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中村修也『偽りの大化改新』(講談社現代新書) 日記の方に書き込んでおいたように関裕二の古代史の本に刺激を受けて、大化改新(乙巳の変)についての『日本書紀』の記述は偽りだろうというところからいろいろ考え始めました。 偶々、北九州に出かけるつもりをしていたこともあって、斉明天皇(皇極天皇で重祚。天智の母親)が、なぜ朝倉宮で崩御しているのか、なぜ朝倉なのかという疑問をこの一週間抱いてきました。 この疑問そのものに対しては、関裕二は『古代史残された謎』(PHP研究所)において、さらに西に進んだ日田の戦略的重要性に言及しています。それについては、別に書き込みましょう。とりあえず、関連本として中村の新書を取り上げておきます。 |
| 簡単に言ってしまえば、『日本書紀』の記述の矛盾は、嘘を付こうとしたためにできたものだとしているのです。 その一々は挙げません。関心がないというか、歴史文書の叙述だけで推論していく文献史学の手法は退屈に感じるからです。 私にとっては、一方で、地形や産業との関わりを問題にする歴史地理学や遺跡遺物を通して推論を組み立てる考古学との関わりで文献解釈をするほうが刺激的だし、他方で、宗教や異界との関わりで当時の人間の活動を読み解くような奥行きのある手法の方が刺激的に思えるのです。 単なる文献史学は退屈だ── これは偏見ですが、そう感じるもの仕方がない。 で、著者の論点は、乙巳の変というクーデターの首謀者は皇極の弟である軽王子(孝徳天皇)であり、高句麗は唐に攻められ、新羅も内政干渉を受けているという国際情勢の中で、難波宮に遷都するという積極策を展開したことでも孝徳天皇こそ改革派だったのではないか、そして、乙巳の変の実行者であったのではないかというのが、中村の解釈です。 その証拠として、皇極天皇の夫の別の女性との間の子であり中大兄王子の兄に当たる古人大兄王子がクーデターの後、即位を辞退して「佩(は)かせる刀を解きて、地に投擲つ」舎人にも刀を解かせたという記述が出てくるのだが、その対象が軽王子になっているという点を上げています。古人王子は吉野に出家しますが、その後、大化元年九月に謀反を起こし殺害されるという記述が出てきます。 しかも、この古人謀叛と討伐の記述は7つもの異本・異伝を引用していることが、事件を重視していたことを表していること、また、討伐実行者を中大兄王子としていることに注目します。これまで歴史家は、孝徳天皇は中大兄王子・鎌足の傀儡政権という解釈できたため(私も中学・高校時代に朝日新聞社の日本の歴史シリーズや中公版などで散々読みました。)、あまり重視していなかったけれども、これは過度に中大兄王子が古人一族を滅ぼしたことを印象づけようとしている記述だと著者は読み解くのです。 左大臣・阿倍倉梯麻呂、右大臣・蘇我倉山田石川麻呂という人事も、孝徳の舅を当てているところも明らかに孝徳天皇の影響力の強さを示しているとしています。 後に、阿倍倉橋麻呂の死去があり、蘇我倉山田石川麻呂をその弟の日向の讒言により滅ぼす事件についても中大兄王子が主体に日本書紀では記されているが、これも書き換えられたものだろうと推測しています。 更に、鎌足と中大兄王子の蹴鞠の逸話は、朝鮮の『三国遺事』に出てくる金春秋の逸話に酷似しており、『三国遺事』成立は十三世紀ながら原本が紀の成立した八世紀以前にあったとすれば、そこから借りてきた物語ではないかと推測します。鎌足はよくよく検討してみると、実質的な役割は何も果たしていません。日本書紀の叙述を基にすれば、天智と鎌足の信頼関係の深さは本当だったと考えてよいだろうから、その性質が精神的なものだったのではないかと著者は推測するのです。丁度白村江の戦いで日本が敗戦する時期ですから宗教的な存在も大きな役割を果たしたと解釈するのです。