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生徒は自分が学ぶことのできること、学びたく願っていることしか学ぶことができない。(p.42)
おそらく、この本の要点を一言で述べよと言われれば、この箇所を引くしかありますまい。
したがって、今回は、これにて終了。 でいいわけですが、それではあまりに愛想がない。それでもう少し付け加えましょう。
著者は、このような例を挙げます。自動車教習所で実に実用的な生活に役立つ知識・技術を教わるが、そのときの教官に対して懐かしく懐古して、同窓会を開こうとか、そこで「私がここまで自動車運転をこなせるようになったのは先生のお陰です」などと語り合う場面が想像できないのはなぜか。
逆に、シューマッハからたった数十分、F−1ドライブテクニックについて手ほどきを受けたとしたら、機会ある毎に「僕はシューマッハにアクセルワークを教わったんだぜ」と彼への感謝の言葉を口にするのではないかというのです。
これは教習所のヤマダ先生よりシューマッハの技術が各段に上だからとか、一方が有名人だからというのではありますまい。
先生は同じことを教えたのに、生徒は違うことを学んだ からだと内田さんは言います。
これを少しずつ詳しく補足説明をしていって、教習所のヤマダ先生は「これができれば大丈夫」ということを教えたのに、シューマッハは「学ぶことに終わりはない」ということを教えたのであり、その間には巨大な「クレヴァス」があるのだというのです。有用な知識や技術を教えてもらうのは学びではないのです。
シューマッハがアクセルワークについて語ったとして、あなたはむずかしすぎて言っていることを理解できないでしょう。何を言っているか、まったくわからなかったにも関わらず、というか、何をいっているのかぜんぜんわからなかったがゆえに、あなたは彼から本質的なことを学ぶことができたのです。
プロの人なら言うことは決まっているのです。
それは、「技術に完成はない」と「完壁を逸する仕方において創造性はある」です。
この二つが「学ぶ」ということの核心にある事実です。
ことばはむずかしいですけれど、これはじつは恋愛とまったく同じなんです。
「恋愛に終わりはない」そして、「失敗する仕方において私たちは独創性を発揮する」。
学ぶというのは創造的な仕事です。
それが創造的であるのは、同じ先生から同じことを学ぶ生徒は二人といないからです。
だからこそ私たちは学ぶのです。
私たちが学ぶのは、万人向けの有用な知識や技術を習得するためではありません。自分がこの世界でただひとりのかけがえのない存在であるという事実を確認するために私たちは学ぶのです。
私たちが先生を敬愛するのは、先生が私の唯一無二性の保証人であるからです。
もし、弟子たちがその先生から「同じこと」を学んだとしたら、それがどれほどすぐれた技法であっても、どれほど洞察に富んだ知見であっても、学んだものの唯一無二性は損なわれます。だって、自分がいなくても、他の誰かが先生の教えを伝えることができるからです。
だから、弟子たちは先生から決して同じことを学びません。ひとりひとりがその器に合わせて、それぞれ違うことを学び取ってゆくこと、それが学びの創造性、主体性ということです。(p.31-p.34)
著者は上の主張を補強するために、われわれが自分の意見を発話するときには、常に、それを聞いている相手と自分のこれからの関係を考え、相手にどう思われたいのかを配慮しながら意見や願望や記憶を語り出すのだということを説明します。
次に、記憶というものも、相手との関係において形成されていくことを説明します。そうであったかもしれない私、そうなるかも知れない私が「他我」というのですが、それを考慮しなければ「今、ここにいる、私」が確認できません。
これをラカンという精神分析学者の「人間は前未来形で過去を回想する」という考え方で補強し、対話において第三者の存在が不可欠であるという命題を村上春樹のうなぎのエピソードで肉付けしていきます。内田読みにとってはお馴染みの話なんです。ここでは説明を加えません。
対話の本質は、既視感にあるという説明がそれに続きます。当事者のそれぞれが、そんな欲望を自分がもっていることを知らなかった欲望に気づかされるという経験が、気分のよい対話の本質なのだというのです。
そこからコミュニケーションとは…という説明に入ります。突如「沈黙交易」という人類学の用語が出てくるので驚きます。コミュニケーションの本質は沈黙交易という極めて原緒的な交換にあるというのです。そのこころは、交換そのものが人類にとり快感なのだというのです。何か価値あるもの、有益なものを手に入れたかったのではない。交換という行為そのものがポイントなのだというのです。
