本の棚卸 山田慈雨
2006年から2009年3月まで毎日新聞で連載されていたものらしく、小泉内閣から麻生内閣の時期に相当し、2009年10月に出版されている。
対談相手を列挙すると、佐藤優、岩田正美、赤城智弘、雨宮処凛、いとうせいこう、西部邁、片山杜秀、魚住昭、中野剛志、山口二郎、加藤陽子、姜尚中、森崎和江、森まゆみ、藤原和博、武田徹、佐々木高明、吉本隆明、伊勢崎賢治、寺脇研、榊原英輔、田中均、村井吉敬、長倉洋海、瀬戸内寂静、末松文美士、森達也、坪井善明、山之内昌之となっている。これは凄い。尤も、片山杜秀さんら何人かは私は存じ上げない。無論面識があるという意味ではなく、その著書を読んだことがない。近代の右翼思想研究者らしい。メチエ選書の本だけは購入していたが未読であった。村井吉敬、長倉洋海は、アジア研究で『エビと日本人』の鶴見良行の共著者とシルクロードの写真家であった。坪井さんはベトナム史関係の著書をざっと流し読みしたことがあるだけ。馴染みは薄い。武田さんもテレビのシンポジウム番組でその発言を聞いたことがある程度。
逆に後の人々にはかなり影響を受けた人もいる。特に、西部邁は大衆社会論や保守主義理解に大きく影響を受けた。1960年代で、経済学の面では村上泰亮と同時期に読んでいて、村上に軍配を上げたため、しばらく軽んじていたところがあった。彼の発行していた『発言者』の購読も続けていた。佐々木高明さんは講義を聴いたこともある。
いずれの対談も興味深い。そして、中島の態度も一貫したものを感じる。
西部との対談も気になるが、これはやがて二冊の本に発展するので、そちらで取り上げたい。
当時の社会状況からいえば、貧困問題が重要で岩田、赤城、雨宮あたりを取り上げるのもよいのだが、政治学者の山口二郎との対談を少し詳しく取り上げてみたい。
山口は政治学は現実の政治に言及することなしには存立し得ないとして、積極的に民主党と関わってきた学者である。また、政治学者にとっては、ハイエクは重要な研究者であり、思想家であるとはいうものの、その亜流のアメリカ新保守主義などは見るに値しないという油断があり、更にそのまた亜流の竹中のような主張が大きく日本の政治の流れを変えるとは本気で思っていなかったところがあったのではないかと思う。小泉のような政治家としての言葉をもたず、キャッチコピーの羅列だけで渡っていけるほど自民党政治は甘いものではないという認識もかなり共有されていたのではなかろうか。山口もこのあたり大きく読みを外していたと思う。
ところが2002年の鈴木宗男逮捕の頃、「新自由主義がここまで(2009年の対談時)社会を分断し、格差や貧困をもたらすとは思わなかった」としている。
山口は、「以前は、自立した市民が腐敗した官僚や自民党を乗り越え、民主政治を作り出すというイメージを持っていた。その市民は、やはり安定した職を持つ存在です。それが新聞を読み、テレビの報道番組を見て、批判的知性を持つ。そういう民主政治を考えてい」たと総括している。山口より8年年長の私にとってもこのような認識は当然であった。というか、「かくあるべし」の市民、選挙民イメージであった。
ところが、それは、「戦後の経済成長と再分配の蓄積で、人々が総中流意識を持てたからこそのもの」であった。「その蓄積を食いつぶし、なりふり構わぬ新自由主義が展開されると、市民の生活は相当に陥没してきた。私が想定してきた市民は実は非常に脆弱なもので、もう一回、生活をきっちり確保しないと、民主政治がどうだなんて議論はできない」という反省を2009年時点で山口はしているというのだ。
ここからは山口がそうかどうかは解らないが、自民党の田中角栄的なるものは、疑似社会民主主義的な、弱者に陥りそうな層の生活を補強するような要素があった。それを小泉構造改革なるものは粉砕したという説明は可能だろう。
