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随分と長い間書き換えていません。こういうものは少し遠ざかると書く気がしなくなるもののようです。実のところ未だ感覚は戻っていません。面倒さが先立ちます。 「神の不在」はかくて露わになったとも言えるのだが、われわれは、「弁神論」のような建前だけのなぐさめではない別のルートの心の支えを得る道が残されているのではないかと著者は指摘するのでした。 ホロコーストを体験したユダヤ人のノーベル賞作家エリ・ヴィーゼルの『夜』の中にこういう話がある。迫り来る連合軍から逃れるためにナチスは、飢餓と泥濘と寒さの中を、ばたばたと死者を道端に置き去りにしながらユダヤ人たちを行進させていた。ある夜、ユダヤ人たちは倉庫の中に積み重ねられて押し込まれた。死者と瀕死者の折り重なった重みの下で窒息しかかっていたヴィーゼルの耳に、闇の中で突然ベートーヴェンの協奏曲の一節が鳴り響いたという。幻聴か。どこの狂人がこの死の闇の中でヴァイオリンを弾いているのか。しかし、ヴイーゼルは、あれほど美しい響きは生涯聞いたことがない、と言っている。地獄の闇の中に聾いた美。誰が親衛隊の目をかすめてヴァイオリンを隠し持って歩いていたのか。翌朝、かれらが追い立てられたとき、明け方の光に照らされて、息絶えた死者と押し潰されたヴァイオリンの破片が床に散乱していたという。実のところ、この章の内容をきれいに要約することは私の能力を超えているように思えます。つまり、私には何一つまともに理解などできていないのだと白状してしまいましょう。ただ、以前より漠然と感じていた雲を掴むように頼りないものが、ひとつのかたちを成してきたような感覚を得ました。これは「的はずれだ」と突っ込まれそうではあるのですが、その周辺の事情を少しだけ後で書いてみましょう。いま少し引用を続けます。 苦しみは「意識に逆らうもの」「意識のうちに取り込みようのないもの」、意識が自分のうちに取り込んで、統合し、同化し、飼い馴らすことのできないもの、意識に対する拒否そのもの、支えられないものを支えさせられる、という逆さまになった意識である。苦しみとは、人間が自分自身でありえなくなってしまった状態、そういう意味で、自分自身を制御統一できなくなってしまった自己崩壊の状態である、と言ってよいだろう。これを一言で言えば、苦しみとは極限の受動性である。苦しみは生の行き止まり、存在の行き止まり、不条理の明白な現れである。 カント的な「自律的で自由な主体」としての自己とは全く異なる認識がそこにはあります。そんな自己が間違いなくあると確信することは困難でした。一つの仮説として、想定することはできても、生きる姿勢の足場として好都合であっても、確実にそこにあり、それを神が根拠づけているという思い込みは、私には持続できなかったというのが本当のところです。どこかで疑っていました。実存主義は、それを転換して、主体の側の意思として態度表明として捉えることで分かりやすさを私に提供してくれました。 しかし、それでは他者の問題は説明し切れないわけです。 本書著者は、レヴィナスの思想は、人間を知の対象として理解しようとするとき、それは人間を物として、つまり人間を別のものに置き換えてしまって理解しようとしているので、人間は認識できないという事実を踏まえて展開されたものだと説明しています。 そして、他者は「いつでも私より高い。他者は深淵のかなたで、自由なる者として、私に対面している」のです。「他者は私の手の届かない高みにいる」。そのような他者と対面して存在する状況が、私にとって「根源的事実である」のです。しかも、「死に曝された者として、助けを求めて叫んでいる」。「無限の弱者」でもあるのです。 われわれは、根源的状況として、そのような他者と「対面する」状況で存在しています。「なぜ」という謂われはありません。他者との関係なしに、私という実体は存在し得ないのです。自己同一性というものがありうるとすれば他者との関係における私のあり方でしかあり得ないのです。 著者は、なぜ、それほどまでして、他者と苦しみを共に担わなければならないかについての形而上学的根拠を引用した箇所に続く第3節で展開していくのですが、それは本書をお読みください。