バナナフィッシュの世界―小説と映画の小部屋―

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『SWEET SEVENTEEN』

 

 明日は給料日。そして一八歳の誕生日。くだらない。

 給料なんてもらったって使えない。いや「使えない」っていうのは正確じゃないな。使わないんだ。それは先月初めて――そう、人生で初めて給料ってものを手にして、分かった。

 口座に給料が振り込まれたその日、オレはそれまでずっと欲しかったバッシュを買うつもりだった。コンビニのATMで金を下した時、画面に表示された残高の数字の大きさに、こう、胸ん中がめいっぱい膨らむような、そんな感覚がした。まあ、嬉しかったんだな、たぶん。それで二万おろして、買いに行った。目当てはアシックスのゲルバーストってやつで、見た目はシンプルでカッコいいし、めっちゃ軽い上に、中底にある着地の衝撃を和らげたりするクッションが、すげえ軽くてへたりにくい。オレはゲルバーストを見つけると、心臓がどくどくいってるのを感じながら、手に取った。いかつい見た目からは想像できないほど軽く、そうと知っていながらつい持ち上げる手に力が入っちまって、ふわっと、ゲルバーストは空を切った。それからオレはゲルバーストを目線の位置に持っていき、じっと、バカみたいに真剣に、眺めた。柔らかくて、でもしっかりと押し返す弾力のある質感が、指先を通して伝わってきた。それで、この時、オレの意識ん中で、はじめて、これが自分のものになるんだってことが、現実味を帯びてきた。んで、その瞬間――オレはゲルバーストを買うのをやめようって、思った。その時はなんでか分かんなかったけど、でも、買いたくなくなった。欲しかった。けど、あの金で買うのは嫌だった。それからオレはゲルバーストを、そっと、元の位置に戻すと、そのまま店を出ていった。

 そういうことなんだ。オレは給料もらったって、使いたくないんだ。でも、金を貯めたいとか、そんなんじゃない。使おうとする度に、なんか、嫌な感じが全身を稲妻みたいにビリリッと走る。その後も、実は一回、ちょっとタトゥー入れてみたいなって、思ったりもしたんだ。もちろん、目立たないとこにだけど、ちょっとカッコいいなって、そう思って。けどやっぱり、金を手にすると――もう何だか分かんない嫌な感じが、襲ってきて、胸にせりあがってきて、どうしようもなくて、結局できなかった。で、そのうち、気がついたら、その嫌な感じが、バイト先の店とか、制服とか、バイト仲間とかを目にした時に、ふっ、と湧いてくる気持ちに妙な具合に重なってた。そう、似てるんだ。なんだかすごく似てるんだ。それが分かってくるともう金のことを考えるだけで、バイト先のいろんなことが自己主張するみたいに頭ん中でギラギラギラギラしてきて、その度に心臓が握りつぶされたみたいになって。それで、はっきり、知った。この金を使うってことは、オレがいつもやってる「いらっしゃいませ、店内でお召し上がりでしょうか?」とかから始まるくだんないマニュアルを、そのマニュアルに沿ってただ笑顔で――その笑顔だって、マニュアル通りのニコニコ顔だ――客に機械的な質問をするバイト仲間を、認めることになるんだ。そういう全てを受け入れたことになるんだ。そんなん、どーだっていいって思うかもしれないけど、でもね、オレにはどーだってよくないんだよ。絶対に。

 

 それに十八歳の誕生日。十八歳なんて、別になんてことない。特別なことって言ったら、エロいDVDとかネット動画とかを合法的に観れるようになるって、そんだけだろ? それだって、どうせ元々見てるから、関係ない。でも、オレの母親はそうは思ってない。あの人にとっては毎年やってくるオレの誕生日は、三百数十年に一度の金環日食と同じくらいのビッグイベントなんだ。

