バナナフィッシュの世界―小説と映画の小部屋―

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『ようこそ、地獄の台所へ』

 

 彼は運転手だ。表の顔も、裏の顔も。乗っているのはフォードのクラウンビクトリア。タクシーの運転手という昼間の仕事でよく使っていたため、その乗り心地――ハンドルの質感やコントロールのしやすさ、ドアを開ける時のスムーズな感じ――にすっかり体が馴染んでしまって、二年前、生産終了間際に貯金をはたいて買ってしまったのだ。しかし、それだけの価値はあった。彼とこのビックとの相性は抜群で、エンジンをかけた瞬間の僅かに臓器を揺するような振動も、アクセルの感触も、ブレーキのかかり具合も、まさにピシャリ。彼はすっかりビックの虜になっていた。彼が心から愛していると言えるのは、ビックと五つ年下の妹だけだった。
 運転手は、ふう、と息をついて腕時計を見、続けて右の窓に視線を投げた。見えるのは数フィート先の白いコンクリ造りの建物のみ。がらんとした、という形容が相応しい味気なさが、そこにはあった。
 しかし突如、くすんだ空間にバンという爆音が響いた。身構えてはいたが、運転手の胸で僅かに心臓が縮んだ。脅かしやがって、そんな言葉を込めて息を吐き出し、彼は身を横に乗り出して助手席のドアを開けた。しばらく待っていると、建物から男が一人歩き出てきた。落ち着き払った様子でこちらに向かってくる。ゆったりとしているようだが、みるみるうちにそいつの姿は大きくなった。
 彼は長身ではないが均整のとれた体型で、すっと伸びる首に支えられた小さな顔の上には、優しげな瞳があった。小さく、通った鼻筋に、薄い唇。その口元には穏やかな笑みが浮かんでいた。端正な顔立ちの上に、物柔らかさを湛えた青年だった。
 気が付くと、彼はするりとビックに乗り込んでいた。
「悪いな、手古摺ったよ」
「ああ、あと少しで置いてくとこだった」と言いながら、運転手はエンジンをかけた。そして、アクセルに乗せた足の親指に力を入れ、もう片方の足でクラッチをぐっと踏み込む。クラッチを上げると、ゆっくり車が動き出した。
「でも、おかげでいい写真が撮れたよ」
「サイコ野郎」
 道路に出ると、ビックは徐々に加速した。

「で、何だよ、話って?」
 助手席の男が、黒い手袋をはめた右手でカーラジオをいじりながら、聞いた。運転手は黙ってフロントガラスを見つめた。エンジンの唸りが、低く耳に響く。だがすぐに、こう返した。
「一昨日の新聞、見たか?」
「ああ、確か」
「また殺人だってな。ヘルズ・キッチンで」
「そんなような記事もあったかな。お前、あそこの出身なんだよな」
 運転手は返事をせず、右手で尻ポケットから煙草の箱を取り出し、一本抜くと火をつけた。猟奇性により世間で取沙汰されてはいるが、その実、警察もあまり動いていない事件だ。もっと言えば、有力紙では三面の隅に追いやられているような事件だった。彼がうろ覚えなのも、無理はない。
「妹なんだよ、殺されたの」
 運転手に向けた助手席の男の目が、大きく開かれた。一瞬を置いて、彼は、なるほど、と言った。瞳に被さっていく瞼が、彼の表情から驚きを拭い去っていく。
「それで、オレに殺しの依頼をしたいわけだ」
「まあな」
「情報持ってんのか? 標的の」
「いや」
 助手席の男――殺し屋は乾いた笑いを漏らした。
「あっさり言ってくれるな」
「無理か?」
「いや、別にいいさ。オレを飼ってるマフィアの連中は休暇でフロリダだ。どうせだから、今から行こう」
 運転手の腹から力が抜けていき、はあ、と自然と息が漏れ出た。代わりにぐっと足に力を込め、スピードを上げる。

