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  本の棚卸        山田慈雨


 関川夏央『司馬遼太郎の「かたち」 「この国のかたち」の十年』(文春文庫)を読む 
  文体模写をしたわけではないでしょう。けれど、司馬の選びそうなことば、単語を選び、表現がというより発想 ─ つまり、物事が論理的に及んでくるその大元との繋がり様がよく似ていました。 
 三点だけ取り上げます。まず一つ目。
 司馬遼太郎が、意識的に強烈なクセのある人間が作家だという既存のイメージに逆らおうとしていたことは有名です。自然主義から私小説へ、破滅型へと連なる近代文学を意識的に否定してその作風のみならず自己形成をした人物であると多くの評論家が記し、本人もあちこちで述べています。「常識人」たらんとした人です。
 「その風貌と相並んで、彼は神の如くやさしかった。そして人に対してもまことに謙虚で、嫉妬深い日本人の間でもいささかの非難も被らなかった。しかしこの温和で謙虚な風貌のなかにときどき眼孔が鋭く光るのである。それは人間をひと目で見抜く鋭い目であるが、同時にその眼のなかには容易ならぬ闘志が秘められていた」という梅原猛の司馬評が引用されています。
 関川は、その目を人柄を一瞬にして見抜くこわい目であり、「虚勢と虚像を見破る目」と説明し、「意味のない言葉を文字どおり一言も吐かない精神、あるいは『意味という病』そのものが人生であるような人の目であった」としています。
 おそらく、私が人生のある時期から真似ようとした生きる姿勢は、このようなものだったと思います。実は、祖父のことを思いだしていました。父はこの祖父を恐れていて、幼少期の私も少し恐がっていましたが、孫にはやさしい人でした。禅に傾倒していて、心静かに引退後の余生を愉しんでいるという風情のある人でした。この祖父がときに見せる目光の鋭さが、頭のどこかにあったように思います。床の間に飾ってある兜割(刀剣は仕舞ってありました)のイメージと結びついて、武士の末裔の矜持を感じ取っていたのだと思います。忘れていましたが、「名こそ惜しけれ」の感覚を強く胸に仕舞うことになったのは、無言の祖父の姿勢のせいだったかもしれません。
 私は、今風のヘラヘラと親や生徒に媚びる教員には慣れそうにありません。多分、適応できていない。向いていない職業に就いているのかもしれません。ただ、修業が足りないのか、覚悟が足りないのか、「自分」を無にして相手に接することの不徹底さを自覚してもいます。水のように無色で、風のように自在に、意図せず生徒たちに益することができればそれで十分なはずですが、まだまだのようです。人気など求めないのは当然のことで、存在そのものが印象づけられる必要もないのがよいのです。

 他のところで書いたように、自然科学者たちが人文系や社会科学系の研究者に対して抱く不満あるいは不信を上のことと考え合わせてみると見えてくるものがあります。ある生徒と話をしていて文系・理系という話題で噛み合わない。それは、彼が主として受験科目の試験において点数がどうかということと、文系は人間関係に関心が強く理系は研究対象に関心が強いと考えているためだとわかってきます。「冗談じゃない」という気分が私にはあります。そんな感覚で新規参入されてしまうから、いつまでたっても「人文系の研究者は、必死で研究してないんじゃないか。だから成果がお粗末だ」と言われてしまうことにつながるのでしょう。もっと言ってしまえば、大学に税金を投入するのであれば、私的な生活の豊かさを求めるだけの若者にまで税金投入する必要があるのかどうか考え所かもしれません。─これは疑問ということにしておきます。
 わたしたちは私人として個としての人格としてこの世界に生存していると同時に、公共の存在としても生きているわけで、その二重性を生ききるしかないのでしょう。私の生きてきた時代の風潮は、前者のみが肥大化したものでした。後者の重しを解き放って、軽やかに浮遊する生き方が肯定されたのは、そのちょっと前の国家のために死ぬことを強制された重苦しい気分から解放されることに急であったことと、アメリカによる間接統治(もしかするとその後もそれは続き、その支配そのものを否定する、本山美彦の言う「姿なき占領」が続いているのかもしれませんが)により私人化(丸山真男のいうプライヴァリタイゼーションで、大衆社会化、砂粒化でもあります)が徹底されたことと関係があるのかもしれません。
 司馬さんの仕事の根底に置かれた課題は、上の状況に対する疑問だつたといってもよいような気がします。『坂の上の雲』以降は意識的に日露戦争以降の日本はなぜそれ以前の真剣さを失ってしまったのかをイデオロギー抜きで、リアリズムに徹して描こうとしておられたような印象をもちます。公的存在としての自己と真剣に向き合うことの奨めと表現してもいいのかもしれません。無論、大阪人あるいは関西人特有の含羞を伴った表情で語られたわけです。

 司馬さんにとっては、歴史学も宗教学も民俗学も人類学も地理学もありとあらゆる領域の知識が、自分や多くの普通の日本人の生活実感と照らし合わせて妥当ならば、自分が確かめようとする事実に結びつく限り等価であり、確実なものを利用するというプラグマティックな姿勢は当然のことです。それは医師の小松秀樹さんが「あらゆる学問を取り入れる柔軟性をもつ」ことを誇る気分と一致しているように思えます。
 そして、小松さんが何のために「生物学、化学、工学、物理学、統計学、経済学、社会学、文化人類学、哲学、倫理学、心理学、法律学、ヒューマン・ファクター工学を」学ぶのかといえば、より多くの患者の治療に役立てるためであり、その治療行為が社会において妥当な位置づけに保たれるためです。小松さん個人の関心や幸福と無関係とはいえませんが、公共領域との関連があってはじめて完結するものです。
 このような気概が失われたとき、その個々人によって構成されているその研究領域とか専門領域は衰退しします。あるいはどんよりと停滞します。その雰囲気を私は嫌っているのです。無論、生真面目に堅苦しいことを口にしなければならないと言っているのではありません。黙っていてもいいし、口に出すのは下らないダジャレやナンセンスな言葉の断片であっても一向に差し支えありません。問題は胸の内です。姿勢です。
 ── いくらか不満を吐きだしたおかげで少しスッキリしました。

