本の棚卸        山田慈雨

佐川光晴『おれのおばさん』(集英社)

 本来このHPは、社会科学系あるいは哲学・思想など人文科学系図書を新刊・旧刊に関わらず取り上げて、整理してみようというつもりで開設したはずなのだが、心理的な挫折の期間を経て、そんなことはどうでもよくなってしまった。それで節操もなく、なんとなく気に入った本について数回書き込んでいることになってしまっていた。今回も、楽そうなものを取り上げることになる。

 『牛を屠る』で自ら体験した豚や牛の解体業に関するノンフィクションや『ぼくたちは大人になる』『とうさんは大丈夫』の作者である佐川光晴の小説を取り上げる。というより先ほど読み終えたばかりである。

 主人公は、東大合格者数日本一を誇る開聖(作品中ではこのように表記されている)中学の二年生。小4のときから塾通いをしてあこがれの中学に入ったのだが、単身赴任で新潟から福岡と転勤し、二週間に一度程度東京のマンションに戻ってきていた父親が、3500万円ほどの使い込みをして逮捕されてしまった。これがゴールデン・ウィークの頃のことで、二時間目の休み時間に担任の付き添いで校長室に行き、母親から事情を聞かされることになった。関わり合いになることを避けているような担任が彼の荷物を運んできて、開聖中学校とは縁が切れた(ここまでクールな対応をするかなという疑問は残るが、これはこれで小説の中の設定としては効果的だ)。
 それで連れて行かれたところが札幌市で、「魴ぼう(魚に弗)舎」という看板のある建物であった。母の姉がここで児童養護施設を経営していた。母とその強烈な姉の間には幼児期より激しい対立があったようで、伯母の話題はそれまでタブーであった。したがって、主人公の陽介は、その伯母が代々網元であった福井県小浜を離れ、北大医学部に進学し、演劇にのめり込んで、そこで知り合った俳優で演出家と結婚し、大学を退学して劇団旗揚げをしたことも、姉に両親の関心が集まってしまい、自分が見捨てられたような気持ちになって、東京の有名大学の経済学部に進学して、将来有望な男性と結婚して家とは縁を切ってしまった母親のこともまったく知らずにきた。
 ともあれ、急激な生活環境の変化があり、自殺を覚悟していた母も、東京でマンションも処分して銀行への返済に当て、認知症の老人の付き添いとして病院に泊まり込みで働き始めたことを知らされる。
 この少年の心の支えとなったのが、一年一ヶ月しかいなかったとはいえ開聖中で学んでいたことだった。当然、その間にほぼ中三の内容は学習し終えている。北海道の公立中学の授業は復習になる。学年で一番であった同級生やその取り巻きの少年との間で感情的対立があって、同じ施設にいる同級生が身長も高く、運動神経が発達していて期末試験前に担任がバレーボールで身体をほぐす機会を与えるのだが、主人公の少年はバックパスを決め、同じ寮の少年が激しいスパイクを決めたところ、相手コートにいた優等生の取り巻き少年の顔面直撃となって倒れる。その父親が、差別意識丸出しの男で、学校側に責任を求めてくるのだが、担任が体育教師の割には気弱で、児童施設の二人の個人情報、つまり施設にいる理由を話してしまう。それを息子に話し、息子がヨイショをしている優等生に話したため、謝罪をした相手に父親が使い込みで逮捕されたということを口走ってしまう。
 テスト返却で主人公がすべて満点を取ったということにプレッシャーを感じていたせいでもあった。
 このときのおばさんの対応で主人公はすっかりおばさんのファンになるのだった。しかも、校長はかつておばさんの演劇の観客でもあって、その演技が好きだったという話も中学二年生にとっては魅力的な話題であったのだ。

 同室の二年生三人とも交わらず、早朝から基礎英語の放送を聴き、早めの登校で図書室で進んだ学習を続ける主人公も、バイトの北大生の失敗で大量の卵が割れ、おばさんが夕食後ではあるけれども、急遽、ホットケーキの大食い競争を宣言して、身体の大きい卓也と陽介は競うことになる。数枚の差を付けられて二位に終わるのだが、そこで始めて中二の女子のありさと奈津が陽介を応援する声を聞く。それまで痩せて俯きがちな彼女らの存在に注目したこともなかったのが少し変化してくる。
 そして、夏休みの奄美行きが大きな変化をもたらすことになるのだった。

