この本の価値を語るには、「空気」と「世間」論の研究史から語る必要がある。
本来、このホームページの目的から言って、それらの書籍について既に扱っていてしかるべきなのだが、それ以前に開設していたところで既に書いていたので、それは怠っていました。まあ、気ままに書き込むことに──
私にとっての ──価値があるのだから、許していただきたい。
『「空気」の研究』という評論家・山本七平の評論が雑誌連載されたのは1973年くらいのことではなかったでしょうか。『諸君!』だったと思います。私はショックを受けたのを覚えています。単行本になったのは1977年で、こちらは簡単にわかります。イザヤ・ベンダサン『日本教について』の単行本が1973年に出版されていて、その第1刷が本棚にあります。その続きのような格好で私は読みましたし、ベンダサン=山本七平というのが大方の見方でした。
山本七平という方は、山本書店店主、翻訳者、聖書研究家という肩書きで私の前に登場しました。『ユダヤ人と日本人』が第1回大宅壮一賞を受賞し、ベストセラーになると同時に日本人論ブームともいえるような現象が巻き起こりました。文化人類学に関心が集まり、また、司馬遼太郎が随筆で日本人および日本の文化について発表を続けていました。
日本人論ということで前史を語るならば、どうしても触れておかねばならない流れがあります。一つは、文化人類学者・ルース・ベネディクトによる『菊と刀』の「恥の文化」批判が戦後、多方面でなされ、それは一部で主体性論争や天皇制研究と重なっていたことです。
日本社会における論争はいつの間にか途絶え、忘れられ、一定期間を置いてまた思い出されて燃え上がり、再び沈静化して忘れられていくことを繰り返します。この流れは現在も続いているととらえてよいのかと思います。
もう一つは、統計数理研究所による『国民性研究』という統計学的に代表性のある世論調査技法に基づく、統計学的研究が継続されてきているということです。なお、同じ研究所は県民性研究も実施していて、最近流行の(かなり時代遅れの)県民性についてのルーズな言及に若干の科学的なメスを入れています。特定地域に特有の食べ物や商品の流行や定着についての考現学的考察やその記録に意味はないとは思いませんが、あまりにも非科学的な情報処理にはちょっと疑問を感じます。ひとつ間違えれば差別を招きかねませんしね。
一つ目の流れの中で、川島武宜の『日本人の法意識』(岩波新書)と、その種本ともなったきだみのる『気違い部落周遊記』(岩波新書)だけにはいつか整理しておきたい重要な指摘が含まれています。しかし、ここでは先を急ぎましょう。
さて、『「空気」の研究』は極めて重要な内容であったにもかかわらず、アカデミックの世界からは無視されました。ただ、社会学者の小室直樹は関心を示し、山本七平と対談の形式で社会科学的命題に整理するという作業を『日本教の社会学』において行っています。
われわれは、ここでの作業を踏まえて展開していくことが可能になっているわけです。
つまり、日本人が集団において意志決定をするときに大きな決定要因となるものは「空気」であること、神秘的な力が「空気」には付与されているためその影響力には常人は逆らいがたく、それが消失たときにはなぜ人々が従ったのか理解できなくなってしまうことなどが指摘されています。合理的判断というには遠すぎるのです。
その後の、「空気」を扱った重要な評論に、冷泉彰彦『「関係の空気」「場の空気」』(講談社現代新書,2006年)があり、鴻上がこの本を引用している箇所もあります。著者が米・ニュージャージー在住の関係か、敬語の問題についても、鋭い指摘をしています。
他方、「世間」論は、ドイツ中世史家の阿部謹也によって1990年代に展開したものです。私は『ハメルーンの笛吹き男』以来彼の書くものには関心を示しており、光文社の『「狂気」はここにはじまる』だったか『「狂気」が「正気」を生んだ』だったかで「世間」についての言及に感心した記憶があります。無論、先行する業績の中にも言及はあり、講演においてかなり明確な発言をされていたように記憶しています。同和問題などにも触れられていました。
「世間」学は、法学者の佐藤直樹さんなどによって継承されており、多分野で成果が出ることが期待されます。
著者の鴻上は、阿部や山本のこういった書物をしっかり読み込んで、自己の体験と照らし合わせて議論を組み立てていきます。劇作家だけに体験をもとにした説明にはリアリティが感じられます。
いずれ続きは書きたいと思います。(2010.7.18)