本の棚卸 山田慈雨
この本は、文章そのものを引かないと要約や言葉の置き換えは困難なので、少し長く引用させてもらいたい。
…政治というのは、基本的には「ない」国家を「ある」として、そういうことにして営まれるものですから、皆でその作りごとを作りごとだと自覚してやっていけば、それでよいものなのですね。それ以上でもそれ以下でもない。生活つまり利害関係の調整ということに関しては、それで足りるはずなのです。「われわれは作りごとを皆でやっているのだな」と常に自覚して生活していけばよい。やってゆけるのです、それで。
ところが、言語によって作られたその作りごとを「本当だ」と思い込んでしまうと、人間はどうなるか。その作りごとのために、極端になると「命を捨てる」ということになります。国家間の戦争とは明らかにそういうもので、作りごと同士が、作りごとであることを忘れて、喧嘩をしている。これは、作りごとを本当と思い込んだことによってなされる人間の最大の愚行です。そういう意味でこそ、「戦争は愚かだ」という言い方は正確なのです。
近代以降の人間は、自分が国家を作っている、観念と言語によって自分が作り上げているということを忘れて、それが現実に存在していると思い込んでいるのだから、それ以前の人々が「神」という作りごとを信じ込んでいたと言って笑いますけど、これは笑えませんね。(笑)同じ作りごとですから。国家とはそういうものです。どこにも実在はしておりません。
社会と個人は対立しない
「共同体」というものは、つまり「社会」のことですが、読んで字のごとく「人間が共同してできた集まり」のことであって、それ以上のものではありません。ですから、共同体というものが、そういった個人個人の集まりとは別な所に実在していると思ってしまうと、これもまた思い込みになります。何か「社会」といったものが、われわれ個人を離れたどこかにあるのでは決してない。なぜならば、社会とはわれわれ個人個人の集まり以上のものではないのですから、それが存在するのは個人の「観念」、すなわち「思い」以外のどこでもない。その意味で、自分とは別の所に社会が実在すると思って、何か都合の悪いことを社会のせいにするということは、できないわけです。こんなふうに、社会と個人とは実はちっとも対立なんかしていないということが、まず見抜いていけるかと思います。
社会が実在しないのならば、では「個人は実在しているのか」ということを、逆に疑うこともできますね。つまり、実在しない社会の側から、今度は個人というものの虚構性を見抜くということ。個人はいったいどこに実在するのでしょうか。人は皆、自分は個人であると思っています。しかしやはり近代以降の「個人」というのは、これも思い込みですね。個人が実在するという考えは、国家と対になる強力な思い込みの一つです。皆それを思い込んで、「私は個人である」と思っています。「私は誰の某である」と。
問題は、その「私」とは何か、なんですね。「私は某である」、主語は述語である、と言った場合の、この主語とは何かです。私を「私だ」と思っているところの、この何ものかとは何か。もしも個人というものの正体を本当に見抜いていこうと思うならば、ここまで疑わなければ嘘です。
そのようにどこまでも疑っていくと、「私を私と思っている『これ』」というのは、実は誰でもない、非人称の意識であるということに、必ず気がつくことになります。つまり、私は誰でもない、ノーボディ。裏を返せば「私はすべてである」ということになります。
「何ものでもない」の裏返しは、「何ものでもある」、つまり「すべて」ですからね。
そうすると、おかしなことですが、「私」というのはあくまでも、これは言葉による名付けですけれども、非人称のこの「何ものか」は、実はこの身体の、この皮膚の内側に閉じ込められているものではないという、とんでもない事実にも同時に気がつきます、これは本当に不思議なことですが。したがって、個人という何ものかが実在し、それが社会もしくは国家と対立しているなんていうのは、こっちの現実から見ると、完全に思い込みの構図、つまり錯覚ですね。「個人対社会」というのは緒冤の構図です。
私は「日本人」ではない
あるいは、また別の例を挙げますと、民族、共同体というもの、これもその意味で思い込みなんですね。「私は日本人である」。ある意味ではそうですよ、確かに。「私、池田某は日本人である」。これは確かに嘘ではない。「私はアメリカ人である」「私はイラク人である」。けれども、先ほどの「何ものでもない自分」というところまで返ってみれば、私は日本人であるわけでは、実はないのですね。(笑)本当は誰でもない。非人称であるゆえにすべてであるところの、この何ものか、それがこの某をやっているのだ、と自覚できることになります。一回りしてきて、自覚できるわけです。
