|HOME |苅谷剛・山口二郎『格差社会と教育改革』|岩田靖夫『いま哲学とはなにか』|佐藤直樹『暴走する「世間」』|フェイ・ケラーマンの推理小説|辻井喬・上野千鶴子『ポスト消費者界のゆくえ』|内藤陽介『大統領になりそこなった男たち』|岩村暢子『普通の家族がいちばん怖い』|

岩村暢子『普通の家族がいちばん怖い』(新潮社)

 「徹底調査! 破滅する日本の食卓」という副題が付けられている。アサツー ディ・ケイ 200Xファミリーデザイン室という調査会社の仕事ということのようだ。岩村さんはリサーチャーとして一級の腕をもった方のようだ。

 本書冒頭で、まず、既に高校生になった子ども(16)にや中2の子どもにサンタさんからといって、デジタルオーディオプレーヤーや新作DVDシリーズなどを与える41歳の主婦や中2の女の子に「サンタさんが私たち親だと娘に気づかれてはいけないから、私たち親のプレゼントも別にあげつづけています」という43歳の主婦のことばが出てきて度肝を抜かれる。

 なぜ? という気分になるのだ。だって中学生や高校生でしょ。自分でバイトして稼げるような年齢ですよ。あまりにも子ども扱いしてませんかという気がしたのだ。

 「幻想」からの脱却が近代だと学んで疑うことのなかった世代の私には信じられない思いであった。そりゃあ、サンタクロースを信じている幼稚園児や小学3年生なんていうのは可愛いけれど、高校生でねえ…。

 「夢」のない子は怖いなんて話じゃないでしょ。

 おせち料理を自分で作らない主婦というのは想定できた。しかし、夫の実家や自分の実家に正月でかけ、「ご馳走になるのも気をつかう」とばかりの発言には驚かされる。「お客様」で「もてなされる」存在であることを当然としているようなのだ。まして、44歳や46歳の主婦が夫とともにその親からお年玉を1万円ずつ貰っているというのだからあきれてしまった。「親離れ」という単語が頭に浮かんできた。しかも彼らの年収は1000万円を超えているから、生活の援助というわけではないようだ。

 正月におせちも作らず、家族がバラバラに好きなものを好きなときに食べているという調査結果には驚かなかったし、実のところ、私自身はその方が気楽でよいと思っていたのだが、我が家では妻が玄関飾りや鏡餅にこだわり続け、お節料理も基本セットは購入するにしても何品かは年末にかなり無理をして作り続けている。子どもを無理矢理たたき起こすのが一苦労であるが、正月にお屠蘇と雑煮で祝うことは守り続けている。消極的につきあってきた身としてはあまり偉そうなことは言わぬがよいだろう。

 現実には、お屠蘇も子どもの頃馴染んだ味ではなく、不味い。雑煮は妻の味で、これも子どもの頃馴染んだ祖母の味ではないが、母も料理は下手だったので文句はない。妻の作る雑煮は、年によって京風になったり、いろいろ変化するが、料理本のつくり方に従いかなり忠実に再現されているものか美味い。

 そんなことを思い出しながら読み進めるが、調査対象の主婦たちの大半が、日本の正月の風習について無知であることが判明する。そして、クリスマースなどイベントを盛り上げようとする努力に唖然とする。要するに家族とは、いまやイベントで一体感を演出しなければバラバラの存在なのだということらしい。

 そして、昔ならば子どもの我が儘として許さなかったような事を、子どもからのリクエストとして母親は要求通りにしようとするらしい。躾るなど思いの外である。基本は家族の各人がバラバラに行動するので、みんなが盛り上がれるよう繋ぎとめるのに必死なのだ。塾だのサッカーだの習い事だのと子どもを忙しくしているのも彼女自身なのだが、子どものご機嫌を取ってイベントに参加してもらっているという様子なのだ。

