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新聞、テレビ、週刊誌というメディアがセンセーショナリズム、煽動的であること、空騒ぎを旨とする基本性質を持つとは分かっている。分かっているのですが、つい乗せられてしまうものなのです。 @は、テレビのワイドショー見ているとなかなか愉快なんですね。公務員による税金の無駄使いを捜し出してきて、「こんなにも無駄使いしているではないか。反省しろ」とテレビカメラに向かって大声を出すのです。役人に対して説明を迫る映像を加えているときもあります。それにコメンテーターという素人が、いかにもそれらしい顔をして、「なんだか間違っていますねえ」と言わせます。確かに税の無駄使いは間違っていますから、それだけ見ると全面的にテレビ・レポーターが正しくて、公務員あるいはその行政機構やその下部機構、あるいは関連する第三セクターが間違っているという印象は強く視聴者に残ります。 ただ、ある政策が決定された時点での政治的決定は、複数の目的を比較しうる選択肢の中から最も効果的に達成しうると考えられるものとして下されているものです。それらの比較に戻り、政策決定の誤謬があったのか否か、また、その決定をめぐり影響力を行使したプレーヤーは誰々なのか、決定そのものではなく、その決定に基づく、下位的・副次的な関連する行政措置はどうであったのかなど具体的に検討をした上での判断ではなく、極めて短絡的、直感的な判断が、レポートされているなという印象を受ける場合がかなりあります。無論、そうであっても一定の問題提起の役割としては重要で、無視してはいけないのではありますが。 確かなことは、この手の追求は、多くの自分は何の特権的立場ももたないと感じている視聴者にとっては、日頃貯まったうっぷんを晴らすには格好の対象となることです。テレビの司会者の尻馬に乗って「そうだ。そうだ。役人は悪い」と言っているだけでかなりのストレス発散になるようです。いや私もおおいに活用してしまっています。 ここで面白いのは、立場を入れ換えて考えてみて誰もに当てはまる主張をする、クレームをつけるというのではなく、自分だけの特権として一定の権利主張をするという構図が往々にして見えてくる場合があります。クレーマーとかモンスターなんとかといわれるものの特徴はまさにそれです。 いずれにせよ。どう考えても素人である一般市民あるいは消費者が、何でも決めるとか、自分で実行するということは困難なので、多くの事柄は専門家に委託し、代行してもらう必要があると思います。ただ、最近の傾向として、その専門家が信用できないような私利私欲に走るようなことが多く見られたのですから、そこに監視機構が必要かも知れません。無論その監視機構も代行してもらうことになりますが。また、専門家でなくとも学習をある程度くり返し、議論を積み重ねれば、素人である一般市民にも大筋は理解でき、大枠は決定できるわけですから、そういった実質を伴う(学習や討論の過程を伴う)政治参加・行政参加はもつと重視してしかるべきでしょう。ただ、そのことと、学習課程を伴わないいい加減な付和雷同型の行政批判とは一線を画して理解しておく方がよいのではありますまいか。 そして、機会の均等を実現することは、スタートラインを揃える、出自となる家庭環境の格差がその後の人生の有利不利を生み出さないようにしておくという意味で、結果の平等に重きを置いた従来型の福祉政策ではなく、機会の平等に重きを置く福祉政策になるというわけです。 欧米では、こうした教育改革を急がねばならない程、社会的な格差が大きく、不利な社会階層の出身者は教育面でもハンデを負い、益々格差が拡大するという状況にありました。当然、低社会階層では無気力になり、薬物依存などに陥り、これが犯罪につながっていくし、社会全体としての福祉費用という多大な負担になり、経済発展を妨げる要因にもなっていました。どうしようもないほど酷い状態にあったので、劇薬となるとしても教育改革は必要という認識があったのです。 苅谷は、日本はそんなに酷くはなかった、と説明します。 しかし、日本のマスコミの欧米信仰、崇拝は相当なものがあります。習い性となったいつもの癖が教育問題でも出てしまったということではないでしょうか。 B「ポジティブリスト」の発想というのは、もともとは法律学用語だと著者はしていますが、法律学では、基本は「これこれはしてはいけない」という禁止事項を明確に定義し、それ以外は「自由」だとする考え方を採ります。刑法だと禁止に対する処罰が想定され、それは政治権力の行使の最たるものなのです。したがって、権力に枷をはめることは重要です。無論、現実には法の条文解釈によりその枠は拡大されてしまうのが通例で、冷静にその解釈を眺めれば実に滑稽なこじつけをしている場合もあるのですが。 この原則に対して逆の姿勢をとるのが「ポジティブリスト」の発想です。なんでもかんでも対象となることがらをリストにして挙げていくものです。いいと思うものは何でもリストに加えていく。「基礎・基本」は重要、発展的な学習も重要、「自ら学び、自ら考える力」も重要、「徳育」も強化しましょう、「豊かな心」も「国や郷土を愛する態度」も必要、英語も今の時代だから…と増やしていく。 問題は、それらすべてを消化していくだけのキャパシティが教師にも学校にも、子どもにもあるかということです。第一、財政的裏付けはまったくない。 そもそも医学で、この薬はいいからとどんどん薬を与えていったら患者はそれでよくなりますか。まずは正確な診断があって、それに基づいて必要最小限度に投薬するのが正しい治療ですよね。薬の副作用も考えるはずです。 教育ではそんなことすら思いつかないらしい。 小中学校教師の84.9%が「改革が早すぎて現場がついて行けない」と答えているそうです。東大教育学研究科のCOEプロジェクトによる2006年調査の結果です(全国公立小中学校の3分の1を抽出、校長による回答)。 