本の棚卸 山田慈雨
中島京子『小さいおうち』(文藝春秋)は、予想していたよりも内容の濃い小説でした。戦時中に対する戦後生まれの僕たちの抱いていたイメージに対して、「そんな逼迫した状態になったのは、終戦の一年ほどだけのことだったんだ」と、具体例を挙げて反駁していたものに山本夏彦『誰か戦前を知らないか』などがありますし、小林信彦の『ぼくたちの好きな戦争』などという小説ものどかで贅沢でモダーンな戦時中の庶民の生活を描いていたように思いますが、東京近郊の新興住宅地の中間階層のまさに戦時中の日常生活を女中さんの目を通して描いたというのは秀逸でした。
知識人階層でもなく、政治的人間やジャーナリストでもない生活人の視点で、衣食住や学校生活、行事を記憶のままに描いていくというのは凄いものではないですか。
引用しておきたいのは次の箇所。主人公で書き手(語り手)の女中さんが描いている家庭に辿り着くきっかけになった最初の小説家の家のご主人と偶々であって、話し相手になってくれとお茶に誘われます。そこで頭の良い女中さんである主人公にぼやいたのが次のセリフ。
「なにがどうというんでもないが、僕だって、一生懸命やっている。僕だって、岸田だって、菊池だって、よくやっている。国を思う気持ちも人後に落ちないつもりだ。しかし、その我々をすら、非難する者があらわれる。文壇とは恐ろしいところだ。なんだか神がかり的なものが、知性の世界にまで入ってくる。だんだん、みんなが人を見てものを言うようになる。そしていちばん解りやすくて強い口調のものが、人を圧迫するようになる。抵抗はできまい。急進的なものは、はびこるだろう。このままいけば、誰かに非難されるより先に、強い口調でものを言ったほうが勝ちだとなってくる。そうはしたくない。しかし、しなければこっちの身が危ない。そんなこんなで身を削るあまり、体を壊すものもあらわれる。そうはなりたくない。家族もある。ここが問題だ。悩む。書く。火にくべてしまえと思う。あるいは、投函してしまえと思う。どちらもできない。いやはや」(p.209-210)
この小説を読んでいて怖くなってくるところは、現在の日本社会の動きがなんとも不気味に思えてくるところです。あの頃もみんな豊かさを噛みしめていて、刺激的な都市生活を享受していて、不倫まであって…なんですよ。庶民は戦争の恐怖など想像もせずに日常の些事に囚われていて、気がついたら、死が身近に迫っていたというわけです。
そして、上の小説家先生のことばのように、今も「いちばん解りやすくて強い口調のものが、人を圧迫するようになる。抵抗はできまい。急進的なものは、はびこるだろう。このままいけば、誰かに非難されるより先に、強い口調でものを言ったほうが勝ちだとなってくる。そうはしたくない。しかし、しなければこっちの身が危ない。そんなこんなで身を削るあまり、体を壊すものもあらわれる。」状態に悩んでいるではないか。
TVのバラィティ番組やホンネ・トークをウリにした疑似討論番組で繰り返し流されるような内容が声高に繰り返され、それが庶民的反応だと決めつけられます。専門的訓練を受けたプロの慎重な言説は、次第にそれに靡くようになってきています。
大丈夫なんかな?
(2010.11.17)