 私自身、大学院生のときに父親と死別し、母親は入院のため施設に預けられていたが母親の退院に伴って一緒に生活を始めた中学生の家庭教師をしたことがある。栄養状態の悪さと明瞭にことばを発することができず、自分のしてほしいことを表現できないことや他人への依存に少し驚いた記憶がある。随分と長い期間つきあったのだが、いい子だけれど強くはなれなかった。
 おそらく、佐川光晴がここで描いたような強烈なパーソナリティの持ち主でなければ、児童施設で複数の子供の面倒をみることなどできないのだと思う。しかし、私の教え子のように、その人物に無条件に何も考えずに従うことでしか適応できなくなる可能性は結構高いのではないかという気がする。

 この小説では、そうではなく中学生たちは、公立高校に進学できなければ施設を出て行かざるを得ず、また、高校に進学してもその先はなく、就職が極めて困難であることを自覚している。それなりに自活していく道を模索しなければならないというわけだ。

 小説中程で、卓也が施設にやってきた事情が語られ、ありさの父親が引き取りたいと何度も魴ぼう舎のドアを叩き、怯えたありさの姿が語られる。周囲は、性的虐待をも懸念しているのだった。
 また、第一期の卒業生でリーダー格だった男は、高校で優秀な成績ながら、その正義感の故か教師に暴力をはたらき、退学させられる。その後、農場などでのバイトで全国を渡り歩く生き方を謳歌するブログを開いていたが、やがてその書き込み内容は荒れていき、暗い荒んだものと変わり、おばさんへの非難になっていく。
 行方不明となった彼に対する心配からおばさんは胃潰瘍となり、入院に追い込まれるのだが、他人の世話をする、それも不安定な思春期にある者とつきあうことの心理的負担はよく理解できる。

 この小説のおもしろさは、本来、環境の重圧に押しつぶされてもおかしくない主人公の中学生が、早々と、おばさんの協力者でもあり、中学教師の石井が子供が欲しくて不妊治療を続けていた結果ようやく妊娠した妻が胎盤剥離で大量出血死してしまい、胎児も助からなかったという不幸から脱却できていなくて、いろんな関係者が石井をひとりにしないために休日には彼のマンションに押しかけることを知るのだが、ごく自然に石井の所に遊びに行き、相談したり自分の迷いを話したりしている様子を描いているところにある。奄美では島牛の品種改良に熱意を燃やしている石井の北大時代の友人の獣医の引き延ばす単身赴任に疑いをもつ娘の波子と話すことで、彼女の不安を取り除くとともに自分の生き方についての思考整理を果たす場面を描いている。
 他者に対する配慮が、自分の体勢を立て直すきっかけになるという描き方なのだ。

 主人公は頭のいい少年という設定であるため、あまりにも論理的な思考も不自然ではない。私も普段、頭のいい、勉強の出来る中学生と付き合っているのだが、彼らの混乱ぶりに呆れることが多い。社会的事象についての視野の狭さに心配になることもある。しかし、この主人公は、父親が犯罪を犯し、本人は児童施設に入り、祖母は寝たきりで、里親から暴力をふるわれた経験や実の親に捨てられた経験の持ち主と一緒に暮らしているわけだし、親子関係について真剣に考えざるを得ない環境に置かれている。父親の使い込みは、新潟時代に愛人を作り、彼女を福岡に連れて行くためにマンションを購入せざるを得なくなって、顧客のカネに手を付けたことによるものであった。株の運用でなんとかするつもりが、リーマンショックのため、急遽顧客が資金の引き出しを申し出たために犯罪が発覚したということであった。
 表面を飾るようなきれい事の世界と決別せざるを得ないきっかけであった。
 厳しい学習競争に適応することだけを考えていた状態から一気に環境が転換したのだった。ここで閉じた子供世界から一気に大人世界へと視野を広げるしかなかった。父親の不倫などという行為も、母や自分が生き延びるという一点との関係で態度決定を迫ってくる「差し迫った現実問題」として理解するしかなかった。観念論や感情論などと一気に切り離された状態にあった。

 たとえば、灰谷某の児童文学で描かれる大人への感情的嫌悪のようなトーンはない。観念論で描かれているのではなく、「どうやってこの先食っていくか」が模索され、「自分に何ができるか」「どのような選択をすれば可能性が高まるか」をしたたかに考え抜き、父親に対する態度も、わからないことはわからないままにしておくという賢明さをもつ中学生として描かれている。何もかも分かっているような態度を採る傲慢な中学生ではない。これは素直で現実的な小説だと感じた。
 また、紋切り型のテレビ・ドラマや漫画レベルの生き方指南でもない。うんざりするほど手垢の付いた毎度お馴染みの人生訓を垂れる、武田某主演のドラマみたいな正確のものとは違う。これはほっとする。

 別に誰かに勧める必要もない。面白かったということが伝わればよい。(2010.12.22)

indexに戻る