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もの凄いご無沙汰です。このホームページの存在を忘れておりました。
ところで、この本とても読みにくい本です。ほとんど日本語か? という表現・表記です。学術論文はこんなもんです。特に、大学紀要に書くとこんな風になります。私にも覚えはあります。とは言っても、彼女ほどの才能もなかったので比較にはなりませんが。
今回は、「移転空間としてのテレビにおいて上演される『現実的=政治的なもの』」の章のみ扱いたいと思います。
「民意」ということばは、現代のマスコミにおいて「特権的シニフィアン」として流通している─
と、著者は述べる。
意味の換起力において人々の欲望を強く刺激する「浮遊するシニフィアン」だと補足している。つまり、意味内容が空虚であるが故にどのような現象とも容易に結合し、意味内容の結節点となるため、人々の欲望や幻想を掻き立てるものだというのだ。
これはよく分かる。
日本では、「お上意識」の歴史の中で、政治に対する入り口での参加意識が弱く、もっぱら出口でしか政治は意識されていないとされる(「出力不満型」村山1998)。選挙の度にマスメディアが大きく取りあげる「民意」とは、このように、日本人が政治への参加意識は弱いながら、政治への審判や評価として下しているものとして表象されている。「民意」という言葉は、そのような受動性ゆえ掴みにくく、日本人のリアルな政治意識というよりも、意識に対して解離的な神話的な印象がある。
ここで、昔の友人(先輩)の引用が出てきたので挙げておく。村山皓『政治意識の調査と分析』。「出力」という表現は、D・イーストンの政治システム論に依拠するものです。ひとつのシステムとして他の社会システムから相対的に独立したシステムを考えるとします。自然環境や国際環境、技術環境、社会環境の中に浮かぶ「政治システム」を想像するのです。
そのシステムは環境との間で、入力、出力、フィードバック・ループを備えている適応体だと考えてみてください。日本の政治システムにおいて入力に根詰まりがあるというのではなく、日常的に自分たちの行動が「政治」に影響を与えているという意識が日本の多くの国民には希薄であるという特徴を説明しているのです。実際には、多くの人が、彼らの属す企業やその連合体や労働組合組織などの圧力団体に消極的支持を与えることで、金と票が特定の政党あるいは政治家後援会に流れ、少なからぬ影響力をもっていたようでもあるのですが、意識化・言語化はされてこなかった。
一般大衆あるいは選挙民の多くが暗黙の了解として示す意思表示を「民意」とは言っていないことがここで判明しますね。
政策や予算配分についての不満表明については相対的に明確だと説明しているのですが、「受動性」「掴みにくい」「解離性」「神話的」と形容しています。多分、「解離性」というのは昔の「多重人格症気味」という表現でしょう。一貫性があって、体系的・構造的ではない反応をその都度返しているということです。現実の政策を冷静に分析して、自分の社会的立場から判断して不利になる有利になるというリアルな判断を下しているのではなく、多分に気分に左右されやすく、周囲の空気に動かされやすい反応であるということでしょう。更に、「神話的」とは、象徴的反応なのではないでしょうか。
本章では、このように、「民意」という言葉が特権的シニフイアンとなっている現状において、日本社会の様相を、以下の点から考察する。
第一に、「民意」が出現する背景としての政治・社会の流動的情況である。またそれを進めている加速するグローバル資本主義と日本社会の関係である。そこでは政治もマクドナルド化し、流動化する社会に呼応してポストフォーディズム化する。そして「民意」はそこにおける「即席政治」として生産され参照される。
「流動的情況」とは、安定性を欠き、いつ政権交代があるかわからないという意味だったのだろうか。少し分からない。社会の流動性とは、現在の地位が安定していないというような意味だろうか。いつ首を斬られるかわからないとか、いつ今の仕事がなくなるか分からないという人は増えているらしいので、、そんな意味かもしれない。しかし、私自身は、まだまだ5年くらいはいまのままと漠然と考えているのだが…。グローバル資本主義つまの米英モデルの押しつけは激しかったし、一段落したかどうか分からない。建築基準法などの「規制緩和」とオリックス会長の関係はいまだに疑われているが、米英モデルで得すると考える勢力の暗躍はまだまだ続いていると理解してよいのだろうか。
政治がマクドナルド化するとは、チェーン店の店舗に行けば、いつでもどこでも均一のチープな価格で、そこそこおいしい商品を、均一の対応で提供されるということを意味しているのだろうか。それなら日本の政治家や政党の品質向上は著しいと言わねばなるまい。支店がどこにあるのかも不明なのが現状のままではないのか。商品カタログも怪しいのばかりだし。
あるいは、店側が客を操る技術について想定した表現なのだろうか? マクドナルドの店舗では、イスの固さや形状、室温調節が客の回転をよくするそうだ。
これについても未熟だと思う。多分、著者の頭にあったのは、新聞やテレビの情報の送り手のワンパターンな表現や内容のことだったのだろう。しかし、それは「政治のマクドナルド化」ではないのでは?