やはり自覚に尽きると思います。虚構を見抜くということは、裏から言うと、自覚するということなのです。自覚することにより虚構を見抜くということが、見抜くというそのことなのです。方法というか、自分が自分である、何ものでもない自分であるということを手放しさえしなければ、あらゆる虚構を見抜いていくことができるはずです。(pp.44-47)
基本的には言葉で現されただけのもの、実は存在しないもの、虚構のもの──こういうものにわれわれは随分と支配され、振り回されていることが多いですよね。
私自身の出発点もそこでした。中学生のときにふとしたはずみで気づき、高校生の時に突き詰めれば、人生に意味など「なにもない」ということではないかとまとめ、「ないからこそ自分で決めていけばよいのだ」と考えることで、なんとも窮屈な親や教師、あるいは漠然とした世間からの拘束に耐えていく隙間を見つけ出そうとしていたような記憶があります。
他方で、生活費を稼ぎ出す用意の未だなかった、完全に親に依存していた状態であることは意識していましたから、観念だけで「自由」だのなんだのを口にする気にもなれないでいました。小遣いを母から受け取るのを当然とか親の義務だとか解釈する気持ちはサラサラなかったのです。
さりとてお金を稼ぎだしさえすれば問題は解決と思ったわけでもありません。大学生になって、アランドロン主演の『太陽がいっぱい』なんて映画を映画館の片隅で観て自分にはああいう金を得たいというような欲望は薄いなと奇妙な感想を抱いたことを覚えています。親に依存しないで生きていける程度の収入を得られたら気分は楽になるだろうなとは思っていましたが。この辺りのところ著者の池田さんはどうだったんだろうと、くだらない疑問を抱きました。
人間関係というのも10代20代にはかなり拘っていたと思います。本に戻ります。
心理的な落とし穴
そうして見抜いてゆくと、最後は振り出しに戻ります。「なんだ存在しているのは自分だけではないか」というところに戻って来ます。原点、そう、始まりであり終わりですね。そこに戻って来てしまいます。存在しているのは自分だけ、「天上天下唯我独尊」ですね。
そういう言い方をすれば、確かにこれは非常に孤独なわけです。しかしこの孤独は、文字通り「天上天下」、宇宙大の孤独なわけですから、これは非常によいですね。広大無辺、とにかく広い。(笑)
普通「孤独」と言うと、社会対個人の構図の中で考えられていて、「社会から疎外された個人の孤独」という文脈で使われますけれども、これもまったくの勘違い、間違った構図にはまっていますね。そういう意味での個人の孤独というのは虚構で、これもまあ作りごとです。一種の心理的な落とし穴のようなものがあるのでしょう。そういう所にはまっていたいという人も、けっこういるようです。でも、宇宙大の孤独という零地点、何ものでもない零ポイントを、必ず一度は通過しなければ、こういった嘘っぱちは見抜けないわけです。そういう所を通過するからこそ、社会共同体とまで言わなくても、通常の人間関係、親子、恋人、夫婦とか、そういった人間関係の嘘も見抜くことができるようになります。
愛と孤独
「零地点の孤独」というものを知っていれば、通常の孤独によって求められる友人や恋人、一種の寂しさから求められる、そういう所有欲のようなものの嘘というのも、よく見えてきます。そういう嘘の場合でも、「愛」という言葉を使ったりするのでしょうが、それはたぶん本当の愛ではない。おそらく、自分が誰でもないという零地点にのみ、本当の愛というものは発生するのだと思います。そうではなくて、自分は誰かである、そうすると当然、他人も誰かであるわけですから、そこには定義により最初から、越えられない溝があることになりますね。だから、愛というものは、自分が何ものでもないということの一種の状態のようなものであって、対象的に求めたり求められたりするものではないように思います。
愛とは、なにがしか対象があって発生するものだと人は思っているようですが、そうではなくて、それは自分の側の状態なのではないか。「愛を失う」というような言い方をしますが、失われるようなものはたぶん愛ではない。自分がその状態であれば、なくなるはずはないのですから。
それをもうちょっと論理的に言ってみると、「自分は誰でもない」、それを裏返して言うと「誰でもある」、つまり「すべての人が私である」というような境地なのでしょう。お釈迦様なんかが達せられた境地というのは、そういうものなのかな、と。そういう場合にだけ、「愛」という言葉を使っても嘘ではないのかなと私は思います。わかりませんけどね。だから愛と孤独は、実は相反するものではなくて、同じものなんでしょう、同じその状態のことなんでしょうね。
理想の共同体
ここまであられもなく見抜いてしまうと、共同体なんてものは本当に、あってもなくてもどっちでれいいや、となります。もしそこまで何もない所まで見抜いてしまって、共同体というものになお意味があるとしたら、このような自覚を共有する人々によって作られるそれでしょう。ですから、それは「共同体であって、共同体でない」という、非常に逆説的な存在になると思います。なぜならば、その共同体は、一方で「私」だからです。