国家予算の伸び率と初等中等教育予算の伸び率を比較するグラフをみると、物価上昇率を差し引いて、1955年から1960年までは一致、その後少し教育予算の伸び率は低くなり、1975年にやや追いついたものの、1980年には2%も低くなり、その後はどんどん開いていくことになります。2003年まで調べていますが、この年には8%近い差が出ています。 生徒一人当たりの伸び率で比較してみても、1980年以降差が出ていて、1990年以降は少々修正されたと分かります。 これに高等学校を加えて考えれば、日本の教育は家計負担が極めて高い、OECDの中でもGDP比で教育予算の最も低い国のひとつであったことが確認できます。それなのに教育の市場化、予算削減が「教育改革」として提案され、実施されたのですから、その改革は事実に基づき判断されたものであったのか疑問が出てきます。 現在進行中の改革は、格差を助長するのではないかというのが著者の予測のようです。地域間格差と家庭間格差です。 学校選択制がその選択を保護者の自己責任のせいにしていくもので、私学の選択が進む可能性があります(現に『中高一貫校』などという本が多数本屋に並んでいる)。 PIS(OECDによる15歳の国際学力比較調査)の数学学力の学力別の2000年から2003年までの得点変化を検討してみると、フィンランドではボトム5%,10%,25%でも3〜6%の伸びがみられ、中位の50%の生徒で9%,75%90%,95%では、17%前後の伸びが見られる。これに対して日本では、ボトム5%,10%,25%では−40%前後になる。中位50%で−23%,75%で−11%,90%で−1%,95%で+1%の伸び率になる。要するに格差が広がり、下位集団ほど学力が落ちているという現象が見られることになる。 東大教育学研究科の実施した1989年と2001年の調査(関西の小中学校で実施)に基づく、小学5年生の算数の平均点を子どもたちの基本的生活習慣別に比較した結果は、生活習慣・下位群では78,11→65.06と下がっており、中位では80.28→72.07、上位では82.13→74.88となっています。要するに下位群ほど下がり方が激しいわけです。 「朝、自分で起きる」「朝食を食べる」「朝、歯を磨く」「あいさつをする」「前の日に学校の用意をする」「きまった時間に寝る」といったことを基本的生活習慣と表現しています。 さらに、「家での学習時間ゼロ」の子どもの割合は、生活習慣・下位群では423.5%だったものが58.5%にまで増えている。中位では26.6%→37.2%、上位では18.9%→23.5%と比較的増加率も少ない。こんな事実も紹介されています。 ベビーブーマーが去った後、教員の数を減らすとか給料を下げるというよう措置はとらないで、学級定員を減らしていくという措置をとりました。上限を50にしていた場合、100人いたら50人のクラスを2つにするというようにしていき、生徒数が減るたびにその50を48に、それを45にと減らしていったのです。1952年に教職員の給与の半分を国庫負担とする法律ができているので、大蔵省としては、すでに雇った人の分のお金を維持しておけば、それ以上財政支出を増やさずに教育環境はよくなる。自治省も半分は地方自治体が負担しているので同じことがいえる。ということで、子どもの数と学校の数、教員の数という三本立てで予算を考える仕組みができあがったのでした。 それに対して、バウチャー制というのは、子ども一人あたり(パーヘッド)だけで考える仕組みになります。完全な変化です。 これを実施すれば、子ども数の少ない分校などの統廃合をするしかなくなります。果たしてそれでいいのか。コスト面だけで考えて人口規模の小さい地域ではサービスを切り捨てていくというのでいいのかという問題があります。 また、バウチャー制を導入するには、完全なシステム思想の転換を覚悟しなければなりません。個人化を推し進めるわけです。それに見合った校長の権限の大幅増大や全国一律の学習内容をとらないなどの個性化・個別化と学校毎の個性化が保障されなくては学校選択の意味がありません。教員の固定化・供与格差に耐えられますか。教員の評定・人事権を校長が一元的にもてなくてはこの制度は成立しません。そうした変革の議論もなく、したがって合意もなく、思いつきでバウチャー制導入を云々するのは危ういことは間違いないでしょう。 また、これまで面でやっていた教育行政・財政を点でやり、しかも子ども一人当たりの発想で運営するわけです。地域一律、全国一律の教育内容に差違をもたせていくわけです。それでは学校教育の果たしていた「公共精神」の育成が欠落しては大変だと言うことで、徳育の強調や愛国心・郷土愛教育が強調されるのですが、果たしてそんなことでカバーできるものか。─このあたりは機会を改めて議論してみたいテーマですね。 私の感覚では、この手の混乱はかなり長期に渡って尾を引くような気がします。おそらく、私学に意識の高い家庭の子どもは流れる傾向は助長されるでしょう。あまり健全なあり方とは思えません。つまり、経済格差がそのまま教育格差を媒介にして拡大され、身分固定を推し進めることにつながるのです。実に馬鹿げた選択をしたものだと思います。小泉改革を旧に復すためにまた多大な財政支出が費やされ、混乱だけは残り、地方は生活基盤を破壊されてしまったのです。 あるテレビ番組の中で、東北新幹線ができて、在来線の赤字路線が第三セクター化し、その結果、女子高生の通学定期代が倍以上になってしまったとレポートしていました。そのように何駅もの区間を通学しなければならない子どもが増えるような改革が行われれば、そういった地域に暮らす人たちの家庭生活は破壊されてしまいます。家計の教育費負担も大きくなります。さらには子どもが下宿生活を強いられる地域も出てくるでしょう。 またじっくりこの問題を考えてみましょう。医療問題も同じ構造を保っていることでもあります。こちらで考えてもいい。(8.8) |
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