|HOME ||中村修也『偽りの大化改新』(講談社現代新書)| 田村理『僕らの憲法学』(ちくまプリマー新書)| 足立倫行『親と離れて「ひと」となる』 |ミーナの行進|坂木司『先生と僕』| 釈迢空のこと| 丸山真男のこと|


この数年悩んできたこと

 久々に辛淑玉『悪あがきのすすめ』(岩波新書)を読みました。
 間違えて同じ本を買ってしまっただけのことですが、(おそらく)同じ箇所で感心してしまいました。

 少し前に上田紀行『かけがえのない人間』(講談社現代新書)に似たような指摘がありました。
 ただ、上田の指摘で最も共感したことは、「この数年、あまりにも心理学主義に陥ってしまったことが、その後の日本社会を悪くした」と反省している点です。私自身も教室で3年前に同じ事を述べた記憶があります。上田の場合は特に、「癒し」ということばを多用していろいろ影響を与えたという事があっただけに、反省の念を表明せざるを得なかったのでしょう。

 私自身、最近のことですが、少し首を傾げるような経験をしています。選択制で少人数の授業中、話がいささか脱線して、外交面での福田総理および外務官僚の中国政府に対する態度に疑問があると、五輪聖火リレーでの中国から派遣された聖火警護者の行動に関して触れたときのことです。「もしも僕が総理大臣なら…」と述べた途端、口元に冷笑を浮かべ、そっぽを向いた生徒がいました。
 以前と違い、単位未履修問題以降窮屈な設定になり、なかなか基本的な説明をする時間的余裕がなくなっているのですが、それにしても当然と考えていたことが伝わっていなかったりします。微妙なズレを感じることが増えています。私の前提として、民主主義というのは、すべての国民が主権者である、つまり国民全体で考えて結論を出さなければならない争点に関して情報開示を受けてしっかり知り、考え、他人の意見を聞き、討論し、共通認識を広めかつ深めていくという政治過程の構成者であることを想定している政治制度だという認識がありました。国民を構成する個々人は、その意味で、ひとりひとりが総理大臣であるつもりで政治的問題について考え、発言するのが当然なのです。
 たしかに「一介の社会科教師風情が何を大きな事を言う」と言われてしまえばそれまでです。とにかく気持は萎え、急いで元の問題演習に戻ったのですが、少しのどに突き刺さった小骨のような感触は残ってしまいました。自分の傲慢な態度は反省するとして、それはそれとして、最近の高校生の発言態度に「おやっ」と思うことがあります。
 もしかして、この人たちは、権力をもつ人間とそうでない人間、金持ちとそうでない人間、テレビに出る有名人とそうでない人間、成功者とそうでない人間というものの峻別にとても敏感なのではないかと思わせるちょっとした発言が気になるのです。

 村上龍の絵本『盾 シールド』に、主人公のひとりが、大企業に入ってそこで生き延びるための工夫をする様子が描かれています。彼は小さい頃悪い子で怒られてばかりいたので、どうすれば大人にきらわれるか、怒り出すかを知っていたので、「会社ではその反対のことをすればいいのだとすぐに気づいたのです。まず、上司の前では、険しい目つきやいやな顔をしないことに決めました。いつも笑顔でいるということではなくて、真剣な表情で、呼ばれたらかならず元気のいい声で返事をします。ぜったいにやってはいけないのは、上司が言うことを、聞きのがしたり、無視したり、否定したりすることでした」。

 その点、いまの高校生の大半は実にみごとに相手に合わせていきます。無論、それは誉めてもよい能力なのでしょう。
 でも、若い頃というのは結構無礼で、会社に入っているわけでもないし、俸給を与えられているわけでもないので、みんな対等だという意識で話してしまい、しくじりをするものと相場が決まっていたような気がします。それに昔の先生というのは、結構懐が深くて、少々生意気なことを言っても、笑って認めてくれたものでした。

 最近の高校生は、「それは違うよ。こう考えるべきなんじゃないですか」といった発言はまずしません。彼が、教師などというものの価値は低いとみなしていたとしても、それは案外正確に日本社会の現実を反映しているだけのことで、そこからくる反応に一々腹を立てたり、気にしていては身がもたないのでしょうが、彼らが部活の上級生などに対する態度を見ていると不思議な気がします。上の村上龍の描写の通りです。
 