 しばらく進むうちに、日が傾き出した。熟れ過ぎたでかいトマトのような夕日によって、空が血の色に染まっていく。
「宿でも探すか」殺し屋が言うと、運転手は笑った。
「探すまでもないな。あとちょっとでモーテルがある。そこでいいだろ?」
 ああ、と言い、殺し屋は穏やかな視線を窓の外へやった。
 モーテルへ着くと、殺し屋がフロントへ向かった。運転手は車で待ちながら、カーラジオを聞いていた。懐かしの名曲、ということで、カーペンターズが流れていた。カレン・カーペンターっていい声してるよな、と頭で言葉にしながら、彼は赤く染まった空と、その色が地面に落とす濃い影をぼんやりと眺めた。
 すると、駐車場にもう一台、車が入ってきた。ぼうっとしていたせいもあり、それははじめ、運転手の目の中で、風景と同化していた。中から人が出てきて、やっと、彼はその存在に気が付いた。二人の男と、一人の少女。男たちは嫌がって強く抵抗する少女を無理矢理車から引きずり出し、暴れる彼女を押さえつけていた。その姿の輪郭が、次第に運転手の目の中で明瞭になり、はっきりと意識を捕えた。彼は目を大きく見開いて彼ら三人を見ていたが、一人の男が少女の頬を平手で張るのを目にすると、打たれたように、外へ出た。
「てめえら何してやがる!」
 怒鳴り声が乾いた空気を切り裂く。二人の男が同時に彼の方を向いた。その隙をついて、少女が男たちの手を振り払い、走り出した。が、一人の男がすぐに捕まえた。運転手は大股で彼らに近づき、少女を掴む男を殴った。その男が、地面に倒れ込んだかと思うと、もう片方の男が運転手に殴り掛かってきた。彼はもろに横面に一発食らい、ふらふらと後ずさった。倒れた方も立ち上がり、彼に向かって拳を振り上げた。やられる――しかし、
 バン、と大きな音がしたのと同じくして、殴りかかろうとした男が小さな悲鳴と共に蹲った。
「次は首を狙う」
 殺し屋が地べたに屈みこむ男に銃を向けていた。男たちは狼狽え、その場で固まり、寸秒、カーラジオから流れるカレン・カーペンターの声しか聞こえなくなった。《わかってるの このほんとに不完全な世界に完璧を求めているって そしてそれを見つけようとしてるなんてばかだってことも》
 だが、彼らはすぐに踵を返し、自分らの車へ走った。早く消えやがれ、と運転手が頭の中で言葉にしかけた時、再び銃声が響いた。彼は咄嗟に男たちに目を向けた。すると、一人の足がガクリと折れ、ちょうど開けたところだったドアに手を掛けたままゆっくり跪くような格好になった。そして次に、頭が後ろへ仰け反ったかと思うと、そのまま上体が前へ倒れ、車内のシートに突っ伏した。その様子が、まるでコマ送りの映像でも見るように、運転手の目には映っていた。
「首だ」
 と彼の横から声がし、殺し屋が倒れた男に近寄った。そして、手袋をした右手で体を掴んで仰向け、
「ゆっくり死ねよ。見せてくれよ」と言った。その脇では、もう一人の男が地面にへたり込み、震えて殺し屋を見つめていた。殺し屋は、しばらく倒れた方の男の顔を観察するようにした後、唐突に羽織ったコートからカメラを取り出し、写真を撮った。パシャリ、という音が空気を走った。
 サイコ野郎
 運転手は心の中で呟いた。
 殺し屋は、情けなくコンクリに尻をついて震えるもう片方の男へ向き、しばし見つめた。そして、言った。
「できれば内緒にしといてくれないかな。逃がしてやる代わりに」
 男は瞬きすら忘れ、目を見開いたまま、こくこくこくと、何度も頷いた。それを確認したと見えて、殺し屋はふうと息をつき、向き直ると運転手に近づいた。
「フロントの老婦人は、大音量でハードロック聞いてるから気づいてないよ、たぶんな」
 運転手は彼を無視し、立ち尽くす少女の方を向くと、「大丈夫か?」
 その一瞬で、呆然としていた少女の目が、瞳の円い輪郭が見えるほど、大きく開かれた。口も薄く開いたが、戸惑っているのか怖がっているのか、声は出ない。だが、数秒後、彼女の小さな口から、こんな言葉が飛び出した。
「あんたらのせいで客がいなくなったじゃん。どうしてくれんのよ? 金払ってよ」
「はあ?」
 思いがけない返答に、運転手は間の抜けた声を上げてしまった。殺し屋は溜息をついた。
「子供のくせに、客なんか取るな」そして運転手の方を向き、「部屋は一番奥の二階だ。行くぞ」
 しかし、運転手はそれには応えず、少女に向かって言った。
「いくらだ?」
 少女は再び目を見開いた。その目の中で、丸い瞳が揺れていた。そして、また、薄く開いた口をもごもごとさせ、震える声で、「100ドル」そして、ちらと殺し屋に視線を向けると、「一人ね」と付け加えた。
「バカ女」殺し屋は運転手に向かって、「構うな、行こう」と言い、車の方へ歩き出した。それでも、運転手は少女を見つめ続けた。
「オレ、この子と泊まるよ」
 殺し屋は運転手へ振り返り、一瞬目を見張った。しかし、すぐ苦笑しながら、ああそうか、と言って、向き直り、奥の部屋へ歩いていった。
「オレが二人分払ってやるよ。200ドルくらい持ってる」
 運転手が言うと、少女は返事の代わりに、やはり口をもごもごとさせた。
 彼は少女を残してフロントで受け付けを済ませてから車に戻り、彼女を乗せるとそのまま部屋の前まで行った。奥から三番目の一階の部屋だった。
 車から出、ドアを開け、壁に取り付けてあるスイッチを押すと、電灯は二、三度点滅を繰り返してから室内を照らした。あるのはベッド一台にサイドテーブル、小型の冷蔵庫、ソファ、それくらい。いかにもモーテルらしい、簡素な造りだった。
「お前、ベッドで寝るか?」
 運転手がジーンズと腹の間に挟んだ銃をサイドテーブルに置きながら言うと、少女は瞠目して彼に視線を向けた。
「別々に寝るの?」
「その方がいいだろ?」
 少女は視線を落として、しばしそれを彷徨わせた。そして、目を落としたまま、やだ、と言った。顔を上げ、運転手に視線を定めると、
「あんた私のことガキだと思って、バカにしてんでしょ?」
「してないよ」
 運転手が言っても、少女は納得いかないらしく、彼を睨んだままだ。運転手は、はあ、と息を吐いた。
「そんなこと言って、オレがその気になって犯したりしたら、どうすんだよ?」
「別に、いいよ」
 少女が低い、一本調子の声で言った。それがどこか癇に障って……思いがけず、運転手の体は動き出していた。彼は少女の胸倉を掴むとベッドまで押し、その縁に膝を折られてよろけた彼女の体に覆いかぶさった。彼の体に、少女の体がぴったりと触れる――小さな乳房が潰される柔らかい感触が彼の硬い胸に、驚くほど細い肩が腕の中に、強く触ったら壊れてしまいそうなしなやかな体が彼の心に、ぐっと来た。そのせいか、無意識に彼は少女の髪を撫でていた。すると――その掌の感触と、ずっと昔に覚えた、あの、あの、細くてしなやかな髪の感触とが、重なって、内臓に電気が流れるみたいになった。臓器に沁みるその感じに耐えられなくて、意図せず意識を視線に移すと、少女の表情がそこに留まった。榛色の瞳の上で、光が震えている。
 ふと、妹の姿が脳裏をよぎっていった。
 彼は起き上がり、少女から離れた。
「ほら、怖かっただろ?」
 彼女はベッドに体を仰向けたまま、何か言おうとしたが、口がわなつき声が言葉にならないらしい。あ……え、うう……、みたいな妙な声に続けて、彼女の右目の縁から涙が零れた。そして、震える声をそのままに、天井を仰いで、こう言った。
「別に、怖かったから……とかじゃ、ない……からね。ただ……びっくり、したんだよ、本当に……」
「分かったよ」運転手は応えると、ベッドに腰掛けた。「一緒に寝るか。本当に、寝るだけ、な」
 その後、運転手と少女は並んでベッドに横になり、話をした。ずっと話していた。内容はくだらないものだった。映画や音楽の話題とか、少女の母親への不満を聞いたりだとか。そのうち、少女がその身を彼に、ぴったりとくっつけてきた。彼の硬くて大きな体の輪郭に、小さな体が添う。心が穏やかなまどろみの中に沈んでいく――。それからどれくらい経ってからだろうか、
「あんた、もしかして勃ってる?」
 開けっ広げた声が、運転手の脳に鋭く切り込んできた。彼は一時とろりとした心地良さから覚めて、
「うるせえな。そういうんじゃねえよ」と返した。
「なんでよ? やっぱり私とヤリたいんじゃないの? してあげよっか? いいよ」
「違うっつってんだろ」と言いながら、運転手は少女の顔を見た。「別にそういう気分じゃなくてもなることもあんだよ。朝起きた時ビンビンにおったってたりな」
「本当に?」
 そういう少女の目は三日月形に細められていた。いかにもくすぐったそうな表情だ。
「そうだよ。女の子には分かんねえよ」
 運転手は目を閉じ、寝ろよ、と言った。

