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岩田靖夫『いま哲学とはなにか』(岩波新書)

 随分と長い間書き換えていません。こういうものは少し遠ざかると書く気がしなくなるもののようです。実のところ未だ感覚は戻っていません。面倒さが先立ちます。
 本書は、ソクラテスの「人はいかに生きるべきか」、アリストテレスの「人はいかなる共同体を作るべきか」についての問いに対する応答をまとめることから始めて、「究極根拠への問い」をデカルト、カント、ハイデガーの思考過程を辿ることでまとめ、「他者という謎」をレヴィナスおよびエリ・ヴィーゼルに沿うことで整理し、第X章「差別と戦争のかなたへ」ではロールズとカントの平和論でまとめるという荒技で構成しているものです。
 まずは、初学者にとっても、哲学の基本的疑問のいくつかを考えてみる手助けになるので、手にしてみても悪くはない本だと言えそうです。

 それはさておき、誰が何を言ったかは別にして、自分の生きる姿勢の不徹底さを振り返るいい反省材料を与えてくれた、第W章を取り上げてみましょう。

 この世には苦しみが満ちあふれています。貧困という病気、老化、地震や津波、台風、噴火といった自然災害がわれわれの上にふりかかってきます。イラク戦争やイスラエル・パレスチナ抗争、ルワンダの大虐殺、スーダンの内戦と人間が惹起する苦痛がやってくるのです。
 著者は、この人間にふりかかる多大の苦を正当化する試みとしてライプニッツの『弁神論』に代表される議論を紹介します。苦の原因は、本人も意識していないところにであれ、神ではなく人間の罪にあるとする論法だそうです。ヘーゲルが世界歴史を自由の自己実現のプロセスとして描き、個々の人間たちの様々な悪や災いも、歴史の狡知により、それを利用して最終的な自由の達成があると説明し、苦を正当化するものであった。マルクスもそれを継承していたと説明しています。
 しかし、アウシュヴィツの大虐殺は、そのような正当化が成り立たないことを白日の下にさらけ出しました。もはや弁神論は成り立たないのです。
 では、とばかりに、「人間の苦しみを人間の有限性によって説明する」様々な試みがあります。われわれはなんとかして苦しみという事実を納得したいからです。「必然なのだ。だから耐える他はないのだ」と納得したいのです。しかし、「他者の苦しみはいかにしても正当化できない」という事実が明白になったのが全世紀から今世紀にかけての度外れの苦しみ、アウシュヴィッツ、ルワンダ、カンボジアの大虐殺や文化大革命の大虐殺、スマトラ沖の大地震などを目の当たりにしてのことであったと著者は云うのです。

 「神の不在」はかくて露わになったとも言えるのだが、われわれは、「弁神論」のような建前だけのなぐさめではない別のルートの心の支えを得る道が残されているのではないかと著者は指摘するのでした。

