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  斎藤環『ひきこもりはなぜ「治る」のか?ひきこもりはなぜ「治る」のか?』


 斎藤環『ひきこもりはなぜ「治る」のか?ひきこもりはなぜ「治る」のか? ─精神分析的アプローチ─』(中央法規出版) 
 不登校、ひきこもりの問題に関しては、職業柄、関心を持ち続けてきました。斎藤の師匠の稲村博の本も出版されて間もない時期から読んできました。参考にさせてもらいました。河合隼雄により惹かれたことは確かですが、元々、流派に囚われないのが信条なので、いろいろ読んできたのです。小田晋も含めて「そんなこともあるのか」と感心して耳を傾けてきました。ただ、はっきりしていることは、そのいずれも現実を前にして役に立たなかったということです。 
 本書は、治療者の心得のような事が書いてある最終章がなかなか気が利いていると感じました。その部分を紹介します。

 どのような治療も、人間の意欲を直接に高めることはできません。本来ひきこもりの若者たちは、我慢強いしエネルギーももっています。だからこそ、激励や鍛錬でどうにかしようという発想は、失敗しやすいのです。むしろ意欲の妨げになっているさまざまな精神症状を改善したり、意欲を発揮しやすい環境調整をしたりして、意欲の発揮を手助けすることが治療本来の目的です。
 このように述べた上で、著者の斎藤は次のことを指摘します。
治療者は、個人精神療法で完結してしまわないためにも、家族や関係者への介入、あるいは臨床心理士や精神保健福祉士(PSW)、あるいは民間NPO団体などとの連携をできるだけ積極的に行うことも必要です。
 こういうことに消極的な治療者が多い印象があるのであえて書きます。
 「治療の成果を独占しない」ということなのだというのです。治療者もどこかで「この人は自分の力で治したんだ」と思いたいところがあるのですが、その欲望を抑える必要を説いています。
治療者はカリスマになってはいけないのです。カリスマによって救われた人は、ある意味で不幸ともいえます。なぜならカリスマは取り替えがきかないからです。
 むしろ治療者で大切なのは、どちらかといえば「互換性」です。
 転勤や退職などで治療者の交替は避けられないことも多いのです。「治療においても重視される『一期一会』という言葉が、『別離』を前提にしていることを忘れるべきではありません。」という言葉は頷けるものがあります。実は、私ども「教師」の仕事にもそのようなところがあります。一般に「カリスマ教師」がマスコミではもて囃されますが、冷静に考えれば、危うさが隠されています。
 「『治療美談』を求めない」「忘れられることが治療者の理想」といった表現も著者はとっています。「治療美談」という言葉は西丸四方さんという精神科医のオリジナルらしいのですが、誰かの献身的な努力や奇跡的なきっかけでドラマティックな改善が起こった、という「物語」を指す言葉だそうです。河合隼雄さんの書いたものに惹かれるのは、ある意味では、その「物語」性なのですが、ちょっと西丸さんの言葉と組み合わせて考えてみるとよいのかもしれません。無論、河合隼雄さんが「物語」を強調するのは、自分の業績の宣伝のためなどではないことなど当然のことですが。
 
