本の棚卸        山田慈雨

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橋爪大三郎・大澤真幸『ふしぎなキリスト教』(講談社現代新書)

 宗教について教壇で教えるということはない。ただし、『高校 倫理』教科書の古代思想の編において、ギリシア思想に次いでユダヤ教・キリスト教・イスラム教についてのほんの概略が記述されている。
 その後の古代インド思想も仏教に関する記述がほとんどになる。儒教も東アジアの宗教といってよいだろう。更に、日本の思想篇の中世史は日本仏教についてということになる。
 日本史、世界史などでも発生と伝搬の歴史や歴史上の影響など触れることもあるだろう。

 こういった意味では、宗教を扱うという言い方もできないではない。ただし、宗教的観点、信仰という観点からは一切触れてはならないし、宗教的儀式・行事には関与しないし、特定の宗派に拠ることはないというのが公立校における基本的方針だろう。宗教団体を基盤としない本校の場合も基本姿勢は公立校と同じとしてよいだろう。
 とはいいながら、ヨーロッパの文化そしてその一部を成すとも言える思想は、キリスト教に基盤を置いている。キリスト教のルーツはユダヤ教であり、そのどの部分を継承し、どの部分を異にするかは、授業で教えないまでも教える者としては深く理解しておく必要がある。

 更に、資本主義の成立と発展にキリスト教のなかでもプロテスタントの倫理と大きな関係があるということを指摘したのがマックス・ウェーバーという社会学者であるが、われわれが明治期に輸入した西欧型の経済や政治の基礎を成す精神的要素はキリスト教に大きく影響を受けているということにも注意を払っておくべきかと思う。ただし、現実問題としては、高校生にそういった広い視野を要求することは困難である。一部の者が先に行って理解できる素地を作っておく、あるいは刺激を与えるだけで精一杯なのではあるが。

 われわれの近代化が借り物であると認識できれば、借りてくる以前はどうだったのだろうという疑問が湧いて当然だと思う。情けのないことに、それ以前は中国儒教を借りてきていて、その前は、仏教を中国経由で輸入していた。その前はというと、おそらく意識していなかったらしい。それで、何度か我が国固有のものを想起するきっかけがあって、その時々に、その時期に流行っていた輸入物との対抗で「これが固有のいきかただ」という神道のかたちを作り出すことになった。
 基本は、日本人は「無宗教だ」と認識してしまう程、他の宗教とは質の異なる宗教観をもっていたところからこうした反応が出たのではないかということかもしれない。

 あまりにも異質なユダヤ・キリスト教系の宗教観と世界観・宇宙観そのものを極める仏教のあり方とあくまでも人間関係に力点を置く儒教、さらに、それらのいずれとも異なる日本型宗教意識を並記されても、初学者にそう簡単に理解できるわけがない。しかも、その理解は社会理解の深さに関わってくるというのだ。

 教師という立場からいえば、本当に難問を押しつけられたという気がする。

 その点で、助けになる本が出たものだと思う。
 実は、これまで授業では触れることなくきたものの気になっていたポイントの一つなのだが、キリスト教がパウロによって事実上創り上げられたものであり、宗教改革も「パウロという原点に戻れ」という運動であったのだが、新約聖書の大きな部分を為しているパウロの手紙(無論すべてがパウロによって書かれたものではないらしい)は、ギリシア語で書かれている。つまり、当時のヘレニズム世界の国際共通語がギリシア語であり、ペテロはじめ十二使徒はユダヤ人のことばしか使えなかったらしい。共通国際語の活用がローマ帝国本拠地への布教活動を可能にした。
 その後帝国の国教化、そして帝国の東西分裂があり、西ローマはゲルマンによる民族大移動で亡びる。ゲルマン諸族のキリスト教改宗があるが、ローマ教会はラテン語のみ典礼の言語とする。東方教会は、各地の言語を用いることを許す。この差違が興味深い。おそらくその後の、西ヨーロッパに国王を権威づける教皇という位置づけが生まれる基盤ができることと関係するだろう。
 そもそもイスラム教ならば、アラビア語で神がムハンマドに与えたのがコーランなので、翻訳は許されない。また、ユダヤ教にしろイスラム教にしろ、法律とは神が明確に一義的に与えた契約であり、これを人間が作るという行為は許されることではない。ところが、神の子イエスが新しい契約を仲介したキリスト教では、社会契約としての立法という行為が成り立つ余地を生み出してしまった。ここの理屈がおもしろい。おもしろいが、ここのところは是非とも本を読んで確認いただきたい。かなり込み入った理屈になる。