サッカーでボールそのものは価値はありません。パスをすることに楽しさがあるわけで、仮に、そこで取り合いをしているボールそのものを抱きかかえて盗み出したとして、何の値打ちもないことにガッカリするだけでしょう。貨幣もそのボールと同じなのだというわけです。
ここから大航海時代の交易も、植民地を増やしたかったとか、胡椒が欲しかったということではなく、交換の起源的形態を再び経験したくなった。沈黙交易をしたかった。これが正解なのではないかと説明します。
だから、学ぶという場合においても、コミュニケーションそのものが欲望されているということになります。何かと何かを取り換えたい。しかも、その何かが正体不明の方が欲望は膨らみます。
コミュニケーションというのは、要するに、何かと何かを取り替えることです。そして、沈黙交易のところで明らかになったように、何かと何かを取り替えたいという欲望がもっとも亢進するのは、そこで取り替えられつつあるものの意味や価値がよくわからないときなのです。
だって、「わかる」とそれ以上コミュニケーションを続ける意欲が失われてしまいますからね。沈黙交易の場に、見慣れたものが置いてあったら、なんだ、あれかと思って、それ以上交易を続ける気分じゃなくなりますからね。
人間同士のコミュニケーションはいつだってそうです。
「もう、わかったよ」とか「だから、その話は、もう聞いたってば」というのは、「私はあなたの言いたいことをたいへんよく理解しました。ピース」というような友好的なメッセージではありません。どちらかというと「わかったから、黙れ」というコミュニケーションの打ち切りを意図する信号ですね。
私たちが会話においていちばんうれしく感じるのは、「もっと話を聞かせて。あなたのことが知りたいから」という促しです。でも、これって要するに、「あなたが何を言っているのか、まだよくわからない」ということでしょう?(p.100-p.101)
ここから誤解、誤読する自由という話に入り、夏目漱石の『こころ』『三四郎』に登場する「先生」の例が取り上げられます。
私たちが敬意を抱くのは、「生徒に有用な知見を伝えてくれる先生」でも「生徒の人権を尊重する先生」でも「政治的に正しい意見を言う先生」でもありません。
私たちが敬意を抱くのは「謎の先生」です。
あるいは「無−知の先生」と言ってもいいかも知れません。(p.142)
「謎の先生」を弟子たちが、それぞれに誤読するところに話の肝があるのですが、この辺りは、この本をちゃんと読んでください。弟子が師は私の知らないことを知っているはずだと想定することによって、自分が何を知らなかったかを学んでしまうのです。そして、何ごとかを学んだ後で、その学習を可能にした師の偉大さを思い知るのです。いわば一人相撲を弟子はとっているようなものです。自分で悟っていくのです。
このあたりが面白くて、受験エリートの母親は必ず言います。「学校は何も教えてくれなかった。何もしてくれなかった」それに対して家庭教師や予備校は…ということのようですが、その方は大変な思い違いをしているということになります。その「何も教えてくれなかった」という学校の教師のあり方は正しいのです。無論、受験という課題に対して「一緒に受験大学の過去問を探り、出題確率の高い問題の正解(得点につながる解答)を用意して提示する存在の便利さは疑いようもないのですが、それは「学ぶ」ということではないのです。
三浦宏文という予備校の講師が、海外帰国子女枠で有名大学を受験したいという女子と相談して、その子がドイツ人の父親をもつにもかかわらず、幼い頃にドイツにいただけで日常会話ができる程度であり、ドイツ語の試験には対応できないことを知ります。英語も自信がない。仕方がないので、一般推薦入試で受けることに決め、志望理由を書いてこさせます。小論文の指導に入るのですが、一行も書けない。ちゃんとした志望理由を書いてきていたので、不思議に思っていたところ、職員から、その子の母親からクレームの電話が入っているという。「ちゃんと教えていない」というのです。「いつでもやめさせられる」と脅しもしっかり入っています。仕方がないので、問題のパターン毎に知識に関する資料と典型的な解答リストを用意して、選択させながらメモを作成させる作業から入った。ところが、それをもとに文章を書くという段になって、何も言わずに飛びだした。母親からまたクレームの電話。
「模範解答をあなたが書いて、うちの娘が暗記すればいい」という要求。
多分、上の「何も…」の奥さんも、このクレーマー母親のようなことをして初めて「教えた」と満足されるのでしょうか。しかし、この外国語のできない海外帰国子女の娘さん、大学進学後、あるいは卒業後、困りはしませんかね。高すぎるプライドと傷つきやすい心をもてあましはしませんかね。(5.18)
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