 さて、辛さんの指摘です。最近、男女平等を訴えると「フエミナチ」、反戦のビラを配っただけで「サヨク」「反日」、とレッテルを貼って断罪するやり方が増えている、ということを問題にしています。(以下、引用します。)
 夫に殴られた妻には「あんたの口のきき方が悪かったんじゃないの?」と言い、イラクで人質にされた人たちの家族には「自己責任」という言葉を投げつけ、ハンセン病回復者が差別に抗議すれば「権利ばかり主張して」とくる。そうやって人権をふみにじっている輩にかぎってアメリカの尻馬に乗り、「人権のため」と称して爆弾を落とし人を殺すことには疑問をもたない。
 こうして「悪」の根元としてもっとも悪しざまにののしられ、価値を剥奪されている存在とはなにか。結局のところ、それは「弱いということ」ではないだろうか。
 ジャーナリズムはもともと「弱きを助け、強きを挫く」を本分としている、と私は教わってきた。しかし、日本ではバブルがはじけたころあたりから、世界ではグローバル経済がその姿を現わしはじめたころから、「弱いこと」は「悪」とみなされ、非難の対象とされるようになっている。
 そこでは、世界規模で繰り広げられる大競争を勝ち抜くためという大義名分が、大手を振っている。その大義名分の下、民族も国家も個人も、つねに強さを求め続けなければならない。至るところに「弱肉強食」 の強迫観念が蔓延しているのだ。
 そして、その考えからすれば、「弱いこと」は、避けるべきこと、すなわち「悪」なのだ。
 しかし、どんな社会であれ、弱い者は助けるべきという徳目が存在している。どんな宗教も道徳も、弱い者をいじめることを奨励したりはしない。直接、弱い者を攻撃することは、倫理上できないのだ。
 そこで、倒錯した論理が生まれてくる。「あれはほんとうの弱者ではない。弱者のフリをしている強者だ」という論理だ。
 勝ち組の、強者の論理の信奉者であればあるほど、「自分は勝ち組だから正しい」などとは言わない。「自分は、弱者のフリをしている強者を、社会正義の立場から批判している」という論理を振りかざす。あるいは、「民族や国家を弱体化させようという陰謀に荷担している人権派やリベラル派と闘うのだ」と言う。
 こうして、「弱いこと、弱者に味方することは悪いことだ」、という言い方が流布してゆく。
 そんな例はごまんとある。たとえば、社会的に追い詰められた女性が権利を主張したり、矛盾を告発したりすると、「そんなに大声が出せるのなら弱者のはずがない、弱者のフリをしているだけだ」と攻撃される。そして、そうした女性の声を代弁したり、援助したりする言論や行動は、弱者のフリをする怠け者やずる賢い連中に騙されている愚か者、「フエミナチ」だと椰輸される。
 現在では、こういう本音がもてはやされている。「日本の国益を第一に考えろ。さもないと、人件費が安くて、経済力も軍事力も拡大中の中国に負けてしまうぞ。日本を守れ、民族を守れ。そのためにはリストラに耐えろ、賃上げは要求するな、派遣社員に甘んじろ。格差是正などというやつは敵を利する悪人だ」と。しかし、非正規労働を推進したり、格差社会を肯定したりしている人をよくみれば、彼らこそ、その人件費の安い中国に工場を移すなどして、ぼろ儲けしている勝ち組だったりするのだ。
 こうして、強者は善人のフリをし、弱者は悪人とされてゆく。
 「小さな政府」とか、「構造改革」とか、「美しい日本」とか、強者はつぎつぎと新しい大義名分を振りかざしている。しかしその本質は、力こそが善だということ。つまり、勝ち組だけがいい思いをしたい、ということなのだ。
 まるで勝ち組のためだけの千年王国建設運動が進行中であるかのように、私には見える。
 その一方で、メディアは、「がんばる弱者」や「生き残りをかけて闘う弱者」を賞賛する。しかし、「がんばる弱者」を誉める。とは、「がんばれない弱者」を見捨てるための言い訳に過ぎないのではないだろうか。「生き残りをかけて掬う弱者」を励ますことは、「自然淘汰される弱者」の大量生産に拍車をかけるだけだろう。(pp.5-8)
 かなり長い引用になりました。さらにまだ、私としては「そうだ。そうだ」と言いたくなるような文章が続きます。
 勝ち組メディアから莫大なギャラをとって跳梁跋扈するカリスマ司会者や有名コメンテーターたちは、一見、弱者の味方のように装う。彼らはたとえば、財政破綻した夕張に東京から支援者ぶってやってきて、救世主のように振る舞う。しかし、そんな人に限って、援助を求める市民たちの前で平然と、「責任はお前たちにある、自分の力でなんとかしろ、国家に救いを求めるな」と突き放す物言いをするのだ。
 「弱きを助け、強さを挫く」はずだったジャーナリズムは、いまや巨大情報ビジネスと化し、自ら優良勝ち組大企業として強者の代弁機関に成り下がっているのではないか。
 想像を働かせる力も、弱者の痛みに共感する力も欠落している、そんな時代がやってきた。
 息苦しく、窒息しそうな社会である。