  現代の家族は、起きてくる時間もバラバラ、寝る時間もバラバラ。食事のときに、食べるモノも食べる時間もバラバラ。休日にしたいことも、する時間もバラバラ、行きたい所もバラバラだ(それは、子供たちがわがままを言うせいだけではない。親自身が強い 「私中心」で、自分の気分や好み、都合、ペースが尊重されるのは当たり前のことだと考えるようになっているからである(正月元旦の、家族バラバラの殺伐とした食卓光景は、そんな家族が「正月元旦でさえ」やっぱり普段同様、互いの自由を侵すことなくマイペースで過ごそうとする姿だったのである。「正月は家族揃って祝うもの」という原イメージはまだ人々の心の中に残っているものの、現実はそう思っている人々の足元から既に崩れようとしている。今では、元旦に「家族揃って祝い膳を」と家族に呼びかけるおじいちゃんの方が、理解し難い遺物のように言われている。
 だが、親がこのように「私中心」になっているということに、人はまだあまり気づいていないのかもしれない。特に主婦や母というものは、いつだって「家族第一」「子供第二で自分は我慢しても家族に合わせてくれるものだと思われている。しかし調査の結果を見ると、主婦が家族や子供のために行っていると見える一つひとつのことの中にも、実は主婦たちの濃厚な「私中心」があることに気づかされる。「子供と一緒」に何かすることをとても大事そうに語る同じ主婦が、自分の自由が叶わなくなると突然子供を邪魔者のように疎ましそうに語ったりもする、そんなことがあちこちに見られる。
 40歳代やそれ以下の若い主婦たちは、子供の頃自分の親(祖父母)にいろいろ教えられたり手伝わされたりしたことがほとんどないに語る。彼女たちは結婚して子供の親となった今も、自分が希望しないのに親(祖父母)から何かをさせられたり教えられたりすることは「強制」「押し付け」と言って時に強い抵抗も示す。そして、自分が「してあげる」よりも、「親(祖父母)からしてもらう」ことを当然のように考えている。正月などの伝承ごと(雑煮の作り方や正月飾りの仕方など)だけでなく、家庭のさまざまなことが驚くほどこの祖父母世代から主婦たち娘世代へ伝えられていないのはそのためでもある。彼女たちは「親がやってくれるから、私はしなくていい」といまだに親任せだ。
 そんな主婦たちは、自分の子供たちにも自らの考えや経験を「教えない」し「伝えない」。自分もそうされるのがイヤで自由にしてきたから、子供にも「押し付け」をしたり、「うるさく言う」ような親にはなりたくない、と言うのだ。子供に教えたり伝えなければならないことは、もっばら学校や幼稚園、祖父母や他人を当てにする。あるいは、テレビやインターネットなどのメディア情報にも期待するが、家庭の中からは排除しているのである。
 子供には、親があえて口で言ったりせず「何となく」伝わればいい。一通り「周りのやっていること」を「見せて」おけば、「そこから何を得るかは子供次第」と突き放すようにも言う。子供に意図を持って何かを伝えようとしたり、食事中に躾けをしようとする人も、家族の楽しい雰囲気を壊す邪魔者のように扱われたりするのだ。
 そして、親子一緒に台所に立って食事作りをしたり、子供に家事を手伝わせることもほとんどしていない。「子供がやりたがること」だけ「させてあげる」のがいまの「お手伝い」だ。そんなときも「イライラして見ていられない」「ケンカになりそう」「苦手」と言って、親はやり方も教えぬまま子供に「任せ」 て別の場所に離れている。子僕とは楽しく遊び感覚でできることしか一緒にやりたくないとも言う。親子の葛藤が生じるような面倒な関わりや協力関係は、生活の中からことごとく排除されているかのようである。家族は「楽しい」雰囲気で過ごせることが大事だからだ。
 互いの自由を尊重して深く関わらずに、家族はいつの間にかみんなマイペースでバラバラになっている。むしろバラバラであることこそが、一緒に暮らすために欠かせないことになっているのである。正月に「家族一緒」に過ごすことを非日常の特別なことのように語る主婦たちの言葉はそれをよく示している。また、受験生の子供をもつ親が「家族が一つになって」「協力して」過ごしたという意味が、家族バラバラになってクリスマスや正月を過ごすことであったりするのも、その表れと言えるだろう。

 そんな中で、「楽しさ」の共有が必要以上に重視されるのだろう。「サンタの夢」は「一体感」のよすがになるのだろう。楽しく盛り上がることでしか家族の一体感を実感できない現状というのは果たして正常なことなのかと疑問に思う。かつて親から子へと培ってきたものを教え伝え、次の世代を一人前にしてやることで繋がってきた親子の関係とはまったく異なる新しい繋がり方であり、絆の作り方を求めているようだ。著者は述べる。

