本の棚卸        山田慈雨

ジョン・ハート『ラスト・チャイルド』(早川書房)

 質の良い─つまり文学作品としても通用するような─ 推理小説である。
 〈家族〉をテーマとしているということになるのだろうか。一般にはそう紹介されているのだと思う。しかし、私には、むしろこの作者の前作『川は静かに流れ』が過去の「過ち」「間違い」を問題にしていたのと似て、失われてしまった家族の一部を受け容れられるかたちで収め切れていないために足掻いている登場人物たちの物語のように感じた。主人公のクライド・ハント刑事と 十三歳の少年ジョニー・メリモンやその母キャサリンは勿論のこと、刑事の息子やジョニーの友人やその父兄たちもそうである。
 ジョニーは、双子の妹アリッサの失踪以降学校にも行かず妹を捜しに犯罪者の住む地域に出かけたり、過去の地域に暮らしたネイティブ・アメリカンの歴史や生活史を調べたり、挙げ句の果ては、奴隷たちの信仰していた宗教のグッズを身につけたりと奇矯なふるまいをするようになる。また、無免許で自動車を運転して移動することも多く、捜査の責任者であるハント刑事を心配させている。
 母親のキャサリンは、絶世の美人で、娘の誘拐失踪事件のとき、友人宅に迎えに行くのが遅れた夫に対し責める言葉を吐き出したが、その後夫が失踪したことに頭を悩ませている。娘を失ったショックに加えて、夫を去らせた責任に耐えかね、ドラッグに逃避した状態にある。その弱みに付け入ってきたのが地域の実業家であるケン・ホロウェイで、ショッピング・モールの経営者なのか警備会社の経営者なのかかなりの規模の会社を経営しているように描かれている。若い頃、この男の周辺に取り巻いていた女性の独りであったキャサリンは、逞しく実直で健全で安定した精神の持ち主であるスペンサーが除隊し、帰郷してくると、たちまち恋に陥り、結婚し双子を生んだのだった。スペンサーはケンの下で働いていたが、その技術と人格の故に、ケンがキャサリンに手を出すようなことはなかったのだが、夫の失踪後、生活できなくなったメリモン家を援助するという名目で、ケンの所有する安価な家に二人を引っ越しさせ、入り浸るようになる。薬も与え、ベッド・ルームから出てきた後、キャサリンに暴力をふるう。それを目撃することになるジョニーは、孤独に苛まれ、奇矯なふるまいに突き進むことになる。誰も少年の心に入り込むことはできない。

 この二人に同情し、捜査を続けるハント刑事は、外から見て明らかにキャサリンに惹かれているように映る。妻は去り、息子も物を言わなくなる。アリッサ失踪から一年の間にこうしたことが起こっていたのだった。
 そんな状態のときに、別の少女誘拐失踪事件が起こる。そして、犯人は誘拐された少女の手で射殺されることになり、その逃走にジョニーが手を貸すことになるのだった。新聞に大きく載せられた写真には、自動車を運転するジョニーの姿が。真っ黒な髪に目も黒く、痩せこけてシャツも着ないで首から羽根やら骨やらをかけて、顔は赤と青の縞にペインティングしていた。ナイフで切られて、知と泥にまみれていた。少女も身体のあちこちを切られ血を流していたが、ジョニーの異様な姿の方が目立った。

 少女が監禁された現場周辺からは、次々に少女の死体が発見され大騒ぎになる。その死体発掘の作業が続く中、ジョニーは、その救出劇の最中に出会った黒人の大男が口にした妹の名が気になる。怖くて現場から逃走してしまったものの、どうしてもその大男に会って妹の行方を聞き出さなくてはならないと決心する。しかし、彼の姿と母親が各種安定剤などに中毒状態になっていることを知った社会福祉局は、彼を保護し、信用できる家族に任せるために動き始める。
 少年は逃れ、大男を捜しに出る。それに際し、ケンの邸宅に大きな石を投げ込むという騒ぎを起こし、ハント刑事は少年とその母親を擁護しようと動き、署長や死体発見現場がまたがる郡保安官からその動きに制限が加えられる。