 この後、彼女がどのような生い立ちで、小さい頃から「悪あがき」をしてきたか、そして、世の中にはこんな風に自分たちの置かれた理不尽な状況に立ち向かっている人たちがいるか、「おぼっちゃま」の政治家たちが「再チャレンジ」などと綺麗事を言う前に、この国で朝鮮人に、異端に、貧乏人になってみろよ、その上で同じ事が言えるかと小気味よい啖呵をきっています。

 個々の具体事例は是非、本書をお読みいただきたいと思います。2007年6月の出版物です。


 田原総一朗は、高校生のときに雑誌『展望』連載のルポルタージュを読んで以来、尊敬してきたジャーナリストでしたが、かの「朝まで生テレビ」でいつも気になっていた表現がありました。「本音を聞かせてください」「本音で言っていない」ということばが繰り返されます。
 世の中には「本音/建前」が単純に逆のもの裏と表のようにとらえる人がいて、建前は嘘、本音は本当のようにとらえて仕舞いかねないのが怖いと感じていました。われわれが議論をするとき、たとえば憲法に書かれていて、法律として記述されている規定があり、それに対する法学部で習う論理構成があります。官僚たちはそれに習熟していて、どこから攻められてもそれなりの完璧に反論を跳ね返す用意がされています。
 当初、田原たちが目論んだのは、そのような官僚的答弁や官僚的思考、官僚的論理ではなく、現実に困っている状況があるのであれば、それをいかに解決することができるかという現実主義的な観点から議論をしようという姿勢だったと思います。そのためには、かつての社会党が憲法を盾に論戦を挑んだようなやり方では負けるので、違う方法を探そうということだったのではないでしょうか。「事実」そのものにどこまでも即して考えるという社会科学の方法を採るには素人ではあまりに難解になるため、「本音」ということばを探り当てたのだと推測します。「本音」はより感情を交えた特定事象に対する態度、構えの総称です。ただ、番組が重ねられるにつれて、「本音」は「利益」の在処へと用語法が傾いていったような印象を受けます。たしかに、利害は感情に関わり、社会的な関係において国家による決定が必要な大半は高額の金銭が関係していて当たり前なのですから、大きく間違っていたわけではありません。
 しかし、それでは「公共領域」の問題が何で、その問題はどのような原因から発生したかを正確に把握するのは困難になります。丸山真男が言う「イデオロギーの早期暴露」合戦になり、冷静に議論を積み重ねることができなくなってしまうでしょう。

 こういっては失礼かもしれませんが、田原さんの始めた番組の方向性が、現在の弱者を追いつめる政治や言論の出発点になったという気がしてなりません。
 「あれはほんとうの弱者ではない。弱者のフリをしている強者だ」という論理が多用されていたという印象をもっています。
 無論、私も一時、洗脳されていたと思います。抜け出すには3年はかかったでしょうか。
 [その前史を挙げておけば、「竹村健一の世相講談」があり、渡部昇一は新自由主義のイデオローグとしてよくその任を果たしていたことも証言しておく方がよいかもしれません。二十代に私は渡部を通じて、自由主義と市場経済の問題を社会哲学的に結び付けたハイエクやフリードマンの主張に馴染みます。竹中・小泉は、ハイエクらの巨大さに比してあまりにもせせこましかったことが、彼らに対する疑惑につながり、やがては、新自由主義や市場主義への疑問と発展していったわけですが、取り敢えずは私も自由主義・市場至上主義にかぶれていた時期があったことを認めねばなりません。](5.6)

|HOME ||中村修也『偽りの大化改新』(講談社現代新書)| 田村理『僕らの憲法学』(ちくまプリマー新書)| 足立倫行『親と離れて「ひと」となる』 |ミーナの行進|坂木司『先生と僕』| 釈迢空のこと| 丸山真男のこと|