 翌朝、運転手は頭をはたかれて目を覚ました。
「早く起きろ、行くぞ」
 殺し屋だった。
 運転手は体を起こすと、頭蓋骨の中で脳味噌がぐわんと揺れるような感覚を覚えた。ぼうっとしたまま、彼は周囲に視線を巡らした。
「あのガキならもういない。今朝、部屋から出てくの見た」
 ふうん、と言いながら運転手は無意識に尻ポケットの辺りを探った。煙草はあるが――
「財布がない」
 殺し屋は、はあと溜息をつき、「取られたんだろ?」と言って、すたすたとドアへ歩き始めた。それを追おうと、脇のサイドテーブルから銃を取り、ゆっくり立ち上がると、思いがけず、運転手は腹の底に重みを感じた。名残惜しさとも言うべき、静かなにがさだ。それが四肢まで広がり、染み通って来――彼は顔を顰めながら後に続いた。

 二人で車に乗り込むと、ビックは亀裂が入ってがたがたになった道路を進んだ。三時間ほど走り、ハドソン川を渡ると、そこはもうヘルズ・キッチンだ。
「ようこそ、地獄の台所へ」
 運転手がフロントガラスを見つめながら言った。
「台所なら、さぞうまい飯があるんだろうな」
 横からの声に、運転手はカラリと笑った。
「あるさ、9番アヴェニューは、もうレストランアヴェニューだな。メキシコにタイにギリシャ、いろんな国の料理が食える」
「そりゃ良かった。タイのカレーが食いたいな。辛いものが好きなんだ」
 それを聞くと――ふと、運転手は小さな引っ掛かりを覚えた。へえ、と口から零しながら、本能的な部分で拒絶を感じ、全身の毛が逆立つみたいになった。瞬時に、彼はそのささやかな違和感から目を逸らし、前方の道路に意識を集中させた。
 ビックが9番アヴェニューに入ると、殺し屋は顔を窓の外に向けた。タイ料理屋を探しているのだろうか? その考えが浮かぶと、やはり背筋を冷たい蛆虫が這い上るような悪寒に襲われた。三年ほどこの殺し屋の運転手をしてきたが、彼を――このサイコ野郎のことを、人と思ったことはなかった。彼は、初めてその事実に気付いていた。そして、こいつが、自分と同じ、平凡などこにでもいる人間なのだと認めるのは、どこか怖かった。
 殺し屋の望み通り、彼らはタイ料理店を見つけて、入った。店内にはまだ客は一人もいなかったが、そのいかにもというエスニック風の装飾と、ランプ灯りの薄暗く幻想的な雰囲気のおかげで、がらんとした印象ではない。入り口で突っ立っていると、そのうち東洋系の顔立ち男――おそらくタイ人なのだろう――が近寄ってきて、彼らを席へ案内した。
「何にする?」
 運転手が聞くと、殺し屋はすぐに「オレはグリーンカレーだな、一番うまい」
「オレはカレーなんか食ったことねえや。別のにするかな。他にうまいのは何だ?」
「さあ、ドランクンヌードルとかかな、有名だし」
 殺し屋の言う通り、運転手はドランクンヌードルを頼んだ。
 注文し終えると、殺し屋は一度席を立ち、別のテーブルにあるマガジンラックからタブロイド紙を手に取って戻ってきた。運転手と目が合うと、「情報収集しないとな」と言って、視線を落とし、ページを捲り始めた。
「そんなので収集できんのかよ?」
「『メン・イン・ブラック』でも一番の情報収集源はタブロイド紙だぜ。それに、どっちかっていうと被害者はマイノリティが多いみたいだし、あんまり警察は動いてなさそうだ。こういうゴシップ性の強い情報誌の方が、いろいろ載ってるだろ」殺し屋は口の右端を、にっ、と吊り上げて返してきた。
 映画なんか見るんだな。
 そんな言葉が運転手の喉に上がってきた。が、それが口から出そうになると、彼は、またあの違和感を、続けて拒絶を、感じた。体にぞわりと鳥肌が立っていく。今までは全く気にならなかったのに、一度意識に留まると、やたらと殺し屋の口から出る人間臭さが肚に沁みた。
 彼は、ああそうか、と適当に応えると、メニューに目を向け、時間をやり過ごすことにした。
 料理が運ばれてくると、二人は黙々と食べた。運転手は、甘辛いソースが絡んだライス麺を箸で大量に掬って頬張り、入りきらない分は途中で噛み切るようにして食べていた。そして、偶にそっと視線を上げて、殺し屋の様子を伺った。
 殺し屋の食べ方は、運転手とは対照的だった。運転手には、グリーンカレーとやらの正しい食べ方は分からないが、それでも、ライスに少しずつカレースープをかける様子も、丸く模られたライスの端をそぎ取って、口へ運ぶやり方も、彼の目には妙に行儀よく映った。お上品なことだな、と考えながら、ふと、頭の隅でこんなことも思った。
 オレが見ていたこの男は、いつもこんな風だったんだ。
 そうだった。彼は三年間、ずっと、この柔らかい身ごなしの隣にいた。そして、それこそ、彼にこの男を恐ろしいモンスターだと思わせている要因だった。何をやってもお手本のように綺麗にこなす様子は、どこか非人間的だったのだ。温和な話し方や立ち振る舞いや容姿が、作り物のように、まるで……「これが人間だ」というマニュアルを元に作られたビニール製の表皮のように感じられていた。その冷たい皮の下では、この世においてはあり得ない異様な生き物が舌なめずりしているように。しかし、今、彼の目の前でグリーンカレーを食べている男は、「型通り」の人間からはみ出している。化け物ではない、自分と同様の体温を持った人間が、そこにはいるのだ。そして、それは――ぐっと、自分が、彼自身が、逆に異様な生き物へ近づけられたようでもあった。このモンスターと自分は同類なのだ。いや、人間は皆、皮を被ったモンスターなのだ。そういう事実を突きつけられたみたいだった。
 殺し屋は食べ終えると、再びタブロイド紙へ目を向けた。ペラペラと捲り、一つのページで手を止め、しばらく見つめると顔を上げた。
「あるよ、ヘルズ・キッチンの連続殺人事件……いや――」
 彼は一度言葉を切り、息を吸い込むと、「読めよ」と言って雑誌を手渡した。運転手は無言で受け取り、視線を紙面へ落とした。