 だがよく考えると、「家族一緒」とは、日常生活の「楽しくない」関わりを排除して、そのような「楽しい」ことに、都合のいいときだけ乗ったり下りたりして確認されるようなものだったのだろうか。
 こうして調査を通して細かく見てくると、今日メディアを騒がせている家族の問題のさまざまも、そんなに不思議なことではないような気持ちさえしてくる。たとえば、いつも親子で楽しそうに遊んでいながら実は親が子供の本当の悩みに気づかずにいたり、子供の喜ぶことをいろいろしてあげていると見えたお母さんがある日突然子供を邪魔者のように放置してしまったり、あるいはやりたがる事や好きな事ばかりさせてもらってきた子供が大人になっても仕事に就かず親に「してもらい」続けていたりする。そんなことも、この調査にあるような普通の家族の、普通の日常の延長上に、ふとしたことから起こりうるような気がするのだ。「フツウの家族の実態調査」は、それをよく示しているように思えてならない。
 本当はいま、普通の家族がいちばん怖いのかもしれない、と私は思う。

 この本は、この結語の後に更に一章が付けられている。そちらも深刻な現状紹介である。調査シートの記入の前半と最後の部分とで反対のことが書かれているものが多く見られたという。明らかに全面的に矛盾しているものだけで25%を超えた。小さな矛盾した答はその倍に及んだ。

 インタビュー時に改めて尋ねると、彼女はこう語る。「私は日本の家庭の伝統行事を大事にしていきたいという思いが強いので、お正月らしいことや日本にしかない伝統もきちんと引き継いで、子供に残していきたいと思っています」と。しかし、その発言をした同じインタビューの席上、お屠蘇について尋ねたときには「(実家ではやっていたけど)あんな甘ったるいもの飲んでられないから、私はやめた」と言ったり、「母や義母の御節作りを一切手伝っていない」と言う。その理由を聞くと「教わった所でとても真似できないと思うし、味なんかもちょっと引き継げないかなと思うんで、私はお客様として食べるだけですよ」と臆面もなく語る。彼女の「日本の家庭の伝統行事を大事にしていきたいという思い」や伝承への「危機感」は、自身のやっていることとどのような関係にあるのだろうか。わからないのである。語られた(記述された)ことがあちこちで矛盾するばかりか、実態とも大きく乗離している。

 つまり伝統を維持すべきか、どうあるべきかについてだけ、「何々は大事」「こうありたい」を語るのだ。「来年はちょっと頑張ってお節を作ろうと思います!」と書き添えられている。それが作文やレポートの定型とでもいうように。

ある人は「見栄っ張り」かもしれないし、ある人は「思っていることが現実には実行できていない人」かもしれない。また「思いつきで軽率にモノを言ってしまう人」や「理想は持っているのだが現実に行おうとすると破綻してしまう人」もいたかもしれない。

 それよりも半数近い主婦がこのようであったという事実、それ自体が重要だと著者は云う。「そこには子供たちがいる」のだ。「母親がこのような人だったなら」と考えてしまう。

「子供」の目線で見るならば、このような主婦(母親)はどのように映るだろうか。それはきっと「現実を見ない母」であり「事実とは異なることを語る母」であり、「言うことがすぐに変わる母」である。そして「現実に自分が行っていることとはかけ離れた考えや展望を語る母」でもあろう。
 そんな母親は、目の前にいる子供の現実をきちんと見つめているのだろうか。そして子供の現実とはかけ離れた夢や展望を措いたりはしていないだろうか、自分の日常は棚に上げて異なる理想を語ったりしていないだろうか、とも思うのである。「現実に目覚めた子供とはどう対時していいかわからない」とか「子供にはずっと夢に浸っているような気持ちを失わないでいてほしい」などと主婦が言っていたことを思い出す。中高生になる子供に「現実」より「夢」を見続けさせたがる母親たちは、自分自身もその現実を正しく見つめない人であったのかもしれない。
 もしそうであるならば、そこにいる子供にとっては非常に残酷で恐ろしいことではないかと思う。真っ当に受け止める子供ほど辛く感じるに違いない。そしてなによりも、そこにいる子供たちは、現実をどのように認識していったらよいかわからなくなり、自らの立ち位置や判断基準も見失ってしまいそうな気がする。
 そんな子供たちが、やり場のない怒りや言葉にならないイライラを募らせ、ある日堪え切れなくなって、家の中で暴力をふるったり自分を見失うようなことがあったとしても、私たちはそれを「不可解なこと」とは言えないと思う。この 「普通の家族」の、「普通の主婦」たちの調査データを詳細に読めば読むほど、私はそんな胸騒ぎがしてくるのである。

 この調査は恐ろしい結果をあからさまにした。そう思う。(10.31)