 ホロコーストを体験したユダヤ人のノーベル賞作家エリ・ヴィーゼルの『夜』の中にこういう話がある。迫り来る連合軍から逃れるためにナチスは、飢餓と泥濘と寒さの中を、ばたばたと死者を道端に置き去りにしながらユダヤ人たちを行進させていた。ある夜、ユダヤ人たちは倉庫の中に積み重ねられて押し込まれた。死者と瀕死者の折り重なった重みの下で窒息しかかっていたヴィーゼルの耳に、闇の中で突然ベートーヴェンの協奏曲の一節が鳴り響いたという。幻聴か。どこの狂人がこの死の闇の中でヴァイオリンを弾いているのか。しかし、ヴイーゼルは、あれほど美しい響きは生涯聞いたことがない、と言っている。地獄の闇の中に聾いた美。誰が親衛隊の目をかすめてヴァイオリンを隠し持って歩いていたのか。翌朝、かれらが追い立てられたとき、明け方の光に照らされて、息絶えた死者と押し潰されたヴァイオリンの破片が床に散乱していたという。
 人間性は、かつてなかったほどの困難な状況の中で、弁神論という建前だけの慰めの物語のない現実の中で、なにか新しい信仰の様態を要請されているのではなかろうか。それは、他者の苦しみに直面して、われわれがかれを助けに駆け寄るとき、その無意味な苦しみをわれわれ自身の苦しみとして担うことにより、それを意味ある苦しみへと変えること、すなわち、そのとき、もしもそういうことが起こりうるとすれば、そこに生まれ出る人間と人間の絆としての愛もしくは美が「神の息吹」であるというような、そういう新しい信仰へと呼ばれているのではなかろうか。
 実のところ、この章の内容をきれいに要約することは私の能力を超えているように思えます。つまり、私には何一つまともに理解などできていないのだと白状してしまいましょう。ただ、以前より漠然と感じていた雲を掴むように頼りないものが、ひとつのかたちを成してきたような感覚を得ました。これは「的はずれだ」と突っ込まれそうではあるのですが、その周辺の事情を少しだけ後で書いてみましょう。いま少し引用を続けます。
 苦しみは「意識に逆らうもの」「意識のうちに取り込みようのないもの」、意識が自分のうちに取り込んで、統合し、同化し、飼い馴らすことのできないもの、意識に対する拒否そのもの、支えられないものを支えさせられる、という逆さまになった意識である。苦しみとは、人間が自分自身でありえなくなってしまった状態、そういう意味で、自分自身を制御統一できなくなってしまった自己崩壊の状態である、と言ってよいだろう。これを一言で言えば、苦しみとは極限の受動性である。苦しみは生の行き止まり、存在の行き止まり、不条理の明白な現れである。
 それは、極限の受動性として、無力、遺棄、孤独の中に見捨てられることである。苦しみは逃れようもなく襲いかかってくるのであり、その襲撃をたった一人で引き受けなければならない。誰かに代わりに苦しんでもらうことは出来ない。苦しみと孤独は背中合わせに貼りついている。
 だが、それと同時に、あるいは、むしろ、それであるが故に、苦しみは「覆い(couverture)」である可能性もある、とレヴィナスは言う(“Entrenous”p.109)。「覆い」とはなにを言っているのか。その覆いの下で、嘆きが、叫びが、呻きが、ため息が、他者(他の私)による癒しと救いへの(苦しむ者の)呼びかけが、(私に向かって)発せられている、という意味である。
 苦しみは、それ自体としては、無益であり、無意味である。苦しむために苦しむなどということはありえない。では、苦しみはまったく無益なのか。苦しみ自体としては無益だが、他者への呼びかけとしでは有意味だ、というのが、おそらくは、レヴイナスの最後の答えだろう。
 苦しむ者の発する呻きは、この(私という)他者の他性がまさに他性であるが故に救いを約束しうるものとして、(私という)他者に向かって発せられているのである。「他性であるが故に」とは、他者が初めて別の他者を愛しうる(肯定しうる、支えうる)のであり、その愛が救いをもたらしうる、という意味である。呻きを聞き取った私が、その苦しみへと応答し、その苦しみを共に担うとき、苦しみは共苦(sympathie)すなわち愛の出現の突破口として、苦しむ者にとっても、その苦しみを共に担う私の苦しみとしても、有意味になる、ということではあるまいか。
 苦しみは、それ自体としては、純粋に、本質的に無意味であり、出口のない自己自身へと断罪されている。そのような苦しみにとって、他者に向かっての救いの叫びが、意味に向かっての根源的な開けであり(ouverture originelle)、そこで、「間人間的なものの中に(dans l'interhumain)」一つのかなたが(un au dla)姿を現すのである。 

 カント的な「自律的で自由な主体」としての自己とは全く異なる認識がそこにはあります。そんな自己が間違いなくあると確信することは困難でした。一つの仮説として、想定することはできても、生きる姿勢の足場として好都合であっても、確実にそこにあり、それを神が根拠づけているという思い込みは、私には持続できなかったというのが本当のところです。どこかで疑っていました。実存主義は、それを転換して、主体の側の意思として態度表明として捉えることで分かりやすさを私に提供してくれました。

 しかし、それでは他者の問題は説明し切れないわけです。

 本書著者は、レヴィナスの思想は、人間を知の対象として理解しようとするとき、それは人間を物として、つまり人間を別のものに置き換えてしまって理解しようとしているので、人間は認識できないという事実を踏まえて展開されたものだと説明しています。

 そして、他者は「いつでも私より高い。他者は深淵のかなたで、自由なる者として、私に対面している」のです。「他者は私の手の届かない高みにいる」。そのような他者と対面して存在する状況が、私にとって「根源的事実である」のです。しかも、「死に曝された者として、助けを求めて叫んでいる」。「無限の弱者」でもあるのです。