《『地獄の台所』に潜む食人鬼》
 このところヘルズ・キッチンを震え上がらせている連続殺人事件。特徴的なのは、被害者の多くが若い女性だということだ。ホームレスシェルター住まいの二十四歳の女性から始まり、高校生や中学生も襲われている。また、路上売春婦が被害にあっている場合も多い。犯人が性的倒錯者である可能性は非常に高いだろう。
 さらに、この事件において奇怪なのは、発見される被害者の遺体だ。必ず体のいくつかの部位が切断、持ち去られているのだ。腕や足はもちろん、乳房を切り取られたもの、腹部を切り開かれ内臓を取り除かれたもの、中には頭部を切断されたものもあった。捜査は内密として、警察は言葉を濁し続け、この事件の異常性については全く触れていない。それどころか、「普通」の事件として扱おうとしている。しかし、どう考えてもこれは普通などではない。まるで、ハンニバル・レクターが現実の世界に飛び出してきたようだ――

 運転手はここまで読むと、顔を上げた。
「くだらないな」
「何がだ?」
 運転手は溜息をついた。
「何の情報もないだろ? ただ『地獄の台所に食人鬼がいる』って書きたいだけだ」
「後半は賛成だが、前半は少し違うかな」そう言い殺し屋は口の右端を吊り上げた。
「バラバラにしてどっかに隠すんなら、話は分かる。でも、死体は現場に放ったらかして、部分的に持ち去ってるんだ。隠すためじゃないなら、側に置いとくためだ。それなら、周りはひどい臭いがするはずだろ? 人肉は腐りやすいらしいしな。だから、人に聞いてきゃ分かるかもしれない。臭いで気づかれないんだったら、全く人と接さずに、戸口を全部閉めきって生活してるとか、もともと臭いのきつい所に置いてるとか、そんなところだろ。とにかく探しやすくはなるさ」
 言葉を切ると、殺し屋は席を立ち、そろそろ行こう、と言った。
 二人は車に乗り込むと、9番アヴェニューを走った。殺し屋は、また窓の外に目を向けている。今度はエルトン・ジョンの曲を奏でだしたカーラジオの響きが、いやに耳に付いた。
「さっきのさ」沈黙が嫌で運転手は話し始めた。「食人鬼の話、もしそうだとしたら、犯人はゲイだな」
「なんでだ?」
 運転手は小さく笑いを漏らしてから応えた。「レクター博士には何人かのモデルがいてな、その一人が、確か『ミルウォーキーの食人鬼』って言われてたダーマーとかいう奴だった。そいつは男が、しかも有色人種の男が好きだったらしくて、タイプの野郎を見つけると声かけて、部屋に連れ込んだ。それで、睡眠薬で眠らせてから殺して、死体とやって、それで、その肉を喰ってたらしい」
 殺して、死体とやって、肉を喰った――自分の口から出た言葉が、数秒遅れで脳に染み入り、その輪郭がはっきりとなった。そうすると……突然、運転手は内臓を深く抉られるような痛みを感じた。殺された上に犯されて、喰われたんだ。
「なら、オレも容疑者の一人かもな」
 殺し屋の声に、運転手は瞬間的に彼の方へ顔を向けた。すぐに前方の道路へ戻したが、その目は大きく開かれたままだ。
「どういうことだよ?」
 殺し屋は小さく笑ってから言った。「オレもゲイだからな」
その返答は、すぐには運転手の感覚に馴染んでこなかった。パズルで誤ったピースをはめようとするみたいに。
「嘘だろ?」
「本当さ。有色人種が好みだから、お前を襲わなかったんだよ」
 殺し屋は窓の外に目をやり、エルトン・ジョンもゲイだな、と付け加えた。
 それから再び沈黙が訪れた。空気が硬く、重く、運転手の声を詰まらせる。仕方なしに、彼は無言でフロントガラスを見つめ、ハンドルを操作していた。だが、やはり気まずい雰囲気は苦手だ。一度息を吐き次に大きく吸って意を固めると、言った。
「気ぃ悪くしたか?」
「何が?」すぐに殺し屋は視線を運転手へ向けた。けろりとした言い方に、やや肩透かしを食らったようになった。
「いや、さっきゲイのことネタにしようとしたからな。女の子殺してるとこ見ると、犯人はゲイじゃないだろうし」
「別に平気さ。むしろ言えてすっきりしたよ。隠してたわけじゃないけど、言わないと隠してる気になるからな」
 殺し屋は息をついて俯いた。数秒そうしてから、再び顔を上げ、
「もう少し、オレのこと話すよ。勝手にしゃべってるから、とりあえず聞いててくれよ」
 意外な言葉に、運転手の頭の隅に細く緊張の糸が伸びていった。ゆったりと寛いだ体が、やや強張る。一度息を呑んでから、頷いた。
