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宮本常一は、渋沢敬三が創設したアチック・ミューゼアムの館員として民俗学研究のため日本各地を歩いた。
私が彼の存在を認識したのは、実はもう物心付いたときにということになる。
というのも父が在野の民俗学者で、近畿民俗学界の活動への参加に熱心であった時期があったからだ。
どうも父は郵便局員であった宮本が渋沢に見出され、研究員といえば聞こえはよいが、要するに渋沢家の居候として好きな資料収集旅行に歩き回ることができたことを心底うらやましがっていた節がある。
そのため父は私が小学校に上がる時期に勤務先を辞めてしまう。
それまで破格の手当てをもらっており、その給与に惹かれて結婚した母は当てが外れて落胆したものの、当たった宝くじのお金を元手に生活のために動き始めていた。父は、宮本が家族を犠牲にして寄寓していたことすら憧れていたのではないかと思うことがある。
ともあれ、宮本が、柳田国男、折口信夫とはまた異なるタイプの現場に徹した民俗学者としてフィールド・ワークに勤しんだことは本当に日本の忘れられていた庶民の生き様をわれわれに伝え残してくれることにつながったのだから有り難いことだと思う。
私は父がもう少し無欲さをかなぐり捨てていれば、我を通すことで業績を残し得たのではないかと思うことがある。彼の書く美文はそれなりに味があった。何よりも漢籍に通じていた。懐徳堂に通って学んだと聞かされたことがある。湯川秀樹の父親から宿題を教えてもらっていた幼少期になんとなく漢詩に興味を覚えたのだと言っていたような記憶もある。あまりたしかなことはわからない。幼児期神童といわれたと祖母は証言していた。
多分、宮本の村々を訪ね歩く様子も、かつて父に同行したときに彼が見せた姿と似たようなものだったのではないかという気がする。いやその幾分かは『忘れられた日本人』に描かれてもいる。
ところが本書を読んだのは、もう30代後半のことだったのだ。俳優・坂本長利による一人芝居「偽紫田舎源氏」を芦屋ルナホールで観た。その夜、本棚から探し出した本書を読みふけったのである。
このような入り方をしたため、むしろ文学作品としての価値を本書に見てしまった。しかし、本当に往時の当たり前にそのあたりに暮らしていた普通の日本人は、誰に縛られることもなく、気随気ままに、ただ真剣に生き延びるためにではあれ、相当な距離を移動し、自分の才覚を試したのだ。
世間師と称する人物が出てくる。フィクサーだろうか。周旋屋だろうか。いろんな職業の人間をつないで一つのプロジェクトを遂行するのに必要な人材を確保していくのだ。現在ならなんとかプロデューサーとでも称するのだろうか。なんのことはない明治以前から似たようなことをして生きていた人間は存在していたのだ。
佐野眞は宮本常一の郷土を訪ねていって、その土地の大工たちが四国に出稼ぎに出ていたことを確認し、
明治以降はハワイなど海外にまで出稼ぎ、移住して、親に送金していたことを調べている。
やがて老いて故郷に戻った人たちのための行政サービスのありかたが将来のモデルになるとも説明していたと思う。
つまり彼らは、祖先がそのようにして世を渡ってきたその様子をそのまま生きたに過ぎないのだ。
そこに彼らの誇りもあり、誰かに依存しない生き方があったのだと思える。
そのあたりが福沢諭吉の庶民観と随分と異なることになるのではなかろうか。
中世史家の網野善彦が宮本を高く評価していたことは確かだろう。
その網野の系譜につらなる歴史家・白水智の『知られざる』(NHKブックス)には、
信越国境の秘境秋山(現在の新潟県・群馬県・長野県にまたがる中津川上流域)の旧家に残る古文書と
江戸の戯作者の作品とその別記の比較から当時の木挽きたちの移動範囲の大きさと
そのネットワークの複雑さ、広がりのすごさを描き出している。
多分、学校で習う「経済」などとは異なり、現在でも結局は彼らと同じ生活が
営まれ続けているのではないかという気がしてならない。
物・人・金のそれぞれに情報が飛び交っていたし、いまも同じなのだ。
無論、その相違点を丹念に検討することも必要であろう。ではあれ、類同点を考えることも大事だという気がしてならない。
