中学生の頃の話を前回した以上、次は、高校時代ということになるかと思ったのですが、中二のときに妙に本を読み始めて、プルーストなんかも読んでしまっています。まだ、自分の趣味もわからない時期です。太宰治『人間失格』に、中二の冬休みに揺さぶられています。まだまだエラリー・クィーン、ヴァン・ダイン、アガサ・クリスティーをはじめとした海外推理小説や小松左京ら日本SF小説中心に読み、自然科学者・数学者の随筆に惹かれていた時期ではあります。早川書房のミス・マガやSFマガジンを定期購読していました。数学セミナー、科学は父のものを勝手に借りて読んでいました(『子供の科学』をいつまで定期購読していたか記憶がはっきりしません)。『科学』(岩波書店)連載のロゲルギストの「物理の散歩道」は好きでした。
湯川秀樹の『旅人』は、小学時代だか中学時代の教師を手厳しく批判しているのを読んで、「こんなこと言っていいのか」と強烈な印象を残しました。普通、こういう偉い人って、他人を非難しないで、過去は水に流すんだろうと思っていたもので驚いたのでした。
父が遠山啓の水道方式に凝った時期があって、遠山の文章は随分読んでいるはずですが、何をいつ読んだかははっきりしない。『無限と連続−現代数学の展望』(岩波新書)なんて読んでいたんじゃないでしょうか。『数学入門』の国土社版なんかも本棚にありました。数学者の岡潔をモデルにした映画『好人好日』が1961年に封切られて『春宵十話』が出版されたのが中二のときだったんじゃないでしょうか。読んでいます。高木貞治の『近世数学史談』(河出書房)や共立出版のタイトル記憶にないものとか吉田洋一『零の発見』(岩波新書)、矢野健太郎『数学の考え方』なんかも読んでいたはずです。
寺田寅彦の随筆集や中谷宇吉の随筆にも興味を示してました。竹内均『地球の科学』(NHKブックス)は中三のときなのか高校に入ってから読んだのかよく覚えていないのですが、ウェゲナーの大陸移動説に惹かれました。学校で教えてくれないのが不満でした。
このように圧倒的に数学や自然科学系統に関心が傾いていたにもかかわらず、急激に小説にのめり込むようになるのには一つのたあいないきっかけがあります。電車通学と吉永小百合の微笑みです。吊し広告に大学生だった吉永小百合さんが文学全集を小脇に抱えて微笑んでおられたのです。高校生になって30分ほど車中で読書できるようになり、こいつを読まなければと考えてしまったのです。
そして、どういうわけかある女子高生と交換日記を車中あるいは駅で文字通り交換することにつながります。世界文学全集がもたらした副産物といえるかもしれません。
そうなれば俄然文学ですよ。
北杜夫のドクトルマンボウ・シリーズから遠藤周作の狐狸庵もの、なだいなだなどユーモア感覚の溢れたものに惹かれていたのですが、他方で、世界文学全集は次々に読破していきました。『嵐が丘』や『ジェーン・エア』あるいはディケンズやシェークスピア、ポー、パーネバック、ミッチェルは中学で読んでいました。フローベルやユゴー、スタンダール、モーパッサン、ゾラ、バルザックなどフランス文学を読み進めて、トルストイあたりからロシア文学に入っていくことにしました。何しろ長い。最初は、『戦争と平和』で参るかと思いました。それが読み終えると、次に長いのに手を出したくなったのです。『アンナ・カレーニナ』『イワン・イリイチの死』『復活』と読みました。ゴーゴリーに移って図書館で『外套・鼻』『死せる魂』を借りて読み、『隊長ブーリバ』(かなり古い本だった)からショーロホフ『静かなドン』へと移っていたのです。
その後、ドストエフスキーで衝撃を受けることになるのですが、また、プーシキンやツルゲーネフ、チェーホフにも惹かれますが、ロシアの歴史も何も知らないで、コザック隊長を主人公にし、ロシア革命において反革命軍と位置づけられることになる白衛軍隊長の土に根ざした生き方に心揺さぶられました。不思議なことに、一番感銘を受けたのは、彼らの部隊が帰郷するときに馬上から誰かが歌い始めます。すると次々に声を合わせて何部合唱にもなって歌が広がっていく。その歌声に女声も加わり、みごとな合唱が展開されるという場面が一番好きでした。
主人公の武人としての、また、コサックとしての誇りを最優先に潔く生き抜こうとする姿勢に、違和感はまったくありませんでした。勝ち組に擦り寄っていくのではなく、信頼を裏切らないために殉ずる気持が、まるで日本武士道という感覚ですんなり物語に溶け込んだのです。
ただ、アジア系ロシアの土着の男女はたくましい。たくましすぎるくらいです。その性愛も濃厚で、当時は読んでいてちょっと恥ずかしくなるくらいでしたね。
トルストイも強調するロシアの土着の精神というのは何なのか、全く理解などしていないのですが、自分自身の中にあるか細さに対して、「これではいかん」と感じさせる迫力がありました。
かなり後に、ノーベル文学賞を受賞したというのでソルジェニーツィンの『イワン・デニーソヴィチの一日』『煉獄のなかで』
『収容所群島』(いずれも新潮文庫)を集中して読みますが、その反共産党政府的な内容とは別に、ロシア土着的な反抗のようなものを感じ取りました。
ショーロホフが示していたのは次のような魂だと受けとめていました。
巨大な大地があって、川があって、太陽がある。女がいて、男がいて、馬がいて生活がある。歌がある。生きる歓びと苦しみと哀しみがある。それですべてだ。
こんな感覚です。政府があり、軍隊があり、税を課せられ、軍役を課せられる。信頼する上官の命令には絶対服従する。しかし、大地や、母の信じる神の命じないものに対してはどこまでも抵抗する。戦い続ける。
こんな感じで受けとめたのだと記憶しています。
ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を読んだときにも、それを思い出しました。
『静かなドン』は、筑摩書房版世界文学全集で読んだ記憶があります。そして、続いて、マルタン・デュガールの『チボー家の人びと』を読んでいきます。ドストエフスキーは『罪と罰』だけが早くて、後は随分遅れて読んでいるような気がします。
『チボー家』は白水社の五巻本ですが、学校図書館に入っていなくて、当時かなり高いなあと思いながら一冊ずつを購入させてもらったように思います。父は本代だけはふんだんにくれたので助かりました。
インターナショナルも、パリ・コミューンも何も知識がなく、ジードの『狭き門』のような恋愛もののような感覚で最初読み始めて、若者が政治運動にのめり込み、国際政治と自己の成長とを同一視している感じ方を凄いなあと思っていたのですが、ショーロホフが後を引いていたのでしょうか。コサックの非政治的な直線的生き方とフランスの都会的で、人工的な思考法との差違に気づかずにはいられませんでした。
実は、その後、勉強していくと、フランス人の「都市」的というのも、歩いて10分程度で通り過ぎてしまえる規模の「都市」が原型です。城壁で囲まれ、自治権をもつ、「公共」世界こそが、「家」を越えた念領域であり、それが実態化し、実体化(物象化・血肉化)したリアルな存在がシテなわけです。案外、それもまた土着文化なのかもしれません。
そして、1960年代の都市部の日本社会にとって「土着」的なるものとは何を指していたものか。実は、私は、本当の意味で、その実相に迫っていないのではないかという気がしています。実のところテレビや雑誌を通して社会の現実と称されるものを観察していて、表層的にしか物事をみていないのではないか。「大衆とはお前のことだ」という大衆社会論者に投げかけられた悪口がありますが、まさにそれと同じなのではないかという気がします。
谷川雁などが沖縄文化を「土着的」なるもののように描いていたし、詩人の山之口貘の詩などからそれをそのまま信じていたところがありましたが、修学旅行で付き添いで行ってがっかりしました。本当は、個人で出かけて確認しなければいけないのですが、もうそんな意欲も薄れてしまいました。それより、もっと自分の生活の根っ子を見極めなければいけないのだろうという気がします。
こう書いてきて、ちょっと愕然としますね。なんのことはない、1970年代からこっち私はあんまり成長していない。ずっと問題の核心の周辺部を彷徨ったままではないか。
と、まあ、反省するのは止めておいて、難しいことはともかく、私は、ロシア文学から「土着」的というキーワードを強く印象づけられ、刻印されたのだとだけ書いておきましょう。外の世界からいろいろと「これが新しい」生き方だとか考え方だとか、ライフ・スタイルだとか、美の範型だとか、いろいろやってくるわけです。私の世代は、それが実にめまぐるしく変化に富んだようで、よく似たパターンでくり返された世代のように思います。そんなときに、心のどこかで、「新しいものも魅力的だけれど、自分には結局還っていくどこか故郷のようなところがあり、そこでの生き方だとか考え方だとか、ライフ・スタイルだとか、美の範型だとかを失うわけにはいかんのじゃないか」と思っていたような気がします。それを「土着的」としていたのでしょうか。
もしかしたら、それは既にして、喪失した状態に陥っているのかもしれない。そういう不安もありますが、ハイデガーでないですが、故郷喪失状態からの回復、本来的自己の再発見は、この世紀の課題としていろいろに論じられるようになるのではないかという気がします。
予言的に言ってしまえば、そういう議論と同時に途上国の多くが、次々にわれわれのたどってきた道を猛烈な速度で後追いしていく時代でもあるはずです。その矛盾もまたおもしろい現象となるでしょう。
環境負荷を減らす為にペーパーレスを促進するコンピューター普及を謳っていたはずが、コンピューターは紙の消費を増大させました。それと同じ皮肉が、物質から情報や知識の価値へと移行したはずが、より物質に依存する社会が進行するのだと私はみています。
グローバルが強調されるほど、実は「土着的なるもの」が価値を増していくというアイロニーも起こりそうな気がします。そして、私は未だに「土着的なるもの」の実相がわからないのです。
書き殴りでとりあえず置きます。(2.10仮) |
いまなら広中平祐『可変思考』(光文社文庫)とか彌永昌吉
『若き日の思い出ーー数学者への道』深谷賢治『数学者の視点』
(岩波科学ライブラリー35)、小平邦彦 『怠け数学者の記』(岩波書店)
、斉藤正彦『数のコスモロジー』(ちくま文庫)なんて読めるからから今の中学生がうらやましい。広中平祐・池田満寿夫『数学とエロチシズム』なんて大学の時だっただろうか。読んで面白かった。村田全『数学の思想』(NHKブックス)も大学に入って読んで興奮した。
日本浪漫派や自然主義文学と土着性しの関係はどのようにとらえられているのだろう。いつかきっちり読み込んでみたい。
橋川文三なんて読み返さなくてはねえ。
マルタン・デュガール『チボー家の人びと』に関連しては、高野文子『黄色い本』という不思議な味わいの漫画がある。
この漫画を読むことで、高校生であった私にとって、「革命」は単なる記号であったなあという実感が迫ってきた。ファッションや消費対象としての記号と同レベルであったと思わざるを得ない。生活とは別次元の世界のものだった。「政治」もそうなのだった。
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