 やがて大男・リーヴァイ・フリーマントルの正体は明らかにされるが、ジョニーの数代前の先祖が、逃がし、土地を与えた奴隷の末裔であることを少年は調べ出す。黒人奴隷たちはアフリカの宗教をもってアメリカに連れてこられたが、やがてキリストのことを知る。南部の白人は彼ら奴隷がキリスト教徒になることを禁止していた。なぜならば神は、信徒を平等に扱うからであり、キリスト教徒にはそうふるまうことを命じているからだ。したがって、黒人たちにキリスト教を信仰されては都合が悪いことになる。黒人奴隷たちは、教会は建てられず、森の中のある木を教会代わりにして集会を密かにもっていた。それがやがて白人たちの知るところとなり、襲撃を受け、リンチにあい、木に吊された。しかし、ジョニーの先祖は、それを間違いだとして彼の奴隷を逃がし、フリーマントルは森の中に隠れ住んだ。
 この大男フリーマントルが、神のお告げに従って、少女を助け、ジョニーを助けに現れることになる。
 彼をジョニー母子を襲っていると勘違いして肩を打ち抜いたハント刑事は、やがて検屍医からとんでもないことを打ち明けられる。肝臓近くに堅い樫の木の枝の一部が刺さった状態で多くの臓器が破壊され、生きて動けるはずのない医学的常識では考えられない状態でフリーマントルは動いていたことになると。
 小説終盤では、この神の意志が大きな役割を果たしているように感じられる。
 やがて父親、スペンサーの遺体も発見され、キャサリンは、夫が家族を捨てたのではなく、家族のために捜索をしていて犯人をつきとめ、殺害されたのだと知る。死亡はしていたにしても、家族は再生される。
 仏教徒にとって、死は生の延長であり、再生の神話とは無縁である。われわれの世界を構成する様々な物質、現象は、瞬間瞬間に構成され、瞬く間にその構成は解体して、別の構成へと姿を変える。死も、その延長上にある現象のひとつに過ぎない。無常であり、その永続を願うことは虚しい。そういった真実を知った上で、なおかつわれわれはわれわれの虚しい願望の世界に生きることになる。
 キリスト教は、そうした真理とは別の人間のもつ願望を肯定する宗教のようである。家族の愛は永遠であれと願い、絶対的存在である神はそうしたことをも可能にする永遠の存在だと認識するわけだ。
 ならばなぜ、妹の死や父親の死、それも外から加えられた理不尽な力による死という不幸がメリモン母子に与えられるのかという疑問が浮かんでくるのだが、それも神が与えた試練だというように解釈されるのだろうか。
 不可解さにすべて決着が付けられると少年もキリスト教の神のもとに回収されて小説は大団円を迎える。
 やはりどこか深層部分で納得のいかない展開ではある。
 家族がテーマだというのなら(実際、解説氏を含め、多くの人が言っているらしいが)その通りだろう。その家族って何だ? というか、もしかすると私たち日本人の抱いている感覚とは少し異なるのではないかという感じがする。たとえば桜庭一樹『赤朽葉家の伝説』で描かれている家族とは微妙に違っていないか。
 ラスト近くの場面で、キャサリンは発見された夫の指に結婚指輪がはまっていたかどうかを気にする。それが家族を見捨てていなかったかどうかの証拠だと言いたいのかも知れない。しかし、そんな指輪など端からしなかった私など違和感を感じる。正直に言えば、「お前なあ。どう考えたってやはり、お前の言葉で旦那が危ない場所に探しに行って、そのために命を失ったことに変わりがないだろう。それなら、なぜ急に自責の念は薄れるんだ。お前が気に病んでいたのは夫に捨てられたか否かだけだったのか」という気持ちになる。身勝手な女だとやはり思うのだ。
 でも、おそらく多くのアメリカ人にはわかりやすい感情なのだろう。翻訳ミステリーというのは、どうしても文化的差違のせいで違和感が残ってしまい、なんだかスッキリしない。(2010.11.07)

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