ポストフォディズムは分からない。私の知識不足。フォーディズムとは、フォードのベルトコンベアシステムによる大量生産大量消費を前提とする生産システムから社会システムを指す。ポストフォーディズムは、もしかすると象徴的消費行動を含む大衆消費者の特徴を意味しているのだろうか? このあたりフランス社会学不勉強の私にはちょっと辛い。
私は、小泉政治が何か象徴的な消費行動を連想するような何ものかであったとは解釈していない。この辺りはまた別に議論したいが、当面、字面を追いかけよう。
「即席政治」も意味するところ不明。イメージを喚起してくれない。ゴメンナサイ。質の悪い、勘の鈍い読み手です。
第二に、「民意」を巡る闘争が演じられる舞台としてのマスメディア、特にマクルーハンのいうクール・メディアとしてのテレビである。それは言説の舞台というよりは、転移の空間としポスト・エモーションを伝達する場(マッスミ)であり、「民意」の上演は、社会統合や合意形成の手段−アリバイとなり、また「政治的なもの」という出来事(「現実的なもの」)への欲望や幻想がそこに投射され消費される。第三に、「民意」が要請され出現するのは、第一の論点で見るような、社会の流動化の中での「現実的なもの」(ラカン)の現れの局面であるとすれば、それはラクラウらのいう「政治的なもの」が社会の再構成への欲望として動き出す様相を示している。「民意」というシニフィアンを巡って、「政治的なもの」がどのような可能性をもつのかを考える。第四に、受動的であり神話的な「民意」という言葉の日本の固有性を考える。
すみません。もうほとんどお手上げです。テレビの場で演じられるものは、何か幻想としての社会統合に関わるものを演出しているのではないかというのだが、時間を掛けて考えてみよう。そんな風には思えなかったのだが、果たしてどうだったか。
第三の論点は、現在多くの選挙民が、「自分の期待するような社会に変えられることを現在の政治に見ていない」という気分は蔓延しているという政治的シニシズムとの関連がありそうである。しかし、「ではどうするか」や「何を我慢してでも何に堪え、何に戦うべきか」の焦点が合わない状態に置かれている。つまりリアルな運動として、成熟した行動主体として自己を定位できないでいる。
しかもこの状態は、中学生や高校生の親に対する不満とよく似ているのではないかと私は考えてきた。
私には、ランシエールが何者かもジジェクがいかにエライ学者かも皆目見当もつかないけれど、リアルな物質や地位の配分や権力をめぐる冷静な判断を可能にするほどに達していない多くの選挙民が、テレビなどによって提供される政治家や国会や行政府で下されている決定の情報に、自分の親に対する不満のような心理学籍な感情の転移を行っている可能性は強い。
イギリス政治学的に、こうした仕分けと分離をする方を私は好むが、話題としては興味深いものだとは思う。
テレビは政治について何を語り、多くの一般人にどのような感情を喚起しているのでしょうね。
(元)政治学徒としては、神経症的テレビが「欲動の政治」を促しているというのは、その事態を冷静に解剖して、現実を認識させるという方向に変更を迫りたいと思ってしまうのだが、テレビ受像器のこちら側に座っているあるいは寝ころんでいると、ついつい「4億円も隠し金をもっているのはけしからん」と反応してしまうものだ。「自分自身やわが子たちの将来に向けてどのような政策実施を望むか」という「欲望」について考えを巡らせるよりも、何か自分が裁く高みに立って、威張っている大物政治家を引きずりおろせるような錯覚を楽しむのは禁じにくいものがあることに気づくのだった。(2010.1.18)
