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| この本はいつかは触れざるを得ない。推理小説やSF小説ばかり読み、かつ理科少年で科学雑誌大好き、実験大好き、機会物の分解・組み立て大好き少年が、衝撃を受けたのが中2でこの本を読んだときなのだ。 生き方がガラっと変わるほどの衝撃だった。読んだのは、河出書房新社版世界文学全集の一冊の当時新刊配本分だったのだと思う。同世代のいろんな人が世界文学全集で読んだ本に影響を受けたと書いているところをみると、ああいう全集ブームの影響は大きいといえよう。 世の中が急激に所得増を意識しはじめ、こういうものに金を使い始めた時期だったようだ。百科事典ブーム、美術全集ブームと続く。バブル景気の時には、圧倒的多数が書籍に支出することはなく、ジュリアナだの高級自動車や高級装飾品、高級シャンパンやワイン、そして、援助交際などに支出するようになったのだから、その差違について、経済学者とか社会学者とかのまっとうなコメントが欲しかったものだ。 ともあれ、当時中学二年生の僕はジャン・ジャック・ルソーのこの本の翻訳を読んだ。 なんとも悲しいことに、一年の時の英語教師はクラス担任でかわいがってくれた女性だったのだが、二年の担当は頭でっかち四頭身の新米に毛の生えた程度の妙に張り切る教師で、彼がやたらと入試、入試を連発する。完全に相性が悪くて好きだった英語の学習をサボるようになる。定期考査はまだ満点をとっているものの、毎日の単語テストを無視するものだから次第に力が落ちてくる。 語学というものにアレルギー反応が出始めていたにもかかわらず、語学大好き少年だった父が夏休みに芦屋市民会館で開かれるエスペラント語講習に通うよう命じた。自分自身がボランティアでエスペラント語講師を勤めていた時期がある人間なものだから、また、何人かの留学生の世話をした経験の楽しさからも、息子もやがてその楽しさを味わうに違いないと信じての命令だった。 ところが、私の方は、単語を覚えることに拒絶反応が出始めていた。しかし、父に逆らえる心理状態でもなかった。母に何とかとりなしてもらえないかと頼んだのだが、母は無視した。そういうややこしい諍いに関わり合いたくなかったらしい。実は、父母の仲はその前に相当険悪な状態になっていて、子どもの前では取り繕っていたのかもしれない。確かめてみる気にもなれなかったが。 仕方なく出かけたのだが、とんでもないことに、講師のウルグアイ大使館員だか、パラグアイ領事館員だかは、受講生最年少の私を何かというと指名してくる。わけのわからん挌がどうした人称がどうしたと文法を説明して、「さて、この場合は語尾はどうなるか」と聞いてくるのだが、「それがどうした」と思っている私の方はまるでやる気がない。 父に「これはダメです。意味のない文法をなぜ学ばなければならないのか理解できません」と正直に告げたのだが、父は、文法をマスターしておけば将来、ドイツ語やスペイン語、イタリア語を学ぶに際して楽になると言い、頑として続行方針を曲げない。いろんな国の人間と交流できるのは楽しいではないかと説得に努めようとする。 そのとき私は確信した。「私は一生、外国人なんかと交流などしない生活を送るだろうし、したくない」 実は、大学生のときに大学院に進みたいと相談して、留学を条件にされたときと、結婚後、妻が本気で海外での生活を望んでいたことを知ったときに、再び、苦しめられることになる。また、ある女子大から転職を奨められたときに、さりげなく「海外語学研修の世話はしなければならなくなる」と告げられたとき、どどーっと冷や汗が滲み出てきた。ほとんど恐怖症なのだった。 その起源は、謎の南米人外交官の下手なエスペラント語講習と中二のときの四頭身英語担当教師との遭遇にある。そして、その根ッ子には、父親の自由主義者を装っているくせに威圧的な押しつけにある。 情けないことに、夕方6時半頃家を出かける。当然、教室に入る気はないので、芦屋川の河川敷を山側へ歩き、行き止まりまでたどり着くと今度は折り返して海まで歩く。当時は途中途切れている箇所があったので、一旦道路まで上がって、また階段を降りて河川敷に降りる。こういう情けのないことをくり返して、そろそろレッスンの終了時刻かという頃を見計らって帰宅する。運悪く父に見つかれば「今夜は少し早く終わった」などと言って誤魔化した。これを10日間の講習中、最初の4日を除いて毎日やっていたのだから、相当なストレスであった。 そのお陰で、その講習の終わった時期にはすっかり語学一般が完全に嫌いになっていた。 そんな時期にルソーである。 以下は、中二の頃読んだままの記憶に頼ったものであるからして、ちゃんと読んだ方には嘘言ってやがるという内容になっている可能性大である。