「オレが初めて人を殺したのは一七歳の時だった。英語の教師だ。そいつは気取った嫌な奴でな、なんて言うか、自分の鍛えた体とか、センスが良くて高級なスーツとか、そういうのを見せびらかして、他人よりも優位に立とうとするタイプの若い教師だった。相手を見下すことでしかアイデンティティーを確認できないんだよな、きっと。当然オレのことも見下したがってた。でもオレは完璧な模範生だったからな、成績は全部上位クラスのAプラスで、大学の授業も受けてたし、クラブも、バスケ部でずっとエース争いしてた。たぶん、その頃は学校のどこ探しても、オレより優秀な生徒はいなかったよ。そうじゃなきゃならなかったからな、オレは。じゃなきゃ、父親が許さなかった。とにかく、それで、奴はオレにヘマさせたかったんだよ、おそらくな。入学した時からな、ずっと蛇みたいにオレを見てやがった」
 殺し屋は一度話すのを止め、笑った。そして、完璧な模範生か、と口の中で呟くと、再び語り始めた。
「高三の時、ちょっとした事件があった。英語で出された宿題のレポートがな、彼女の家で朝方までかけてやったのに、起きたらなくなってたんだ――」
 運転手は顔を顰めた。それに気づいた殺し屋は、女と付き合ったことないなんて言ってないだろ? と言い、続けた。
「探したんだけど、見つからなくてな、結局、提出できなかった。で、これは結構後になって分かったことなんだけど、ガールフレンドが犯人だった。オレのレポート隠して期日に提出できないようにしたら金やるって、例の英語の教師に言われたらしい。まあ、とにかく、その時はそんなこと分かんなかったから、交渉しに行ったんだ、英語の教師に。何とかAつけてくれないかって。そしたらな――奴はこう言った。Aが欲しかったらファックさせろ、ってな。そしたらAつけてやる、って、そう言ったんだ」
 殺し屋は乾いた笑いを漏らした。
「いくら優等生でもな、おめでたい馬鹿なガキだったんだよ、オレは。あいつの言う通り、やらせたんだ。奴はオレを四つん這いにさせて、後ろからファックしながら、もっと女みたいな声で泣け、って言った。上手に泣けたら、Aをやるってな」
 殺し屋が再び言葉を切った。そして、やや顔を下げたのが、運転手の視界の隅に映った。彼は、ちらと目を傍らに向け、殺し屋の様子を伺った。その一瞬で、殺し屋の目に浮かぶ遠くに思いを馳せるような、ぼんやりした光が分かった。運転手には、たかが学校の成績なんかにそこまでこだわった殺し屋の心は、全く理解できなかったが、しかし、その目の光は、彼にとってどれだけそれが重大だったかを物語っていた。頭に浮かんだ疑問に蓋がされる感じがした。しばし置いて、
「でも奴は、オレにBをつけた。問い詰めに行ったら、一度は甘い考えも浮かんだけど、やっぱり成績はフェアにつけるべきだと思い直した、とか言いやがった。それに、後々お前のためになるから、今回のことは良い社会勉強だと思え、ともな。最低の屑だと思ったよ。オレをファックした上でBをつけて、それで劣等感を与えたかっただけなんだ。まあ、それで切れて殺しちまったんだけどな――」
 そこでまた、殺し屋は目を伏せた。運転手は前を向いたままなので、彼の表情は分からなかったが、生温い空気の中にある、倒錯的な雰囲気を感じ取った。
「――その時見た教師の顔がな、美しかったんだ。びっくりしたよ。あんな下衆い人間だったのに、死に顔は美しいんだ。そこではな、虚栄だとか、偽善だとか、欺瞞だとか、そういうものがすべて消えて、あるのはただ、純粋な、物体としての人間なんだ。その時思ったよ、人間はもともと皆、美しいんだってな。それが醜くなるのは、醜い魂が宿るからなんだ。目の中のいやったらしい光も、下品に飾り立てた表情の歪みも、全部内面の醜さが滲み出た結果なんだ。最初に見た死人が男だったから、オレはゲイなのかもしれないな。とにかく、下衆い英語教師も、小遣い欲しさに奴と組んでオレをはめたガールフレンドも、それに……世間体ばっかり気にしてオレに無理させてた父親も、皆、殺したよ。そしたら、やっぱりな、皆、綺麗だったよ、死んだあとはな。それで、皆の写真を撮った。美しい、本当の人間の姿を、ちゃんと留めておきたくて――」
「それじゃあ――」運転手は殺し屋を遮って言った。「お前は全人類を滅亡させるしかないな。虚栄も、偽善も、欺瞞も持ってない人間なんてのは、存在しないだろうからな」
「分かってるよ」殺し屋は息をつき、話せて良かったよ、と言った。