新祇伯に就くことを拒んだという記述は文字通り読めばよいとするわけです。それを陰謀家・参謀と誤読させるような編集を編者はしており、『藤原家伝』がそれを拡大して自家の祖を重く見せようとしたのではないかというのです。 公地公民制は、天武四年に始まったという原秀三郎『日本古代国家史研究』(東京大学出版会)に依拠すれば、乙巳の変は単なる天皇家内部の権力闘争ということになるので、そんな大層な参謀も必要でなくなる。その天武期の出来事を改新の詔として遡らせて記述しようとしたために必要になった作為ともいえる。このように著者はしています。 石川麻呂との対立は、部民制の解体や官位制の改革など新政策に対する貴族勢力の反対に向けられたおどしと解釈されてきたのですが、孝徳が石川麻呂一族を撃とうとした動機として、むしろ、石川麻呂が中大兄王子と手を結ぼうとしていたからではないかと推測します。婚姻関係の樹立が傍証になります。 難波宮に孝徳は見捨てられ、皇后の間人皇女までが母と兄に従って飛鳥に戻ったという記述については、いろんな解釈があり、中大兄王子が母の死去後も即位せず称制を続けたのは実の兄妹の間に道ならぬ恋に陥ってしまったからだという論文も読んだことがあります。そんな馬鹿なと大学生であった私は思いました。同時に、文学部史学科というところはきっとこういう浮世離れした感覚で生きている人の集まりなのだろうと納得したものです。 それに比べれば本書はまともです。 皇極は帝位を引きずりおろされたわけで孝徳わ恨んでいたとみるのは妥当でしょう。その母が飛鳥に帰るのに息子娘が付き従ったというのは自然です。「公卿大夫・百官人が付き従ったというのは嘘だろうと著者はします。中大兄が皇太子という記述も作り事であるため、それを強調しようとして、公卿大夫・百官人が付き従ったと記述したのだろうと推論するのです。 こう考えると、斉明の重祚の意味がよく分かるとします。つまり、中大兄王子は、孝徳天皇の皇太子ではなかった。孝徳の子の有間王子はまだ15歳で、皇位に就けなかったため孝徳派は、暫定的措置として斉明を認めた。そこで斉明は有間を討った。蘇我赤兄に謀叛の企てのあることを訴えさせて殲滅した。こういう筋書きです。 竜に乗って空を飛ぶ異様の人が葛城山から生駒山に飛んでいき、午の刻には住吉の松嶺から西方に向かって飛びさるのが目撃されたという記述が日本書紀・斉明元年にみられ、これを蘇我入鹿の霊だとみなされているように斉明期には不満分子が多く存在したということを示すものなのです。 著者は、青龍は中国の聖獣であり、東の国つまり日本を治めるために中国皇帝から遣わされていたものが中国に還ったわけで、これから国が乱れることを象徴した記述だと解釈しています。 また、斉明崩御の際に磐瀬宮に現れた鬼の記述についても、朝倉宮のために神木を伐採したことを朝倉社の神が怒ったということにしているが、斉明の政治に対する不満が高まっていたということだろうと解釈します。倉庫に民の財産を集め、水路を堀り、土を運ばせて丘を作るといった土木工事に費やした。それらの悪政を赤兄は批判したと紀は記しているのです。 有間王子を押し立ててクーデターを企てた勢力はあったものと著者は見ます。ただし、有間は一九歳で政権の座に就けないため退けたのではないか。蘇我赤兄は留守官としての役割を果たしただけの人間であろう。こう推論しています。 そして、著者が挙げた天智天皇のイメージを悪くする嘘は六つあるのだそうですが、それを仕掛けたのは天武天皇であろうという推論をしてまとめています。 一応、筋の通った面白い見方とは言えそうです。ただ、私には納得いかないところもあります。天武の後、持統が即位し、その後、事実上、天智系に切り替わっていきます。どうして天智のイメージ修復を行わなかったのだろうという気がするのです。持統は天智の娘ですよ。(4.2) |
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