ご勘弁を。 ジャン・ジャック少年の母は少年がまだ幼少期に亡くなる。美しく優しい女性であった。父は妻の死後精神不安定に陥り、夕刻には末っ子のジャン・ジャックに妻が残したロマンス小説の朗読をさせるのであった。少年に妻の面影を認めるのか、はたまた、小説に妻の記憶を揺さぶられるのか、少年の父親は滂沱の涙を日々流すのであった。その情緒不安定ぶりと二人の生活に心配した少年の母の妹は、自分の家に少年を引き取ることを申し入れる。 叔母にも少年と同じ年頃の男の子がいた。その後、二人は教育を牧師の妹から受けるため通ったり、ジュネーブ市内の親方の所に同時に預けられたりする。 ある夕刻、休暇を楽しんでの親方宅への帰還が遅れてしまう。ジュネーブ市は夕方の鐘が鳴り終わると外側の橋が上げられ、門は閉じられてしまう。翌朝まで市内立ち入りが不可能となるのだった。それ以前の遅刻において時計職人の親方に暴力を振るわれていたルソーは、市の外にある親戚の家に泊まらせてもらい、早朝戻ろうといういとこの誘いを振り切って、花の都パリに一人でかけていくことにする。 要するに家出少年となり放浪をはじめたわけだ。 やがてフランス領内のとある貴族の館近くで少年は一夜の宿を求めて物色した挙げ句、温室にしのびこむ。朝になって、目覚める少年の顔の上にのぞき込む瞳が意識される。 少年は不覚にも寝過ごしたのである。歩き続けてきた疲れか、あるいは温室の居心地のよさに緊張がつい綻びを見せたせいか。 のぞきこむ眼差しの持ち主はなんとその家の女主であった。実は、領主の妻であった。夫はパリの館の地下室において化学の実験にいそしむ毎日。退屈して領地に帰った妻は好き勝手な日々を送っていた。 かくて拾われたジャン少年は、貴族女性のペットとして彼女を母と呼び甘えるのであった。その女性には若い燕があり、やがて嫉妬の心から様々な我が儘を少年は訴えるようになる。そして、ついにはその奇妙な関係に疲れ始めた少年は、またしても家出をしてパリへと向かうのであった。そこで学んだフランス語の読み書きの能力と音楽の才能を元手にしてパリで一旗揚げるつもりであった。 ルソーは、自分が音符法を開発したと信じていた。それで特許を取り生計を立てられると考えていたのだった。 パリについたルソーは百科全書の発刊を計画していたディドロと知己を得る。国王に対する批判の廉で投獄されていたディドロを毎日面会に通い、音楽の巻の執筆を任されることになったのである。 当時いくつものサロンが様々な領域の才能ある人間のパトロンとなっていたのだが、あるサロンが「学問や芸術は人の習俗をよくするのに役立ったか」というテーマの懸賞論文を募ったのに応じて当選し、そこから論壇の寵児として活躍することになる。 彼は既にオペラ作曲などである程度受け入れられていたのだが、音楽をはじめとした芸術は、目立ったり、他人から評価してもらうことを競うようになっているが、実はそれはおかしいと、ルソーは説く。人の魂をよくすること、他人に依存せず心正しく生きるためにはむしろそのことは邪魔になっているではないか。自分自身を見つめれば、その魂はしっかりと善悪の判断を指し示してくれる。自分自身に立ち返ることが必要なのだとした。 『告白』は晩年の生活までも赤裸々に描き出したと本人が主張した作品なのだが、中二の私は、前半生だけで十分に堪能した。おそらく、ルソーが他人の思惑に支配されるのではなく、自分自身の魂に聴けとした何カ所もの美しい記述に魅せられたのだと思う。 寝床の中で、孤児になった自分を夢想していたかもしれない。それほど父親の抑圧に悩んでいた時期でもあった。遅くして得た子に大きな期待を抱き、様々な実験的教育を施した父でもあった。その期待に応えられないことは自己の語学学習嫌いで明らかになってきた。そんな自分を認めることが嫌だったのかも知れない。 そんな私にとり、ルソーは、外のどのような権威にもおもねることはない。自己自身の生きたい方向に自分の歩を進めていけばよいと明確に言い切ってくれていた。 突然、それまでそれほど自分が縛られているとは気づかなかった生活が、父親の意志によって支配され、意味づけられ、方向づけられていたことに気づき、そのことがたまらなくなったともいえる。父はやがて、そんな私の変化に気づき、接し方を変えてくることになるのだが、基本的な関係はずっと継続していたように思う。 いずれにせよ、学校内では優等生であり、グループを率いて教師にも対抗するような面もあり、学級会においては議長役を務めほぼ日常的にリーダー役を果たしていた中学生であった。いわゆる番長的存在も当時は歴然としていたが、彼らも一目置く存在になっていたので、学校生活は極めて快適であった。