本の棚卸        山田慈雨

磯田道史『龍馬史』(文藝春秋)

 この本全体の紹介は、私にはあまり関心がない。というのも、NHKのドラマも昨年も見なかった(このところ数年見ていない)し、坂本龍馬はインチキ臭い人間だと、かつて司馬遼太郎『龍馬が行く』にかぶれて、そして醒めた人間としては思うからだ。この本ではかなりバランスよく、龍馬の商人として紀州藩相手に事故補償金をがめつくふんだくるところなども検討している。
 ちょっと変わった箇所に集中して紹介したい。
 慶応期の京都で、いかなる陰謀をも遂行出来る力を持っていたのは、薩摩藩と会津藩の二藩しかなかったことを説明して、教育という側面に焦点を合わせている。
 中川宮朝彦親王という皇族(維新後は、久邇宮朝彦親王と名を改めて伊勢神宮の祭主を務めた。終戦直後に総理大臣になった東久邇宮稔彦親王の父にあたる人物)が詳細な日記をつけていて、その記述から幕末諸藩の政治的行動力が分析できる。
 会薩の二藩の行動力は傑出している。両藩は、様々な人物に高い頻度でアクセスし、政局の細かい密議をしている。薩摩藩は西郷書之助(隆盛)や大久保一歳(利通)、高崎正風など在京の首脳陣が、非常に優秀で、会津藩も手代木直右衛門勝任や秋月悌次郎など有能な人材を京都に送り出して活動させていた。この二藩が優秀な人材を京都に送り得たのは、人材登用制度と関係がある。身分の低いものでも有能であれば役職に抜擢することを徹底させたのだ。
 以下引用する。

 会津藩は、幕末の動乱の八十年ほど前に、天明の大飢饉の直撃を受けました。この藩は最盛期の徳川吉宗時代は十六万人近い人口がいたのですが、飢饉のために三割減って、十万人になってしまいました。この人口減は地獄の様な有様を繰り広げたことでしょう。人口の減少は、年頁収入の落ち込みに直結します。
 財政悪化で会津藩がどうにもならなくなったときに、一人の天才家老が現れました。それが田中玄革という人物です。戦前は武装共産党委員長、戦後は政界のフィクサーとして知られた田中清玄の祖先にあたる人物です。田中玄辛は熊本藩を手本とし、まず人材登用制度の改革を行います。
 熊本藩では、藩士を藩校で教育し、そのなかから秀才を吸い上げて、藩の要職に配置していくという制度が採用されていました。田中は熊本藩から古屋昔陽という学者を政治顧問として招き、「日新館」という学校を作り、ここでエリート教育を行いました。しかも、学校を作って終わりというのではなく、その人材をどう生かすかについても考えていました。
 江戸時代の役人の仕事は、月番制というもので出来上がっていました。老中はじめどのような役職でも毎月「はい、今月はあなたの番」と一つの役職に何人もが就いて月ごとに交代して職務を行っていました。これが行政のスピードを遅くする原因であり、その上、無責任にもなっていました。次の月になれば、誰かがやるということで、責任があいまいになり、仕事を先延ばしにしてしまうからです。田中はこの弱点に気づいて新しい方式を採用することにしました。
 彼は「いまの藩政は碁盤の上に碁盤の目がひかれていないのと同じ状態で、人間も目がひかれていなくて担当が決まっていないと動きようがない。これでは駄目になってしまう」という言葉を残しています。田中は、軍の担当とか町の担当とか、役職分担を作って責任をはっきりさせた。これは江戸時代では大きな改革だったのです。
 これには良いモデルが隣の米沢にありました。今でも人気のある米沢津の上杉鷹山の改革は、熊本方式を持ってきて成功させた改革で、鷹山と熊本藩主の細川重賢が二人で話をすることによってなされた者だったのです。

日本最初の管理教育
 これを真似して会津藩では徹底的なエリート教育が始まります。その際、作られた「日新館」は管理教育の最初といっていいでしょう。熊本型の改革を行った藩は多いのですが、会津藩ほど厳しく実行したところはありません。「親に孝行であれ」とか、「主君に忠節を尽くせ」など、要するに、藩士はこういう行動を取る人間になるべきだという徳目条項「六科糾則」を作って、その通りに行動させる。それができる人間を藩の要職に抜擢していく。「六科」は六つの行動基準の意味です。これは教育勅語による学校制度と非常に近い方法です。
 近代国民国家においては、しばしば国家がどういう人間になるべきかの目標プログラムを作り、その通りの人間に仕立てようとします。それをクリアした人間を優秀として評価するのです。そのプログラムは、お国に役に立つ徳目ばかりで、「昼寝をしてもいいから、素晴らしい芸術作品を創れ」というようなものはありません。「早起きをして、勤勉に勉強をして、国に忠誠を尽くして、討ち死にしそうな人」を養成するわけです。会津藩はそれをどの藩よりもシステマティックに行いはじめました。日新館からは次々に「六科糾則」を仕込まれた秀才が生まれていきました。(pp.121-124)

 幕末の動乱期には京都守護職となった藩主とともに京都に入り、さまざまな活動の中心となっていたのがこの藩校を出たエリートたちだったと著者は指摘している。エリート教育という点では、フランスのグランゼコールに似た役割を果たした存在があったというのだ。