それは「人類共同体」という言い方ともちょっと違うと思います。人類共同体とは違うのです。なぜならば「私」というものをよく考えると、人間ではないから。(笑) 「私」というのは人間ではないのですよ、本当に、よく考えると。(笑)だから、そういう場合に共同体なんて言葉はもういらないのでしょうね。ただ、何というか、「そのように在る」という意識の状態なのでしょう。
私は、プラトンという人が何を言おうとしたのかが、こういうときにわかるような気がします。プラトンの「国家」というのは、共同体であって共同体でない。現実にそれが実現するかしないかは、実は全然問題ではなくて、そういった事柄、自分が何ものであるかを自覚していった果てにある、そのようなイデアであるわけです。イデアというものは、あってないも仲です。あってないということを瞬間瞬間に自覚しているそのことがイデアなわけですから、一人一人がそのことをそのように自覚しているならば、その意味で、プラトンの共同体はすでに現実であるという言い方もできるわけです。(pp.58-61)
プラトンのイデアをこういう言葉で説明するというのは予想していなかったことで、少々驚きました。考えて見れば、私も同様のとらえ方をしていたような気がしてくるのですが、「こんな説明の仕方があるのか」と感心しました。
私にとっては、この本、むしろ高校時代の記憶に触れるような懐かしい感覚に支配されるのですが、それと関わりがあるかも知れない記述が最後の部分にみられます。また引用させてもらいます。
十七歳からの手紙
それで最後に、今の話から、ぜひここで紹介したいお手紙があります。これは「池田晶子読者会」というのがありまして、その会報で紹介されたこともありますが、非常に素晴らしいので改めて紹介しておきたいものです。十七歳の高校生からの手紙です。
「拝啓、突然のお手紙失礼いたします。ぼくは都内の高校に通うものです。今年で十七歳になります。ぼくは二年前のちょうどいまごろに、池田先生の書かれた『14歳からの哲学』を読みました。そして大変感動し、それからというもの、自分で物事の本質を問うていくようになりました。思えば二年前までは諸々のことにいちいち煩わされ、世や他人を呪ったり、また逆に自分にコンプレックスを持っていたりしたのですが、池田さんの本と出会ってからというもの、コンプレックスなどというものは思い込みだったのだと思うようになり、おかげで今はどんなことに対しても気持ちが軽やかです。
一方で、いわゆる哲学というものにも興味をもち、しかし自分で考える方が他人の書物を読むよりもはるかに楽で、そして確実ですので、自分で物事を考えていくようになりました。こうしたことを経て、ぼくの人生は大きく変化したように思います。そして無論、人生が変わったきっかけは、池田さんの書かれた本と出会ったことでした。いまでは池田先生のほかの本も読むようになり、どれをいつ読んでも深い感動を覚えずにはいられません。今回いきなりお手紙を差し上げましたのも、そのお礼、つまりぼくの人生が変わり、強い気持ちで物事と向き合えるようになれたことに対する感謝の気持ちを、どうしても伝えたかったからです。」
彼はそう言って、自分の書きものを送ってきたんです。それは作文というよりも考えそのものの言葉で、「メビウスの帯」というタイトルが付けられています。こんなふうな文章です。
「メビウスの帯」
「あらゆる相対的で、しかも対立し合うような考え、たとえば善悪や美醜などの本当のあり方についての考えをまとめました。実際、頭の中でまとめてみて、こんな荒唐無稽なものがあってよいのかという不安もあり、またほかの哲学者の著作などもあまり見たことがないので、これがどういうふうに思えるのかは正直わからないのです。しかし、わからなくても、それが否定されないことだけは確かです。つまり、買いたいのは美は醜の別名であるというようなことなのです。もっと言えば、あるものはその対立物と同一である。ですから、こうなれば、本当のことは嘘のことになり、絶対に否定されず、絶対に肯定もされないのです。では、何なのだと言われると、ぼくは、『それ』は『これ』だと答えることにしています。
これを称してメビウスの帯と呼びたいのです。『それ』が『これ』であるものでして、つまり、真偽などの対立は本来ないものです。メビウスの帯にはねじれがあり、それをたどっていけば、表裏がないことがわかるのですが、実際の物事もそういうふうにあるんだと思います。それはすべてを包みこむ一つのものなのです。それは絶対と相対の対立すら超えている。『それ』とは、では何か。それは今まさしく、こうして、『それ』を問うている『これ』なのでしょう。目に見えない唯一のものが目であるのと同じように、ですからメビウスの帯は見えないのです。それは言葉そのものであると思います。と同時に、言葉ではなくて、沈黙であるとも思います。それらすらもすっぽり包みこんでしまうものなのです。ぼくはこれをある時ふっと得たのです。そしてなんだこれは、という気持ちになってしまったのです。『それ』、つまりメビウスの帯は、何でもなく、何でもあるのです。