フランスのどの学者が何を言ったという叙述の煩わしさをすべて取り去って、第二の部分を簡単にまとめれば、次のような事項が浮かび上がってくる。
@政治の世界での内輪喧嘩の論理に基づく闘争があり、「民意」という世論調査の結果としての見せかけの一般民衆への開放を示しているに過ぎない。
Aさまざまなテクノロジーが人々の記憶の材料そのものを単一化し、個人の固有性(個人の記憶と経験の多様性に依拠する)を消失させるため、人々は他者への関心(と同時に自己への関心)を失い、他社への欲望としての政治を消失する。
[政治の欲動化は、象徴の貧困化や欲望の困難(消失)と連動している。]と付け加えている。
テレビは同じ内容の表現を繰り返すだけで何時間見ても新たな情報が入ることもない。ベストセラー作品しか本屋の棚には並ばず、図書館までが愚かなことに古典を汚れたという理由だけで処分するようになっている。つまり、一般人は、あまりにも定型の言説の氾濫する環境に身を置かれる。自分自身の体験と感情の在処がわからない状態で投げ出されてて、見せかけ上は情報の氾濫の中で安定を得るために、多数意見に身を寄せる。
私にとっては、ジョイスが『ダブリン市民』に描いたような情景の断片が政治との出会いの瞬間であり、政治は、自分の生活の快適さとの関わりにおいてしか存在し得ないものとして認識してこなかった。テレビという箱の中で喚いているのは、どんな肩書きが着いていようと、あれは質の悪いパロディでしかないと観念してきた。
丸山真男を若い頃懸命に読んで得た結論だったというよりも、体質的なものだろう。
Bサルコジがテレビを意識してやってのけた性犯罪者に対する大衆の嫌悪感を煽り、性犯罪者は人間として認めない、精神科医の発言を貶めるというパフォーマンスを「テレビ政治/欲動の政治」の一例として挙げている。
私にはピンとこない例示である。小泉のテレビ・パフォーマンスが日本ではその例に当たるかもしれない。特定の悪者を作り上げ、やり玉に挙げるということでは、教師、官僚はその典型であったように思う。
Cジャーナリズムのもつセンセーショナリズムと分析と評論を提供し客観性という価値を宣明する新聞の対立を軸に成立したが、現在はセンセーショナリズムが優勢になっている。
Dジャーナリズム界では、特ダネを他社に抜かれないための競争が、画一化を生み、当たり障りのない、総花的なもの、均質的なものになり、順応主義的モラルに従った報道姿勢になってきている。
Eのみならず、ジャーナリズム界の視聴率主義とポピュリズムは、他の文化的生産の界に影響を及ぼす。とりわけ「民意」に依拠する政治界に大きな影響を及ぼす。
F「民意」を後ろ盾にした、政治家や政府による、官僚批判や教育批判は、専門職の自律性を奪う危険性がある。
G「争点型報道」から「戦略型報道」への変化と「ネガティブ・アド」の広がりがアメリカのジャーナリズムでみられ、競馬解説のような政治解説が現れていた。これは人々をよりシニシズムに追い込んでいくことになり、人々が望むからという理由で更にジャーナリストや政治家に自己正当化の口実を与えていくことになる。
日本でも、この間小沢の行動が民主党にどう不利に働いたかという戦略報道が、競馬中継のように、民主党・自民党の民意争いの舞台で報道されていた。またマスコミには一見左右されないかのような態度をこれまでとっていた小沢が、マスコミ報道が与える戦略を気にして行為するかのような振る舞いを見せた。メディアが戦略型報道のスタイルをとる限り、どのような政治的行為も、そのウラ=戦略を報道することとなる。小沢のような言論型タイプは、この場合、いつまでたってもウラ=戦略を報道するメディアと和解することはない。もちろん、政治とは、ブルデューも述べたように象徴闘争である限り、自らの正当性を言説のもとに隠すのであり、常に戦略はつきものゆえ、戦略型報道も一つの批判的報道であり、報道リアリズムである。しかし、視聴率競争に煽られた現在の戦略型報道は、このあとに見るテレビメディアが助長するコンテクストの重視という特性によって、政治が政治の内実(言説)そのものを排除するものにさえなってしまっている。
