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関川夏央『家族の昭和』(新潮社)

 家族という存在を文章や映像の中心において作品が作られたのは、考えてみれば昭和という時代の特徴だったのかもしれない。無論、漱石の小説は核家族+女中の世界を描いていたかもしれない。大正期だって家族は描かれていたかもしれない。明治期の「家」との対比において。

 向田邦子の作品群─それは小説とドラマ脚本を含むのだが─の内容分析から本書ははじめられている。権力的な父親とその友人、家族に対して献身的な母親と娘たちが描かれた作品群には作者・向田邦子自身の人生が投影されている。

 それらの作品のすべてを発表時に読み、見てきた私にはとても納得のいく説明が行われている。それらの作品を味わっていない読み手にはどうなのだろうと気にはなる。

 そして、戦前の東京山手の世界を関川はその作品を通して見ている。久我山や荻窪のサラリーマンの中流家庭の原型が描き出されているのだという。

 次に、吉野源三郎『君たちはどう生きるか』のコペル君の東京山手中の上流家庭を検討していく。吉野や丸山真男の暮らした世界である。関川は、田舎から羨望の感情をもって、東京高等師範付属の世界を見ていたようだ。

 関川は、コペル君がクラスの例外的存在であった級友の江東地域の豆腐屋を訪ねて、しつけの悪い浦川君の弟の行動の描き方や吉野の恵まれた位置にいる人間の奇妙に大衆を持ち上げる姿勢と同時に嫌悪感を表してしまう大衆に対する屈折した態度を指摘している。この箇所を読んだとき、私がどうしても『君たちはどう生きるか』が好きになれなかった理由がわかったような気がした。

 堀辰雄の小説において、死んだ恋人を「回想」するスタイルでしか書き得なかった理由を、仮想空間でしかありえなかった理由を、コペル君の友人・浦川君がなぜ東京高師付属に通おうとしたかということと重ね合わせて説明している。上昇志向は、高度経済成長期を支えたエネルギー源でもあった。そして大衆の猥雑さを閉め出し、西欧世界のような空間に行きようとすれば、堀辰雄の美しい村や学園都市のような姿にならざるを得ないのだという。
 われわれは都市郊外のニュータウンという都会の繁華街場末のもつ猥雑さをぬぐい去ったクリーンな世界のもつある種病的な側面に対する社会学的分析や文芸評論的な分析を既にもっている。関川の述べていることは、そうした分析と重なる。

 続いて、戦前の東京の家族の姿を、幸田露伴・文の父娘を通して素描していく。特に、幸田文の『流れる』は、色町で女性シングルがしぶとく生き延びていく姿を描いた記録文学だという視点で、分析が進められていく。実のところ、関川の文章を読むまで、私には『流れる』はそれほど魅力的な作品に思えなかったのである。
 評論というものの力はすごいものだ。一編に作品評価が変わってしまった。
 自分の力が父の七光りに過ぎないものかどうかを試すために、女中として芸者置き屋に働きに出て、家事に対する自分の技量が通用するものか、玄人にごして生き延びていけるものかを試すという自分に対しても厳しくも誠実な態度は、とても感動を与えるものだし、自分という器に精神を注ぎ込むような幸田文の行為は、父と義母と弟と自分で構成されていた、そして弟が病死し、義母が去りした後に娘と押し掛けてきた嫁ぎ先の女中と父と文とで構成されていた「昭和の家族」という枠なしにはありえなかったものだということは納得がいく。
 そして、その「家族」が消失していく様子を、鎌田敏夫のドラマ『金曜日の妻たち 恋に落ちて』と『男女七人夏物語』の分析を通して仕上げている。山田太一を取り上げず、鎌田を取り上げたのが妥当かどうかは少し測りかねる。
 そして、小津安二郎の『麦秋』『東京物語』『秋刀魚の味』を分析して、かつて家族でにぎわった茶の間に、いまは誰もいないという『秋刀魚の味』のラストシーンを、昭和の家族という物語のラストシーンのイメージとして重ねて描いている。
 『恋に落ちて』を私は見ていないので、そのストーリーも本書で初めて知ったようなものなのだが、この作品が、多くの本歌取りによって構成されていることを知り、それを楽しんだ。メリル・ストリープ主演のハリウッド映画を登場人物たちが観に行くシーンがあるそうで、その映画が下敷きになっていることは丸分かりになるように作られている。そして、関川によると、団塊の世代に属す登場人物たちは、「回想」によって恋あるいは不倫に進み、「回想」は貧しさのイメージを伴うのだという。それは、彼らが大学生時代で恋をしたり同棲したりしていた社会が貧しかったからだというのだ。舞台になっている新興住宅地の家のパティオもどこかチープなイメージだと関川は指摘する。ワインの消費量が急激に増えたバブル期日本の豊かさの空虚さを言い表しているのだろう。
 『恋に落ちて』の主人公たちの子どもは、1970年代後半の出生であった。彼らはやがて1999年7月に世界は滅亡するというノストラダムスの予言を信じ、そこにむしろ日常からの解放への希望を託す。そんな彼らを主人公とするホームドラマが成立しなくなったとき、昭和は終わったのだそうだ。

 いいかえれば、家族の物語を日本人がもとめ、つくりあげ、それがピークを迎えのちに急速に終演した時代全体が、昭和と呼ばれたのである。(p.232)

 われわれにとって、「家族」とは、今後何であるのだろう。もはやそれは空虚な何のエネルギーも生み出さない壊れた装置なのだろうか。それでは、企業にも活力源を見いだせぬわれわれは、どんな装置にそれを求めることになるのだろうか。
 関川は、鎌田敏夫のドラマを分析するに際して「貧乏くさい」と「回想」をキーワードにしていた。貧乏は今後、多くの日本人にとって付き合っていかねばならないものになっていくのだろう。それは、幸田文が描いた力強さ、強靱な精神力で対処していくものではないだろう。どうなっていくのだろうか。そして、そんな時代の「回想」は甘美な豊かさにつながるというのだろうか。
 家族に代わる小さな人間関係、絆が一般に拡がっていくと想定していいのだろうか。実は私は何もわかっていなかったのかもしれない。(7.2)


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