|HOME | 作田啓一『恥の文化再考』 |山極寿一『暴力はどこからきたのか』|江國香織・すきまのおともだちたち | 吉本ばなな |関川夏央『戦中派天才老人・山田風太郎』 | 石黒耀 | 岩本通弥 都市化に伴う家族の変容 民俗学の視点から | 尾崎放哉全句集 | 関川夏央『おじさんはなぜ時代小説が好きか』| 斎藤環『ひきこもりはなぜ…』 |『ニッポン天才伝』| 榊原洋一『脳科学と発達障害』オザキミオ『子どもたちの叫び 児童虐待、アスペルガー症候群の現実』| 神島次郎|日高敏隆『チョウはなぜ飛ぶか』 | 関川夏央『司馬遼太郎の「かたち」 | 本田由紀 新時代の学力 |小笠原京『爛漫の時代』 |中村修也『偽りの大化改新』(講談社現代新書)| 田村理『僕らの憲法学』(ちくまプリマー新書)|
| 足立倫行『親と離れて「ひと」となる』(NHK出版) 不登校やひきこもり、ニートたちのための自立支援施設で働く人たちについては、随分と以前より関心がありました。間接的に親の立場からの体験談を聞くことも多少はあったのですが、なかなか「見えない」世界でもありました。それには、たぶんにマスコミ、分けてもテレビが報じる民営施設の経営者の強引な態度に対する反発があったからという事も大きいと思います。 斎藤環のような信頼できると感じる精神科医などの意見や玄田有史のような労働経済学者の意見を参考にして、どう対応すればよいのか模索してはきたものの、もっと現場の実情を知りたい、そこから学校の側での取りうる対応を心得ておきたいと願ってはきたのであります。無論、私がもっと行動的で、誰とでも仲良くなれる外向的で社交的な性格ならば、四の五の言わずに、何カ所かの施設を夏期休暇中にでも訪れていたでしょう。 足立倫行が的確に歩き回り、聞き回りして選んでくれたのは福生市で青少年自立援助センター(YSC)を運営する工藤定次氏と富山で北陸青少年自立援助センターを運営している川又直氏の活動です。足立のノンフィクションはこれまでの『北里大学病院24時』にしろ、『アダルトな人びと』にしろ『妖怪と歩く』にしろ、ひとに密着して描いており、その消化力の強さ、胃袋のタフさとでもいうべきものに感心している。相手がどんな人間であっても、たとえば水木しげるのようなかなり怪しい発言を繰り返す人物であっても、まずは相手の懐に飛び込んで、ニューギニアやアメリカのネティブズの居住地にまで同行して、同じものを見聞きし、同じものを食べ、飲みして、その「生活世界」に肉薄していく態度は見事だとしか言えないでしょう。 私には、その種のタフさは欠落しているだけに、足立の凄みには一目も二目も置いてきたというわけです。 いずれこの項は全面的な書き換えをするつもりですが、取り急ぎ、本書で確認できた三点のみをここに記しておきます。 一つ目は、簡単です。不登校やひきこもりに陥っている(そして悩んでいる)青少年の多くは、心の病に罹っているわけではないということです。少し、気弱なところがあり、口数が少ないにしろ、そして、それだけに対人関係がどちらかといえば苦手な状態にあるとはいえ、それは病気ではなく、ごく普通の人間なのだということです。無論、不登校が長期化した少年の発言には歪みが生じることは避けられません。それはなんとか自分の状態を「異常ではない」と相手にも、それ以上に自分に納得させたがっているのですから、当然起こることだといえます。本人も親も不都合なことは見ないようにして生活を続けてきたのですから、外から来た人間にとって、少し認知の歪みのようなものが見えてしまうのはいたしかたないことでしょう。 それをもって「病気」とは捉えるべきではありますまい。 二つ目。不登校とかひきこもりというのは、原因を探してみても仕方がないということです。私も数年前から実感として分かるようになってきました。実に不思議というしかないのですが、同じ条件にあるA君は不登校になるのに、B君はならないのです。ということは、家庭環境とか、学内での成績とか、友人の数とか、いじめ体験とか、それらの条件は、科学的には不登校の原因要因とはいえないということになります。また、仮に、確率論的に解釈して、特定の要因を備えている場合に不登校に陥る可能性を問題にしたとしても、それならば、その要因を事前にコントロールすることが可能かといえば、多くの場合、困難だということになりそうです。 