市民とは常に理性的・合理的に行動する主体と見なされるわけだが、「弱者はその市民から除外されかねない」という展開は予想していなかったのが小泉以前とはいわないまでも、80年代までの政治学者の常識だったといってよいのではないか。「小泉政治で言えば、障害者自立支援法が障害者を追い込む。近代的な主体を設定して、それに合致しない人間をとても暴力的に排除する可能性がある。」という例を中島は挙げている。山口は、「自由」な責任主体となることを強制される状況の例として、夕張市を挙げている。「この数年間、地方交付税を減らして自治体の自己責任が盛んに言われてきた。だけど、北海道の人口密度は低く、急激に産業構造が変わった市町村に『首都圏と同じことをしろ』と言われても困る」。90年代に、民主化と市場化という全然違うベクトルが連帯して、腐敗した族議員や役人をたたきつぶすという具体的な課題を市民主義者と市場主義者が共有していた。それが、情報公開や公共事業の見直しなどがかなり実現した途端、再分配が問題になった途端、市場主義者にとって地方分権は、意思決定の場をより住民に近づけるという民主主義の問題としてではなくなってしまった。「市場主義者は政府のリストラの名目に分権を持ち出した。だから地方に『与えられたお金の範囲で仕事をしなさい。あなたは自由だ』と窮乏化を押しっけていく。そういう地方分権が進んでしまった」。
以上の視点は重要なこの3,40年の課題の一つであろう。
もう一つ。これはもっと以前からの課題になるが、官僚が政党を作り、運営していく以外のタイプの市民がある種の理想を共有して党員になるという政党が政治を動かしていくという西欧型デモクラシーは、日本では発展し得ないのであろうかという問題がある。
この問題は裏側から見ると、世論の問題でもある。これに対し、山口の指摘をみておこう。
近年、政治的な意味空間が崩壊してきた。世論も、オピニオンではなくセンチメントに流されているのではないかということに関連して、次のように山口は指摘している。
ちょうど二〇〇六年の初めごろ、結構大きな世論調査をやりました。格差間超や構造改革の評価について、東京で一〇〇〇人、北海道で五〇〇人を対象にしました。この結果に、とても驚いた。たとえば一極集中がいいか、日本中どこでも人が住めるような多様な国作りがいいかといった質問で、東京も北海道も九割が多極分散に賛成。大都市に集中して経済効率を上げるべきとの答えは東京でも、1割。格差が広がったという認識も多数派でした。地方交付税について、わざわざ「大都市が払った税金を地方にまわすことについてどう思うか」と訊いても、それを多数派が支持する。そういうふうに、世論調査をするとものすごく健全な世論が戻ってきているんです。
小泉改革を熱狂的に支持した人は、一体どこにいるのかと、国民が丸ごと、情緒や感情だけで動いて政治判断をしているとは言えないんじゃないでしょうか。
他方で、05年の郵政選挙、あるいは小泉時代の五年間を振り返ると、小泉というおよそ説明能力のない人が支持されてきたことも確かです。さっき挙げた調査結果と完全に分裂している。世論調査には、書面ですごく理性的に答える人が、ワイドショーを見るととても情緒的に動いてしまう。一人の人間にいろんな要素があるのでしょうが。
中島は、次のように返している。
世論が「2ちゃんぬる」化している。世論が何かにわーっと飛びついて、誰かを集中的にバッシングするという。
最近、納豆を巡るテレビ番組捏造への批判が気になりました。人々は納豆が健康食だという当たり前の事実に熱狂し、捏造が分かったとたんにバッシングした。これは今の感情的な世論を象徴する出来事に思えます。マスコミから権力者まで、こうした世論を何度する雰囲気がある。
この視点は、その次の加藤陽子との対談においても持ち出され、30年代の世論が沸騰する時代との関連で、あまりにも断定口調のフレーズでテレビ言説が充たされ、怒りや恐怖の次元での共感を増幅する広告的感覚に支配されている状況が、国際関係にまで及んでは危険だと議論されている。(2011.8.3)