 誕生日の食卓は、オレの「好物」で埋め尽くされる。メインディッシュはハンバーグ。ナイフを表面に当ててちょっと引くと、その表面はキレイに割けて、あとは、すとん、と内側の肉の間を銀の食器が通る。で、じゅわっと肉汁と湯気が溢れだして、肉の甘みが鼻をくすぐる。味もそうだけど、この感じが何だか好きなんだよな。ソースはケチャップとなんかとなんかを混ぜ合わせた手作りで、付け合せはにんじんのグラッセ。それにシチュー、ほうれん草のソテー、シーザーサラダなんかがあって、最後に必ずデザートが出てくる。それは大抵、母親がオレが好きで好きでしょうがないと思ってるチョコ味のアイスクリームなんだ。確かに嫌いじゃないよ。味云々もあるけど、まず触れるとピリッと冷たいスプーンとか皿とかが好きなんだ。それで、その冷たさに触れながら、スプーンにぐっと力を入れて固くて丸いアイスの端をそぎ取って、口元に運んでく。で、口に含むと、一瞬舌に、ひっ、て感じの冷たい刺激があって、次にはその冷たさが口全体に広がってくる。それに続けて、チョコのほろ苦い甘さが舌先に伸びてくる。冷たい刺激と甘さがなんだかめちゃくちゃマッチして、うまいっていうか、なんか、好きなんだ。

 母親は、オレがそうやってハンバーグとかアイスとか食ってるのを、いつも、じっと見つめてる。その目には、なんて言うか、満足してるっていうか、自信に溢れてるっていうか、そんな光がある。その光のせいか分かんないけど、その目はオレじゃないものを見てるみたいなんだ。その視線の感じに気が付いたのは、たぶん小学校の高学年くらいだったと思う。その頃から、オレは母親が怖くなった。あの人がオレ越しに見てるものの正体が分かんなかったから。でも、その正体は中学に上がってしばらくすると、氷がゆっくり溶けるように、だんだんはっきりしてきた。あの人はオレがアイス食ってるの見て、「良い母親」の姿を見てるんだよ。自分の子供の好きなものを把握して、それを全部与える完璧な母親。その証明がアイス食ってる時のオレなんだ。それであの人の目には、いつも自己満足に浸った輝きが宿ってるんだ。そして、中学を卒業するころになると、その目が見つめてるのは「良い母親」だけじゃないんだってことが分かってきた。そう、ちゃんとオレのことも見てるんだ。「良い母親」だけじゃなく「良い子供」――母親が手塩にかけて作った料理とかなんとか、そういうのを、ちゃんと味わって楽しんで喜ぶ「良い子供」を見つめてるんだ。それに気づくと、もう、あの人の視線が痛くて、息苦しくて。それが一年の集大成って感じでめいっぱい注がれる誕生日が、嫌で、嫌で、嫌で――たまんなくなった。

 

 だから、給料日も誕生日も、もう嫌だ。明日なんて来なければいい。

 

 そんな思いに心を煙らせながら、オレは学校の屋上にいる。そこで、フェンス越しにずっと下にある景色を見つめてるんだ。校庭とかグラウンドとかはいつも見てるから、それとは反対側の住宅街の方を向き、その上からぼんやりと視線を泳がせてる。横浜南部のその風景は、所々、高くつきだした高層ビルがあるけど、その他はこじんまりと控えめに住宅が並んでるばっかり。見てるうちに遠近感がなくなってって、綺麗に等間隔に並べられた模型みたいに見えてくる。手を伸ばして指でつまみあげられそうな、そんな気がする。一つ一つの建物はそろえて作ったみたいにほとんど同じくらいの高さとか色とかで、なんか、こう――画一的ってこういうのを言うんだなって、そんなことが脳みその表面をかすめていく。

 ――と、突然、やりきれない思いが込み上げてきた。胸の中にあったいろんな物――ゲルバーストとか、バイトとか、ハンバーグとか、チョコアイスとか、それに母親とか――が、一気に、潮が引いていくみたいに掻き消えて、とにかく悲しさみたいなものだけがくっきりと残ってるんだ。はっきり見ちゃったんだよ。これがオレのいる世界なんだって。オレはこういう世界にいるしかないんだって。