 一方、薩摩藩も早くから熊本藩に学び、藩校の「造士館」を作るのだが、こちらはちょっと事情が異なる。

 ここから先が薩摩藩の面白いところですが、この藩校で成績が良かった人間ももちろん登用するのですが、それ以外にもふだんの行動を見ていて人材を選びます。薩摩藩には人を選ぶ能力を持った藩主が出ました。殖産興業を導入し、幕政にも関与して名君とうたわれた藩主の島津斉彬です。彼は、側近に西郷吉之助を抜抜擢しました。
 薩摩藩にあって、西郷ほどの人目利きはいません。西郷は子供の頃からずっと生家のある加治屋町の仲間のなかから、大久保一蔵、自分の従兄弟の大山弥助(巌)、と次々に人材を見つけていき、維新の原動力にしました。
 なぜ西郷が友人や親戚の子供たちの能力をわかっているのかというと、子供の頃から「郷中教育」を行っていたからです。彼らは一種の少年団を作っていてそこで年長者が年少者を教育するのですが、知恵を授けるよりは、判断力を養成することに主眼を置く。非常に実際的な教育で育っています。
 郷中教育にきまった校舎はありません。朝、示現流の剣術の稽古をした後に、少年たちが集合します。そして今日はここを借り受けたいと侍屋敷やお寺に伝え、そこが即席の教場になります。彼らの教育の中でも重要なのが判断力を養う「詮議」というものでした。詮議というのは一種のケーススタディです。もしこういうシチュエーションになったら君はどうするかということを先輩が問いかけ、小さな子供から順に答えさせていくというものです。
 例えば、殿様から藩の急用を仰せつかって早馬でも間に合わない場合はどうするかと聞かれます。これに対する回答がいろいろ残っていますが、後に文部大臣になって学制を導入した森有礼が面白い答えを残しています。まだ小さかった森は、ちょこちょこと先輩たちの前に出ていって「馬に乗って、後ろから馬を針でテクテク刺す。すると普通の時の早馬よりは早く行ける」と答えたそうです。
 そのような感じでどんどん答えを出していきます。あるいは町を歩いていて泥を町人に掛けられた場合はどうするかとか、殿様と自分の親が不治の病に罷って、助ける薬が一人分しかない場合どうしたらいいかと聞いたりするのです。ちなみにこの場合は、親をさしおいて、殿様にあげると答えるのが、正解とされていました。
 そのようなことを何度も詮議で繰り返しているのが、郷中教育というものなのです。
メンバーは、誰がどういう答えをするかをずっとこの集団の中で聞いている。薩摩藩士の思考パターンは「場合分け性」が高いかもしれません。この場合はこうする、もしこうなったらこうすると、あらかじめ答えが用意されている。だから彼らは、危機に直面したときに行動が早い。知恵をつける記憶力ではなくて、対処の判断力を養っているわけです。
 薩摩の子供たちは、維新の志士の次の世代もこの教育を受けています。例えば大久保の次男、牧野伸顕くらいまでは、この教育を受けていました。牧野は第一次世界大戦後のパリ講和会議で全権を務めています。
 このような教育は薩摩特有のものに思われがちですが、戦国時代の日本では、広く同様の修練が行なわれていました。武家の文献をみると、夜話などといって車座になり、実戦に役立つ問答を続けていたことがわかります。しかし、時代が進むにつれて各地で消えていき、そのうち「子日く」と論語を素読するような形式主義的な教育に変わっていきました。そうなると、判断力、柔軟な発想という点では人材が選ばれなくなります。
 ともかく優秀な人材を確保することに成功した会津藩と薩摩藩は、京都の政局で策動します。両港の色彩は百八十度違い、会津藩は近代型エリート教育、薩摩藩は戦国時代がフリーズドライされて残っていた教育といっていいでしょう。(pp.124-127)

 ケーススタディ中心の教育・訓練はスタンフォード大の経営大学院などの手法にもみられる。今日でも有効な手段だと思う。
 われわれは、どうもそのような実践的訓練に弱いところがある。そして、社会調査などにおいてもことばだけのアンケートで簡単に済ませてしまう情けのないところがある。P&Gジャパンの洗剤開発のマーケットリサーチの様子を見ていると、実際に家庭内に入れてもらい聞き取り調査を行うだけでなく、実際の作業の様子を見せてもらったり、主婦の生活感想をおしゃべりを通じて聴いているうちに、無意識レベルの欲求に辿り着くという手法を採っている。
 学校教育の現場でも優秀な教師は同じ事を行う。
 それはさておき、磯田の上の指摘は重要である。第一に、人材登用は藩校の発達・充実と関係がある。第二に、それは熊本藩をルーツとして、導入したものを祖型としている。第三に、薩摩藩の場合には、それに加えて、戦国期以来の「場合分け」教育と絡まっている。第四に、維新後の教育勅語教育のスタイルの原型が熊本藩ルーツのものに見られる。第五に、われわれが英国パブリックスクール由来と理解してきた規律教育は、むしろ熊本藩−米澤藩−会津藩型藩校教育にこそ原型があるのかもしれない。
 パブリックスクール改革におけるアーノルドの業績については別に書き込んだことがあるが、ここでは未だだったかもしれない。これについてもいつか書き加えたい。
(2011.6.20)

indexに戻る