それもあり、放課後も友人と遊び、帰宅時間をどんどん遅らしていった。数学研究部に所属していただけであったので、週の大半は級友に誘われ、曜日毎に全く違う方向に帰宅していた。寄り道し、彼らの家で遊ばせてもらっていた。中には邸宅内にテニスコートや卓球台のある級友もいて、コートは荒れるので使用できなかったが、卓球はできたし、別の級友の屋敷内ではどんぐりを拾ったりかくれんぼをして過ごせた。塾など無縁の時代であったからでもある。いわゆる被差別部落地域で廃品回収業を営む友人のところでは、筋力トレーニングの道具が揃っていて、それで遊ぶこともあったし、彼は、川で魚を捕る名人でもあり、生物の解剖用の蛙獲りをその友人中心にやったこともあった。 父の命令に従い勉強することを回避し、自分なりの生き方を探し求めていた時期であった。幸いなことに、多くの友人が私を誘ってくれ、話をしたがった。自分が家族以外の他人から必要とされていることを意識したはじめてのことであったのかもしれない。[父を抑圧的な存在であったとして記憶しているのは、私だけであって、弟に対しては全く甘い存在であった。ここにこんな風に書くことで父の人格を否定するようなことにならなければよいが、私と父との関係にはある時期、極めて窮屈な関係が形成されてしまったというように少なくとも私は記憶しているということだ。それは私がそのような関係にはいることを促した面もあるのかもしれない。だが、とにかく私にとってはそこからの離脱が大きな課題になったことは確かだ。父をよく知る人たちにとってはおそらく意外なことだと推測される。同世代の男にとってはもしかするとかなり当たり前に父親に対して感じていたことかもしれないし、私の場合は異常に強く意識しているかもしれない。よくわからないというのが本当のところだ。] 私にとり『告白』は、ただ一冊の本という存在を越えているように思える。その本に出会わなければ、自分の内部から沸き上がってくる衝動を名づけることもできず、自分の内部に耳をそばだてて進むべき方向を決めることもできなかっただろう。 しかし、その時期に得た貴重な友人達との関係を断ち切って私は学校で1、2人程しか進学を認められていなかった高校に父の命令で進むことになる。無論、そこは素晴らしい学校であり、その選択を誤ったものとは今も考えていないが、親の考えを自分のものとして容易に受け入れた心理のカラクリを後に拘ることになる。 だが、それはまた別の話である。 とにもかくにも13歳のあの時点で、「自分」というものを強く認識させ、その認識そのものにことばを与え、かたちを整えてくれたのがルソーという人物であった不思議に今なお感動してしまうのだ。 |
『エミール』は教育論として日本では人気の高い書物である。 『エミール』にも、いとこと預けられていた牧師館での時計盗難事件において少年が疑われ、ぬれぎぬに心を痛める場面が実に丹念に描かれている。 ルソー作曲と言えば、「むすんでひらいて」。この作曲者と文部省唱歌には記されている。しかしながら本当にそうかというと怪しいらしい。ただし、ルソーは『優雅な詩の女神たち』というオペラバレエ作品を残しておりちゃんとした音楽家として認知されていたらしい。 ところで、ルソーという人物は毀誉褒貶激しい人物である。あの素晴らしい教育論を書きながら実子を三人も赤ちゃんボックスに放り込ませたことについては厳しい非難の声が当時からあった。 晩年の被害妄想も甚だしく、彼を匿ったイギリス宰相ヒュームに対しても難癖を付けている。人間性を疑う言動をくり返す人でもあった。 ところでルソーといえばバンドリングだったか、赤ん坊を布でぐるぐる巻きにする習慣を批判したことでも有名であったと思う。あのバンドリングが意外に合理的であったという論文を目にしたことがある。文化人類学者や医学者の手になるものであった。実のところ、われわれの知恵はルソーの時代からそれほど発展したわけでもないのかもしれない。 ルソーの生涯および思想については、福田勧一が河出書房の大思想家シリーズに書いたものを奨めたい。これが基礎的なものとなるだろう。私の個人史的には、小林善彦『ルソーとその時代―文学的思想史の試み』(大修館書店)やJ・スタロビンスキー『透明と障害― ルソーの世界』(みすず書房)の読書体験がルソーを深く理解する上で大きく役立ったと思う。また、大学生の頃、『言語起源論』(1750年代に書かれ、ルソーの死後に刊行された)が、レヴィ=ストロースなどの構造主義哲学者やデリダなどによって注目された時期にも当たっていた。センター試験の設問中に、『言語起源論』絡みのものが出てきて驚いた。今どきの高校教師にそんな知識はあるのだろうか。多分、授業で触れることはあるまい。 |