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関川夏央『おじさんはなぜ時代小説が好きか』(岩波書店)

  表題の疑問に対する答えは、簡単です。ことばを節約して言えば、学園紛争の頃には当時の流行に流されて「義理と人情のしがみ」とか「日本的感情」を否定的に見ていた元若者たちが、時の経過と共に素に戻って、西欧型教養を「進歩的」とみなす物の見方に疑問が浮かび、「人情」に素直にこころ惹かれることを認め始めたせいだということになるでしょう。「進歩」が何をもたらしたかは、人間を半世紀もしていればおおよそ見当が付くというものです。「進歩」の恩恵たる「便利さ」も、おじさんになれば何ほどのことやあらんということです。徳川期は「停滞」のときとしておとしめられてきたわけですが、おじさんたちは、その時期の価値に潜在意識において気づいてしまったというわけです。

 ここでは一点だけに触れておこうと思います。あとは、本書をお読みいただければと思います。

 その一点とは、名作がいわばパロディあるいはパスティーシュとして発展してきたという事実です。本歌取りと表現してもよい。

 映画については、監督があこがれる名作の名場面を自作のどこかに取り込んでしまっているということを、評論家たちは嬉しげに指摘します。黒澤の『七人の侍』がアメリカの西部劇の『荒野の七人』に影響を与え、『用心棒』が『荒野の用心棒』などマカロニウェスタンに影響を与えたというのは有名な話です。しかし、『用心棒』のストーリーの骨格がダシール・ハメットの『血の収穫』から影響を受けているということもまたよく知られていることです。黒澤作品群がジョージ・ルーカスの『スター・ウォーズ』の名場面に反映しているということも、映画好きは誇りを持って、また、黒澤を尊敬し、ルーカスを賞賛するニュアンスで語り合うのです。

 現在の文学作品、いわゆる純文学には、そのようなパロディをみんなで楽しむという傾向はみられません。それは、読者、評論家、実作者に共有されたものが欠落しているためといえそうです。このことが文学を衰弱させてきたし、日本文化を痩せさせてきたのではないかと私も感じてきました。小林信彦は、中原弓彦名義の晶文社刊の『世界の喜劇人』『日本の喜劇人』において早くから指摘していました。私の場合は、小林の指摘をモノマネしているに過ぎないのであります。ただ、小林信彦ほどではないにしても、推理小説、SF小説に小学生の頃から慣れ親しんできたため、その世界での本歌取りの手法は当たり前のことでしたし、敬愛する作家の名作の名場面を、それへの讃辞として自作品に取り込む遊びは指示されています。

 これが時代小説の世界にもあるという関川の指摘はなかなか興味深いものでした。関川は、長谷川伸の『沓掛の時次郎』などの股旅物が、アメリカ西部劇のバガボンドが美人を救って去っていくというストーリーに範を取り作られたという事実を長谷川伸自身から聞きだしています。そして、次郎長の物語など、そもそも次郎長と交流のあった山岡鉄舟の書生であり、明治の初期に次郎長の養子にもなっている天田愚庵が資料を残し、また、次郎長は松廼家太琉という講談師を従軍記者のようなかたちで大がかりな出入りに同行させパブリシティに配慮していたという事実があります。しかし、松廼家太琉は作品に昇華できず、版権を神田伯山に売り渡してしまいます。伯山は7年をかけて作品に仕上げ、高座にかけます。これが大当たりをするのですが、それを客席から盗み出そうとした広沢虎造がいて、伯山は寛大にもそれを認めます。当時は、浪曲師の地位は低く、講談の高座にもぐりこむことすら認められなかったのだそうです。捕まった虎造を伯山は許し、やがて虎造の『東海遊侠伝』はラジオを席巻します。私も幼稚園小学一年の頃何度も耳にし、冒頭部分は口ずさんでいました。父はそれを嫌いましたし、小学校の音楽の時間に「きみの歌は浪花節のようだ」と教師より最低の評価を頂戴するほど影響を受けていたようです。

 村上元三がこのストーリーを小説にして、それを原作に映画が作られる。マキノ雅弘により物語はまた成長したのです。こうしたジャンルを超えた継承と発展と変型をわれわれはもっと楽しんでいいし、そうした継承と成長のみられない物語はすぐに忘れられ、人々の記憶から消えていく運命にあるということなのではないでしょうか。