 殺し屋の提案で、彼らは八番街のバーに入った。午後の四時ごろだ。そこの客や店員に聞き込みをするらしい。運転手は半信半疑ながらも、他に良いアイディアもなく、とりあえず言われるままにした。
 店内に入ると、突然、昼から夜へ世界が変わったような錯覚に襲われた。天井からの照明は弱く、部屋全体をぼんやりと浮き上がらせるのみ。部分的に、フロアスタンドが置かれ、ぽつんと暖色系の明かりを放って、壁に掛けられた絵を照らし出していた。そういった光が、まばらに集まった客たちの姿に陰影を作り、一人一人をミステリアスに映している。殺し屋は、ちょっと聞いてくるから座ってろよ、と言い、カウンターへ向かった。
 運転手は適当な席に着き、店内を見渡した。ぽつぽつと席を埋める客たち。まだ早い時間なのにな、と頭で言葉にしながら、この町の変わりように、僅かに心を痛めた。昔は、こんな手の込んだ雰囲気のあるバーなんてなかったし、この時間にバーに屯すのは、失業者か、隠れてひっそりと仕事をするギャングくらいだった。今はヘルズ・キッチンのギャングは皆、消えてしまった。しかし、ギャングが水面下で幅を利かせていたあの頃は、食人鬼が少女を喰らうなんてことは、なかった。
「何人かに聞いたけど、近所の腐敗臭に悩んでるってやつはいないな、今のところ」
 背後からの声にはっとし、振り返ると殺し屋がいた。おどかすなよ、と言うと、殺し屋は笑った。
「でも、ここは情報が集まりそうだ。この時間から夜中過ぎまで、人の出入りが絶えないらしいから、いろんな奴に話が聞ける」
 それから彼は口の右端を吊り上げ、こう付け加えた。「ゲイの客も多いらしいし」
 それから、二人は適当に酒を飲み、新しく客が入ってくると、ナンパする振りをして聞き込みを行った。運転手が女から、ゲイだという殺し屋が男から聞いた。二人がバーから切り上げたのは、夜中の一時過ぎだった。ビックに乗り込むと、運転手の案内で近場のホテルへ向かった。個室は一泊70ドル、相部屋なら40ドルの格安の宿だ。
「相部屋はまずいな、内緒話ができなくなる」
 殺し屋はそう笑ってから、後で返せよ、言い、フロントで金を払った。
 指定された部屋に入り、電気をつけると、頭上から昼白色の眩しい光が降ってきた。小ぢんまりとした室内、それに壁やカーペットの染みが照らし出される。置かれるもののほとんどがくすんだ白色か、色落ちした薄い茶色をしていた。淡白な光の色合いも相俟って、何とも味気ない印象だった。しかし、一応整理は行き届いているようだし、染みだらけであっても、不清潔なわけではなさそうだった。
「まあ、70ドルじゃ、いい方だな」殺し屋はそう言い、ソファに腰掛けた。
 その後、二人は簡単に明日以降の段取りを決めた。昼間は前日の聞き込みを元に町を歩き、夕方頃から再びあのバーで聞き込みを行う。毎日繰り返せば、ホシに辿り着くだろう、という楽観的な見方を、殺し屋はしていた。
 話し終えると、彼らは床についた。運転手がソファ、殺し屋がベッド。明日は逆にすることにした。
 運転手はソファに体を横たえ、天井を仰ぎ、特に何を考える訳でもなく心を泳がせていた。すると、ふと、その心に異物感が生まれた。いや、心が泳いでいるうちに、しこりみたいなものに行き当たったような感じだ。昔から、ずっとあった、しこり。そのまま暗い穴のような天井を見ていたが、しばし置いて、
「なあ」殺し屋に呼びかけてみた。
「なんだ?」
 すぐに返事があり、まだ彼も眠っていなかったのだと分かった。少し安心し、運転手は続けた。
「オレもちょっと話したいんだ。聞いてくれるか?」
「ああ」
 運転手は、ふうと息を吐くと、語り始めた。
「オレはお前みたいに人を殺したことはない。でも、殺したいと思ってた奴はいる。親父だ。本当に屑だったよ。下衆野郎だった。あいつは――」
 彼は一度言葉を切り、視線を暗闇に彷徨わせた。
「――妹をレイプしてた。まだ小学校の低学年くらいの頃から、ずっと。まだ小さかったからな、妹は痛い痛いって泣き叫ぶんだけど、奴は止めなかった。今思うとな、痛がる妹を見て興奮してたんだよ。変態野郎……」
 そこで運転手は声に詰まった。次に出そうとした言葉が重く、喉元につっかかったのだ。彼は一度、ごくりと息を呑みこみ、小さく意を決すると言った。
「オレは、ただ、それを聞いてた。つまり――妹が泣いてるのを、ただ、自分の部屋で、聞いてるだけだった。やめさせたかったけど――ガキだったから、ガキだったから、何もできなかった。いつか殺してやろうと思ってたし、妹にもそう言った。いつか奴を殺してやるから、安心しろって。でも、そのいつかは来なかった。オレが次殺そう、今度殺そうって思ってるうちに、あいつは勝手に車に轢かれて、死にやがった」
 運転手は息を吐き、誰に言うでもなく、くそ野郎、と呟いた。
「殺せなかったことは悔しかった。汚いと、卑怯だと、思った。けど、一番あの男のことで嫌だったのは……」
 再び声が詰まった。言葉にしようと思ったことが、彼にはあまりにも残酷だった。声に出すことが、怖かった。しかし、
「――オレにもあの男の血が流れてるってことだ」
 言ってしまうと、運転手は自分の胸に刺さっていた、鋭く大きな刃が抜かれるような感覚を覚えた。奇妙な解放感。しかし、同時に傷つきもした。だらだらと心から血が流れ出した。彼は、もう寝る、と言い、目を瞑った。ああ、と言う殺し屋の声が遠くから聞こえた。
 目を閉じながらも、運転手の頭の中では様々なことが巡っていた。ロリコンの父親、レイプされた幼い妹、たかが成績のために体を売り人を殺したベッドの男、少女を喰らう食人鬼、欺瞞に満ちた世の中、ミルウォーキーの食人鬼、モーテルで殺された男、モーテルで会った少女――その驚くほど華奢な体、押し倒した時の小ささ、寄り添ってきた時の花の茎みたいなしなやかさ――そして、「普通」の人間を模った皮、その下の異様な怪物。それに思い当たった時、彼の背に、再び悪寒が走った。やはり、人間は皆、怪物なのかもしれない。必死に「普通」を装っただけの。彼自身――彼の父親と同じ、少女への性的嗜好を持った怪物なのかもしれない。死体の写真を撮ることを趣味とするサイコな殺し屋と同じ、死体を犯してその肉を喰ったダーマーと同じ、そして、彼の妹を殺した犯人と同じ。
 次々に浮かぶ多様な異常性に研がれるように、運転手の頭の中で神経が鋭利になっていった。体はくたくたなのに、神経の方はギンギンに目覚めているのだ。眠ろうとしても瞼の裏でいろんなものが見えてくる。どうにもならない。仕方なく、彼は思い出に心を馳せることにした。その方が異常者ばかり脳裏に浮かぶより、ずっと良かった。
 思い描いたのは、妹のことだ。
 父親にレイプされた後、彼女はよく、彼のベッドへ入ってきた。何も言わず、ただ、下の方から布団の中に潜り込み、その身を縮めていた。彼は足元にもぞもぞとした気配を感じると、黙って体を端にずらした。そうすると、やはり無言のまま、妹の体はちょっとずつ上がってきて、気が付くと布団から顔を出していた。彼は妹を安心させようと思って、頭を撫でてやった。その時触れた、柔らかい髪の感触は、今でも手に残っている。まるで傷みたいに。彼女がベッドへ潜り込む度に、彼はそうやって髪を撫でていて、その、糸みたいに細いのにみずみずしくてしなやかな感じは、しっかりと彼の掌に刻み込まれていったのだ。彼はそれが、その感触が、いつしか消えるのが恐ろしかったが、同時に、消えないのも辛かった。