それゆえ、ここで、言説よりコンテクストを押し出してしまうテレビの特性について確認しょう。(p.50)
この構図は、現在進行中の事態でも変わらないのだが、ここ(本書)で樫村が指摘しているような研究者にとっては「常識」とも言えるような内容の言説がジャナリズム界において伝えられることはない。
H政治が言説の中身よりも「見せかけレ(パフォーマンス)やコンテクスト(戦略)にこだわるようになったのは、本格的にテレビ型選挙を意識し始めたアメリカ大統領選でのテレビ討論に見られるように、テレビというメディアの影響が大きい。
Jマクルーハンがテレビを「クール・メディア」と位置づけたように、テレビは、ラジオのよぅに人々を単純に情動的に巻き込んでいくよりは、むしろ「醒めた情動」を伝達する。すなわちラジオのように演説(スローガン)とともにその熱さを伝えるのではなく、演説者の主張を換骨奪胎するようなコンテクストそのものを伝達してしまう。いかに熱心に演説していても、それが本気かどうかが、表情やちょっとした綻びにおいて見えてしまう。(p.51)
現場に居合わせた場合には、自分も相手からの視線に曝されることになり、自分の存在のありようが喚起され意識されるが、テレビ視聴者はそのような意識を免れる特権的位置にいて、「相互作用の力学から逃れ、より純粋に自分の幻想や転移に浸りやすい」。
そこから裏読みを繰り返していくことになる。更には日本社会では論理や言説が重視されることは少ないため、戦略型報道とテレビメディアによる転移空間の演出によって、その換骨奪胎は強化される。
亀田や朝昇龍の弾劾報道や謝罪報道に見るとおりである。
そうなると初めから裏のない情動を伝えるしかなくなる。もはや主体性を欠いた、アスリートの反射的反応や解離的な小泉の「感動した!」といった反応となる。一貫性のない、その場限りのいい加減さこそが、テレビのポスト・エモーションに合致するのである(p.52)。
Kテレビが特定の対象をバッシングする仕方は神経症的であり。「不平の文化」とは現代におけるヒステリー症であると著者は指摘する。
このように、テレビで起こっていることをみると、神経症化していくテレビ制作者側の、戦略(無意識)への過剰な追求において、そもそも言説を排除しているがために、そこで見つかるのは、綻びが出来事となる政治性などではなく、オーディエンスの消費対象としてのトラウマ的感情表出(先述したポストモダン・エモーションに見られる)である。
また、テレビの神経症をなぞるオーディエンスは、オーディエンス(民意)を代理しているつもりのテレビの苛立ちをなぞり、その苛立ちは同時に自閉するテレビへの不信としてのテレビ・バッシングへと容易に繋がっていくだろう。ここでは現在テレビに対して起こっている不信の「民意」を確認しておこう。
長谷(2007)は、『夜のヒットスタジオ』のような七〇年代のテレビ空間を、歌番組がツツコミ化を意識的にやり自閉していくような現在のテレビ空間がまだ始まる前の幸福な空間として描き出している。
長谷は、テレビには、「情報」と「情報の見せ方(演出)」 という亀裂が必ず存在することを示し、テレビが出来事性や生を追求していく中で、その見せ方が番組の中で伝達されてしまうこと、テレビが思いがけなく自ら作りだしたフレームの外を伝達してしまうことを「自作自演性」と呼ぶ。