 二つ目に入ります。
 韓国に新聞社を休職して留学していた時期の田中明は、その寄宿先の韓国人友人から司馬遼太郎を薦められます。そして、友人にどこがよいのかと尋ね、「小説に出てくる人間が、みんな国のことを考えているんだな」という答えに驚くという記述ができます。
 つまり、韓国の人たちは、愛国心というものがない。ムラ社会の排他性の延長で、つまり、「身内びいき」とその裏返しの「よそもの嫌い」の反応のひとつとして日本嫌いというものはあっても、国民国家が個々人の内面において深く結びつき、「憂国」ということが起こりはしない。あくまでも宗族中心主義の延長としてしか「韓国」というものが現れることはない、ということなのです。
 日本は、明治維新の時期に、組み換えを行います。無論、それ以前に、徳川幕府はその存続のための工夫として各藩の国替えを徹底して行います。幕藩体制の形成期には大幅に、それ以降も頻繁に小藩は国替えを強いられ、それに伴って多くの人間が動いています。場合によっては、農民まで移動していることもあります。ただし、ここでも百姓と農民を同一視してよいものか私には十分な知識がありません。常識的に言って、農業と土地の結び付きは強いはずで、そう簡単に移るものか疑問が残るからです。
 いずれにせよ、日本における宗族の結束は純粋形では残らなかったのではないかと推測します。人類学者のF.シューが指摘するように、イエモト(家元)の原理という日本社会独特の社会的行動の基本原理は、中国や韓国のクランclan とは異なる原理だそうです。勿論、さりとてアメリカのようなクラブ原理ではない。クランのような純粋に血縁に基づくものではなく、地縁や職縁などを絡めて、偶然の要素に多分に左右されるところが大きいのが日本社会の江戸時代以降日本人の生き方を支配してきた隠れた基本原理のようです。
 こういうことは知っていましたが、改めて韓国の人たちの反応の描写に驚きました。

 三点目を加えます。関川は、司馬の文学に大きく影響を与えた作家としてシュテファン・ツヴァイクを挙げます。関川は私の一つ上ですから似たような出版条件であったと思います。私にとっては、大学一年生の冬に、古本屋で見つけた平凡社の灰色のケースのシリーズ本の一冊が『フーシェ伝』でした。政治家の評伝としては最高のものだと信じています。伝記作家としてツヴァイクは有名であり、フーシェとはフランス革命期の大混乱期を生き残り続けた怪人であると紹介しておいてよいのでしょうか。
 桑原武夫の司馬との対談を関川は引用して、次のことばを示しています。私が学問とか科学とかいうのを考えるとき、常に念頭に置いていることでもあります。そして、それこそが受験勉強と際立って対立する学問の性質だといえるでしょう。
 とりあえず引用してみます。
< ……歴史の進行というものは、(……)どうしても全部は書けない。そこで出来事のなかから何かを選び取らなければならない。それには分析して図式化するというやり方が一つあるわけです。われわれが、いまかりに酒を飲んでいるとして、その酒は蒸留酒で四十度である、という書き方です。ところが、そうではなく、司馬さんが酔っぱらってふらふら歩いている、とその歩きぶりを挿話のように書くことで状況をあらわすこともできる。これは(……)象徴の方法だと思うんですけどね。その象徴を多くの事象のなかからどこに選ぶか、そこが歴史家の(……)見識ということだと思います。見識のないひとは、それは歴史の史料の収集家であって、歴史学者かもしらんけれども、歴史家ではない〉
 そして対談の最後のあたりの会話。
 〈桑原 公の歴史のなかに「私」をもちこむことは、もちろん学問としての歴史においては困るし、あなたがたが小説を書かれるときにも、露骨にやられては困る。しかし、人間にたいする理解は……。
 司馬 自分を通して…。
 桑原 通してしかありえないということですね。学問が人間を通すということは、学問の堕落だというふうに、おそらく十九世紀の合理主義的、科学主義的歴史家は思ったかもしれない。それで通れば、簡単でまた幸福であったでしょう。けれども、現代はそれでは通らない。ちょっと甘いことばで言えば、いまや歴史を理解するのには、自分の二つとない生命を投げこむこと以外に方法はない、という感じのところへ歴史の理解はきているのじゃないですか〉(「革命史の最高傑作」桑原武夫・司馬遼太郎)(『司馬遼太郎の「かたち」 「この国のかたち」の十年』146-7頁からの孫引き)
 「自分」は極力抑え、客観性を極限まで求める研究態度、観察態度を前提にした上で、その上で、記述するときにという話ですよ。あるいは、「自分」を抑えに抑え、殺しに殺してもどうしても滲み出てしまう「自分」というものの認識を語っているのだと思います。自然科学においても事情はそれほど変わらないものと思います。手続の問題ではなく、実際に調査観察や実験に入っていくときの動機であったり、くり返しくり返し実験を重ねる忍耐力に「自分」は反映してしまっているのではないでしょうか。それが「他人の頭で考える」あるいはどこまでも「他人の気持ちを忖度する」ことに終始する受験勉強と決定的に違うところなのです。(3.17)

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