 関川は、ピエール・ロチの『エドの舞踏会』という小説の継承と発展の運命についても饒舌に語っています。

 ロチは35歳のとき、フランス海軍「トリファント号」の艦長として日本を訪問し、半年間滞在した。鹿鳴館の舞踏会を経験しており、その体験をもとに後に小説にしました。さして名作というにはほど遠い作品でした。ロチの『お菊さん』が評判になり、『蝶々夫人』として発展していき、フランスにおけるジャポニズムと関わっていることは重要ですが。

 しかし、このロチの作品を先行作品として、芥川龍之介が「舞踏会」を書きます。龍之介が教えていた海軍の学校へ通う汽車の中で出会う明子さんが鹿鳴館の舞踏会の思い出を語り、ジュリアン・ビオーと出会っていることを話します。彼女はその海軍大尉がロチだとは気づいていないのですが、龍之介は悟ります。レトロ調で書き上げた全くロチ作品とは異なる色調の短編に仕上がります。三島由紀夫は、鹿鳴館外交を笑うのは所詮後知恵に過ぎないという観点から美しい『鹿鳴館』を書き上げます。それを受けて、山田風太郎は、勇敢さと美貌を備えた明治の女性たちの物語へと作品世界を成長、発展させていきます。その成長にこそオリジナリティがあるのだと関川は説明しています。

 山田風太郎作品の中で、ロチは主催者のソウデスカ伯爵夫人井上武子に一点の下品な気配を感じたと書いています。当時の政府高官夫人─正確には権妻ですね。東京妻です。井上聞多も萩か山口かに正夫人は住まわせたままで、元芸者の女性を権妻として東京で行動を共にしていたわけです。ここのところを関川は書いていませんが、政治学者の神島次郎が『日本人の結婚観』に詳しく書いています。─山本権兵衛の奥さん登喜子が小説の最初に出てきます。彼女は元娼婦でした。革命期の変転に生き延びるために強いられた運命でした。
 山本権兵衛夫人は、小説の末尾で再び登場し、亡くなります。日本海軍の設計者となり、登喜子夫人と添い遂げた山本権兵衛は、舞踏会から48年を経た昭和8年の12月に夫人の死に一月遅れて亡くなります。「その日から八年後の同じ十二月八日、彼が心血をそそいで作りあげた日本海軍は滅亡の航海へ旅立つ」と小説掉尾に綴られています。
 この例は、時代小説といえるのかどうかわかりませんが、江戸時代を専ら舞台にしていた時代小説・歴史小説は、明治をもその舞台として広げつつあるようです。司馬遼太郎、山田風太郎は、その主たる担い手でもあった。宇江佐真理や築山桂の作品にも幕末・明治を舞台に物質面での近代化に対して江戸人の心情で生き抜こうとする市井の人を巧みに描いた好作品もあります。おそらく、満州事変以降の敗戦までもがやがて時代小説・歴史小説の舞台として成熟してくるでしょう。諸田玲子『希以子』(小学館)はその例に当たるでしょう。時代小説として昭和十年代を描いています。

 まだ日本人が、親戚や養い親を信頼しきって生きていられた時代は、ほんの少し前のそこにあったのです。高度経済成長の賭場口である昭和三十年頃を懐かしむ映画が好評を博しているのですが、盛り場、路地裏、子どもの走り回る空き地があったあの時代を懐かしむ気持は時代小説の温床であります。佐伯泰英の文庫書き下ろし作品すべてに付き合ってなお飽きないし、佐藤雅美の連載小説を楽しみにし、山本一力の旧作をくり返し読む快楽を我がものとしている私としては、関川の分析の当否はさておき、高校大学時代の西欧思想や文明を尊敬し、進歩を求め、社会改革を模索していた自分と異質な自分が時代小説好きの自分の姿だとは到底思えないのです。歴史小説は小学生の頃から読んでいましたしね。関川が整理したほど対立項として「近代」と「江戸時代」は私の頭の中で存在しているのではないような気がします。もっと面白い関係で精神構造の中に組み込まれているのだという気がします。そこに縄文人としてのルーツを加えていくともっと複雑で面白いと思いますし。(3.6)

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