本の棚卸 山田慈雨
いろんな宗派の僧侶・尼さんが、派遣切りにあった人やホームレスに対して一時的に住む場所の提供をしたり、自殺をしようとしている人の話を聞く機会を設けたりといった活動をしている。その形態は様々である。
自殺者に対して葬儀をとり行うというなんでもないことも、不殺生戒に囚われる僧侶の中には忌避すべきものと遠ざけようとする者も多いらしい。原始仏教経典や大乗経典の再確認作業を行ったという活動自体大変な労力だったと思うが、仏陀は自死を悪としていたわけではないとのことだ。彼のサンガから何人かの自死者も出ているが、仏陀は懇ろにその弟子たちを葬っているとのこと。
一心寺は幼児期に父に連れられて近畿民俗学界の集まりに出かけていた場所だけに、その住職であった高口恭行さんは、元々が京大工学部建築学科の助手で住職の娘さんと結婚したことから僧侶の世界に入ったとかで、あの山門の設計も彼の手になるとのこと。
この方が、慈泉処というシャワールームを運営し、合わせて診療所を設置したという。こういう援助の仕方の方が、何もかも投げ打っての援助よりも私などには受け容れやすい。
秋田県の過疎の町で宗教色をぬぐい去って、町立図書館の建物の二階に喫茶コーナーを作り、そこで話をする場を設けたことから自殺者が減っていったという活動をされた袴田さんやインターネットを利用した映像通話で話し合いの会を運営している根本さんなど、「自分の話を聞いてもらえる機会がある」、聞いてくれる人がいる、つながりがあるということを確認できるだけで随分と人は苦しみに耐えられるのだなと思う。
また、こうした活動をしておられる仏教者に仏教という裏付けがあるということの強みを感じた。
ある意味、われわれは皆等しく弱い存在だ。その弱さを引き受けてくれる存在が仏様であり、その実在性を信じられるのは、修行を通じてのことだろう。
われわれの領域でも、「○○大学に○○人現役合格!」などと勝つことを意識したアピールをしていると、多分、いい結果に繋がらない。むしろ自然な流れを生み出すことが大事なんです。いい教育をその瞬間々々していけばよい。その積み重ねが望む以上の結果をもたらすということが普通だと思います。生徒個々人をみていても無理をしている生徒は、やはり結果としてうまくいかないことも間々ある。無論、かなり無理で無茶なやり方で強引に合格を勝ち取るというケースもあるわけで、それが世間の注目を集めることにもなるのですが、それでは白鳳が勝ち星を重ねていくような偉業はなし得ない。つまり、大学までは行けてもその後は果たして…ということになりかねません。
いずれにせよ、仏教諸宗派が、あるいは個々の僧侶が、生活苦で苦しんでいる人たちやそこから自己を否定する感情に苦しめられ、自殺にあと一歩というところに追い詰められている人たちに、何らかの支援活動を展開しつつあるというのはどこか救いのある話です。私自身煩悩の固まり、くよくよし、空回りばかりしてきたところです。宗教家が悩みを聞いてくれるというだけで救いのある話だと感じます。いよいよ行き詰まった時にはお願いしなければなるまいと感じています。
(2011.5.18)