 翌日から、二人は予定した通り、町を歩いて調査し、バーで情報を収集した。何日か繰り返すうちに、気になる言葉がちらほらと聞こえ始めた。
「家、アパートなんだけど、隣に住んでる男の人の部屋から、変な臭いがするの。冷蔵庫が壊れて中の肉が腐ってるって言ってるけど、それにしてもひどいわ」
「気味の悪い若造なんだけどな、奴の体や服からは、妙な臭いがするよ」
「ドアの前を通るとね、いつも蝿が飛んでるのよ。本当に不気味だわ」
 何人かの声が集まると、殺し屋は、ビンゴ、と言った。名前と住所を聞き出すと、運転手はすぐにその男の元へ向かおうとした。だが、殺し屋がそれを制した。
「もう少し待とう。相手は人肉コレクションするような奴だ。焦るとヘマ踏むかもしれない」
 運転手は、急いた気持が胸で暴れるのを感じながら、殺し屋の言葉に従った。死体の写真をコレクションしている奴だ、人肉コレクターに自分より近いことに、間違いない。
 二人はそいつがどんな人間なのか聞き出すことにした。そして、ちょうど、彼の職場の同僚だという男を見つけた。恰幅の良い中年男性で、薄手の白いシャツにジーンズという出で立ち。でっぷりと出た腹の部分は、肌の色が透けて見えた。
「奴は障害者だよ。昔は違って、学校でも優秀だったらしいんだけどな。噂だと、親父からのプレッシャーがでかすぎて、いかれちまったらしい。今じゃ、まともにお話しできればいい方だ」
 二人は一瞬見合った。殺し屋の目の中で、驚きの色が輝くのを、運転手は見た。それを察したのか、殺し屋はすぐに目を逸らし、男の方へ首を回すと、聞いた。
「障害者なら、こう、突然切れて暴れ出したりとか、そういうことすんのか?」
 男は笑った。「いや、ないな。いつもうじうじ、うじうじしてるよ。いきなり叫んだりはするけどな。学校は行きたくない、とか、手術してくれ、とか、訳の分かんねえことを。けど、誰も気にしちゃいないさ。慣れっこだし、工場だからな、困りもしない」
 彼はそこで一度言葉を切り、二人を順に見つめた。
「お前らここらでいろいろ嗅ぎまわってるだろ? 例の『食人鬼事件』って話題になってる、あれだろ? 他の連中もな、奴が犯人じゃないかって疑ってたりもするがな、でも、それはあり得ねえよ。あいつは人殺すほどの度胸はない。レンチやドライバー使うのだって、おっかなびっくりやってるような奴だ。情けない、可哀想な奴なんだよ、放っといてやれよ」
「恋人とかいんのか?」運転手が唐突に聞いた。
 男は先程よりさらに声を大きくして笑った。「まさか! 奴に恋人がいるんなら、オレはキャメロン・ディアスとやってるぜ」
 言いながらも止まないらしい笑いは、残酷さを孕んで運転手の腹に響いてきた。ああそうか、というと、彼はそのまま席を立った。背後で殺し屋が礼を言うのが聞こえた。
 バーから出、車に乗り込むと、殺し屋が口を開いた。
「同情するよ」
 エンジンを掛けながら、運転手は顔を向けた。殺し屋は小さく、穏やかな声で話した。
「オレも同じだったからな。模範生でいたのも、成績にこだわったのも、父親から軽蔑されるのが怖かったからだ。いや、『これ以上軽蔑されるのが怖かった』が正しいな。あの人はいつもオレを見下してて、オレが卑小な人間だってことが、なんて言うか、不変の真理でもあるみたいに、接してきた。オレがあの屑の英語教師を殺したって疑われた時も、そんなわけないって言った。庇ったんじゃなく、そんなことできるわけないって、オレを見縊ってたんだよ。そのはずだよ、いつもいつも、そうだったんだからな」
 殺し屋の目には、また、あの時の、初めての殺人を語った時の、あのぼんやりとした光が浮かんでいた。何を見るでもなく、宙空で泳ぐ視線は、はるか彼方へ向けられているようでもあった。少しすると、彼は、ふっと目を伏せ、息をつき、語調を強めた。
「奴が犯人で間違いないな。言い方は嫌だけど、健常者よりも何かしら精神障害負ってる方が、可能性は高いし。けど、オレらが行っても、多分安全だな。やっぱり奴は女しか殺さない。セックスできないから、仕方なしにか衝動的にか、どっちかで殺してるんだ、たぶんな」
「そうかもな」運転手はそう言い、ビックを発進させた。
 彼らは聞き出した住所まで車を走らせた。途中、ホームレスのシェルターの前を左折し、しばらく進んで右折すると、古くて煤けたような住居が立ち並ぶ通りに出た。その中で、身を隠すようにひっそりと、食人鬼の住むアパートは建っていた。
