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ハイパー・メリトクラシーについて考える 本田由紀『多元化する「能力」と日本社会』(NTT出版)は、2005年に出版された本です。元になった文章の一つ「『対人能力格差』がニートを生む」という『中央公論』2005年4月号に掲載されたものを読んで、凄い研究者が現れたものだという印象を受けたことを覚えています。本書については既に一度ホームページ上で紹介しているのですが、今回は、それは見ないで、彼女が名づけたハイパー・メリトクラシーについて著者の説明を整理した上で、私なりの感想を述べてみようと思います。 |
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ハイパー・メリトクラシーという用語を著者は以下のように説明しています。「ポスト近代社会」において、メリトクラシーは「近代社会」におけるそれよりも、ある種純化された、かつ、より苛烈なかたちをとる、というのが本書の見方である。このような「ポスト近代社会」におけるメリトクラシーの亜種ないし発展形態を、「ハイパー・メリトクラシー」と呼ぶことにしたい。この言葉は筆者の造語である。ハイパー・メリトクラシーは、いわば「むき出しのメリトクラシー」である。従来のメリトクラシーにおいては、人々の社会的位置づげを決定する上での手続き的な公正さという側面が重要な意味をもっており、それを担保するための代償として、社会の複雑さや多様性とは一定程度解離した大ざっはさを不可避的に伴っていた。それに対してハイパー・メリトクラシーにおいては、手続き的な公正さという側面が切り捨てられ、場面場面における個々人の実質的・機能的な有用性に即して個々人を遇するという、「業績主義」が本来もっていた意味が前面に押し出される。こうして選抜の手続きという面が後退したことにより、ハイパー・メリトクラシーがその網に捕らえようとする「業績」は、個々人の機能的有用性を構成する諸要素の中で、一定の手続きによって切り取られる限定的な一部分だけでなく、人間存在のより全体、ないし深部にまで及ぶものとなる。言葉を換えれば、従来のメリトクラシーの「たてまえ」性ないしイデオロギー性が希薄化して、よりあからさまな機能的要請が突出したものがハイパー・メリトクラシーである。この言葉が「ハイパー」=「超」という言葉を冠している理由はそこにある。[p.21]
「ポスト近代型能力」は、個々人の人格や感情、身体などと一体化したものであるため、その形成にとっては家庭環境という要素がおそらく重要化するであろう。ここでいう家庭環境とは、家庭の経済的な豊かさや親の社会的地位の高さには還元しきれない、より質的な、家族との日々の何気ない相互作用という側面が枢要な役割を占めることになると考えられる。しかし、「ポスト近代型能力」とそれに基づく社会的地位達成に不平等が生じるのだが、この不平等は、形式的な「機会の平等」という検閲を「近代型能力」の場合にも増して巧妙にすり抜けるものであり、それゆえに糾弾されにくい。── このように著者は指摘しています。 そして、メリトクラシーは社会の基底的な構造としていまだに存続しており、そこにハイパー・メリトクラシーという側面が新しく付け加わりつつあるというのが現状でしょう。 いわば、メリトクラシーという白い水に、ハイパー・メリトクラシーという黒い水が流れ込み始め、ある場所では大理石模様を描き、またある場所では混ざり合って灰色になりつつあるというような比喩で表現されるような変化である。より具体的にいえば、学校教育における知的な側面での学習成果(「学力」)およびその証明としての教育上の履歴(「学歴」)は、いまだ社会的地位の選抜・配分において重要なものであり続けている。しかし、それだけでは、社会の中で自分の立場を、それもできるだけ望ましい立場を確保する上で、十分ではなくなってきているのだ。メリトクラシーの指標としての教育達成に加えて、「ポスト近代型能力」に該当するさまざまな不定形の能力が、これまでよりもはるかに明示的な形で要請されるようになってきていると考えられるのだ。このように説明して、ドイツの社会学者ペックの「再封建化」という概念に言及するのです。「標準化された完全就業システムから柔軟で多様な部分就業システムへ」の移行がみられ、パートタイム労働や部分就業が増加すると、学校教育から労働の世界への移動は不確実で不安定なものとなってきます。雇用する側は雇用される側への働く機会の提供をめぐる支配力を増大させ、学校教育が証明する「業績」以外の不透明な諸要素に基づく選抜をほしいままに行うようになってきたのが現状でしょう。 「働き口が不足している中でそれを得るためには、よい成績の卒業証書だけでは、ますます不十分でなくなっているが、同時にますます必要不可欠なものになっている」(ペック)のです。 産業構造や労働需要・スキル要件の変化に加えて、社会に共有された「大きな物語」の終焉や、価値観の多様化・個別化をその重要な特徴としている「文化」の変化が、こうした変化の根底にはあります。個々の人々にとって価値があると感じられる対象はバラバラに分断され、生活世界における「島宇宙」化(官台真司)が進行している中で、職業的・階層的な「地位達成」以前の問題として、自分自身がただ生きてゆくためのよりどころを、どこに、何に見つけうるかということが、かつてよりもいっそう難しい課題となっている、と著者は記しています。 だから、低学年の子ども達の間でも、同年齢集団の中での序列付け(誰が人気があり、誰がそしられいじめられるか)や、あるいは個々人にとっての「生活の質」(自分に自信をもって「明るく楽しい」日々を送ることができるかどうか)を決定づける基準として、ハイパー・メリトクラシーは立ち現れていると考えられるのです。 