本の棚卸        山田慈雨

松岡正剛・エバレット・ブラウン『日本力』(パルコ出版)

 日本文化とか日本の伝統の凄さ・面白さについての対談です。
 最近またしても日本文化を卑下し、グローバリズムこそが日本の選ぶ道という論調に傾いているような気がします。それでいて、アメリカの大学における日本人留学生が減っていて、中国人、韓国人学生に負けているなどということが強調されます。だから、みんなもっと行けとか、「草食系男子」なんて流行言葉を持ち出してきて、もっと闘争心を外に出せなんて煽るわけです。
 内田樹の言うところの「辺境人のメンタリティ」に由来する発言なんでしょうね。
 内田氏は、ほんとうにうまい文章を綴ります。

  小泉内閣時代に推進された「構造改革・規制緩和」というのは、意地の悪い言い方をすれば、アメリカの企業が日本市場で自由に経済活動ができ、利潤を吸い上げられるシステムを整備するということでした。構造改革論者たちは、アメリカが日本をより収奪しやすくするシステムを進んで整備したわけですけれども、もちろん彼らに悪意があったとは思いません。アメリカが自由に日本市場を食い荒らすようにしてあげることこそ日米の「親しさ」を一層強化することに繋がり、それが何よりも日本の国益を担保するのだと彼らは考えていたからです。(『日本辺境論』40頁)

 こういう表現は私にはすんなり思いつきません。もっと荒々しい、露骨で無骨な表現になってしまいます。
 要するに、昔、加藤秀俊氏が指摘した「忖度」の過剰な状態にあるのが一般の日本人で、社会のいろんな場面で忖度を強要されるわけです。特に、女性においてはかなり数多くの場面で生じるようで、加納朋子さんの『七人の敵』という小説では主人公の女性がPTAの役員選出や町内会の役員を引き受けさせられて、仕事との両立の困難さと人質にとられている我が子の身を守ることとの葛藤に悩む状態が描かれています。特に女性は、言いたいことを言わないで、相手に察しなさいと要求するのだそうです。私は、本来、それに馴染むべき職業に就き、しかも人一倍PTA役員の女性たちに接すべき立場にありながら、それを拒絶してしまうところがあります。それをというのは忖度することをという意味です。「はっきり言えばいいじゃないか」と考えるだけではなく、言わないなら聞いていないのだから、問題は何もないと解釈するという風に考えてしまうのです。
 この態度を、外交上のつきあい国際関係にまで及ぼしてしまうのが日本人だと内田は解説していて、彼は、「それもまたそれでいいじゃないか」という態度を採るわけです。

 松岡正剛は、いや必ずしもすべての日本人がそんな態度だったわけじゃないよと言っているのです。
 もっと長いレンジで日本を見てみれば、かつて「間」というグレーゾーンを取れていた時期には、自分の思いに拘泥し拘束されることはなく、自分の考えを他人にぶつけるけれど、それで跳ね返ってくる言葉や反応を確かめ、それを楽しむ余裕があったことをアメリカ人の写真家・ジャーナリストも自分の体験から語っています。松岡は、長屋の住人や職人にもちょっとした文化やコミュニティのルールとマナーがあったことを説明しています。それにしたがって職人はお客との会話で、へつらうことなく「そんな注文は受けられない」と言ったりできたと説明します。
 
 それで思い出したんだけど、テレビで職人の徒弟になった若者の取材をしていたのを見たことがあって、鏡台だかを弟子が作り上げて、それを展示会に出品する。横浜市かどこかの主催あるいは支援で、女性客がそれを購入する。その客に直接お礼を言いたいだろうと親方が弟子に電話して、軽トラックで迎えに行って無事会って礼を言えるという場面を放送していました。そのドキュメンタリーでは、その場面の前に、親方が得意先回りに弟子を連れて行くのだけれど、まともな挨拶どころか、目を合わすことすら満足にできない弟子に呆れて親方が注意をするというのが出てきます。職人と言えども、出来上がった製品を扱ってもらう店の主との交渉が必要で、それにはマナーやルールがあることを教え込むわけです。他方、弟子は、既に工場勤務で職場に適応できなくて徒弟になることを選んだので、一人で籠もれると信じていたのを裏切られた思いがあってそれが親方に対する態度にも出てしまいます。親方は悩む。何がどういけないのかが理解できないのです。