 彼らは車から降りると、すぐ階段を上っていった。足で踏みしめる度、薄くて錆びついた鉄板が、キイキイと嫌な音をたてた。二人がバラバラに歩を進めるため、その音は不協和音みたいになって、ごつごつ耳に響いた。ドアの前に辿り着き、二人は並んでそれを見つめた。そうして寸秒後、運転手は妙な不快感を覚えた。が、すぐにその正体は分かった。蝿だ。まるで暗く湿った禍事にたかり、同時に部外者を偵察でもするかのように、様々に弧を描きながら蝿が飛び交っているのだ。そのうち、運転手の視界の隅で、何かが動いた。目をやると、殺し屋が彼へ顔を向けたところだった。彼は視線で、行くぞ、と合図し、インターホンを押した。運転手の内臓に、ぎっ、と力が入る。
 一時置いて、ドアの向こうから床を踏み鳴らす音が近づいて来、その振動が空気を揺らした。それはすぐそこまで来ると、ぴたりと止まり、代わって、カチョ、と解錠の音がしてドアが開いた。男が顔を出した。
 その男はぺったりとした黒髪に黒い瞳。その目は二人を一瞬捕えたかと思うと、すぐに宙空に向けられ、怯えるようにゆらゆらした。焦点の定まらないまま、彼はか細い声で、こんにちは、と言った。
「こんにちは」
 運転手の脇から殺し屋がゆっくりと言った。
「少し部屋を見せてもらいたいんだけど、いいか?」
「いいよ」
 男はそう言うと、部屋へ入っていった。二人は一度目配せし、お互いの決意を確かめてから、後に続いた。
 部屋に入った瞬間、ムン、と空気の密度が増し、続けてひどい悪臭に包まれた。息を吸う度に濃度の高い毒が口内に侵入してくるよう。運転手は物理的な嫌悪を覚えた。横を伺うと、殺し屋も、やや顔を顰めていたが、それでも、その程度の反応に留められることに、彼はひそかに驚嘆した。本気で殺し屋に感心したのは、初めてだった。
「この部屋、少し臭うな。大丈夫か?」殺し屋が言うと、
「冷蔵庫が壊れてるんだ、冷蔵庫が壊れてるんだ、冷蔵庫が壊れてるんだ――」
 男はそう繰り返した。それしか言葉を知らないかのように、繰り返した。
 運転手は、頭蓋骨の中で、脳味噌が浮かんで漂っているような、ふわふわとした妙な感覚に陥った。例えるなら……起き抜けに頭がぼうっとしているような、あの現実感の無さだ。絶対に殺してやる、今までずっとそう思っていたのに、突然にそれが揺らいだのだ。体の平衡感覚がなくなり、悪臭のせいか目が沁みてきた。彼はその目を庇うように、視線を斜めに下げた。すると――
 その先に見えたものに、彼は内臓が爆発するような衝撃を受けた。息が詰まり、瞬きを失い、乾いた目から熱さが溢れそうになった。そこでは――床に無造作に置かれた鍋の中で、人間の、腕や足や頭部が、乱雑に積み重なり、その周りに管のようなものが――おそらくは腸が、蜷局を巻く蛇ように、絡まりついていた。彼の様子に気付いた殺し屋も、鍋を目にした。そして、次の時、
「オレを手術してくれ! オレを手術してくれ!」
 唐突に男が叫びだした。運転手は心臓を鷲掴みにされた。
「もう女の子を殺したくない! 殺さないような手術をしてくれ! 手術してくれ! 手術してくれ! 手術してくれ! 手術してくれ――」
 運転手も殺し屋も、しばし呆然と男に目を向けていた。その間も、男は叫び続けた。手術してくれ、手術してくれ――
「分かった、これが手術だ」
 そう言い、運転手は男めがけて銃を撃った。
 男の額の真ん中に、黒く丸い穴が開き、数秒後にそこから幾筋かの血が流れ出した。目をぎょろりと剥いたまま、男は一度ガクリと首を前に折ると、そのまま後ろに倒れた。スローモーションのように、ゆっくりと。どさりという音に続けて、

 静寂が、いやに耳に付いた。

「なあ」それを破って、殺し屋が声を掛けてきた。
「この状態なら、殺人犯が自殺したってことで片づけられそうだ。何か疑問点があってもさ、世間もそれ以上のニュースは求めてないだろ」
 彼はそう言い、男の死体に近づくと、手袋をはめた手で、そっと、瞼を下ろした。そして、これで十分だ、と言った。
 それから、運転手の方に向き直ると、
「オレはこれからこいつの親父を探しに行く。お前も一緒に来るか?」
「ああ、行くよ」
 運転手がそう応えると、二人は部屋から出ていった。

 

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