治療とは本来、もっと地道で地を這うような営みが九九%を占めているものです。治療者も家族も、その地道さに耐える気構えがなくては、少なくともひきこもりの「治療」はできません。
 「むしろ治療者の役割としての理想は、治療が進むと同時に、だんだん存在が希薄になっていくことでしょう。極論すれば、最終的には忘れられてしまうのが理想であるように思います。」というのは、なかなかの覚悟だと思います。手塚治虫の『ブラック・ジャック』じゃないけれど、われわれは患者が劇的に、あるいは奇跡的に助かったり、治療効果が上がって、医師が劇的に感謝されたり、命の恩人のように思われることをなんとなく思い浮かべてしまうところがあります。テレビ・ドラマや漫画はそのように医師と患者やその家族の対し方を描いているからで、ステレオタイプ化しているのかもしれません。そのせいで、そのような感謝の場面への期待があります。しかし、著者は、それを断念するよう治療者にも求めるのです。
 「劇的な覚醒よりは淡々とした洞察、いわば『シラケ』による洞察」が大事なのだとし、「気がついたら変わっていた」とか「こんなもので良かったのか」という感想を患者がもつような治療のあり方を理想とするのです。それは、治療後も患者は日常の葛藤や苦しみが消えてしまっているわけでもなく、葛藤ともそれなりにつきあっていける余裕が生まれていればそれでよいわけで、劇的にはほど遠いはずだという認識をもつからです。
 それだけに、患者が治療者に依存するような関係に陥ってしまうのはマズイのではないかと著者は考えるのです。それゆえ、カルテ開示も含めた情報開示、手の内を明かすことを奨めています。このあたり、どうなんでしょう。森田療法のような擬似的父子関係に入ってしまうという技法もあります。一概にこれが良くてこれが悪いと決めつけられないような気もします。
 これは教師という仕事においても似たような所があるような気がします。多くの場合、斎藤環の言う通りの関係になるのが適当という気はします。ただ、特定の条件の下では、むしろパターナリスティックな関係がとりあえず事態を進展させ、変化させる力をもつ場合もあります。無論、その場合も、教師の側は慎重でなければなりませんし、「いい気分」に浸っていては危険ですが、たとえば受験のように時間的に差し迫った課題を乗り越えるためや感心を学習に引き戻すためなどに一定期間をこの対応で乗り切り、次の担当者に引き継ぐということは許されるのではないかという気がします。無論、著者が述べているのは「ひきこもり」の、それも通院してきた患者やその家族に限定した話をしているので、私のようにより対象を拡大して考えているのとは事情が異なるわけですが。
 ともあれ、著者が、治療現場が「妥協と折衷の空間」だと認識していて、試行錯誤の必要性を認識しているところは好感が持てます。自分の仕事と重ねて見ているからです。概ね、自信たっぷりに方法を語り、カリスマ性を演出しようとする教師を楽屋裏の側から眺めていてそのインチキさに気づくことはあまりにも多いものです。そして、場合によれば、その「カリスマ教師」がチームワークを乱し、マイナスの方が多くなってしまう結果を招くことも間々あるのです。テレビ・ドラマに登場する「いい先生」はだいたい楽屋裏から言わしてもらえばダメです。具体的に書くことができないのは残念ですが、そんなヒーローが去った後には、とんでもないトラブルが生じ、何人かの子どもが傷つく結果を招くことがよく起きます。被害にあった子どもにとっては大変な負担になります。謝ってすむようなことではないですよ。
 まあ「物語」を求めるわれわれの期待はかなり強いものがあるので仕方のないことなのでしょうが。
 
 ところで、現実問題として考えますと、簡単に治療なんていいますが、治療費って馬鹿にならないんですよね。よく事情知らないで、不登校に陥った生徒本人や保護者に心療内科とかカウンセリングにかかることを奨めたのですが、何度か生徒の指定する場所に足を運んでよく聞いてみると、費用のことで親に負担を掛けたくないのだと言います。劇的な変化が期待されるのであればその費用負担も納得できるけれど、そうではないと言われてはなかなか金銭を出す気持になれないというのも納得できる話です。その点、教師の方は無料サービスですし。
 懸命な働きかけをしても、効果がないようなこともよく経験します。なんとか話したいと思っても、表面的なきまりきった返答しか返ってこない手応えのないものに終始することもあって、情けない思いをしたこともあります。『夜回り先生』みたいに自己犠牲の精神を発揮すれば、それなりの昂揚感に浸れそうな気もしますが、なかなかそこまでは踏み切れません。著者は、「持続可能な治療」をむしろこころがけ「治療者の生活を犠牲にしない」方がよいと記しています。これにはほっとさせられました。現実に昼夜逆転している不登校生徒に会って話ができるのは夜ということもあるのです。翌日また早く起きて出勤しなければならず、小テストの準備もあり、空き時間に訪ねてこられる他の保護者があり、同日に訪問予定者が重なっているとか、会議が続いて入っている上、そのための資料準備もしなければならないような状況に陥ることもありました。家族サービスは期待されていませんが、それでもキツイことはあります。「持続可能性」を重視しましょうという指摘にはほっとします。(3.4)

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