 日本人のもっていた小さな共同体でのコミュニケーションの様式や様態は、案外通文化的なものなんじゃないかというのが(松岡・ブラウン)二人の見解のようです。そして、日本人の美意識とか感覚には、世界のどの地域よりも優れた部分があり、これは外に出していけば、高く評価されるというのです。そして、日本の伝統は、フィルターに掛けて外部から入ってくる文化を取捨選択し、取り入れたものと伝統の要素は編集されて、独特のアマルガムに変容して、それが国際的に通用するものにもなるし新たな伝統に編入されてもいくのだと認識している様子です。

 特に、手仕事や手遊びとして手を通じて感受する独特のきめ細かな感性には他の追随を許さぬものがあり、先祖崇拝・自然崇拝に基づく神道的宗教感覚は日本人の精神性を背後から支える強い力になっていると二人は主張するのです。

 敗戦のショックを受けた世代を親に持ち、家族関係がただれていて、彼らから受け容れられていない寂しさから、どこか外に自分を支える者を求めた萩尾望都はイマージネーションの中に虐げられた少女時代を越えるものを作り出すと、多くの支持を得た。西脇にはないウォーホールやサイケデリックに向かったのが横尾忠則だった。「遠いところ」を求めて生きた時代があった。日常にはない、先祖や友だち、外国人、知らない町、歴史といったものを目指したときの方が面白くなる。
 また、「異人」との出会いを日本の村落共同体は大切にしてきた。まれびと信仰のようなものがあった。
 それが潰されてしまった。敗戦と高度経済成長は共同体を潰し、インターネットは「遠いところ」を潰した。

 だから、昔からあった生活の復元と人間関係の回復をしなければ、日本人の伝統に根ざした感性、感覚は復元できない。職人の技やそれを支える生活形態の復元が必要であり、その基盤となる共同体そのものやその枠組みとなる地域の復活が喫緊の課題になると考えているらしい。
 
 松岡もブラウンも、日本特殊論に与しない。特殊と言えばどの地域の文化も特殊性と普遍性をもつ。特殊性、独自性があるからこそ存在理由があるわけで、普遍性・一般性のみもつということになれば、その文化は消えても何の痛痒も感じないということになる。
 失いつつある特殊日本的特質を支える繊細な感性とその維持・完成を支える訓練のシステムへの理解とそれぞれの存在を支えるホーム・ポジションを理解していけば、そして大事にしていけば、内田のいう「辺境人」的反応ではないものが当然維持されるというようなことを縷々説明しているのではないかという気がしました。
 宮崎アニメに日本人の宗教性の復活を見つけたり、ガングロに祭りを支える要素を見たり、コスプレに日本の伝統意識を見つけたりするブラウンの感覚には驚愕させられます。ガングロを選んだギャルたちは伝統的な人間関係、コミュニケーションの形成を求めていたわけです。偏差値エリートはそこのところは理解できないわけですが、彼女たちは村人たちが隣人たちとの間で得ていたような一体感を独特なメーキャップで可能にしたのです。ガングロをやめた女の子たちの多くはお母さんになつていて、たいがい大工さんとかトラックの運転手とか現金収入の職人と結婚している。いいお母さんになろうとがんばっている。自分たちの村を作ろうとした経験を生かしていい家庭環境を作ろうとしている。[加納朋子の小説でも、ちょっと独自の立ち位置で主人公に手助けをする登場人物がこれに当たります。]
 コスプレも、アニメ関係者だけじゃなくて、日本社会では、エスタブリッシュの中でも密かに女装のパーティーが開かれたりしている所にブラウンは招かれたことがあると述べています。宝塚の男装も含めて考えると、割合独特の文化的許容が女装・男装にはあったこととコスプレの関係はあるのかもしれないと分かります。西欧では仮装パーティーや祭りの伝統とアニメ・コスプレとの関係が論じられたりしているようですから、微妙にアレンジされている新しい文化的要素なんじゃないでしょうか。
 こういう柔軟なものの見方に従えば、内田の分析したような傾向は存在するには存在するとしても、それを乗り越えていく装置とか回路というものが日本の伝統の中に組み込まれていたことも認識できるような気がします。
 (2010.12.29)

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