「原因」探しをしているより、脱却法を模索し、実践的に推し進めていくのが適切な対応だということばに接するとき、実に納得するものがあります。私自身、不幸にして登校できない状態が続いたとき、「原因探しより、どうするかを考えていきましょう」と奨めてきました。ここで妙に科学的思考に拘り、「すべての現象には原因があり、結果があるのだから、原因を究明しなければ対策は立てられない」という硬直した態度に拘泥すると、身動きができなくなったり、誰か他人のせいにして状況の変化を作り出せないことに陥ります。 とりうる対策あるいは進路の選択肢を整理して列挙してみるということから始めるのは私もよく採る方法です。生徒および保護者に、この極めて居心地の悪い状況から脱却するために採りうる選択肢を整理してみるという作業をしてもらいます。「わたしが悪かったのでは…」とおっしゃるお母さんに、「悪者探し」は止めるよう促します。本人には、自由に選択できること、そして、彼が親や周囲の友人や教師にどれだけ大切な存在だと思われているかを認識してもらうことを促します。そして、場合によっては、親たちがどれだけ彼を助けようとしているか、無条件に受け入れていることに気づくようしむけます。ただ、最近の私の経験では、本人に会ってもらうところまでいけなかったりします。力量不足なのでしょう。 そういったときに、こうした自律援助のプロが働きかけてくれるならばどれだけ安心できるかと思えるのです。 三つ目は、ひきこもり、ニートだけでなく、不登校も、心の問題であるよりは、就職、つまり食べていくためにお金を稼いだり、社会からその存在を認知してもらえるような基盤としての職業を得ることの方が深刻な問題だという点です。 特に、高3まできて挫折しかけている生徒に接するときには、その思いは切実になりました。本人には実感を伴わない遠い問題ですが、親にとってはかなり差し迫った問題として認識されているようです。あと数年で、子育ての負担から解放されるという予定が急に狂い始めるのです。親の側も職場での葛藤やいろんな屈託を抱えています。それもあと数年の辛抱だと思うから耐えてこられたというところもある場合だってあるでしょう。無論、それは二次的な問題ではあるのですが、不登校やひきこもりが長期化したときには次第次第に重みを増してくる問題でもあります。 おそらく、それは障害をもつ児童の場合でも同じようなことではないでしょうか。 本書は、そういった問題を、自律援助施設における実践に携わっている多数の人々の口を通して語らせています。具体的であり、日々の生活を通した、身体性を伴った語りです。批評的ではありません。 ただし、斎藤環は、働くことすら趣味のようなもの、ということになります。対人関係が長い間絶たれていると、対人恐怖や被害妄想が進行し、日常生活が営めなくなってくるのだと言います。だから、家族と口をきけるようにする。そして、本人納得の上での家からの引き離しが重要になるということです。 川又が説明しているのですが、ひきこもりから脱却しつつある若者がアルバイトに行っても、普通の人間なら1+1=2となるところが、0.9になってしまうというのです。足手まといになるのです。当然罵倒されて萎縮してしまう。まずは、そのことへの予防と乗り越える訓練が必要なんだということです。 「なぜ生きるか?」とか「働く意義」とかの本質論にハマってしまうとそこから抜け出せず、身動きが取れなくなるので、むしろ、それより身体を動かすことが大事になってきます。 早寝早起き朝ご飯の規則正しい日課と「いい汗かいてぐっすり眠る」農作業やスポーツ中心の共同生活を川又は推薦しているのは、こういった事情からです。 空いている耕作地に若い人出を入れることを、富山では歓迎されているとのことです。高齢化が進み、後継者のいない土地です。本来、厚生労働省ではなく、農林水産省で支援してもらいたいほどだということです。これは納得します。 まだまだ学ぶべきことの多い本です。私には私の現場があり、そこでは勿論、同じ課題が設定されているわけではないのですが、不登校が不幸にして起こってしまったら、切り捨てておしまいということにはしたくないわけで、工夫してやれる限りのことはしてみたいと思っています。(4.13) |
HOME 石黒耀 吉本ばなな 山極寿一 斎藤環『ひきこもりはなぜ…』 本田由紀 新時代の学力 小笠原京『爛漫の時代』 中村修也『偽りの大化改新』(講談社現代新書) 田村理『僕らの憲法学』(ちくまプリマー新書) 日記ページへ