|
中高生をみていても、やたらと周囲に気を遣う生徒がいる。多分、家でもそうだろうと思う。夏休み明けに睡眠障害に陥って、ついには不登校、退学となるケースもあり困っていた。生徒には、「ゲームやインターネットに嵌らないよう、規則正しい生活を心掛けよ」と注意をする。しかし、本当は、そうではあるまい。
彼らは、ある種メランコリーに囚われてしまうのではあるまいか。その症状の一つとしての睡眠障害というのが実際のところなのだろう。親の目から見れば、「ネットに熱中して…」となるが、彼らにとっては「そこに逃れるしかなかった」可能性はある。そういった実態を説明できる「ことば」を彼らが持っていれば、そこまで重症にはならないのだろう。
うつ病とは、上司や同僚、近所の人などの「顔の見える」他者の期待との関係において生じる障害だと著者は説明する。木村敏『直接性の病理』を参考にした展開である。
西欧では、神や道徳という規準に照らして自分には罪があると認識するのに対して、日本では、「家族に対して申し訳ない」「世間に顔向けできない」という反応になる。周囲の視線が倫理の基準になる。自殺願望も、ドイツでは自分にはもう苦しくて生きていく勇気がないとなるが、日本では、自分がいることでみんなに迷惑がかかる、それには耐えられないと他者指向的な気持を持つ。
日本では自殺者が多いが、著者がその分析をしている箇所を引用する。
私は、日本の自殺は「世間」 の問題が背景にあると思っている。
例えば、自殺の最大の理由である経済的理由による自殺は、日本では「借金」という金銭貸借関係が、たんなる法律上の契約関係としてではなく、「贈与・互酬の関係」ととらえられるために、借金を返済できない人間は、「世間」の「贈与・互酬の関係」を守ってゆけない人間として、「世間」からつまはじきにされるところからおきる。
日本人は、「世間」からつまはじきにされたら生きてゆけないと思っているので、「ご迷惑をおかけします」という遺書をのこして自殺する。自殺がおきるのは、けっして個人の「心が弱い」からではない。「世間」特有の問題がそこにあるのだ。
自殺者の大半はなんらかの精神疾患、とくにうつ病の状態にあるといわれる。先にあげたK校長のケースもそうだが、うつ病になりやすい人の性格を「メランコリー親和型」という。
これは、もともと精神医学者のH・テレンバッハが名づけたもので、それによれば、対人関係の面で、秩序を重んじ、凡帳面で義務感と責任感が強く、特に他人にたいしてひじょうに気をつかうといった特徴がある。俗にいう苦労性の人、律儀な人がこれにあたる。
木村さんは、日本語では日常的に使用される「律儀」「苦労性」「几帳面」「馬鹿正直」「融通がきかない」などの言葉について、欧米ではこれらを的確に表現できる単語がなかなかみつからないという。また、日本語にはメランコリーの心的状態を言い表す言葉がきわめて豊富であるという(『人と人との間』)。
よーく考えると、こうした性格は日本人の「世間」のなかでは、「期待される人間像」となっていることがわかる。「義務感」や「責任感」や「気をつかう」というのは、「世間」のなかで「共通の時間意識」をもち、「贈与・互酬の関係」をきちんと守ってゆける人間のことを意味している。そういう人間が「世間」では高く評価される。
この 「メランコリー親和型」 について、精神科医の芝伸太郎さんは、「これは実は「ごく平凡な普通の日本人」に多く見られる性格に他ならないのであって、彼らはこの国ではその「平凡さ」ゆえに高い評価を受けている人たちなのだ。そこに日本人特有の「生の美学」がある」といっている (芝伸太郎『うつを生きる』ちくま新書、二〇〇二年)。
日本人に「メランコリー親和型」正確が多いだけでなく、世間が「メランコリー親和型」なのだという指摘は重要だろう。そして、周囲との関係性において発病するわけだが、その関係は、連鎖となっている。たとえば、日本でお中元を贈るというのは、ドイツ人が贈り物をするのとは異なる意味をもつ。
相手を喜ばそうとして物を送るでは済まない。「贈与・互酬の関係」は「親切−義理−返礼」の連鎖として現れ、送られた側は「お返し」をしなければ、「義理」を果たしていないので放置すれば世間からつまはじきにされるという認識につながる。サラ金に金を借りたて返せない場合も、同様の認識になるため、義理を果たさず世間からつまはじきにされ、人間扱いしてもらえないくらいならば死んだ方がましということになってしまう。
そこに近年のアメリカ型成果主義の導入という要因が加わる。すると、日本人は「自己責任」と考えて行動するようになるとは限らないのだ。そのあたりの説明をなんと古典的なベネディクトの記述に求めている。以下引用(孫引き)をする。
日本の子供たちは競争を遊び半分に考えており、大して気にかけない。ところが、青年や成人の場合には、競争があると作業能率がぐんと低下した。単独でしている時には良好な進歩を示し、しだいに間違いの数も減り、速度も増していった被験者が、競争相手といっしょにさせると、間違いだし、速度もはるかに遅くなった。彼らは彼らの進歩を、彼ら自身の成績と比較しつつ測定する時に、最も良好な成績を挙げた。ところが、他人と比較測定する場合にはそうはゆかなかった。この実験を行なった数人の日本人学者は、競争状態に置かれた場合にどうしてこのように成績が悪くなるか、という理由を正しく分析している。彼らの説明によれば、問題を競争でやるようになると、被験者たちは負けるかもしれないという危険にすっかり心を奪われ、仕事の方がおるすになってしまう。彼らはあまりにも鋭敏に、競争を外から自分に加えられる攻撃と感じる。そこで彼らは、彼らが従事している仕事に専念する代りに、その注意を攻撃者との関係に向けるのであった。(R・ベネディクト 『菊と刀』長谷川松治訳、現代教養文庫、一九九一年)
日本人は競争的環境に置かれた場合に、仕事よりも隣の人間を気にするようになり、かえって能率が落ちる、といっているのだ。負けた場合に恥じかく、それを優先的に考えるというのだ。
このような神経過敏さは、人と競争して負けた場合に特に顧著に現われる。それは就職のさいに自分以外の人が採用されたとか、あるいはまた、当人が競争試験に落第したにすぎないことがある。敗者はそのような失敗のために「恥をかく」。そしてこの恥は、発奮の強い刺激になる場合もあるが、多くの場合は危険な意気消沈を引き起こす原因となる。彼は自信を失い、憂鬱になるか、腹を立てるかどちらか、あるいは同時にこの両方の状態におちいる。彼の努力は阻害される。
「「世間」には「共通の時間意識」があるために、「みんな一緒」「みんな同じ」でなければならず、表向き競争が隠蔽されることである。」と佐藤は補足説明をしている。
夏休みの始めに成績が渡され、補習を受けるべき生徒の指名がある。几帳面な生徒とその親は、それに対して極めて過敏に反応する。「恥じ」だと感じ取り、それを優先する場合には、うつの反応が生じ、睡眠障害や自律神経の乱れが出ても不思議ではないということなのかもしれない。
本来世間論の本格的紹介をすべきであろうが、ひっかかっている部分に焦点を合わせてみた。 (7.19)
|