 同様に、冷静に考えればギリシア哲学とキリスト教は本来何の関係もない。むしろ異教徒の産物として排除されてしかるべきものである。にも関わらず、イスラム世界を経由してアリストテレスなどの書物が入ってくると、中世キリスト教は、異質な要素であるギリシア哲学をキリスト教に折衷させる。スコラ哲学はその成果である。
 ここからうまく要約できないので引用という手を使う。

 哲学の中心には、理性があります。理性はもともと、ギリシアで発展した。この点は、詳しくのべなくても、周知のことでしょう。
 キリスト教徒ははじめ、理性のことなんかあまり考えていなかったけれど、イスラム経由でアリストテレスをはじめギリシア哲学を受け入れてから、あらためて真剣に考えるようになった。キリスト教徒は、理性を、宗教的な意味で再解釈したんです。その結論は非常に重要。キリスト教の考え方では、神は世界を創造した。人間も創造した。神にはその設計図があり、意図があるんです。人間が神を理解しようと思うと、神の設計図や神の意図を理解しなければいけません。でも、どうやって? その可能性を与えるのが、理性なんです。
 トマス・アクィナスに、自然法論というのがあります。『神学大全』の、ユダヤ法について書いてある「旧法」の部分をみると、法には「神の法があり、自然法があり、国王の法がある」と書いてある。キリスト教神学の教えるところによれば、法は、神の法/自然法/国王の法(人間のつくった法、制定法のこと)と、階層構造になっている。神の法とは、神が宇宙をつくった設計図のことです。これは、神の言葉で神の書物に書いてあり、人間は目にできないし、理解することもできない。ただし、一部分であれば、人間も知ることができる。その一部分を、自然法といいます。自然法は、神の法のうち、人間の理性によって発見できる部分です。立法者は神で、人間はそれを発見するだけ。理性は、人間の精神能力のうち神と同型である部分、具体的には、数学・論理学のことなんです。人間は罪深く、限界があり、神よりずっと劣っているけれど、理性だけは、神の前に出でも恥ずかしくない。数学の証明や論理の運びは、人間がやっても、神と同じステップを踏む。ゆえに、自然法を発見できる。こう位置づけるのが、キリスト教神学です。
 自然法と言いましたが、キリスト教のいう「自然」(ネイチャー)は、理解がむずかしい。私の理解では、自然とは、「神がつくったそのまま」という意味。神の業で、人間の業ではない。神につくられた山や川はそのままで自然だし、植物や動物も自然。動物は自然にふるまうので、罪を犯す(神に背く)ことができません。それから、神につくられた人間の生まれつきの性質(ネイチヤ⊥も自然。法律にも自然なものがある。泥棒や殺人は、人間の理性で考えて、なるほど、それはいけない、と思えるので、神が定めた「自然法」なのです。(ちなみに、ユダヤ法やイスラム法は、神の法がはっきり聖典のなかに書いてあるので、それを読めばよく、聖典の外に、わざわざ自然法を発見するという発想がありません。)
 理性にこのような位置を与えると、信仰を持ち、理性もはたらかせるのが、正しい態度ということになる。理性は、神に由来し、神と協働するものなんです。
 ためしに理性を、神に向けるとどうなるか。理性で、神をとらえられるか。理性は神が人間に与えた能力なので、その能力を使えば、神が確実に存在することを証明できるに違いない。これが神学の、最初のテーマだった (神学といっても、中身は哲学です)。やってみると、あまりうまく行かない。そこで、理性の届かない先に、信仰のもたらす知識(神の恩恵)がある、ということに落ち着いた。理性/信仰は、両方とも人間に必要である。神は、理性によってその全貌がとらえられないのです。
 しかし、逆に言えば、神が創造したこの世界(宇宙)は、神ではないから、人間の理性で残らず解明できるとも言える。宇宙に理性を適用したら、神の意図や設計図が読解できないか。これも信仰に生きる道である。こうして、自然科学を始める態勢が整ったことになります。しかもこれは、アリストテレスの自然学ではない。アリストテレスはたしかに理性を使って、自然はこうなっていると書いたけれども、それは神の設計図どおりである証拠がない。それを自分の理性を使って確かめてみましょう。そうしたら、コペルニクスになり、ケプラーになり、デカルトになり、ニュートンになるでしょう。
 自然現象がうまく解明できたら、今度は、社会現象についても理性を適用してみよう、となる。そうしたら、スピノザになり、ホップズになり、ルソーになり、ロックになり、ヒユームになり、カントになるでしょう。ヘーゲル、マルクスにもなったりした。
 これら(哲学、自然科学、社会科学)は、信仰が理性を正しいものと是認したことでスタートし、キリスト教的文脈と離れても、ときにはキリスト教に反対してまでも、理性的にふるまう理性主義を生み出した。たとえばフランスでは、大革命のときに、カトリック教会と絶縁し、教会領を没収し、フランス共和国を樹立し、理性神を拝んだりした。(pp.280-283)

