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シリーズ第7弾が『逃れの町』である。ついにイスラエルまで二人はやってきた。
デッカーはロス警察の刑事である。弁護士資格ももつ頭脳明晰かつ子供好きで、神経の細やかな気づかいのできる聡明な巨体の持ち主である。敏腕刑事と言ってよいだろう。単なるマッチではなく、やさしさが多くの場合前面に出るタイプに造形されている。そして、人種偏見や性別偏見のない人間である。
このシリーズの面白さは、アメリカ社会があまりにも多様で異質な文化的背景、民族的背景をもつ諸集団によって構成されていることを極めて具体的に説明しつつストーリーが展開されていくことにある。無論、殺人事件の解決というメイン・ストーリーがあり、それと主人公のデッカー刑事とその妻・リナや子供たちとの夫婦愛、家族愛の物語が不可分に絡み合って展開していく見事さにも惹かれるのだが、ユダヤ社会の特殊文化の解説抜きでは魅力は半減することは間違いのないことだろう。
ロサンゼルスにはビバリーヒルズやマリブ・ビーチのようなきらびやかな地域もあれば、そうでない地域もあるらしい。「ウエストLAのような魅力もなく、イーストサイドのような民族性もなく、ベニス・ビーチのような明るさもなく、ヴァレーのような郊外住宅地特有の落ち着きもない」、下層階級の白人や暴走族の不良集団や流れ者のカウボーイたちの住む小さなコミュニティもあれば、黒人やヒスパニック系の移民の住む貧民窟もあるそんな地域の一つにフットヒル署があり、その少年課刑事が主人公である。
管轄内にユダヤ人コミュニティがあり、その住人達は、厳しい戒律を守り生活している。したがって、隣接する地域の堕落した生活とは一線を画し、道徳的で保守的な独特の生活を続けているし、強固なユダヤ人同士の結び付きを守っている。
そんなコミュニティでレイプ事件が起こる。起こるはずのない事件であった。しかも、彼らの聖なる儀式に必要なミクヴェという清らかな水をたたえた施設の近くで起きた事件であった。おりしも、連続レイプ事件を追いかけていたピーター・デッカーと相棒の黒人女性のマージ・ダン刑事が連絡を受ける。
この事件で頭脳明晰な神学生と17歳で結婚し二児をもうけ、イスラエルに渡って伴侶を失い、夫の元いた神学校に戻り数学教師のかたわらミクヴェの管理人をしていた美人がリナであった。これがシリーズ第一巻の『水の戒律』で開始された物語発端である。
互いに惹かれ合う二人であったが、ピーターはパプティスト派の家庭で育ち、宗教の壁があり、結ばれることはできない。ピーターは、ユダヤ人女性との結婚で女児を得るが、離婚している。38歳の彼は、リサとは12歳も離れているということもある。
しかし、彼らを心配したラビは、ピーターから、実の父親は敬虔なユダヤ教徒であり、神学生のときに十代の女性を妊娠させ、それがピーターであったこと、父はその罪を恥じ、会って話はしてくれたものの死ぬまで再び会うことはなく、死の直前に遺品を贈ってきたことなどを聞き出す。ユダヤ教の聖典など高価なものであった。母は現在の家庭を護るため、一切の接触に臆病であった。
かなり時間はかかるものの、ピーターはリサに自分の出自を語るとともに、ユダヤ教の学習をし、やがて結婚する。そして一女を得る。
また、母親の一家とも新婚旅行でニューヨークを訪れ、偶然、出会うが、彼女の孫が事件に巻き込まれていて、その救出に決死の活躍を夫婦はすることになる。
どの作品でもユダヤ人社会の独特の宗教的生活習慣とそれが精神的安定に及ぼす意味の解説がなされ、非ユダヤの視点でそれを客観視しつつも、その意義を確認していくピーターの思索が付け加えられる。彼の同僚達の偏見もときに描かれて、現代アメリカ社会の複雑さが垣間見られる。
『逃れの町』は舞台を一部イスラエル、パレスチナに移し、しかも南アフリカのダイヤモンド・シンジケートのしくみにまで言及するスケールの大きな物語になっている。デッカーとダンの刑事コンビは西のデヴォンシャー分署の殺人課に移り、人種偏見・女性差別の警部補に悩まされながら始めたダイヤモンド商一家行方不明の事件と同時進行で起こるリタの昔のクラスメイトの夫のダイヤモンド商の殺人事件との解決を果たすため、夫婦はイスラエルに飛ぶ。
イスラエルという国そして社会の説明も随所に出てきて、さらにはアラ・ファトらパレスチナの裏事情まで書き込まれていて、興味の尽きない作品に仕上がっている。
貧しくとも精神的な高貴さを追い求める生き方、論理性を徹底する姿勢に思わず自分の襟を正す場面が幾度も出てくる。しかも、夫婦の濃厚な愛情を確かめる場面があり、子供への愛情がさわやかに描かれる場面もある。単なる推理小説としての読み方でなくなってしまうところがこのシリーズの魅力だといえよう。(9.15)