著者は、佐藤俊樹の言う「『ガリ勉』の絶滅」について触れていますが、これを孫引きすることにします。 時代が変わったのだ。独創的な発想、視野の広さ、コミュニケーション能力。そういうものがまず求められる時代には、脇目もふらず必死に勉強してよい成績をとるというガリ勉人間の価値は下かる。ガリ勉の絶滅はそういう経済環境の変化、生態系の変化を示しているのだ。「ガリ勉」とは、「メリトクラシー下の『近代型能力』に特化したタイプの人間像である」ということになるのでしょうか。 「ガリ勉」が必死に獲得し証明しようとしていた知的な優秀さの意味は、薄れたわけではなく、スマートに獲得されたものであれば、むしろいままで以上に「社会の階段」を上がるために必要になっているといえるということです。 ここまでの説明はおわかりでしょうか? 少しむずかしい内容です。私には、ここで引用したような華麗な形容ができないので随分と引用をしました。私なりの稚拙な表現をしてみます。 既に大人になってしまった者にはいいのですが、これから職業に就いていこうという若者たちにとって、また、その下のその予備軍である子どもたちにとって、社会は(大人はと言い換えられる部分もあるでしょう)とんでもない高い能力と資質を求めてきているのが現在という時代であり、その趨勢に棹さすことは困難に思えるのです。 その能力と資質とは、いままで通りの知識や学歴に加えて、対人コミュニケーション能力、独創的な発想、視野の広さのようなものが求められるようになっているというのです。 もっと崩してみましょうか。「歌って踊れる受験秀才」であり、スポーツや楽器演奏にも優れた秀才で、お笑いにも強い秀才が、母親の求めるわが子像になりつつあるのです。しかも人望もありリーダーシップが取れ、後輩達に、友人たちに慕われなければいけません。 その逆は、同年齢集団の中で「浮いている」存在であったり、人気がなく、いじめられている存在であることでしょう。自分に自信がなく、「明るく楽しい」生活を送れないような子はダメということになります。 これって、なかなかキツイ要求ですよ。 そもそもわれわれ世代が「自由」とか「人間の尊厳」として大事にしてきたものという観点からして、随分と差別的で、「人間疎外」を助長するものではないかという気がします。そこのところを著者は、次のように書いています。 こうしたハイパー・メリトクラシーの苛烈な支配は、人間の全人格に及ぶさまざまな側面を不断に評価のまなざしにさらそうとするはたらきをもっている。それは、「第一に、個人の尊厳という点で、第二に、社会的不平等という点で、大きな問題をはらんでいる。 従来は対人サービス業において主に求められていた「感情労働」が消費社会化に伴い他の産業部門をも包摂して全人口レべルに広がっていると述べ、それが「個人の(実存)や(生)そのものの次元とでも呼ぶべきものを生産に投入すること」を要求する結果になっているという渋谷望の指摘に関連づけて、次のように著者は展開しています。 単に勉強していればよいだけでなく、意欲や創造性、柔軟な対人関係能力までもが日々の生活において不断に求められる状況は、「社会」が「個人」を裸にし、そのむき出しの柔らかい存在のすべてを動員し活用しょうとする状況に他ならない。それは個人にとってあまりにも過酷な状態である。「社会」にさらされ吸い取られない「個人」の領域をいかに確保するか、「個人」がいかにして無防備な柔らかい裸の上に「鎧」を着ることができるか、ということを真剣に考える必要がある。それは、ハイパー・メリトクラシーに浸食してしまわれないような別種の 「能力」原理を、ハイパー・メリトクラシー化に抗って押し出し返すことがいかにして可能かという課題でもある。第二の社会的不平等が、そもそも家庭における家族メンバー間の関係のあり方から派生しているとすれば、それは、政策的介入が最も難しい領域から出てきているということになるというのです。著者は、@家庭に政策介入する、A公共的な領域において「ポスト近代型能力」の形成を実現する方策を考える、B「ポスト近代型能力」を要請するハイパー・メリトクラシーに抗うような別種の「能力」を、主に家庭の外で形成するという方向性が想定できるとして、Bの道を選択しているようです。 著者の構想をもう少し補足すれば、ハイパー・メリトクラシーに真っ向から対立するというよりは、その進展をある程度不可避のものとして前提した上で、その害毒を可能な限り緩和する方策を採ろうとするもので、「専門性」─ある程度輪郭の明瞭な分野に関する体系的な知識とスキルを意味している─を学校などで身につけさせる戦略を採るというのです。「狭い範囲でかつ固定的なものではなく、他分野への応用可能性と、時間的な更新・発展可能性に開かれた」ような意味での「専門性」を身につけることは、個人にとって「鎧」ないし「足場」を獲得するという点で、ハイパー・メリトクラシーの際限のない攻撃に対する防御の手段となるのだと説明するものです。 この著者の解決法については、いま少し考える余裕をください。ずっとどこかに引っかかっているのです。実例を踏まえて考えているのですが、ここに書き込んでいいものかどうか迷っています。言い換えると、私にとり、とてもリアルな問題なのです。 また、橋本努『自由に生きるとはどういうことか 戦後日本社会論』(ちくま新書)が指摘している点も絡んできそうです。こちらも別個紹介したいという気持もあります。というわけで未完のままアップします。(3.22) |
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