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高機能自閉症、アスペルガー症候群の人たちに対する私の関心はどこから来ているのだろうと疑うことがあります。曖昧な記憶を辿っていけば、大学時代に心理学に興味を持ち、教職課程単位取得と絡めて自分の所属する学部外での心理学・精神医学関係の単位を取ったり、単位外で聴講を認めてもらったりしたことが遠くにはあります。 ラカンやフーコーのような現代思想との関連でも精神医学に関する知識は増大したようにも思います。 同時に、家庭教師をしていた生徒の中に、現在ならば学習障害と診断されるかもしれない特徴をもったお子さんが何人かおられたということも関係しているかもしれません。 あるいは、もっと単純で、偶々京都の丸善で購入した自閉症児に関するペリカンの書籍が興味深いものであったため、自閉症児に大きな関心を抱くようになったのかもしれません。 そして、アスペルガー症候群に関しては、翻訳家ニキリンコさんが自分の体験をもとに書かれた『自閉っ子、こういう風にできてます!』を読み、その不思議ともいえる世界との対し方に惹かれたからなのか。本書の著者が「彼らのユニークさを理解することは新しい驚きに満ちた興味深い体験であり、ひいては人間の考え方そのものに普遍性があるのかという哲学的な問題さえ含んでいる」と書くように、哲学者の大森荘蔵さんの著書を初めて読んだときのような驚きがあったことは確かです。 あとはぼかして書くしかありませんが、関連する障害を持つ何人かの生徒およびその母親との微かなやり取りの経験が関心を強めたという事情もあります。 加えて、発達障害者支援法施行による啓蒙活動の影響も否定できません。ようやく学校現場で語れるようになったわけです。それでも偏見の持ち主は随分いるようで、「自分勝手は許せない」と息巻いたり、「ちゃんとしつけてないから」という反応は絶えないということがあちこちの学校で起こっているのではないでしょうか。 自閉症スペクトラムは次の3つ組の障害をもちます。@社会性の障害 − 非常に単純化して言えば、他者との交流がうまくできないこと本書に載っている事例から説明してみましょう。 主訴は確認強迫という強迫観念と強迫行為でクリニックを訪れたB君は、それを語る様子がなんだかアナウンサーのようで、深刻味が伝わってこないのが印象的でした。通常、強迫性障害の人は、自分の症状に非常に苦しんでいることが特徴なので、B君のように深刻さが伝わってこないことはあまりないのです。それで生い立ちわ母親に確かめた上で「これまでのB君の様子を聞いていると、アスベルガー症候群かもしれないし、そうでないかもしれません。でも、これまで友人関係がうまくいっていないのはたしかですから、しばらくカウンセリングを受けでみてはどうでしょう」と両親に伝えました。その後の観察を経て、本人と両親にアスベルガー症候群という診断を伝えたところ、「これまでうまくやってこれなかった原因がやっとわかった」と言って、むしろうれしそうだったそうです。 B君自身の体験談母親は、育てにくい子どもだったと手記に記します。小学校のときはいつも喧嘩ばかりしていて、相手の親に謝ってばかり。それで叱るると、Bは必ず自分が正しいと言い張る。「なんて勝手な子どもだと親ながら思いました」。高学年になると、今度はチックや強迫症状に悩まされました。「なんておかしなことを言う子なんだろう。ありもしないことを大げさに言っている」としか思えませんでした。近所の心療内科へ通って、少しは落ち着きましたけれど、「Bは将来どうなってしまうんだろう」 とそればかり当時は考えていた、と言います。成績はまあまあだけれど、親の言うことが全然理解できていない。親でさえこうだから友だちとはと思うと不安になった。中学でサッカー部でトラブルを起こしたことからクリニックに行ってアスペルガー症候群と診断されてほっとした。これまでのおかしな、他人に迷惑をかけ続けた行動が、Bの正確のせいでも親の育て方のせいでもないと言われたことがありがたかった。 Bも明るくなり、パターン認識とかいう不思議な方法で、友だちと遊ぶこともできるようになり、自分なりに生きていく道ができたかと思うと嬉しい。─こんな風にお母さんは書いておられます。 本書では他にもいくつかの事例が挙げられ、さらに、一般的に対し方の注意点をまとめています。参考になります。 さて、@社会性の障害というのは、この事例では、小学校時代の喧嘩やサッカー部での部長に反発しての帰宅などの行動に現れています。Aコミュニケーションの障害は、母親が親の言うことが全然理解できていないと感じるほどで、ことばをしゃべらないのではないが、相手の言うことが理解できないというかたちで現れているようです。B想像力の障害については上の手記では、あるいは子どもが自分も含めみんな「ドラえもん」のようなロボットだと思っていたというのは関係あるかもしれません。テレビの映像を見て、そのまま信じてしまうようなことだったのかもしれません。「つまらないものだけど」への反応や図形の補助線を引かねばならない問題や立体は苦手ということも関係があるかもしれません。直接見えるもの、聞いたままの言葉は認識できても、その背後にあるものを想像できないようです。 それ以上に、B君が、周囲の他者の気持ちを配慮できないところが特徴的ですね。この事例の興味深いところは、それでもパターン認識(ちょうどロボットが行う情報処理システムですか)によって、近似的な対応ができるということです。実は、われわれも同じようなことをしているんじゃないかとも考え込ませます。 同僚を見ていても、なんだか定型的なマニュアルに従った反応を返しているんじゃないかと思える者が案外お母さん方から好評だったりします。ということは、もしかするとB君のパターン認識というのは病気じゃないとされている人間のとっているもののプリミティブな形態のものなんじゃないかなんて思えるわけです。 ミラー遺伝子との関連などがもう少しはっきりしてくるとさらに興味深いことがわかってくるでしょうし、少し時間はかかるにしろ、やがて治療可能という段階にまで達する日も来るのではないかと期待させられます。 われわれが現在、直面しているのは、これまで知られていなかった症状の病気がある、障害があるということまでわかったのに、症状を軽減する薬までは見つけられても、根治の可能性すら確認できていないというようなものが増えていることでしょう。 さらに、病気とはいえない適応障害などが、社会生活わ困難にしている現状があり、それの解決に医師に相談するのが適当なのかどうかすら怪しくなっているという現実もあります。 本来、宗教が果たすべき領域でも、やたら金儲けに走るだけの旧宗教や新興宗教というイメージがあり、占い師に加えて霊を持ち出す分類困難なひとまでテレビで活躍するようになり、これだけバラェティはあるのに、現実に困難に直面したとき手を差し伸べてくれる機関が少ないことに驚きます。カウセリングったて、結構お金かかるよ。 昔はどうだったの? と歴史やっているひとに聞きたくなります。 おそらく「近代」の産物なんじゃないでしょうか。発達障害ったて、正常・健康という基準なんか何もない「前近代」にそんなことくらいでごちゃごちゃ言うことなかったでしょうし、階級差があり地域格差がありすれば、変わっていてあたりまえだし、通じなくて当たり前だったんじゃないかという気がします。下人が貴族にもの言わないのは当たり前ですしね。コミュニケーションが大事なんて普遍的真理でもなんでもないでしょう。 だったら、実のところ、医者が治療する(療育する)ことを標準とする社会が果たして「生きよい」社会であるかどうか疑問ですね。(5.19) |
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