そんなふうな、いわばインスピレーションの賜物として、メビウスの帯が降ってきた時から、ぼくは「普通の」暮らしがどうしてもできなくなってしまったのです。それはこれ、すべてがひとつであって、ゼロが無限、ぼくが彼なのです。なんだか絶句もできなくなり、何といいますか、ほとんど発狂した感じです。しかも、メビウスの帯は、紙の上にも頭の中にも、どうしても措けないものです。それが何であるかがよくわからないのです。なぜなら、それは『何』 であるからでしょう。どうしようもなくなったので、そういうときは「知らん」と二言メモ用紙に書きつけ、眠ることにしました。本当はメビウスの帯を、ぼくは夢見ているのです。そこは自由だからです。
プシュケーは、風が語源だということをどこかで聞きました。ああそうだろうなと素直に思ったのです。風は自由ですから。この風はメビウスの帯のねじれを吹き抜ける風なのです。なんといいますか、荒々しい北風がぼくに向かって吹いてきたときに、ぼくは、あの吹いてくる北風も、またぼくであって、ぼくたちは風なのだと思ったのです。
以上が今まで考えてきたことです。自分でもわからないことだらけです。これからも考え続けることしかできなくなったように思えます。しかし、どんなときでも、ぼくは、ぼくらが風であるということだけは忘れまいと思います。それこそ、ぼくの行為の命であり、そして全人類の行為の命であると信じるからです。ぼくはこの風に乗っていこうと。思えば、すべては池田さんの一冊の本との出会いからでした。今では、そして昔から、ぼくらが宇宙だったのですね。お読み下さってありがとうございます。」
この高校生の手紙に池田さんは解説を加えています。こちらも加えておく方が理解しやすいでしょう。
垂直的な精神
これは本当に素晴らしい。実に清々しい。私、こういうの大好きです。(笑)若さの力を目の当たりに見る思いがします。哲学の核心を三段跳びで一挙に掴んでしまう、すごいで
すね。この一種詩的な散文を、野暮を承知でちょっと解説してみます。
この「対立物の同一性」で、彼はすでに弁証法を掴んでいますね。たぶん、弁証法という言葉なんか知らないでしょう。しかし弁証法を確実に掴んでいる。善があるから悪もある、逆も、また真だ、と。じゃあ、それは何だ、言葉だ、言葉とは何か、沈黙だ。沈黙とは何かといえば、当然空ですね。そうは言ってませんよ、空なんて言聾は。たぶんそんな言葉は知らないかもしれません。けれども、この人は確実に空をつかんでしまっている。素晴らしい、すごい直観力です。
要するにこの年で、この人は「色即是空」を掴んでしまったわけです。この年でそれじゃ大変ではないかと心配する向きもあるかもしれませんが、そんなことはない。空とは何ものでもないということですから、何でもOKになるわけで、当たり前の人生に起こってくる事柄を、非常に当たり前に受け入れながら生きていけると思います。
素晴らしいのが、「ぼくたちは風なのだ」の「ぼくたち」のところに傍点が打ってあることです。つまり魂に内在する普遍的な倫理性みたいなものを感じとっているんですね。この人は、その普遍的な倫理性の核心というものを掴んでいる。「ぼくの」というのが、同時に「全人類の」という言葉とつながっている、直結していますね。
なんでこんな手紙が私のところに来たかというと、周りの大人や先生にこういうことを言っても理解されないんだ、と言う。それはそうでしょう。この種の、いわば垂直的な精神というのは、社会の地平ではまず理解されません。社会の地平というのは生活がすべてですから。けれども若い人の方が、こういう垂直性に確実に近いはずです。こういう人たちに期待したい。そしてこういう新しい人たちが現われているところに、希望がなくはないのかなという気もします。
基本的には、「各自が自分に善いことだけをする、自分さえ善ければいいという構えを崩さなければ、何があっても大丈夫だと思います。他人や社会を気にしない、惑わされない」だけでいい。それに加えて、「なんで在るんだかわからないこの奇跡的な存在、つまり人生を可能な限り深く味わってみたいという気持ちを持ってい」る、「これをまた裏返すと、そんなに気張らなくてもいいのかなとも言える」こういう姿勢で私自身生きてきたところがあって、奇人変人の類かもしれないけれど、世間の慣習につきあうのを最小限に留めようとしてきました。あんまり余裕がなかったんですね。ただやはり、時間が惜しかった。この不可思議な、奇跡的とも言える人生を味わうには時間やエネルギーが惜しかった。池田さんは私よりもっと余裕ある人生を送られたのだとは思いますが、妙にぴったりくる表現を出してこられるので困ります。
(2011.6.05)