私には未だ理解はできていないと思います。 私は基本的には、自己の自由や主体性に重きを置き、理性的、合理的に生きようとしてきた人間です。ある種「冷たい」と周囲から思われる人間かもしれません。にも関わらず、常に、教師という職業から生徒やその親たちという他者の呻きに気を取られ、彼らに何も貢献できない自分の力のなさに嘆き、戸惑い続けてきた人間でもあります。人生の隣人の苦しみに気づくことは辛く、心萎える経験でもありました。無力さを思い知らされることでありました。 妻も老いゆく人たちや障害をもつ人たちとの関わりをもち、問題を解決する力などないことに畏れを抱く経験をいましています。指導を受けている方から「家庭の主婦が暇にあかせて道楽で関与してきたのではないか」と疑われ、「そうではない。そうではない」と否定しながら「では何なのか」に答が出せずに苦しんでいるようです。 そばにいて、私に見えているところでは、妻には、何かの働きかけをすれば、それなりの成果が出るというある種の操作主義、市場主義的発想から抜けられないところがあります。この発想は、企業に勤めていれば肯定されるものであり、あらゆる人間を金儲け、利益を上げるための道具としてとらえることに抵抗など感じていては勤まらないことなのかもしれません。 しかし、物事を突き詰めて考えていけば、その姿勢は、アウシュヴィッツの強制収容所において、ユダヤ人をいかに能率よく処分していくかに有能さを発揮したドイツ人の態度そのものでしょう。われわれは往々にして、その事実を忘れてしまいます。あのアインシュタインですら、広島長崎の原爆投下に対して「戦争終結に必要であった」と正当化を図った文書を残しています。ある特定の目的に対して合理的であること、最短時間で答えに結びつくことに無条件の価値を見出してしまうのです。その目的自体の妥当性は失念してです。 ナチスは、精神病患者のための病棟を一つなくせば、労働者のための安価な住宅が3棟建設できるという宣伝をしました。合理的な計算をしてみようという呼びかけです。多くの労働者は、精神病棟をなくすことに一票を投じました。ではどうすれば病棟をなくせるか。精神病患者を強制収容所に送り、効率よく処分すればよいというわけです。社会の役に立たない存在ではないかというのです。 社会にとって「有用である」ことを限定的にマニュアル化し、一定の得点以下の者は「無用である」とする発想は、いまもあちこちで見られる通りです。 教師の仕事は、決まり切った定型的業務、ルーティン・ワークとして、定期試験を実施し、得点集計をし、能力判定をするというかたちでも表現されます。いやそれを怠れば、保護者からの叱責を受けるでしょう。世間はそうすることの正統性を疑いません。 しかし、そこにはナチス的な行動への近似という落とし穴があります。 私にはそこまでしか見えていません。この業務を続けながらも、他方で、子どもたちやその親たちの呻きに心悩ませることしか生きようがありません。「夜回り先生」─TVのドキュメンタリー放送で一、二度見ただけですが─のような世間受けする行動を取る気にもなれません。無論、彼のような有り様もありだとは思いますが、それを真似ることが自分にしっくりくる状態になれるとは思えません。 また、生徒や保護者への関わりを「受験」に限定するという割り切りをし、徹底したハウ・トゥ、人間を操作できるという幻想に逃げ込むこともしっくりこないようです。 かたわらを通り過ぎようとして、他者の助けを呼ぶ声に気づいたとき、それに応答し、共苦するしかない存在として自己を見るというのは、とても納得のいく説明です。「それでいいのだ」と言って欲しいというのではないのです。客観的、俯瞰的に自己の立ち位置を確かめたいだけのことです。 正当化などしてみても仕方のないことです。こうしかできないし、それが経営学的な効果を生みだしてこなかった可能性は大きいのですから、胸を張って主張できるようなことでもありません。 (8.6) |
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