 われわれは、根源的状況として、そのような他者と「対面する」状況で存在しています。「なぜ」という謂われはありません。他者との関係なしに、私という実体は存在し得ないのです。自己同一性というものがありうるとすれば他者との関係における私のあり方でしかあり得ないのです。
 そして、他者との関わりとは、「助けてくれ」と叫ぶ他者の呻きに応答することである。エゴイストならば、その呻きは聞こえないだろうと言います。「責任の引き受け」は、こうして受け身のかたちでやってきます。私という存在は受動的であり、「責任」も受け身であるというのです。われわれは、こうして「他者の苦しみに巻き込まれる」つまり、「共に苦しむ」こと、共苦として共感、愛を体験するのです。

 著者は、なぜ、それほどまでして、他者と苦しみを共に担わなければならないかについての形而上学的根拠を引用した箇所に続く第3節で展開していくのですが、それは本書をお読みください。私には未だ理解はできていないと思います。

 私は基本的には、自己の自由や主体性に重きを置き、理性的、合理的に生きようとしてきた人間です。ある種「冷たい」と周囲から思われる人間かもしれません。にも関わらず、常に、教師という職業から生徒やその親たちという他者の呻きに気を取られ、彼らに何も貢献できない自分の力のなさに嘆き、戸惑い続けてきた人間でもあります。人生の隣人の苦しみに気づくことは辛く、心萎える経験でもありました。無力さを思い知らされることでありました。

 妻も老いゆく人たちや障害をもつ人たちとの関わりをもち、問題を解決する力などないことに畏れを抱く経験をいましています。指導を受けている方から「家庭の主婦が暇にあかせて道楽で関与してきたのではないか」と疑われ、「そうではない。そうではない」と否定しながら「では何なのか」に答が出せずに苦しんでいるようです。

 そばにいて、私に見えているところでは、妻には、何かの働きかけをすれば、それなりの成果が出るというある種の操作主義、市場主義的発想から抜けられないところがあります。この発想は、企業に勤めていれば肯定されるものであり、あらゆる人間を金儲け、利益を上げるための道具としてとらえることに抵抗など感じていては勤まらないことなのかもしれません。

 しかし、物事を突き詰めて考えていけば、その姿勢は、アウシュヴィッツの強制収容所において、ユダヤ人をいかに能率よく処分していくかに有能さを発揮したドイツ人の態度そのものでしょう。われわれは往々にして、その事実を忘れてしまいます。あのアインシュタインですら、広島長崎の原爆投下に対して「戦争終結に必要であった」と正当化を図った文書を残しています。ある特定の目的に対して合理的であること、最短時間で答えに結びつくことに無条件の価値を見出してしまうのです。その目的自体の妥当性は失念してです。

 ナチスは、精神病患者のための病棟を一つなくせば、労働者のための安価な住宅が3棟建設できるという宣伝をしました。合理的な計算をしてみようという呼びかけです。多くの労働者は、精神病棟をなくすことに一票を投じました。ではどうすれば病棟をなくせるか。精神病患者を強制収容所に送り、効率よく処分すればよいというわけです。社会の役に立たない存在ではないかというのです。

 社会にとって「有用である」ことを限定的にマニュアル化し、一定の得点以下の者は「無用である」とする発想は、いまもあちこちで見られる通りです。

 教師の仕事は、決まり切った定型的業務、ルーティン・ワークとして、定期試験を実施し、得点集計をし、能力判定をするというかたちでも表現されます。いやそれを怠れば、保護者からの叱責を受けるでしょう。世間はそうすることの正統性を疑いません。

 しかし、そこにはナチス的な行動への近似という落とし穴があります。

 私にはそこまでしか見えていません。この業務を続けながらも、他方で、子どもたちやその親たちの呻きに心悩ませることしか生きようがありません。「夜回り先生」─TVのドキュメンタリー放送で一、二度見ただけですが─のような世間受けする行動を取る気にもなれません。無論、彼のような有り様もありだとは思いますが、それを真似ることが自分にしっくりくる状態になれるとは思えません。

 また、生徒や保護者への関わりを「受験」に限定するという割り切りをし、徹底したハウ・トゥ、人間を操作できるという幻想に逃げ込むこともしっくりこないようです。

 かたわらを通り過ぎようとして、他者の助けを呼ぶ声に気づいたとき、それに応答し、共苦するしかない存在として自己を見るというのは、とても納得のいく説明です。「それでいいのだ」と言って欲しいというのではないのです。客観的、俯瞰的に自己の立ち位置を確かめたいだけのことです。

 正当化などしてみても仕方のないことです。こうしかできないし、それが経営学的な効果を生みだしてこなかった可能性は大きいのですから、胸を張って主張できるようなことでもありません。 (8.6)


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