 で、次の瞬間、脳みそが、ぐる、と回転したみたいな気持ちの悪い感覚になって、オレは思わず目をつぶる。でも、目の前は暗いのに、なぜか頭ん中ではちゃんと住宅街が見えてて――いや、なんか、あっちがこっちを見つめてるみたいで、見たくないって思っても、ずっと頭にこびりついて離れてくれない。画一的なまんま、息遣いのないまんま、ただオレを見てくるんだ。どうしようもないから、そのままでいると――ふと、その風景の中に、赤い染みみたいなものが見えてきて、オレの意識は捕えられる。くすんだ灰色の中にやけに鮮やかな赤。それは、じっと見てると、人の形をしてんのが分かってくる。グチャミソに潰れた人間。でも、それは唯一の、この画一世界の中の個性みたいなんだ。

 オレはそっと目を開く。その瞬間、目の前の景色はぐらりと歪んだかと思うと、すぐにカメラの焦点を合わせるみたいにはっきりとなる。けど、目をつぶってた時みたいな赤いグチャミソはない。贈り物を取り上げられたみたいな、寂しさが、ぽつん、と生まれる。

 オレは、引き付けられるみたいにして、コンクリについていた尻を持ち上げる。硬い感触が消えていくような、そんな感覚が遠くでして、消える。フェンスにまで行くと、そこに足をかけて、上の方に手でつかまりながら、ぐっと力を入れてよじ登る。向こう側に渡ると、うっかり変なタイミングで落っこちないよう、慎重に空いた方の足で下を探りながら降りていく。で、靴の先に固い感触がすると、ふう、と一息漏らしてから、体重をそっちの足にゆっくり移していく。なんか、いきなりコンクリが抜けちまいそうな気がして、心臓が縮む。だからフェンスにかけた他の手足に、やけに力が入る。でも、そのうち、コンクリについた方の足にしっかりと体重がかかると、それを支える足元の頑丈さも伝わってきて、そこでやっとオレは手ともう片方の足をフェンスから離す。で、ようやく、体は屋上の縁に落ち着く。

 それから、また深く息を吸って吐き出すと、胸に小さく決意を固め、そろりそろりと体の向きを変える。広がる住宅街を見下ろす。さっきより一段、ぐん、と迫った無機質な地面がこっちを見つめてるみたいで、ぞわ、と鳥肌が立つ。そのせいかどうか分かんないけど、ちょっとすくんじまって、フェンスにぴったりくっついて、下を眺めるしかできない。心臓がどくどくいう音が、鼓膜に響く。

 そんな風にして、しばらく住宅街を見つめてる。やっぱりめちゃくちゃ手の込んだ模型みたいだ。ほとんど同じような建物は、大体等間隔に並べられてて、きちっと塀とか道路とかに沿っている。列を乱すようなことは絶対ない。整然とした、だからこそ息遣いのない、ただそこに置いてあるだけの街並み。ここに赤いグチャミソがつけば、さっき見たみたいに、少しは変わるんだ。

 ――と、ある瞬間、視界の隅で何かが動く。それは一つも汚れてない真っ白な紙に、突然、ぽつんと打たれた黒点みたいで、オレの意識を捕えた。そっちに視線を向けると、一台の自転車がこっちに背を向けて走っていた。それは女の人――たぶんおばさんで、乗ってるのは普通のママチャリ。前かごに荷物の入ったビニール袋を入れてるから、買い物帰りかなんかだろう。前が重たいせいで、ハンドルを取られて、ふらふら、ふらふら、危なっかしい。整然とした景色に落書きでもするように、でたらめに揺れながら、進んでく。オレは無意識にそのおばさんを目で追ってて、道を曲がって見えなくなってから、ようやくそうと気が付いた。

 おばさんが行ってしまってからも、他に見る物もなかったオレは、そのまま道路に視線を置いている。再び動く物のなくなった画一的な風景がこっちを見つめ返す。しばらく見つめ合う。

