本の棚卸 山田慈雨
この本に、拓未司『紅葉する夏の出来事』(宝島社)、さだまさし『アノトキノイノチ』(幻冬舎)と学校からドロップアウトする人間、父母との軋轢に苦しむ人間を扱ったノンフィクション、フィクションを続けて読む。
受験の失敗を親が受け入れられないということから、あるいは、母親による強制が子供の精神を歪めてしまうことの恐ろしさの指摘は迫力があった。
秋葉原連続殺傷事件犯人の加藤智大は、決して友人との交遊がなかったわけではなかった。むしろ、中高時代の友人との付き合いは事件直前まで断続的に続き、それ以外にも現実世界での交友関係は結構あった。しかし、彼は、タテマエを外したホンネの付き合いは携帯掲示板上での関係にこそ存在するという幻想を抱いていた。また、職場においても、自分の気に入らない周囲の人間の行動に対して口頭で抗議することはなく、説明なしに、辞めるといった行動で表現する奇矯な行動パターンが繰り返されていた。これらの原型は父母とのコミュニケーション・パターンに根っこがあるという見立てで著者は展開している。(それにしても、対人コミュニケーション能力を粉砕するような母親の影響というのは凄い。また、全国に散る携帯掲示板仲間に会うためにせっかく正社員になった会社に友だちに会うために1週間の休暇を取りたいと申し出る神経に加えて、それが認められないとなると退職してしまうという行動はやはり不可解としかいいようがない。しかし、現高校生の中には「理解できる」「共感する」という者もかなりの数いるのかもしれない。)
著者の中島岳志は、加藤智大が、自分の内面について語る言葉をもたないこと、現実世界はタテマエの世界と理解していて、親しい仲間にも職場の同僚にもネット上のハンドルネームは明かさなかったり、どの掲示板を利用しているかも教えなかったり、高校時代からの仲間にはネット利用していることすら話したことがなかったという事実に注目している。
私自身は、いい加減な年でもあるため、ネット利用も限定的で、基本的にネット情報に重きを置いたことがなく(但し、出版物によってその人物の力量の解っている研究者のホームページやブログ、あるいはPDFファイルのような電子化された文書を情報源として重視しているということはある)、掲示板への書き込みもしたことがないし、閲覧も仕事の都合で確認のためという以外はない人間には理解できない話ではあるのだが、どうやら加藤らの世代では、ゲームを介してのコミュニケーションとかネット上の書き込みの中で自分の抱え込んでいる苦悩や苦痛、悩みや迷いを表明し、それに共感したり反発したりする者が反応を返してくる中に自分の痛みや悔いの確認が行えるという構造があるらしい。
それを前提として、彼が現実の人間接触の場面で、対面接触(face-to-face)の場面で、自己の内部で生じる感情を表出したり、過去の記憶に絡みついた情報をそれに対応した表情とともに言葉に表すことができなかったことに著者は注目している。
そして、それは、幼児期に母親が強制、規制を過剰に行い、命令、指示を常に出し続けたことと関係があると著者は判断しているようだ。学校の宿題の作文すら、何度も書き直しを命じ、教師が評価するような文章を仕上げることを要求したという。
私は教師を長くやっているが、中学でレポート提出を求めると、成績優秀者の中に一旦提出したものを取り戻しに来るケースが結構ある。理由をしつこく問いただすと、自分が寝た後、母親が添削をしていてそれを清書したかと登校後、電話があったなどということが判明する。ある生徒は「母の検閲済みです」と提出したこともあった。
確かに、中島の見込み通り、彼らは総じて内面を外に出すことは回避する傾向がある。しかし、彼らのすべてが過剰な攻撃性を抱え込んでいるわけでもないし、仲間にはかなりプライベートな悩みも打ち明けていた。わからないと私は思うだけだ。また、私の求めたものが、内面を露わにする作文を求めたのではなく、あくまでも研究の経過と結果、その論理的整理をまとめる練習なので、その作業過程で自己と対峙するほど深く考えるところまでは到達できない者が大半だろう。(本来、外部にある社会事象を徹底的に観察しようとすれば、被観察者の内面を推定することが起こりやすく、いやでも自己に照らし合わせて推理をしていく中で、共感が生じてくるのが普通かとも思いますが。)
それ以上に私にはひっかかりを感じることがあって、それは、「まとも」とか「普通」と見なされている多くの若者や大人が、今日、いろんな人と人との接触場面で、定型的に流通しているような「ほんね」を交わす会話の中に少し混ぜて、親しい交わりをしたという錯覚に安住しているような気がしてならない。
私は高校時代にやたら文学作品に耽溺したということもあり、ことばで表現するに値するのは、真実に近いものではないかという感覚がある。社交的会話や儀礼的会話の重要性は理解できるが、どうもどこかで抵抗を感じている。
加藤がなぜかミクシィの招待状を発行した人物が一人だけいる。積極的に加藤のネット上での交遊関係にもついても明かし、ミクシィでのハンドルネームも明らかにしている。その数歳年長者の前ではかなり心の内を明かしていたようだ。また、上野の駐車場で車を放置していて警察官に職務質問を受けたときに、北の出身者同士というだけでその警官が親しく口を利き、君は頑張りすぎているのではないかと忠告を与えられたとき素直に耳を傾け、その駐車場の管理人が駐車料金を払ってくれればよいと言葉をかけてくれたとき、素直に謝罪し、その後金が作れたときにわざわざ静岡から出かけて挨拶している。
心底相手のことを気に掛けているときに発されることばというものがある。これは、一見スマートに対人関係処理を行い、数多くの友人との交友関係を築いているように見える生徒に、ときとして驚くような冷たさ、友人(隣人)への無関心、無共感を感じ取ってしまうことと対蹠的かという気がする。
この本は、必ずしも結論が優れているとは思わない。しかし、多くの考えるべきヒントの隠されている書だと感じた。(2011.6.21)