ入っていく。
「さっき、覗いてたんでしょ?」
家に入るなり、女性が言う。龍斗は応えようと反射的に口を開いたが、肝心の言葉が見つからない。口を中途半端に開いたまま、しばしの間。自分が如何にも間抜けに思えて、顔が熱くなってくる。
「別にいいのよ」女性の声が聞こえてきて、心臓が縮み上がる。「何してたか知りたいでしょ?」
女性はそう言うと、龍斗の視線に自らのそれを重ねようとする。龍斗が考えていたエロいことを見透かそうとでもするように、目の奥を見つめる。彼は、ダメだ、と思い、咄嗟に目を逸らす。その瞬間、何か言わなくてはというプレッシャーで、意図せず口から「はい」という言葉が零れてしまう。少し間を置いて、女性はいかにも楽しげな声で言う。
「あとね、ズボンのチャックくらい閉めときなさいね」
女性は、ふふ、と微かな笑い声を漏らしてから「こっちに来て」と言い、部屋の奥へと進んでいく。龍斗の方は――消えてしまいたいほどの恥ずかしさのせいで、全身を熱さが駆け巡る。もうどうしたらいいか分からなくなり、涙が出そうだったが、とりあえずファスナーを上げるより他になく、上までしっかり上げてから、仕方なく女性の後を着いていく。
奥まで行くと、別の部屋へ続くドアがある。女性はそのドアを開け、中へ入る。龍斗が躊躇していると、
「いいから入って」
已む無く、彼はその部屋へ歩を進める。――と、足を踏み入れたその瞬間、誰かが自分のこの行為を、じっと見つめているような、そんな感覚に襲われる。しかし、進む他にない彼は、どうにもならない不安と罪悪感を胸に、先程と同じように女性の後に続く。そして、部屋の先に視線を向ける。
そこには一台のベッドがあった。掛布団が盛りあがっていて、人が横になっているのが分かる。
「あれは、私の旦那」
女性がベッドを見つめたまま言う。龍斗へ向けて話しているというよりは、ただ一人で言葉を紡いでいるという感じだ。彼女はしばらく黙ってベッドの中の夫に視線を置いていたが、そのうち顔をそむけ、部屋を出ていく。龍斗も慌ててそれに従う。
元の部屋に戻ると、再び女性は話し始める。
「あの人、病気なの。ALSっていう、体が動かなくなる病気。発病して、二年くらいかな。結婚してすぐなっちゃったの」
女性は一旦言葉を切ると、ふう、と息をつく。何やら諦めのようなものを感じさせる、乾いた嘆息。続けて、僅かな湿り気を残す声で「こんなはずじゃなかったのにね」と呟く。しかし、その後、再び乾いた声に戻って、
「もう自分で起き上がれないし、手も足もほとんど動かない。でも、頭の方はしっかりしてるの。まだ話すことはできるから、それははっきり分かる。それでね、彼はセックスしたいって言うの」
そう言って彼女は笑う。断念しきった無力感がにじみ出るような笑い方だ。その乾いた感じに龍斗は腹の底に刃を突き刺されたような痛みを感じる。
「だから、ヤルのよ。動けない彼の前で、裸になって、言う通りに動いて、顔に胸を寄せて乳首を吸わせて、体中舐めてキスして。下も脱がせてやって、しゃぶってあげるの。ちゃんとイクまでね……。なのに、彼は、大抵何かが気に入らなくて、いつも怒鳴る。私に向かって、ここで言えないくらいひどいことをね。体が動かなくなってくストレスだって頭では分かってるけど……」
女性はそこで言葉を切る。しばしの沈黙。
「早く死なないかなって、たまに思うの」
その言葉はまるで凶器のようだった。龍斗の胸をずぶりと突き刺し、切り裂き、彼の心は血を流す。頭の中では、歯車がぐるぐる、ぐるぐる回っているよう。手がガタガタと震える。
「ひどいって、思う?」
女性の声が聞こえてくる。龍斗は考えようとする。が、頭の歯車は激しく激しく回り続け、考える余地を与えない。仕方なくなんとか声を絞り出し「分かりません」と言う。
「優しいんだね。それに正直なんだよね、きっと」そう言ってから、女性は口調を強めて「ひどいなんてね、私、言われる筋合い無いのよ。もし、相手が同じようにALSの人を介護してて、同じように苦労してるんだったら、別に何言われてもいいけど。でも、どれだけ大変か、辛いか、知りもしないような人から分かったように非難されるのは、ホント、我慢できない」
女性はそう言うと龍斗の顔をじっと見つめる。何かを求めるような、その視線が痛くて、彼は目をそむける。フローリングの床を眺めながら、時が過ぎるのを待っていると、
「ねえ、私とセックスしない?」
みぞおちにパンチを食らったような衝撃。龍斗は思わず顔を上げ、女性と視線をぶつけてしまう。慌てて再び顔を下へ向け、言葉を探す。しかし、意識は頭の表面を滑るだけで、何も考えられない、見つからない。それでも、何か、何か言わなくては。その思いに動かされ、彼は無意識にこう言っていた。
「今、そーゆー気分じゃないから……」
龍斗はそのまま女性の家を後にした。じいちゃんの家の方へ歩くうちに、ゆっくりと、悔恨が縁のない水のように胸に広がっていく。それはいろんな、矛盾した感情が混ざり合った後悔の念だった。なぜあの家に行ってしまったのか。なぜひどいって、はっきり言わなかったのか。なぜそーゆー気分じゃないなんて言ったのか、あの人とセックスしてあげなかったのか――
それはきっとあの時彼が変わってしまったからだ。本能的に感じるのだ。女性と一緒にいたあの僅かの時間で、何かが彼の指の隙間から零れ落ちていった。取り返すことは、もうできない。そして思う。きっと、今までのように純粋に友達や彼女とじゃれ合い騒いだり、セックスのことを考えて夢中になったり、そういうことはもうできないのだろう、と。今のこの時が永遠に続くわけではないのだ。それを彼は初めて知った。心にぽっかりと穴が開いたような空虚さ。
その時、ふいっとある考えが脳裏をよぎった。
マジで、本当にマジで、オレってテレビ見るくらいしかやることなくなっちゃったのかも知んないな。
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