 ――と、また、頭ん中にイメージが浮かんでくる。目の前のものとは違う、別のイメージ。それは、前に理科の実験でやったカエルの解剖だ。喉から尻までの皮膚、それに腹筋と肋骨を解剖バサミで切って、開くと、カエルん中には、鮮やかな色の内臓が詰まってる。それは、綺麗にカエルの体に沿って、あるべき場所にあるべき形で配置されてて、あんまり精巧すぎて、模型みたいなんだ。でも、美しく配置されたその臓器は、内側から生命が溢れだそうとしてるみたいに、鮮明な色に輝いてて、心臓はどくん、どくん、って、ずっと――そう、腹を切り開かれてんのに、ずっと、脈打ってるんだ。そのどくんっていう度に、心臓の赤みが動く。不均等に、その色を濃くし、それから飲みかすみたいに赤をちょっと残して、すうっと色を薄くする。作り物みたいに精巧だけど、しっかりと生きてる、カエルの内側。

 なぜか浮かんできたそのイメージは、目の前の画一的な住宅街と変な具合に重なってくる。なんでだか分かんないけど、二つのものが似てるみたいな、変な感覚になってくる。住宅街は濁った色で、あるべき場所にあるべき形で、つまんないくらい均等に並んでて、活力がなくて、画一的だ。でもさっきのおばさんは、カエルの内臓とおんなじで、ちゃんと生きてて、心臓の赤さみたいに、不正確に、でもしっかりと動いてる。ただ、物の置かれ方が画一的なだけで、世の中が画一的だって、決めらんないのかもしれない。

 そう、オレの見た画一は、世の中じゃないのかもしれない。画一的な風景の中に、何百人っていうあのママチャリのおばさんみたいな人間がいて、みんなでぐちゃぐちゃに落書きして――そうやって世の中はできてるのかもしれない。バイト仲間も母親も、ちゃんと落書きしてんのかもしれない。ただ、オレが見てないだけで……

 その考えは、暗闇の中で、遠くにぽつんと現れた光だ。希望の光とかなんとか、そんなんかもしれない。でも、オレはその光が怖い。光を意識すると、思わず心ん中で目を逸らしたくなる。それでも、その光はオレのことをじっと見つめて、何かを訴えかけるみたいにどんどん輝きを増す。どうしようもなく眩しくて、目に涙がたまってくる。だって、それは世の中は悪くないんだって、悪いのは――オレの方なんだって、そう言ってんだから。それを認めたら、オレはきっと、世の中をちょっとは好きになる。それは分かる。だから、怖い。

 オレはまた、意識を住宅街に向ける。やっぱり何だか息遣いのない風景。でも、もう少しすると部活終わりの高校生がわらわら出てくるはずだ。オレがグチャミソに潰れた汚れになんなくても、ちゃんとこの風景にはいろんな色がついてく。オレがグチャミソになっても意味ないんだ。存在を否定されたみたいな、そんな気持ちにぎゅうっと心臓が握りつぶされて、痛みが胸に広がる。でも、一方ではやっぱりあのぽつんとした光が輝いてて、それが不思議と痛みを和らげる。なんだかよく分からない感情のまま、オレはまたフェンスを登って、向こう側に降りた。

 

 そうだ、オレはこのまま十八歳になるしかないんだ。給料もらって、たぶんそのうちに使っちまう。そうするしか、ない。

 

 屋上のコンクリを見つめながら、そんなことを思う。何も言わないコンクリは、さっき上からずっと下の地面を眺めてた時と同じように、見つめ返してくる。表情とかない、冷たい感じ。

 で、しばらくそうしてると――あることが、ふいっ、と脳裏をかすめる。オレの意識はそれをしっかり捕まえる。

 

 やっぱりタトゥーを入れてみよう。そう思った。入れるのは何でもいい。なんかアルファベット使った文字でも、星形みたいな絵でも、もう自分の名前とかだっていい。とにかくなんか入れて、みんなをびっくりさせてやろう。十八歳の、いや十七歳最後の記念だ。グチャミソになんなくたって、世の中の汚れにくらい、なれるよ、きっと。

 

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