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副題に「ゆらぐ『官尊民卑』」とある。
つまり、日本人の国民性として「官尊民卑」の精神があると前提し、それが変化しつつあるという主張をしているのだ。
著者は、都市社会学者。『日本都市の社会学的特質』(時潮社,1972)、『都市と権力』(創文社,1991)、『都市の論理』(中公新書,1993)が私の本棚にもある。その中で指摘していた「都市は食糧難に際しても餓死者は出ない。農村部で餓死者は出る。」に鋭いものがあるとファンになった。
本書は2006年の出版。いろんな都市で見かける建物や看板など掲示物の写真を用いて、日本人が官僚の指示や命令に対して思考停止して無条件に従ってしまう特性を描き出している。また、いろんな官庁が出す看板などに表れた表現に、「上から目線」とでも言うのだろうか、民衆を見下したものが含まれていることを指摘している。それに対して、疑問を抱かず、クレイムもつけられない社会というものは、「官尊民卑」の社会だと表現できるであろう。
私は二十歳の頃から「反骨のひと」だとよく紹介されて赤面することがあった。反骨ということを意識的に演じていたことはない。単に父にそのように習慣づけられたに過ぎず、とても恥ずかしかった。できれば「従順な」ところを示してみたかった。なのに、知らず知らずのうちに「長い物には逆らう」言動をとり、随分と損をしてきたような気もする。漱石の「坊ちゃん」並の愚かさだ。
ところが本書を読んで、不思議なことに「そこまで言わなくてもよいだろう」という感想をもったから不思議だ。反骨ということでいえば多分著者の足元にとうてい及ばないものと観念した。いや。よかった。
私の師匠は行政学者で、弟子の私には「もっと頭を下げる」よう指導されたのだが、常に「官尊民卑」の徴候を行政機関のビヘービアの中に見出し、指摘されていた。偉い人であった。本書の中で取り上げられているようなものについても、弟子達との雑談の中で語られていたことがあった。イギリスやオランダで見た落書きについて話され、日本の大学構内でのそれとの比較は面白い材料になるので調べてみてはどうかと薦められたこともあった。
「公共」領域と「私的」領域に関するハーバーマスの議論を踏まえて、市民と行政の相互作用をいかに組み立てるかについての考察を行われていたが、それについては地域特性を考慮しなければならないだろうと指摘されていた。私は何十年経っても師匠の影響下から抜けられない。
勲章について本書で触れられている箇所がある。これに関しても師匠は、三人の院生の前で大学紛争時に学部長として大衆団交で疲れ果てた経験を語り、その辛さは二度と経験したくないけれども、自分の中にあった権威主義、エリート意識を自覚するきっかけになったこと、それは自分の行政学における視点にも関わる重要な発見であったことを告白された。そのとき、「勲章も受けないし、日本学士院会員にもならない。一切の権威づけに無縁で生きたい。宣言しておくので、もしも将来このことばに反する行いをすれば笑ってくれ」と明言されたことを思い出す。前例からすれば長く生きればそのような運びになるという前提で話されていたようであった。ことば通りに振る舞われたことも立派であった。
本書では、大学関係者が勲三等をもらって喜んでいることに三等で喜べるのは人格者だと皮肉っている。芸人が「お国に自分の芸を認めてもらった」と喜ぶのも矛盾で、もともとお国の価値観に沿わないから芸は価値があるのではないかと指摘している。客は国の認める前から認めて、入場料を支払ってきたので、そちらにこそ感謝すべきだろうというわけだ。関西落語界の重鎮は叙勲を受け、「人間国宝」だとして弟子たちはそれを笑いのネタにしている。そういう手もあるだろう。叙勲を祝うテレビ番組がつくられると、その中で、「副賞で何万円もらえますのんや?」と弟子が尋ねる。なにもないと聞くと「しょーもない」とやっている。実際には、テレビ出演料などが上がるようだ。多分、大学教師も、他大学に非常勤講師ででかけるときの単価や講演料が上がるという効用があるのだと推測される。
そういえば地方公務員をしていた友人によると、市や府県の講演謝礼金は、その所属が国立か公立か私立かでランクが決まるという。上の順に高い。官尊民卑の精神は見事に具現している。それを誰も不思議に思わないとすれば、日本社会の文化として官尊民卑は定着していることになる。
市会議員より県会議員が、それらより国会議員が偉いとする感覚も、「地方自治」などゼロである証拠だ。テレビというメディアは正直で「道州制の導入が」云々と報じた直後に宮崎県知事より衆議院議員の方がランクが上というような表現をとっていたりする。聞いている方は、「道州制なんて導入しても、地方自治は確立しないよなあ」と感じることになる。「中央政府」つまり「国」は外交と軍事的安全保障といった限定された役割のみ担当して、連邦制における各州のように独立した判断を道州に委ねようというのか、単に、都府県の管轄を広域にして統合していくに過ぎないのかの区別もついていないように思える。
本書の記述の中から少し考えてみてはどうかという内容を一つ紹介しておこう。
電車の中からよく見かける「一級河川○○川 国土交通省」という看板がある。あれは、誰に対して何を知らせようとしているのだろうか? 看板を立てるのだから民(一般国民)に対して何かを知らせようとするものであろう。では河川名か? 自動車を運転する者にとって、カーナビなど付いていなければ、位置確認の手かがりになる。それなりの効用は期待できそうだ。しかし、その際「一級」「二級」は必要か。まして、河川管理者が「国土交通省」という情報はどんなもんだろう。もしも何かあったときの連絡先だというならば、電話番号なり明記しておくべきということになる。
著者は触れていないが、勘ぐれば、あの看板は、多分、相当高額で設置されていて、その作成と設置には国土交通省の役人OBが天下っているということなのだろう。もしもそうなら、なくてもよいものならばなくせば税金の無駄使いを回避できることになる。
信号機、横断歩道前での日本人の指示に従う従順さを指摘し、中国を始め他国民との比較をしている。
日本の庶民が指示通りに動くこと自体はマナーがよいということでよいのだが、問題は、自分で判断することができなくなっていることだろう。著者は外国でチップをいくら出すか判断できないという例を挙げている。決まりがないことに不慣れなのだという。これは確かにそうだ。面倒だと感じる。自分が相手をどう思うかで決めればよいのだが、つい相手がどう思うかを斟酌してしまう。
「公用地につき立ち入り禁止」「市所有地入るな」と看板があっても違和感なくみてしまう。しかし、英語で「public parking」などと書いてあれば、一般来庁者用駐車場と認識する。「公共」とpublic の指し示すものの違いと、公共を官僚が独占的に使用することを当然と受けとめる日本の市民の感覚について著者は揺さぶりをかけようとする。
現在ようやく期待されている変革は、こうした感覚の見直しに関わるものだろう。と書きながら、「まだまだ遠いな」と漠然と感じてしまっている自分を意識する。もう40年ほど待ってきたんだ。今更あせるまい。(2009.8.12)