この「自作自演性」は七〇年代には長谷のいうように、テレビも気づかない副産物であり、視聴者はそれをのどかに楽しめた(『夜のヒットスタジオ』で、一人の歌手が歌う間、カメラが思わず映してしまった後ろのセット上の他のタレントが見せる素裸など)。しかし今、テレビは出来事性そのものを焦点化しそれを消費するようになり、すべての出来事が予め意識され、さらに事後的にすぐフレーム化される。例えばそれは「天然(テンネン)」の不可能性と近い。「天然」は天然と指差されたことを自覚してしまった途端、次には天然ではなくなってしまう。だからこそ、先述したように、意識のない主体としての反応である、解離的反応しか、「素」としてエモーションを伝えられなくなる。
テレビが、言説を限りなく無視し、コンテクストや綻び(無意識)をひたすら追って、意識過剰のもとで自閉していくとき(神経症化していくとき、またよりひどくなって現実感覚を欠きパラノイア化していくとき)、言説に担保されるはずの真正性や公共性は瓦解していく。先述したように、テレビの影響力の大きさは、政治界の自律性を奪い、スポーツ界(亀田大毅や朝脊髄)や食品業界の自律性にも侵入していく。もちろん相撲界の閉鎖性や食品業界の閉鎖性を維持している自律が問われるというポジテイヴな要素もあるが、「民意」がゲームの資源としてむしろその界に関わる利益政治に利用されることが多いとすれば、調達される「民意」は、テレビ型民意のような、エモーショナルなものの方が操作しやすくて便利となる。テレビ・バッシングも、この意味で業界内部で民意を利用した他社攻撃といったつばぜり合いに利用されていく。
こうして当のテレビ・バッシングのスタイルは、戦略=ウラをどこまでも追求しようとするテレビの神経症ゲームの延長上にあるものだろうことが推測できる。ここで当のテレビの戦略=ウラ暴露−追求ゲームは実はもっと前から存在し、むしろオーディエンスはゲー無感覚で共同で楽しんでいた。これが「捏造(テレビ・)バッシング」に変わったのは、このようなテレビ内部でのゲームの自閉性に対する不信が現れ始めたからではないかと田所らは指摘する。(pp.54-55)
L大文字の他者なき世界が現代だという議論を前提にして、その「大文字の他者なき世界」では、大文字の他者への不平不満が高らかに叫ばれ、黒幕としての大文字の他者糾弾が盛んになるというパラドックスが生まれている。
これは、そもそも「ネタ」としてのウラ−戦略探しがパラノイア的欲望へと変質してしまい、道徳性を装った攻撃となり、脅迫性を伴うようになる。テレビ界が作り上げてきた手法が、いまや自己破壊し、怪物として一人歩きしているような感さえある。
社会の流動化、ポストモダン化が、まだ社会の不明性を導かなかった頃に、テレビが拡大させてきた、言説無視のコンテクスト(戦略、ホンネ)報道は、グローバル化の中での共同性の解体のもとで、こうしてパラノイア的なものへと転化する。資本主義が導き入れた社会の流動化、すなわち現実的に頻出する「現実的なもの=政治的なもの」は、新たな社会の構成のあり方を能動的に引き受け議論し、社会を民主主義的に作っていこうとする機会でもあるのに、不安が前面化し、政治、メディアは、不安の中身を指し示せず、欲動政治化する。眼前で上演されているのは、新たな差異による利益を得ようとする人々による利益政治と、大文字の他者を代補しょうとするテクノクラートの透明性へのパラノイア的欲望(マーケテイング的世論などを生み出していく。社会のマクドナルド化を帰結する)、および、自分たちが蚊帳の外におかれているのではないかと「不平」を表明するパラノイア的メディアとオーディエンス(それはメディアそのものにも向かう)の欲望と消費なのである。(p.57)