対馬のメシモライの話も面白いが、主婦たちがお堂に籠もって夜明かしをして、おしゃべりを続けるという様子を描いている箇所や、
宮本が求めた古文書閲覧について、寄合のついでに議題にかけている様子を描いた箇所は、
ある種の感動すら覚えて読んだ。
英国古代法制史の本や地方自治の本で学んだルーツをバイキング時代にもつと言われる
樫の木の回りに集まって開かれるタウン・ミーティングと似ているではないか。
徳島の巡礼の子を預かって育て、優秀な子なら別家をたてて跡取りの後見としたという話も、
農村地区の主婦の力を知り、また、血縁主義などとはあまり関係なく
おおらかに子どもを社会の宝として大事にしていたことがうかがえるエピソードではないか。
その聞き書きのすべてを日本文化の典型とみなすことは誤りであろう。
しかし、間違いなく一つの経糸として宮本が報告した生活実態があったものと認識するべきであろう。
それは、庶民生活の自由さをうかがわせるものでもある。
私はかつて、浜芦屋の昭和32年頃の夏の夕刻の男たちの会話の様子が、
ジョイスの『ダブリン市民』に出てくるそれと酷似していたという証言を綴ったことがある。
名門受験校から東大法学部を経て官僚になったり、経済学部からビジネスの世界に入り活躍した人たちが
イメージするのとは全く異なるみんなで決めていき、資金を動かしていく地に足付けた生き方が存在することは確かなのだ。
そして、本来「世論」とはそのような生活実感のぶつけあいから発生してきた共通感覚を指していたのではないかと私は疑っている。
宮本のこの本は、忘れられていた私の幼児期の記憶を蘇らせるきっかけにもなっている。
2002.10.1にホームページに以下のような文章を書いていた。
床机(しょうぎ)というものをご存じだろうか。あるいは、特定の地方でのみ通用することばなのかもしれない。
低い足のやや幅の広い机のようなものが家の軒下に置いてある。
背もたれのないベンチ、幅広で双方向から二人は腰掛けられ、ぎっしり詰まるとすれば6を8人は座れるのだろうが、
夏の夕涼みに用いたので、当然、てんでの方向から腰掛けることになるので四人程度が
できる限り間隔をあけて坐るというより尻の一部を載せる感じになるのだ。
男ばかりで、ゆかたかステテコ姿で帯にうちわをはさんでやってくる。
蚊遣りの煙がもうもうとしている中でくつろぎ、すいかや麦茶、場合によれば酒がふるまわれて仕事が終わり、
夕食までのひとときを過ごすのだった。
当時の芦屋の市役所のすぐ東の会社務めではない家では、そんなものだった。
芦屋川から坂の下へと涼しい風が吹いてきて、あるいは浜風が松林公園をくぐり抜けてきて、
夕陽が橋の辺りへ落ちていく。現在の国道43号線の混雑ぶりではとても想像もつかない情景であった。
「人間らしい生活」とは、そんな舞台装置なしには発達しないのかも知れない。
この情景をイメージした上で以下をお読みいただきたい。
昔読んだ、J.ジョイスの『ダブリン市民』の最初の箇所に、大人たちが飲み交わしながら政治について語り合うのを聞いていた幼児期の記憶が懐かしい匂いと湿り気を帯びて叙述されている。それを読んで、突如、私自身の小学一年生の頃の祖父とその仲間たちが市会議員選挙の前に家の前の床几に腰掛けて将棋を指しながら交わしていた情景が思い起こされた。
あれは不思議であった。小学一年生に理解できたはずのない多くの言葉が、高校生になって突如、すべて意味を帯びて収まるべき場所に収まってしまったのだった。家の前の旧国道を更新する自衛隊の隊列に大人たちの誰か(多分、市会議員の経験もある元教師のおじさん)が、祖父たちに解説していたときのことも、国際文化都市建設特別法制定のための住民投票のことも、思い出した。みんなそこにいて聞いていた。まったく理解できなかったのに、「投票用紙に○だけ付けてくればいいんやろ」と祖父の言った言葉の意味が十年もたって記憶が蘇ったのだった。
多分、政治的言語や経済的言語というものも、このようにして身に付いていくのだ。
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