 この部分だけは非選択者も含めて、また文系理系進学を問わず、何とか伝えておきたい部分だ。勿論、教室では、教科書的な展開になるのではあるが。
 生徒の親たちがそんなこと知らないとか学習していないと言っても関係ない。本来、近代化の過程で西欧諸制度や科学方法論を輸入したときにしっかり理解しておくべき内容だったのだ。
 われわれ日本人は、精神分裂症(解離性人格障害ではぴったりこない)的生き方を強いられる運命にあった。紀貫之が和語で歌物語を編み、精神の解放を果たしたように、当時は漢語で漢詩を詠み、記録を綴り、漢語で考えることを公的人間は強いられていた。そこで抑圧されていた感情や生理に根ざした思考は和語で表現したときにはじめて意識できたのではないか。それを咀嚼し、中国古代の春秋時代の歴史をすら、われわれのものとして取り込むことができるようになった江戸期のすぐ後に、また異質な文化を輸入することになったのだった。
 われわれは、江戸期に荻生徂徠や伊藤仁斎がやってのけたように西欧のルーツとなるギリシア思想やキリスト教を解体し、分析して、追体験することで人格的統合をはかればよいのかもしれない。われわれの中の西欧的要素に恐れを抱く必要もなければ、排除する必要もない。包括し、総合していけばよい。消化してしまえばよい。

 そのためには、微妙なニュアンスまで学ぶことだ。
 昨年度、ニュースの紹介を輪番制でやろうとして一度で転けたことを覚えているだろうか。生徒は携帯電話のニュースしか見ないことに気づいた。新聞はおそらく読んでいないだろう。私は、その新聞きじですらダメだと思っている人間だ。書籍でなければ、その出来事の背景要因の総合的分析は困難だが、月刊誌の論文・評論ならまだその断片は提供してくれる。ある時点での目立った出来事だけをぽつんと伝えられても、事の真相は理解などできやしない。それを更に、見出し部分だけの1行を電光掲示板よろしく流していくような伝え方は危なくて仕方ない。感情には訴えるだろうけれど、理性で判断するには材料不足もはなはだしい。
 抵抗しきれず断念することが、世紀の変わり目あたりから多くなってきていた私は簡単に断念したのだった。

 おそらくこの流れには抗しがたいだろう。今に社会の指導層は総崩れし(いや既にしている)、政治エリートも経済エリートも知的エリートも総合的で深い思索とは無縁の、「劇的」で情緒訴求的なワンフレーズしか口にしなくなっていき、大衆はそれに付き従うが、すぐ後に不満を表しはじめ、堪え性なく別の似非リーダーに付き従うことの繰り返しをしていくのではないか。やがて取り返しの付かないほど資源を蕩尽し、枯渇しかけた希少資源(食料や水、エネルギーはその典型)をめぐって争いが激化する運命にあるのだろう。難民化した人々や内戦に明け暮れている多くの地域の運命は未来のわれわれの姿と覚悟しておく方がよい。
 これを回避させるための努力が必要だと考えているのだが、傲慢な態度なのだろうか。(8.15)

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